有名な宦官一覧(王朝別まとめ)
| 豎刁 | 春秋 | 春秋時代の斉 桓公に仕えた。史書に明確な名前と行動が残る最古級の自宮宦官。 桓公の遺体を放置し腐敗させた。 儒教的な歴史観では、「宦官は君主の身近に入り込み国を乱す」という説の、 最古級の具体例として扱われる。 |
| 趙高 | 秦 | 始皇帝に仕える。 宦官史の中でも最悪級の悪名を持つ存在。秦滅亡の元凶とされる。 |
| 中行説 | 前漢 | ⑤文帝(劉恒)期の宦官。匈奴に嫁ぐ公主の随行役として派遣されたことを恨み、 匈奴に帰順、漢への侵攻を煽った。 |
| 司馬遷 | 前漢 | ⑦武帝(劉徹)に仕えた。中国史上最大の歴史家。『史記』の著者。 |
| 張賀 | 前漢 | 掖庭で養われていた幼い劉病已(のちの⑩宣帝)を保護・養育し、 許平君との結婚を取り計らった。 |
| 許広漢 | 前漢 | 娘・許平君が、⑩宣帝(劉詢)の皇后となり、⑪元帝(劉奭)を産む。 |
| 石顕 | 前漢 | ⑪元帝(劉奭)に仕えた。 「権力を私物化した奸臣宦官」「前漢末期の政治腐敗の象徴」 |
| 蔡倫 | 後漢 | ➍和帝(劉肇)、❻安帝(劉祐)に仕えた。 紙の技術を大幅に改良(蔡侯紙)。 |
| 鄭衆 | 後漢 | ➍和帝(劉肇)と協力して外戚の竇憲を誅殺。 宦官が侯になる例は鄭衆にはじまる。養子が宦官の後をつぐことは後に制度化。 |
| 曹騰 | 後漢 | ❻安帝(劉祜)❽順帝(劉保)❾沖帝(劉炳)❿質帝(劉纘)⓫桓帝(劉志)に仕えた。「後漢唯一の善宦官」として高い評価を受けている。曹操の祖父。 |
| 江京 | 後漢 | ❻安帝(劉祜)に仕えた。外戚を排除し、皇太子廃位・皇帝すり替えを行った。 |
| 孫程 | 後漢 | ❻安帝(劉祜)❼少帝(劉懿)❽順帝(劉保)の三代に仕えた。 悪宦官・江京らを誅殺して、皇太子劉保(順帝)を復位させた。 |
| 五侯 | 後漢 | ⓫桓帝(劉志)に仕えた。外戚・梁冀の排斥に功績を挙げた「単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡」の五名の宦官の総称。 |
| 欒巴 | 後漢 | ❽順帝(劉保)~⓬霊帝期(劉宏)に仕えた。 儒学を好み、地方太守として善政を行い、外戚の暴政を諫めた。 |
| 侯覧 | 後漢 | ⓫桓帝後半~⓬霊帝期に台頭。賄賂と収奪で巨財を築いた。 |
| 曹節 | 後漢 | ⓫桓帝後半~⓬霊帝期に台頭。党錮の禁で宦官派が完全勝利し、十常侍の時代へ。 |
| 呂強 | 後漢 | ⓬霊帝(劉宏)に仕えた。黄巾の乱に際し、⓬霊帝(劉宏)に改革案を進言。 |
| 蹇碩 | 後漢 | ⓬霊帝(劉宏)に仕えた。近衛軍の最高指揮官。 ⓬霊帝(劉宏)の遺志を守るため劉協擁立のクーデターを計画。 |
| 十常侍 | 後漢 | ⓬霊帝(劉宏)に仕えた張讓・趙忠をはじめとする10人の有力宦官グループの 総称。彼らの専横が、後漢末の混乱と三国時代の幕開けを招いた。 |

党錮の禁(とうこのきん)とは?
清流派(儒者・官僚)と宦官派の政治闘争。
清流派は宦官の腐敗を批判し、宦官やそれに結びつく勢力を濁流派と名づけ
公然と批判するようになった。
宦官派はこれを弾圧し、多くの学者・官僚を逮捕・禁錮した。
(166年:第一次党錮の禁・169年:第二次党錮の禁)。
⓬霊帝(劉宏)は宦官を信任し、清流派を排除、清流派は政治勢力として消滅。
宦官は政治・財政・軍事にまで介入し、後の十常侍の専横につながった。
<黄巾の乱>
⓬霊帝期は外戚(何氏)と宦官(十常侍)が激しく対立し、政治は派閥争いに明け暮れおり、
民政は放置され、張角の勢力拡大を見逃し、反乱準備を許す結果に。
張角の反乱計画は事前に朝廷へ密告されていたが、十常侍は自分たちの利益を優先し、
対応を遅らせた結果、184年に大規模な蜂起を許してしまう。(=黄巾の乱の勃発)
反乱鎮圧のため、⓬霊帝(劉宏)は十常侍に軍事権限を与えたが、
逆に宦官の権力が増大する結果となり、後の「董卓のクーデター」や後漢崩壊へつながる。
<董卓のクーデター>
189年、⓬霊帝(劉宏)が死去。宦官(十常侍)と外戚(何進)が皇帝の後見をめぐって対立。
何進は「宦官を皆殺しにすべき」と主張、十常侍はこれを察知し、先に何進を暗殺する。
何進の部下である袁紹・袁術らが激怒し、宮中へ突入し、宦官狩りが始まる。
(十常侍の多くがこの時点で殺害される)
十常侍の中心人物・張讓と段珪は、 ⓭少帝(劉弁)と陳留王(後の⓮献帝(劉協))を
拉致して逃走したが、途中で追手に囲まれ、 張讓・段珪は黄河へ身を投げて自殺。
皇帝が保護されて長安へ戻ると、その混乱に乗じて董卓が軍を率いて入京、
宦官勢力を完全に排除し、後漢の実権を掌握した。
「宦官による外戚(何進)暗殺」→「董卓台頭」→「群雄割拠」→「三国時代」
| 高力士 | 唐 | ⑥玄宗(李隆基)が皇帝になる前から仕え、即位後も最も近い側近として最後まで忠義を尽くした。楊貴妃を縊死させた。 |
| 楊思勗 | 唐 | ⑥玄宗(李隆基)に仕えた。宦官が武将として大軍を率いて外征する先例を作った。軍功は大きいが、残虐さが強調されるため評価は二分する。 |

二人とも⑥玄宗(李隆基)に仕え、同時期に重用されていました。
楊思勗は生年不詳なので推測になりますが、景龍年間(707年)にすでに軍功を挙げているため、二人はほぼ同世代か、楊思勗が少し年下の可能性が高い。
二人の性格や役割をまとめてみます。
・高力士
玄宗の最も信頼する側近であり忠臣。温厚・慎重・調整型。
政治的にも文化的にも玄宗の「右腕」として機能。
内廷の最高宦官・政治調整役。
・楊思勗
玄宗の軍事的な「切り札」。勇猛・苛烈・残忍。
反乱鎮圧の功績で寵遇されたが、政治の中心には立たない。
外征の軍事宦官・反乱鎮圧の名将。
| 辺令誠 | 唐 | ⑥玄宗(李隆基)に仕えた。名将 高仙芝・封常清をを讒言で失脚させた。安史の乱の悪化要因の一つとされる。 |
| 李猪児 | 唐 | 安禄山に仕え、安禄山を殺した宦官。 |
| 李輔国 | 唐 | 宦官である高力士の僕役として宮廷に入り、⑥玄宗(李隆基)⑦粛宗(李亨)⑧代宗(李豫)の三代にわたって宮中に仕えた。 ⑦粛宗(李亨)の晩年から⑧代宗(李豫)の初期にかけて絶大な権力を握った。 ⑦粛宗(李亨)が即位する流れを支えた。唐の宦官政治の始まりを象徴する人物。 |
| 魚朝恩 | 唐 | ⑦粛宗(李亨)⑧代宗(李豫)の二代にわたり軍事と政務に深く介入。 皇帝直属の禁軍(左右羽林軍・左右龍武軍など)を掌握した軍事宦官。 後世の「神策軍」につながる軍事宦官支配の基礎を作る。 |
| 程元振 | 唐 | ⑦粛宗(李亨)⑧代宗(李豫)に台頭。李輔国の後継として内廷(皇帝の身辺)と禁軍(神策軍)を同時に掌握した。吐蕃侵攻を黙殺し、長安陥落の一因を作った。 |
| 王守澄 | 唐 | ⑪憲宗(李純)⑫穆宗(李恒)⑬敬宗(李湛)⑭文宗(李昴)の四代にわたり権勢をふるい、皇帝の廃立に三度関与した。甘露の変の原因を作った人物。 |
| 仇士良 | 唐 | ⑭文宗(李昴)⑮武宗(李炎)⑯宣宗(李忱)の三代にわたり宮廷と禁軍を支配。 甘露の変を制して宦官政治を絶頂に導いた。「専横の極み」と評される。 |

| 田令孜 | 唐 | ⑱僖宗(李儇)に仕えた。黄巣の乱で長安陥落した際に、⑱僖宗(李儇)を伴い逃亡。軍閥との対立で再び⑱僖宗(李儇)を伴い逃亡。「皇帝を連れ回して政治を混乱させた宦官」として強く批判され、「唐を滅ぼした決定的な引き金」と評価される。 |
| 楊復恭 | 唐 | ⑱僖宗(李儇)⑲昭宗(李曄)に、田令孜の後を継いで台頭。数百人の武将を義子(養子)とし各地の軍事指揮官として配置。皇帝と対立して反乱を起こした。 |
| 劉季述 | 唐 | ⑱僖宗(李儇)⑲昭宗(李曄)の時代に次第に台頭。⑲昭宗(李曄)を幽閉して太子を即位させるという宮廷クーデター(光化三年の変)を主導した。 |
| 韓全誨 | 唐 | ⑲昭宗(李曄)の時代の宮中の最高権力者。⑲昭宗(李曄)をなかば拉致して鳳翔へ移動させ、その背後で宮廷政治を操った。鳳翔包囲戦に発展した。 |
| 童貫 | 北宋 | ⑧徽宗(趙佶)に仕えた。宦官として異例の軍事指揮官。 軍事・財政・外交にまで介入し、北宋滅亡の一因をつくった人物として知られる。 明代に書かれた宋代を舞台にした小説『水滸伝』では四奸の一人として描かれ、 典型的な悪役として知られる。 |
| 梁師成 | 北宋 | ⑧徽宗(趙佶)に仕えた。 皇帝の筆跡を模倣し「偽の詔書」を発行。「隠れ宰相(隠相)」と呼ばれた。 |
鄭和(ていわ)
③永楽帝(朱棣)の命で、大艦隊を率いて南海・インド洋への遠征を指揮した航海者・武将。
1405年から1433年にかけて計7回の大航海。艦隊は200隻規模・乗員2万超とも言われ、
当時世界最大級の遠洋艦隊だった。
ヨーロッパの大航海時代(コロンブス、バスコ・ダ・ガマ)より80〜90年早い規模の
外洋航海を実現。
③永楽帝(朱棣)④洪熙帝(朱高熾)⑤宣徳帝(朱瞻基)の3代の皇帝に仕えた。
鄭和は雲南出身で、家系はイスラム教徒(回族系)とされる。
イスラム世界との交流に強みを持ち、宗教・文化的背景が外交に活かされた。
航海の目的は、朝貢体制の拡大(明の国威発揚)、諸国との外交関係の構築・貿易(香料・宝石など)、海賊・反乱勢力の鎮圧、海上交通を掌握・安定など。
鄭和が持ち帰った献上品で有名なのがキリン。
永楽帝の死後は、莫大な費用負担が財政を圧迫、文官官僚が「外洋航海は利益が少なく、国費の浪費だ」と批判、北方(モンゴル)防衛が最優先課題になったこと、等の理由により縮小。
| 亦失哈 | 明 | ③永楽帝(朱棣)の信任を受けて黒竜江下流(ヌルガン)を担当。 明朝の東北進出における最重要人物の一人。 鄭和の大航海と並び、③永楽帝(朱棣)の積極的な対外政策を象徴する存在。 |
| 王振 | 明 | ⑥正統帝(朱祁鎮)に絶対的に信任された宦官で、の側近として絶大な権力を握り、最終的には「土木の変」で、明軍壊滅、皇帝捕虜という前代未聞の事態を引き起こした。「皇帝の教育係」という立場から、皇帝の精神的支柱になった点が他の宦官と異なる。 |
| 曹吉祥 | 明 | ⑥正統帝(朱祁鎮)復辟(奪門の変)の中心人物の一人。 この功績により、司礼大監に任命され、三大営を総督するなど絶大な権力を握る。 養子の曹欽が、⑥正統帝(朱祁鎮)による粛清の恐れから、武力クーデター(曹欽の乱)を企てるが、密告により露見し、一族郎党処刑された。 |

三大営とは?
「五軍営」「三千営」「神機営」 の三つを合わせて 京営と呼び、
皇帝直属の中央軍として、首都防衛と宮廷の安全を担った。
指揮官には本来 勲臣(公・侯・伯)が任じられたが、
明代中期以降は宦官が掌握し、軍制の弛緩を招いた。
| 汪直 | 明 | ⑨成化帝(朱見深)に働きかけて西廠を設置。三機関(東廠+錦衣衛+西廠)を横断的に指揮し、地方官や軍隊にまで直接命令を下せるようにした。 「恐怖政治の象徴として悪名が強いが、軍事・治安面では有能だった宦官」 という二面性を持つ人物として扱われる。 |
| 劉瑾 | 明 | 遊興を好み、政務に無関心であった⑪正徳帝(朱厚照)の身近に仕えた。皇帝に逸楽を勧めて遊蕩に耽溺させ、宮中と政治の実権を掌握。 宦官グループ「八虎」の筆頭で、他の七人を従える形で絶対的な権力を持った。八虎の一人である張永の密告により失脚、死後没収された財産は、「当時の国家歳入の10年分に匹敵」と記録される。 |
| 馮保 | 明 | ⑬隆慶帝(朱載垕)⑭万暦帝(朱翊鈞)に仕えた。「前半は有能、後半は腐敗」。 宰相・張居正と協力し、万暦初期の政治改革を実務面から支えた。 張居正が死ぬと、彼の改革に不満を持っていた官僚たちが一斉に批判を開始。 巻き添えを回避するため、態度を転して自らの立場を守ろうとした。 |
| 高寀 | 明 | ⑭万暦帝(朱翊鈞)に活動した宦官であり、税の徴収を担う「税監」として地方に派遣され苛政を行った。社会不安が増幅し、各地で騒乱や反発が相次いだ。 |
| 魏忠賢 | 明 | ⑯天啓帝(朱由校)は木工(大工仕事)に熱中して政務を顧みなかったため、 実質的に政務を掌握。⑯天啓帝(朱由校)の乳母・客氏と私通し、その後ろ盾で宮中の実力者になった。東林党(儒学者・清廉派官僚のグループ)を徹底的に弾圧し、拷問・処刑・冤罪が横行した。民衆に「九千歳」と唱和させるなど権勢を誇った。 |
| 王承恩 | 明 | ⑰崇禎帝に仕えた。王朝滅亡の混乱の中で、最後まで帝に随従し、皇族の保護と脱出のための具体的な手配を行い、最期はその傍らで殉死した。 |

| 安徳海 | 清 | 西太后(慈禧太后)の寵愛を背景に、権勢を振るった。 |
| 李蓮英 | 清 | 安徳海の処刑後、彼にに代わり西太后(慈禧太后)の最側近として40年以上にわたり、後宮と政治の中枢に影響を与えた清末で最も影響力のあった宦官。 |
宦官が政治に介入した事件(年代順まとめ)
秦:宦官が国家を操った典型例
前漢:外戚優位で宦官は抑制気味
| 前180 | 呂氏の乱 | 呂后死後、呂氏一族と結んだ宦官・側近勢力が粛清される |
| 前141–前87 | 武帝期 | 宦官は存在するが、基本は外戚・官僚が中心 |
| 前74 | 霍光政権 | 宦官は政治中枢に入らず抑制的 |
後漢:宦官政治の爆発
| 92 | 竇憲失脚 | 皇帝側近(宦官)が外戚排除に関与し始める |
| 107 | 鄧太后期 | 外戚と宦官が権力争いを繰り返す |
| 159 | 梁冀誅殺 | 宦官が外戚梁冀を排除し権力拡大 |
| 166 | 「十常侍」の台頭 | 皇帝の側近として政治を掌握し始める。 清流派官僚が宦官批判→弾圧される。 166年:第一次党錮の禁・169年:第二次党錮の禁 |
| 184 | 黄巾の乱 | 宦官腐敗が社会不安の背景とされる |
| 189 | 霊帝死後の政変 | 何進が宦官排除を企てるが逆に殺害され、袁紹らが宦官を大量虐殺、後漢政権が崩壊へ |
唐:軍権を握り最凶化
| 712–756 | 玄宗期 | 高力士など宦官が側近化。(政治介入の芽) |
| 755–763 | 安史の乱 | 乱後、宦官が軍権を掌握。禁軍(神策軍)を支配し、 皇帝の廃立に関与するようになる。 |
| 805以降 | 皇帝廃立 | 宦官が皇帝の擁立・廃位を左右。 |
| 835 | 甘露の変 | 文官の宦官排除計画を企てるが失敗し、宦官が完全勝利。 宦官が政権を完全に掌握する転換点。 |
| 874–884 | 黄巣の乱 | 唐の統治が崩壊、宦官も制御不能へ。 |
| 907 | 唐滅亡 | 宦官政治の時代も終焉へ。 |
宋:宦官抑制だが例外あり
明:制度化された宦官権力
| 洪武帝期 | 宦官抑制 | 洪武帝は宦官の政治介入を警戒 |
| 1399–1402 | 靖難の変 | ③洪武帝(朱棣)の政権奪取を宦官も支援 |
| 1420 | 東廠設置 | 宦官監察機関が制度化(恐怖政治の基礎) |
| 1405–1433 | 鄭和の大航海 | 宦官が国家外交・軍事を担う成功例 |
| 1411–1433 | 亦失哈遠征 | 北東方面(ヌルガン)経営 |
| 1449 | 土木の変 | 王振の専横で皇帝捕虜、明軍壊滅 |
| 1461 | 曹欽の乱 | 曹吉祥系の軍事クーデター未遂 |
| 1477頃 | 西廠設置 | 汪直が恐怖政治(東廠を上回る) |
| 1506–1510 | 劉瑾の専横 | 八虎+内行廠(最凶の秘密警察) |
| 1620–1627 | 魏忠賢独裁 | 東林党弾圧、生前に祠建立(独裁完成形) |
| 1644 | 明滅亡 | 李自成・清の侵入、宦官制度も崩壊 |
清:宦官は縮小・弱体化、滅亡へ
| 清初 | 宦官抑制 | 満洲支配層が宦官政治を警戒し権限を制限 |
| 19世紀 | 宮廷宦官は残存 | ただし明のような監察機関は持たない |
| 1861以降 | 西太后期 | 宦官は後宮運営で影響力を持つが政治独裁まではいかない |
| 1912 | 清滅亡 | 宦官制度は名目上終焉へ |
| 1924 | 溥儀、紫禁城追放 | 宮廷宦官も整理され実質的終わり |
宦官とは何か?宦官制度の歴史(王朝別まとめ)
宦官とは何か?
宦官とは、去勢を施した官吏のことである。
(中国では男性器をすべて切り落とす完全去勢だったよう)
東アジアでは、戦国時代の中国に初めて見られ、
朝鮮やベトナムなど漢字文化圏の国々に広まった。
日本に宦官が存在したか否かについては諸説ある。
西アジア・地中海地域、イスラム諸国、アフリカなどにも存在した。
宦官の呼称の違いは?|宦官、太監、大監、公公
中国歴史ドラマを見ていると、宦官に対して「ゴンゴン」と呼び掛けていて、
「大監」「太監」などと翻訳されていることがあるので、違いを整理する。
| 宦官 | 身分の総称。もっとも正式な言い方。歴史用語。 | huànguān |
| 太监 | 現代中国語では、宦官全体を指す一般的呼称(高位含む)として使われることが多い。身分の総称としても、敬称としても使われる。 | tàijiàn |
| 大监 | 明・清の宦官組織の中での高位の宦官の役職名。 ※「大監」「太監」などの役職名が整ったのは明代以降。 | dàjiàn |
| 公公 | 宦官の俗称、口語的。(ドラマで多い) | gōnggong |
つまり、宦官=大監、太監ではなく、
宦官(身分)、太監(一般的な呼称)、 大監(高位の役職)ということになる。
どのような人が宦官になるのか?
どのような人がなるのかというと、以下3パターン。
・異民族の捕虜、異国からの供物
・宮刑を受けた者
・志願者(自宮者)
生涯にわたり肉体的な不自由を伴い(排泄、性欲etc.)、子孫も残せない宦官。
なぜ、わざわざ志願して宦官(自宮)になるだろうか?
経済的理由(貧しい家の子供、実家への仕送りや財産の贈与、借金、賭博で大負けetc.)
というのもあるが、最も大きな理由は、「出世のため」である。
宦官は科挙も受けられず、家柄も関係ないため、
皇帝の側近として大出世できるという“抜け道”だったのだ。
中国の宦官制度は、王朝ごとに役職名や組織構造が変化しつつも、
「皇帝の身近な実務を担う者」から「国家権力を握る巨大官僚機構」へと発展していった。
漢の宦官制度は、中国史における“宦官政治”の原型をつくった時代といえる。
唐・宋・明・清で制度が整備され、階級や役職が明確になる。
代表的な王朝ごとに、宦官の役職・階級制度を次項にまとめた。
王朝ごとの 宦官人数
全王朝で存在しており、つまりは3千年の歴史があるということになる。
宦官の人数は王朝ごとに大きく異なるが、特に後漢と明代で急増している。
※一つの王朝でも期間が長いため、あくまで概算の数字です。
| 王朝 | 宦官人数(推定・記録) | 根拠・背景 |
| 殷・周 | 不明 | 甲骨文字にも宦官を示す文字がみられるが、具体的には不明。 |
| 秦 | 不明(制度は存在) | 宦官制度は存在したが、具体的な人数記録は残らず。 |
| 前漢 | 数百〜数千程度 | 宦官は存在したが、後漢ほど政治介入は強くない。 |
| 後漢 | 約15万人(宦官+官吏) | 後漢末期に宦官勢力が膨張。15万人という数字が史料に登場。 |
| 三国・魏晋南北朝 | 数千〜1万人規模 | 宦官は継続して存在するが、王朝ごとに変動。 |
| 隋 | 数千程度 | 隋代で宮刑が一度廃止され、宦官数は比較的少ない。 |
| 唐 | 数千〜1万人規模 | 唐後期に宦官が軍事権を掌握し増加。 |
| 宋 | 1万〜2万人規模 | 宦官が軍事・財政に深く関与。 |
| 元 | 数千〜1万人規模 | 宦官制度は継続するが、漢人王朝ほど多くない。 |
| 明 | 7万人以上(最大規模) | 明代は宦官制度が最も肥大化。自宮ブームも発生。 |
| 清 | 数千〜1万人規模 (末期は約3,000人) | 清末の皇帝 溥儀が1923年に宦官追放を実施。 |
代表的な王朝ごとの 宦官の役職・階級制度、政治への介入
前漢では宦官の政治介入はまだ限定的(皇帝の身辺雑務、後宮の管理補助、宮中の儀礼・文書伝達の補助 etc.)だったが、皇帝の身近にいるため、徐々に影響力を持ち始める。
| 主な役職 | 内容 |
| 中常侍(ちゅうじょうじ) | 皇帝の側近。最重要ポスト。 詔勅の伝達・皇帝の相談役。 |
| 小黄門(しょうこうもん) | 皇帝の身辺雑務・伝令。 |
| 中謁者(ちゅうえつしゃ) | 儀礼・宮中事務の管理。 |
| 黄門令(こうもんれい) | 宮中の門の管理。 |
| 侍中(じちゅう) | 皇帝の側近として政治相談に参加。 |
↓↓唐後期の宦官軍事については以下リンクをご参照。

| 主な役職 | 内容 |
| 内侍省(ないじしょう) | 宦官の中枢機関。皇帝の身辺・詔勅の伝達を担当。 |
| 内侍監(ないじかん) | 内侍省の長官。宦官のトップ。 |
| 内常侍(ないじょうじ) | 皇帝の側近として詔勅の伝達を行う。 |
| 内給事(ないきゅうじ) | 皇帝の命令を文書化する役。 |
| 監軍使(かんぐんし) | 軍隊の監督役。宦官が軍権を握る原因に。 |
| 主な役職 | 内容 |
| 内侍省(ないじしょう) | 宦官の最高機関。唐代を継承。 |
| 都知(とち) | 宦官の最高責任者。 |
| 提点(ていてん) | 各部署の責任者。 |
| 殿前都指揮使(でんぜんとしきし) | 宮廷警備・軍事を担当。 |
| 三司使(さんしし) | 宦官が財政にも影響力を持つ。 |
宦官制度が最も発達し、宦官専用の官僚機構「二十四衙門」が成立。
宦官が国家の行政・軍事・警察を掌握した。
また、明代の宦官は「太監」を頂点に、九品制に似た階級が存在。
・正一品:司礼監太監
・従一品:掌印太監
・二品以下:各衙門の長官
| 宦官の最高機関 | 性質 | 役割 | 時代ごとの強弱 | 設置者 |
| 東廠 (とうしょう) | 皇帝直属の宦官による秘密警察(本家) | 監察・逮捕・ 尋問・密偵網 | 成化期(汪直)と天啓期(魏忠賢)の頃が最強。 | ③永楽帝 (朱棣) |
| 西廠 (せいしょう) | 東廠の補強機関 (汪直の権力補強) | 監察・弾圧 | 成化期のみ強力。弘治期で廃止。 | ⑨成化帝 (朱見深) |
| 内行廠 (ないこうしょう) | 皇帝直属の宦官(劉瑾)による特務機関 | 官僚や後宮、民衆を監視・摘発 | 正徳期のみ強力。 | ⑪正徳帝 (朱厚照) |

| 主な役職 | 内容 |
| 司礼監(しれいかん) | 宦官の最高機関。詔勅の起草・皇帝の命令を管理。 |
| 司礼監太監(しれいかん たいかん) | 宦官のトップ。実質的に宰相級の権力。 |
| 秉筆太監(へいひつ たいかん) | 皇帝の詔勅を代筆。国家権力の中枢。 |
| 掌印太監(しょういん たいかん) | 皇帝の印章を管理。 |
| 内官監(ないかんかん) | 宮中の実務を担当。 |
| 二十四衙門の長官 | 宦官が各部署を統括。 |
| 主な役職 | 内容 |
| 内務府(ないむふ) | 宦官の所属機関。皇帝の私的財産・後宮を管理。 |
| 総管太監(そうかん たいかん) | 宦官のトップ。 |
| 各処総管(かくしょ そうかん) | 部署ごとの責任者。 |
| 御前侍衛との連携 | 宮中警備を担当。 |
宦官の教育機関|内教坊、内書堂、東廠・西廠の訓練所、内務府学、太監学堂
主要な宦官教育制度は以下の通り。制度として“学校”が成立したのは主に 明代・清代 であり、
それ以前は体系的な教育機関は存在せず、宦官は実務で育成した。
| 学校名 | 設置した皇帝 | 内容 | 目的 |
| 内教坊(芸能教育) | 【唐】 ⑥玄宗 | -音楽・舞踊 | 政治教育ではない |
| 内書堂(宦官学校) | 【明】 ③永楽帝 | – 読み書き(漢字) – 文書作成 (奏章・命令文) – 法律(律令) – 儀礼(宮中儀式) – 会計・財務 – 歴史・地理(基礎) | 宦官を“文官化”し、 行政実務を担当させる |
| 錦衣衛との合同訓練(非公式) | 【明】 ③永楽帝~ | – 諜報・尋問 – 軍事補助 | 宦官の監察能力強化 |
| 東廠・西廠の訓練所 | 【明】 ⑨成化帝(東廠) 憲宗期に整備 | – 監察・尋問技術 – 密偵の運用 – 情報収集法 – 拷問手続の知識 | 秘密警察宦官の尋問・監察技術を教育 秘密警察としての宦官を育成 |
| 内務府学 | 【清】 ③順治帝 (内務府制度の整備) | – 読み書き – 会計・帳簿 – 宮中儀礼 – 文書処理 | 宮中実務を担う宦官の基礎教育 明の制度を継承 |
| 太監学堂 | 【清末】 ⑪光緒帝〜⑫宣統帝 | – 国語(漢語) – 算術 – 礼法 – 近代知識(基礎) | 宦官に近代教育を与えるための学校 |

