趙高|秦を内部から崩壊させた“史上最悪の宦官”

秦の宦官 趙高 035.宦官

秦の始皇帝に仕え、二世皇帝胡亥を操り、
秦帝国の滅亡を決定づけた宦官として悪名高いのが趙高である。

「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事で知られ、
権力者が事実をねじ曲げる象徴として現代まで語り継がれている。

趙高とは

  • 趙国の出身

  • 罪を犯して秦に連行され、宮刑を受け宦官となる説が有力

  • 法律に精通し、書記官として頭角を現す

  • 始皇帝の末子・胡亥の教育係

  • 始皇帝死後、李斯と結託してクーデター(沙丘の変)を主導

  • 二世皇帝を操り独裁

  • 最後は子嬰に裏切られ誅殺される

出自と宦官としての出発

趙国の出身、罪を犯して秦へ

趙高は趙国の遠縁の公族とも、貧しい家の出とも言われるが、
いずれにせよ罪を犯して秦に連行され、宮刑を受けたという説が最も広く知られる。

法律の天才として抜擢

宮刑後、宮廷で雑務をこなしながら法律を学び、
法に精通した書記官として始皇帝に抜擢された。

中車府令(皇帝の車両管理)に任命され、皇帝の身近で働くようになる。

胡亥の教育係として影響力を強める

趙高は始皇帝の末子・胡亥に法律や書法を教え、 胡亥から強い信頼を得ていた。
この関係が後のクーデターの基盤となる。

沙丘の変|始皇帝の死とクーデター

始皇帝の巡幸に同行

紀元前210年、始皇帝は李斯・胡亥・趙高を伴い巡幸に出る。

沙丘に到着した際、始皇帝は病に倒れ、
長子・扶蘇に「葬儀を取り仕切れ」と命じる遺書を趙高に託した。

遺詔の偽造

始皇帝が死ぬと、趙高は丞相・李斯を心理操作で抱き込み、
遺詔を偽造して扶蘇を自殺に追い込む。

本来の後継者を排除し、胡亥を二世皇帝に即位させた。

皇帝を操る

胡亥は即位をためらったが、
趙高は「断じて行えば鬼神も避ける」と説得し、
完全に皇帝を掌握した。

二世皇帝時代の独裁と暴政

李斯を失脚させ処刑

クーデターの共犯だった李斯も、 やがて趙高の邪魔になると処刑された。

重税と苛政で全国に反乱

趙高は法を乱用し、重税と暴政を強化。

陳勝・呉広の乱を皮切りに、
全国で反乱が勃発し秦帝国は急速に崩壊していく。

指鹿為馬|権力の恐怖を象徴する事件

鹿を連れてきて「これは馬だ」

趙高は大臣たちの忠誠を試すため、 鹿を連れてきて「これは馬だ」と言い張った。

  • 「馬です」と迎合した者 → 生き残る

  • 「鹿です」と正直に答えた者 → 後に処刑

この事件は、 権力者が事実をねじ曲げ、周囲が迎合する構造を象徴し、
現代でも「指鹿為馬」という成語として使われている。

秦滅亡への加速と趙高の最期

反乱が激化すると胡亥を殺害

反乱が止まらず秦が崩壊寸前になると、
趙高は責任逃れのため、 二世皇帝・胡亥を殺害した。

子嬰を傀儡皇帝にするが…

次に子嬰を皇帝に立てたが、 子嬰は即位後すぐに反撃し、
趙高を一族もろとも誅殺した(前207年)。

秦の滅亡

翌年、秦は劉邦・項羽らの攻撃を受け滅亡。

趙高の独裁と暴政が、 秦帝国の崩壊を決定づけたとされる。

歴史的評価

史記における“史上最悪の宦官”

司馬遷の『史記』では、 趙高は秦を滅ぼした元凶として描かれ、
中国史上屈指の悪臣とされる。

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新史料による再評価の動き

近年発見された『趙正書』では、

 ・始皇帝が胡亥を後継に指名した

 ・沙丘の変は陰謀ではなかった可能性

など、従来の趙高像を揺るがす記述もある。
ただし学界ではまだ議論が続いている。

まとめ

趙高は、

 ・宦官として異例の出世

 ・始皇帝の死を利用したクーデター

 ・二世皇帝の傀儡化

 ・暴政による反乱の激化

 ・皇帝殺害と自身の最期

という一連の行動により、 秦帝国を内部から崩壊させた象徴的存在となった。

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