魚朝恩(ぎょちょうおん、722~770年)は、
唐の粛宗・代宗に仕え、安史の乱を通じて軍事に深く関与し、
代宗期には神策軍を掌握して朝廷でも大きな権力を持った宦官である。
安史の乱以前の唐でも宦官が軍の監督に派遣されることはあったが、
魚朝恩は複数の軍を監督する観軍容宣慰処置使となり、さらに神策軍を事実上の禁軍へ成長させた。
後世の唐では神策軍を握った宦官が皇帝の擁立や廃立にも関与するようになるため、
魚朝恩は唐後半の宦官による軍事支配を考えるうえで重要な人物である。
一方、魚朝恩は単なる軍事宦官ではなかった。
国子監を管轄して経書を講じ、寺院を建立し、宰相を公然と批判し、
側近を通じて北軍内部に独自の獄まで設けた。
郭子儀をたびたび攻撃したことも史書に記され、代宗の信任を背景に権力を拡大したが、
やがて皇帝自身から警戒されるようになり、宰相元載らの策によって48歳または49歳で殺害された。
魚朝恩の出自と宦官としての出発
瀘州瀘川に生まれる
魚朝恩は開元10年(722)頃、瀘州瀘川に生まれた。現在の四川省瀘州市付近にあたる。
『旧唐書』は出身地を記さないが、『新唐書』は「瀘州瀘川人」と明記している。
家系や父母、幼少期については正史にほとんど記録がない。
後に朝廷を動かすほどの権力を握る人物となったが、名門官僚家の出身として台頭したわけではなく、
天宝年間末期に宦官として内侍省へ入り、品官として黄門に給事したことから確実な経歴が始まる。
『旧唐書』は魚朝恩を「黠惠」で、受け答えに巧みであり、文書や計算にも通じていたと記している。『新唐書』も詔命を伝達する能力に長けていたとしており、
当初から宮中の実務処理に適した人物とみられていた。
この段階では後の軍事的権力とは結びついていない。
魚朝恩の地位を大きく変えたのが、天宝14載(755)に始まった安史の乱だった。
安史の乱と観軍容使への台頭
監軍として軍事に関わる
安禄山が反乱を起こすと、唐朝は諸軍へ宦官を派遣して軍事行動を監督させた。
魚朝恩も至徳年間に監軍を務め、『新唐書』によれば至徳初年には李光進の軍を監督している。
長安が唐軍によって奪回された後、魚朝恩は三宮検責使となり、
左監門衛将軍として内侍省の事務を管轄するようになった。
宮廷内の宦官から、軍事と内廷の双方に関係する地位へ進んだことになる。
乾元元年(758)、唐朝は安慶緒が籠城する鄴城を攻撃するため、
郭子儀・李光弼ら九人の節度使による大軍を編成した。
しかし諸将を統一して指揮する総大将を置かず、
魚朝恩を観軍容宣慰処置使として軍全体の監督に当たらせた。
『旧唐書』『新唐書』はいずれも、観軍容使という名称は魚朝恩から始まったとしている。
これは節度使に代わって魚朝恩が直接全軍を指揮したという意味ではなく、
皇帝の代理として諸軍を監察する立場だった。
とはいえ複数の節度使を束ねる大軍に対して宦官が強い監督権を持ったことは、
唐代の軍事制度における重要な変化だった。
相州の敗北と郭子儀への攻撃
乾元2年(759)、史思明が安慶緒の救援に現れると、唐軍は相州付近で大敗した。
九節度使を統一する指揮官がいなかったことも混乱を拡大させ、諸軍はそれぞれ撤退した。
魚朝恩は以前から郭子儀の軍功を妬み、
たびたび郭子儀を陥れようとしていたと『旧唐書』『新唐書』は記している。
相州の敗戦後にも郭子儀を批判し、その結果、郭子儀は兵権を解かれて長安へ召還された。
ただし、相州敗戦の責任を魚朝恩一人に帰すことはできない。
唐軍には九節度使を統率する最高司令官が置かれておらず、指揮系統そのものに問題があった。
魚朝恩が観軍容使として軍を監督していたことと、
彼が直接敗戦を引き起こしたことは分けて考える必要がある。
その後、史思明が再び洛陽を占領すると、魚朝恩は禁軍を率いて陝州に駐屯した。
『新唐書』によれば、史思明軍が西へ進んだ際には神策軍の将・衛伯玉を出撃させ、
反乱軍の康文景らを破らせている。
洛陽が再び唐に回復されると、魚朝恩は汴州へ移り、
開府儀同三司を加えられ、馮翊郡公に封じられた。
↓↓幾度も唐王朝を救った郭子儀についての個別記事は、こちら

代宗即位と神策軍の掌握
吐蕃の長安占領で代宗を迎える
宝応元年(762)に粛宗が死去し、李豫が代宗として即位した。
代宗の即位後、魚朝恩の権力を決定的にしたのは広徳元年(763)の吐蕃侵攻だった。
吐蕃軍が関中へ侵入して長安へ迫ると、代宗は都を離れて陝州へ逃れた。
このとき皇帝の護衛軍は離散していたが、魚朝恩は陝州方面にいた軍を率いて華陰で代宗を迎えた。
『旧唐書』は、この援護によって「六師方振」、
すなわち皇帝の軍がようやく態勢を立て直したと記している。
代宗は魚朝恩の働きを高く評価し、天下観軍容宣慰処置使とした。
ここから魚朝恩は代宗政権における軍事宦官として急速に地位を高めていく。
神策軍を禁軍へ変えた魚朝恩
神策軍はもともと西北辺境に置かれた軍隊だった。
粛宗期には郭英乂がこれを率い、魚朝恩が監軍として関与した。
その後、郭英乂が中央へ移ると、魚朝恩が神策軍を直接掌握するようになった。
763年に代宗が陝州へ逃れた際、魚朝恩は陝州にいた諸軍と神策軍をまとめて皇帝を護衛した。
代宗が長安へ戻ると、魚朝恩はこの軍をそのまま京師へ移し、皇帝の身辺を守る軍として保持した。
永泰元年(765)に吐蕃が再び侵攻すると、魚朝恩は神策軍を苑中に駐屯させた。
神策軍は左右二廂に分けられ、従来の北軍よりも強い軍事力を持つようになった。
『新唐書』兵志は、この段階から神策軍が皇帝直属の禁軍として
特別な地位を占めるようになった経緯を詳しく記している。
したがって魚朝恩を「神策軍を創設した人物」とするのは正確ではない。
神策軍自体は魚朝恩以前から存在していた。しかし辺境軍だった神策軍を皇帝の身辺へ移し、
自らこれを掌握して禁軍の中核へ成長させた点では、
後世の神策軍体制につながる大きな転換を担った人物だった。
ただし、後世の徳宗以降に見られる左右神策軍護軍中尉による本格的な宦官軍事支配が、
魚朝恩の時代にそのまま完成していたわけではない。
魚朝恩の死後、一時的に宦官は軍の直接統率から外され、
その後の涇原の兵変を経て再び宦官による神策軍支配が制度化されていく。
代宗期の権力拡大と郭子儀との対立
郭子儀をたびたび排斥する
魚朝恩と郭子儀の対立は粛宗期から続いていた。
郭子儀は安史の乱で最大級の軍功を立て、軍人たちからも高い威望を得ていたため、
魚朝恩はその存在を警戒したと正史は描いている。
代宗即位後にも魚朝恩は程元振とともに郭子儀を非難した。
郭子儀は一時大きな不安を抱いたが、763年に吐蕃が長安を占領すると、
唐朝は結局郭子儀を再び起用せざるを得なかった。
郭子儀は散らばった兵を集めて長安奪回に動き、唐王朝の危機を救っている。
『新唐書』では、この結果を見た魚朝恩が内心恥じ、その後に都を洛陽へ移すことを主張したとする。
魚朝恩が武装した十数人を従えて百官の前に現れ、吐蕃がたびたび京畿へ侵入する以上、
洛陽へ移るべきではないかと迫ったところ、近臣が反論し、郭子儀も反対したため中止されたという。
ただし『資治通鑑』はこの逸話を検討し、
『国史補』に基づいて、魚朝恩が提案した移転先は洛陽ではなく河中だった可能性を採用している。
魚朝恩が吐蕃の脅威を理由に遷都を主張し、官僚から強く反論されたという点は共通するが、
移転先など細部には史料差がある。
↓↓李輔国を上回るほどの権勢を持つようになった宦官・程元振についての個別記事は、こちら

郭子儀の父の墓が盗掘される
大暦2年(767)、郭子儀の父・郭敬之の墓が何者かによって盗掘された。
犯人は捕まらなかったが、当時の人々は郭子儀を嫌っていた魚朝恩が命じたのではないかと疑った。
『新唐書』は魚朝恩が盗賊を遣わして郭子儀の先祖の墓を荒らしたと比較的断定的に書く。
一方、『資治通鑑』は「人々が魚朝恩を疑った」とするにとどめ、
魚朝恩が命じたことを確定していない。
郭子儀が入朝すると、朝廷では彼が報復に出るのではないかと恐れた。
しかし代宗から墓の件を告げられた郭子儀は、
自分も長年軍を率いながら兵士による墓荒らしを完全には禁じられなかったため、
今回自分の家が被害を受けたのは天の譴責であって、
人を恨むべきことではないという趣旨を述べて涙を流した。
郭子儀が私怨から軍を動かさなかったことを示す逸話として知られている。
大暦4年(769)には、魚朝恩が郭子儀を章敬寺へ招いた際、
宰相元載が「魚朝恩は郭子儀を害そうとしている」と密かに知らせた事件も起きた。
郭子儀の部将たちは甲冑を着けた三百人を随行させようとしたが、
郭子儀は「魚朝恩が皇帝の命を受けていないなら私を害することはできず、
皇帝の命なら抵抗しても仕方がない」という趣旨を述べ、わずかな家僕だけを連れて出向いた。
魚朝恩は郭子儀の随行者が少ないことに驚いた。
郭子儀が元載から聞いた話を率直に告げると、魚朝恩は涙を流し、
郭子儀ほどの長者でなければ自分を疑わずにはいられなかっただろうと語ったという。
この逸話は両者が単純に常時敵対していたわけではなく、
強い警戒を抱きながらも一定の関係を保っていたことを示している。
国子監・仏教への関与と朝廷での専横
国子監を管轄して経書を講じる
魚朝恩は軍事だけでなく、教育・礼制に関わる官職にも進出した。
永泰年間には判国子監事となり、鴻臚・礼賓・内飛龍・閑厩などの使職を兼ね、鄭国公に封じられた。
魚朝恩が初めて国子監へ赴任した際には、
代宗の命によって宰相・百官・六軍の将軍までが出迎えに加わった。
京兆府が食事を用意し、教坊から音楽や芸人が派遣され、
大臣の子弟二百人余りが附学生として列席した。
さらに学生の食費に充てるため多額の銭も与えられた。
魚朝恩は経書を講じ、自ら文章も作った。
『旧唐書』は、文章や経義を十分に修めた学者としてではなく、
多少読み書きができる程度でありながら文武の才能を自負していたという否定的な評価を加えている。
国子監での講義には神策軍数百人を従えることもあり、京兆尹がその随行者へ多額の費用を支出した。
それでも魚朝恩は満足しなかったと『新唐書』は伝える。
軍事権力を背景に国子監まで掌握したことは、当時の文官たちに強い違和感を与えた。
相里造・李衎との論争
魚朝恩は百官が集まる場でもしばしば政治を論じ、宰相を含む官僚を公然と批判した。
弁舌で知られた宰相元載でさえ魚朝恩の前では黙っていたと『新唐書』は記す。
ところが戸部郎中の相里造と殿中侍御史の李衎は魚朝恩に屈しなかった。
章敬太后の忌日に興唐寺で法要が行われた際、
魚朝恩は寺外で宰相や百官を食事に招き、そこで政治を論じ始めた。
相里造と李衎が正面から反論すると魚朝恩は不快になり、宴を打ち切った。
別の機会には、魚朝恩が百官を前にして、宰相は天地の調和を保ち人民を安んずるべき立場なのに、
水害や旱魃が続き、数十万の軍を養うため財政も疲弊しているとして宰相たちを責めた。
列席者が沈黙するなか、相里造は、軍が解散せず大量の兵糧を消費していることこそ問題であり、
それは軍容を担当する魚朝恩の責任ではないかと反論した。
魚朝恩は怒って席を立ち、
「南衙の官僚たちが徒党を組んで自分を害そうとしている」という趣旨の言葉を残したと伝えられる。
『易経』を使って元載を皮肉る
国子監で釈奠が行われ、宰相や百官が集まった際には、魚朝恩が『易経』の鼎卦を講じたことがある。
「鼎折足、覆公餗」という、鼎の脚が折れて中身をひっくり返す意味の句を取り上げ、
宰相がその職責を果たしていないことを暗に皮肉った。
宰相王縉は怒りを露わにしたが、元載は表情を変えず笑っていた。
魚朝恩は後に、怒るのは普通の反応だから恐ろしくないが、
笑っている者の心は測りがたいという趣旨の言葉を述べたという。
元載はこの侮辱を忘れず、後に魚朝恩を排除する中心人物となった。
章敬寺の建立
魚朝恩は仏教にも深く関与した。
大暦2年(767)、通化門外に与えられていた自分の荘園を寺院として寄進し、
代宗の母である章敬皇太后の冥福を祈る寺とすることを願い出た。
寺には章敬寺の名が与えられた。
建設は非常に大規模で、『旧唐書』『新唐書』はいずれもその豪華さを伝えている。
必要な木材を確保するため、魚朝恩は曲江の亭館、華清宮の楼閣、官署の建物、
没官となった将相の旧邸などを壊し、その資材を建設へ転用した。
したがって魚朝恩の仏教活動は単なる個人的信仰としてだけでなく、
皇太后の追善事業と政治的権勢が結びついたものとして見る必要がある。
章敬寺は代宗からも重視され、大暦3年(768)には代宗自身が寺を訪れ、
多数の僧尼を得度させている。
神策軍を背景とした権力の拡大
北軍に独自の獄を置く
魚朝恩の軍事権力を支えた側近の一人が神策都虞候の劉希暹である。
劉希暹は騎射に優れ、魚朝恩から特に信頼され、太僕卿・交河郡王にまで昇った。
また兵馬使の王駕鶴も魚朝恩の側近として禁兵を掌握していた。
劉希暹は魚朝恩に勧めて北軍の内部に独自の獄を設けた。
市中のならず者を利用して富裕な人々を告発させ、罪をでっち上げて捕縛し、
地下牢へ入れて拷問し、自白を取ったうえで財産を没収して軍へ入れた。
告発や捕縛に関わった者にも財産の一部が分配された。
科挙や官僚登用を求めて長安の宿に滞在していた人の中にも、
財産を持っているために巻き込まれ、不審な死を遂げる者がいたという。
長安の人々はこの獄を「入地牢」と呼んで恐れた。
さらに万年県の捕賊吏だった賈明観も劉希暹と結びつき、
大規模な摘発を繰り返して巨万の財産を築いた。
北軍は皇帝直属の軍事区域であり、外部から介入しにくかったため、
こうした行為を公然と告発できる者はほとんどいなかった。
「天下の事で私を通らないものがあるのか」
魚朝恩は軍事だけでなく、政務全般への関与を当然視するようになった。
朝廷の決定に自分が関与していないと知ると、
「天下の事で私を通らないものがあるのか」という趣旨の言葉を発したと『資治通鑑』は記している。
また奏上した要求は必ず認められることを期待し、思い通りにならなければ不満を露わにした。
代宗はこうした振る舞いを知り、次第に魚朝恩を不快に思うようになった。
魚朝恩の養子・魚令徽をめぐる逸話も、その権勢を示している。
魚令徽はまだ若く、内給使として緑色の官服を着ていたが、
同僚と争った後、官位が低いため軽んじられたと魚朝恩へ訴えた。
翌日、魚朝恩は代宗に対して養子へ紫衣を与えるよう求めた。
ところが代宗がまだ返答していないうちに、
すでに担当官が紫衣を用意して魚令徽に着せ、謝恩させた。
代宗は表面上は笑って「子供によく似合う」という趣旨で応じたが、
内心ではさらに不快感を強めたとされる。
この逸話は魚朝恩自身だけでなく、周囲の官僚までが皇帝の判断を待たず、
その意向を先取りするほど権勢を恐れていたことを示している。
元載との対立と魚朝恩排除計画
元載が側近を切り崩す
大暦年間になると、代宗は魚朝恩の専横を明確に警戒するようになった。
宰相元載も魚朝恩から公然と侮辱されており、両者の対立は深まった。
元載は正面から魚朝恩を攻撃せず、まずその周辺を切り崩した。
腹心の崔昭を京兆尹に据え、多額の財物を使って魚朝恩派の皇甫温や周皓と関係を結ばせた。
皇甫温は陝州に兵を持ち、周皓は射生軍の将で、
魚朝恩が宮中へ入る際に率いる護衛兵を指揮する立場だった。
この工作によって魚朝恩の秘密の発言や行動が代宗へ筒抜けになった。
魚朝恩はそのことに気づかず、以前と変わらず権力を振るった。
元載はさらに、魚朝恩が喜ぶよう神策軍の管轄地を増やす案まで出した。
興平・武功・扶風・天興などを神策軍へ編入すると、
魚朝恩は自らの軍事基盤が拡大したと考え、元載を警戒しなかった。
郭子儀も代宗に対し、魚朝恩が周智光と結んで外部の援軍にしようとしており、
長く禁軍を握らせておけば変事が起こりかねないという趣旨を密かに奏上した
と『新唐書』は記している。
章敬寺での郭子儀との会見
大暦4年(769)、魚朝恩は入朝した郭子儀を章敬寺へ誘った。
元載は魚朝恩が郭子儀を害そうとしていると密かに知らせたが、郭子儀は大軍の護衛を拒み、
わずかな家僕だけを伴って魚朝恩のもとへ向かった。
郭子儀から元載の警告を聞いた魚朝恩は涙を流したと伝えられる。
この出来事は、元載が魚朝恩と郭子儀を互いに警戒させる工作を進めていたことを示す一方、
魚朝恩の側にも郭子儀との関係を修復しようとする動きがあった可能性を示している。
ただし、その翌年には代宗と元載による魚朝恩排除が具体化することになる。
魚朝恩の最期
代宗が排除を決断する
大暦5年(770)、観軍容宣慰処置使・神策軍使・内侍監となった魚朝恩は、
禁軍と宮廷の双方に巨大な影響力を持っていた。
宮殿へ入る際にも武装した百人ほどを護衛として従え、その指揮を周皓が担っていた。
陝州には皇甫温が軍を握っており、魚朝恩にとって内外の軍事的な支えとなっていた。
しかし周皓も皇甫温もすでに元載の工作によって代宗側へ引き込まれていた。
劉希暹は皇帝の態度が変わっていることに気づき、魚朝恩へ警告したが、
代宗は表面上これまでと同じように厚遇していたため、魚朝恩は決定的な危機だとは考えなかった。
代宗と元載は魚朝恩排除の計画を進め、皇甫温を長安へ留め、周皓とともに実行役とした。
寒食の日に宮中で殺害される
大暦5年3月の寒食の日、代宗は宮中で近臣を集めて宴を開いた。
魚朝恩も参加し、宴が終わるといつものように神策軍の陣営へ帰ろうとしたが、
この日に限って皇帝から「話がある」として留められた。
魚朝恩が代宗の前へ出ると、皇帝は反逆を企てているのではないかと追及した。
魚朝恩は弁明したが、その言葉は次第に無礼なものになった。
すると周皓と側近たちが魚朝恩を捕らえ、その場で絞殺した。
『新唐書』では魚朝恩は49歳で死んだとする。
数え年なら49歳にあたり、西暦では722年頃の生まれとなる。
一方、『旧唐書』の魚朝恩伝は、代宗との会見後に魚朝恩が邸宅へ戻り、
自ら首を吊って死んだように記している。
しかし『資治通鑑』や『新唐書』は、代宗・元載側が宮中で秘密裏に殺害し、
その後に自殺したことにしたという経緯を詳しく伝えている。
代宗は魚朝恩の死を直ちに公表せず、
表向きには観軍容などの使職を解いたものの内侍監の地位は保ち、実封まで加える詔を出した。
そして「詔を受けた後に自ら首を吊った」と説明し、
遺体を家へ返して葬儀費用として銭六百万を与えた。
これは魚朝恩の権力基盤である神策軍を刺激しないための処置だった。
神策軍への処置と側近たちの末路
魚朝恩を殺した後、代宗が最も警戒したのは神策軍の反発だった。
劉希暹と王駕鶴には御史中丞を加え、北軍の将兵に対しても、
彼らは皇帝の「爪牙」であり従来通り遇するので心配する必要はないという詔を出した。
魚朝恩個人だけを排除し、軍全体を敵に回さない方針だった。
しかし劉希暹は、自分も魚朝恩と一体となって不法行為に関わっていたため不安を募らせ、
不遜な言葉を口にした。
王駕鶴がこれを代宗へ報告し、劉希暹は同年に死を命じられた。
賈明観は元載に取り入って処刑を免れ、江西へ送られた。
長安を離れる際には、彼を恨む民衆数万人が煉瓦や石を手にして待ち構えたと『旧唐書』は記す。
元載が役人に制止させたためその場では助かったが、
江西で二年ほど過ごした後、観察使路嗣恭によって捕らえられ、杖で打ち殺された。
魚朝恩と親しかった礼部尚書裴士淹や戸部侍郎第五琦も連座して左遷された。
魚朝恩の死後と神策軍
魚朝恩が殺された後、神策軍そのものが廃止されたわけではない。
しかし魚朝恩のように宦官が直接大規模な禁軍を専断する体制はいったん後退し、
代宗は軍権を皇帝のもとへ引き戻そうとした。
『旧唐書』は、魚朝恩の死後には宦官がいったん兵を統率しなくなったと明記している。
その後、徳宗は禁軍を白志貞に委ねたが、
建中4年(783)の涇原の兵変で禁軍が十分に集まらなかったことから、
再び宦官への軍事依存を強めた。
竇文場・霍仙鳴らが神策軍を統率し、貞元年間には左右神策護軍中尉などの職が置かれ、
宦官による神策軍支配が制度として定着していく。
したがって魚朝恩の時代と、
9世紀に皇帝の廃立にまで関与する神策軍宦官の時代をそのまま同一視することはできない。
それでも魚朝恩が、辺境軍だった神策軍を皇帝の身辺へ移し、禁軍として拡大させ、
自ら軍事・政務の双方で巨大な権力を持ったことは、その後の唐代政治に大きな前例を残した。
まとめ
魚朝恩は、安史の乱を契機に軍事へ進出し、
代宗期には神策軍を掌握して宮廷政治にも大きな影響力を持った宦官である。
とくに、辺境軍だった神策軍を皇帝の近くに置き、禁軍としての性格を強めたことは、
後の唐で宦官が軍事権を握る流れの先駆けとなった。
一方で、その権力は軍事の範囲を越え、国子監や朝廷人事、司法的な介入にまで及んだ。
やがて代宗自身から警戒され、元載らによって側近を切り崩された末、
大暦5年(770)に宮中で殺害された。
魚朝恩の生涯は、唐後半に進んでいく「宦官と禁軍の結びつき」が、
どのように形成されていったかを示す代表的な事例である。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻184「宦官伝(魚朝恩伝・劉希暹伝・賈明観伝)」
・『新唐書』巻207「宦者伝(魚朝恩伝)」
・『新唐書』巻50「兵志」
・司馬光『資治通鑑』巻221~224
・李肇『唐国史補』
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