十常侍とは、
後漢第12代皇帝・霊帝の時代に大きな権力を持った中常侍を中心とする宦官勢力を指す呼称である。
一般には張譲・趙忠らを中心とした集団として知られるが、
正史に「十常侍」という名称の固定された十人組が編成されたわけではない。
『後漢書』「宦者列伝」は、
張譲・趙忠・夏惲・郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・段珪・高望・張恭・韓悝・宋典の12人を
中常侍として列挙し、いずれも列侯に封じられて寵愛されたと記す。
その直後に収録された張鈞の上書では、霊帝の側近宦官を「十常侍」と呼んでいる。
したがって、十常侍は「この十人だけ」という名簿ではなく、
霊帝期に権勢を振るった有力宦官たちを指す呼称として理解する方が史料に即している。
彼らが突然現れて後漢を混乱させたわけでもない。
後漢では皇帝の側近である宦官と、皇后・皇太后の一族である外戚との対立が長く続いており、
桓帝・霊帝期には曹節・王甫・侯覧らがすでに大きな政治力を持っていた。
その基盤を引き継ぎ、霊帝の強い信任のもとで張譲・趙忠らが勢力を拡大したのである。
十常侍以前の宦官勢力
後漢の宦官政治を十常侍だけから始めることはできない。
桓帝の時代には、梁冀を排除した政変を契機として宦官の政治的地位が高まり、
曹節・王甫・侯覧らが朝廷で強い影響力を持つようになった。
延熹9年(166)には第一次党錮の禁が起こり、宦官を批判した李膺ら士人が処罰された。
建寧元年(168)、霊帝が即位すると、大将軍竇武と太傅陳蕃は宦官勢力を排除しようとしたが、
計画が漏れたため逆に曹節・王甫らが兵を動かし、竇武と陳蕃を死に追い込んだ。
曹節はこの功績によって長楽衛尉となり、封邑を増加された。
王甫らにも爵位が与えられ、その一族は中央・地方の官職へ進出した。
霊帝初期の段階で、
宦官勢力はすでに外戚や高官を軍事力によって倒せるほどの政治勢力となっていた。
侯覧も桓帝から霊帝初期にかけて権勢を振るった宦官だった。
故郷に大規模な邸宅や墓を築き、民家を壊し、墓を暴き、
財産や女性を奪ったとして山陽太守翟超や督郵張倹から告発された。
張倹が侯覧の邸宅や墓を破壊して財産を没収すると、
侯覧は逆に張倹を党人として告発し、第二次党錮の禁へつながる弾圧を引き起こした。
熹平元年(172)、侯覧は専横と奢侈を告発されて印綬を没収され、自殺している。
曹節も霊帝期まで権勢を保ったが、光和4年(181)に死去した。
その後、宦官勢力の中心となっていったのが張譲と趙忠だった。
↓↓桓帝・霊帝期に大きな政治力を持った曹節・侯覧についての個別記事は、こちら


張譲・趙忠を中心とする宦官勢力
張譲は潁川郡、趙忠は安平国の出身で、若い頃から宮中に仕え、桓帝時代には小黄門となった。
趙忠は梁冀排除にも参加して都郷侯に封じられている。
霊帝の時代になると二人は中常侍へ昇進し、列侯に封じられた。
曹節・王甫らとも連携し、曹節の死後には趙忠が大長秋となった。
この頃、『後漢書』が有力な中常侍として列挙するのが、
張譲・趙忠・夏惲・郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・段珪・高望・張恭・韓悝・宋典の12人である。
彼らはいずれも侯に封じられ、その父・兄弟・子・甥まで州郡の官職へ進出した。
『後漢書』は、地方へ出た一族が貪欲で残酷な行為を重ね、民衆を苦しめたと厳しく評している。
張譲の奴僕に頭を下げさせた孟佗
張譲の権勢を伝える代表的な逸話が、扶風の富豪・孟佗の話である。
張譲の家には多くの賄賂が集まり、面会を求める者の車が常に数百、数千に及んだという。
孟佗は張譲本人へ直接近づくのではなく、
張譲の家を取り仕切る奴僕たちへ惜しみなく贈り物を続けた。
奴僕たちが感謝して望みを尋ねると、孟佗は「あなたたちから一度拝礼されたい」と答えた。
ある日、孟佗が張譲邸を訪れると大勢の客で門前が混雑しており、中へ入れなかった。
すると張譲の奴僕たちが外へ出て孟佗を迎え、路上で一斉に拝礼して、その車を邸内へ導いた。
周囲の客は孟佗が張譲と特別に親しいと思い込み、競って孟佗へ珍宝を贈った。
孟佗はその一部を張譲へ贈り、喜んだ張譲は孟佗を涼州刺史にしたという。
宦官本人だけでなく、その家の使用人との関係まで官職獲得に利用されたことを示す逸話として
『後漢書』に収録されている。
「張常侍は我が父、趙常侍は我が母」
霊帝と張譲・趙忠の関係を象徴するのが、「張常侍は我が父、趙常侍は我が母」という言葉である。『後漢書』は霊帝が常にこのように語っていたと記している。
張譲らは皇帝との親密な関係を背景に豪壮な邸宅を築いた。
その規模が宮殿に似るほどになったため、皇帝が高台から見れば問題になることを恐れた宦官は、
天子が高い場所へ登ると民が離散すると言って霊帝を説得した。
霊帝はその後、高台へ登らなくなったという。
霊帝自身も西園に私財を蓄え、河間に田宅を購入するなど財産形成に強い関心を持っていた。
宦官による収奪だけを皇帝と切り離して考えることはできず、
霊帝の財政政策と側近宦官の利権が結びついていた点が重要である。
黄巾の乱と十常侍への告発
中平元年(184)、張角を指導者とする黄巾の乱が勃発した。
このとき郎中の張鈞は、
反乱が拡大した原因を十常侍とその一族による地方支配に求める上書を霊帝へ提出した。
張鈞によれば、十常侍の父兄・子弟・姻族・賓客が州郡を支配し、
利益を独占して民衆を侵害したため、訴える場所を失った人々が反乱へ加わったという。
張鈞は十常侍を斬り、その首を南郊に掲げて民衆へ謝罪し、天下へ布告すれば、
大軍を用いなくても反乱は鎮まるとまで主張した。
霊帝がこの上書を張譲らに見せると、彼らは冠を脱ぎ、裸足になって叩頭し、
洛陽の獄へ自首して家財を軍費として差し出すと申し出た。
しかし霊帝は処罰しなかった。
張譲らに冠と履物を着けさせ、そのまま職務へ戻らせている。
反対に霊帝は張鈞へ、
「十常侍の中に一人くらい善人はいないのか」という趣旨の言葉を発して怒った。
張鈞はそれでも同じ内容の上書を提出したが採用されず、
やがて張角の道を学んでいるという罪を着せられて逮捕され、獄中で死亡した。
張角との内通が発覚する
ところが、張鈞が告発した宦官と黄巾勢力との関係は、まったく根拠のないものではなかった。
中常侍の封諝と徐奉が張角と内通していたことが発覚し、処刑された。
霊帝は張譲らを呼び、
「お前たちは党人が反乱を企てていると言って禁錮し、ある者を殺した。
それなのに今は党人が国のために働き、お前たちの側から張角と通じる者が出た。
斬られるべきではないのか」という趣旨で叱責した。
張譲らは叩頭し、これはすでに死亡した王甫と侯覧が行ったことだと弁明した。
霊帝は結局、張譲らを処刑しなかった。
この事件からも、「十常侍全員が黄巾と通じていた」とするのは正確ではない。
史料上、内通が発覚して処刑されたのは封諝・徐奉であり、
それを有力宦官全員の行為に広げるべきではない。
霊帝の財政政策と宦官
黄巾の乱後も霊帝と宦官の関係は変わらなかった。
翌年、南宮で火災が起きると、
張譲・趙忠らは宮殿再建のため天下の田一畝につき十銭を徴収するよう霊帝へ進言した。
太原・河東などから木材や石材を徴発したが、
地方から運ばれてきた資材に対して宦官が品質が悪いと難癖をつけ、
実際の価格の十分の一ほどで買い叩いたうえ、再び宮廷へ売却しようとしたという。
地方官にも「助軍修宮銭」が要求され、大郡では二、三千万銭に及ぶこともあった。
刺史・太守や茂才・孝廉として任官する者も、
赴任前に西園へ行って納付額を決めなければならなかったと『後漢書』は記している。
河内出身の司馬直は清廉で知られていたため要求額を三百万銭に減額されたが、
それでも「民の父母となる者が、かえって民を搾取して時の要求に応じることはできない」と嘆いた。
赴任途中の孟津で政治の問題を上書し、毒を飲んで自殺した。
この上書を読んだ霊帝は一時的に修宮銭の徴収を停止したという。
畢嵐と宋典による宮殿工事
十常侍として名を挙げられる畢嵐と宋典は、霊帝の宮殿工事にも関わった。
宋典は鉤盾令として南宮の玉堂を修繕した。
畢嵐は掖庭令として青銅製の人物像や巨大な鐘を鋳造し、
さらに平門外の橋付近に天禄・蝦蟆の像を設置して水を吐かせた。
畢嵐は水を汲み上げる翻車や「渴烏」と呼ばれる装置も作り、
橋の西側から水を引いて南北郊の道路へ散水したという。
これらは『後漢書』が霊帝期の奢侈を批判する文脈で記したものだが、
畢嵐が宮廷の土木・機械設備に関係する実務を担当していたこともわかる。
十常侍を単に政治的な集団として扱うだけでは見えにくい記録である。
霊帝の死と何進との対立
中平6年(189)、霊帝が死去した。
霊帝晩年には、宦官の蹇碩が西園八校尉の上軍校尉として軍事権を握っていた。
霊帝は死の直前、王美人との間に生まれた劉協を蹇碩へ託した。
蹇碩は大将軍何進を殺して劉協を即位させようとしたが、何進に計画を察知されて失敗した。
何皇后の子・劉辯が即位し、何皇后が皇太后として臨朝すると、何進は朝廷の実権を握った。
蹇碩は趙忠らに書状を送り、何進兄弟が宦官を皆殺しにしようとしているとして、
先に何進を殺すよう求めた。
しかし中常侍郭勝は何進と同じ南陽出身で、何氏が出世する過程にも関係していた。
郭勝は蹇碩に協力せず、書状を何進へ見せた。
何進は蹇碩を捕らえて殺し、その兵を接収した。
↓↓霊帝に劉協を託された蹇碩についての個別記事は、こちら

何太后が宦官排除に反対する
蹇碩の死後、袁紹は何進に宦官勢力を全面的に排除するよう勧めた。
何進は何太后へ中常侍以下の罷免を求めたが、何太后は拒否した。
漢の宮廷では宦官が後宮の実務を担っており、皇太后自身も彼らとの長年の関係を持っていた。
さらに何太后の母・舞陽君や何苗は宦官側から賄賂を受け、何太后に働きかけていた。
張譲には何氏との姻戚関係もあった。
張譲の養子の妻は何太后の妹であり、この関係を利用して何氏側へ働きかけることができた。
何進は何太后を屈服させるため、袁紹の策を採用して董卓ら地方の軍勢を洛陽へ呼び寄せた。
軍勢が迫ると何太后は恐れ、中常侍・小黄門らをいったん罷免した。
ところが張譲は姻戚関係を利用して舞陽君らに取りなしを求め、
もう一度皇帝と皇太后に別れを告げたいと願った。
何進暗殺と宦官勢力の壊滅
何進は再び長楽宮へ入り、何太后に宦官の全面処刑を求めた。
張譲・段珪らはその会話を盗み聞きし、自分たちが殺されようとしていることを知った。
そこで武器を持って宮中に潜伏し、皇太后の命令と偽って何進を呼び戻した。
張譲らは何進に対し、天下が乱れた責任をすべて宦官へ押しつけるのかと詰め寄った。
さらに何太后がかつて霊帝から廃されそうになった際、
自分たちが財物を出して救ったことまで持ち出して何進を非難した。
その後、尚方監渠穆が何進を斬った。
何進の首は宮外へ投げ出され、「何進は謀反したため処刑された」と告げられた。
袁紹らによる宦官虐殺
何進が殺されたことを知った袁紹・袁術や何進の部下たちは宮中を攻撃した。
袁術は南宮の門へ火を放ち、袁紹らは宦官を見つけ次第殺害した。
『後漢書』によれば、宦官は老若を問わず殺され、
髭がないため宦官と誤認された男性が衣服を脱いで自分が宦官ではないことを証明する例まであった。
死者は二千人余りに達したとされる。
趙忠もこの混乱の中で袁紹の兵に殺された。
霊帝から張譲と並んで特別な寵愛を受けた宦官の一人だったが、霊帝の死から数か月で命を落とした。
少帝と劉協を連れて逃亡する
張譲・段珪ら数十人は、少帝劉辯と陳留王劉協を連れて宮中を脱出した。
宦官たちは夜のうちに洛陽を離れ、小平津方面へ逃走したが、
尚書盧植や河南中部掾閔貢らが追跡した。
追手が迫ると張譲は少帝に向かい、
自分たちが滅びれば天下は乱れるだろうという趣旨の言葉を残し、叩頭して別れを告げた。
そして張譲らは黄河へ身を投げて死亡した。
段珪らの最期については史料の記述に異同があるため、
十常侍全員が張譲と同じ場所で一斉に入水したと考える必要はない。
重要なのは、何進暗殺への報復によって宮中の宦官勢力がほぼ壊滅したことである。
少帝と劉協はその後、洛陽へ戻る途中で董卓の軍と遭遇した。
十常侍の死後と董卓の台頭
宦官勢力が壊滅したことで、後漢朝廷から長年皇帝の側近として機能してきた勢力が一挙に消えた。
しかし、それによって政治が安定したわけではなかった。
何進もすでに死亡し、何苗も政変の中で殺された。
何氏外戚と宦官という二つの宮廷勢力がほぼ同時に崩壊したところへ、
何進自身が洛陽へ呼び寄せていた董卓が軍を率いて現れた。
董卓は洛陽の兵力を掌握すると少帝を廃し、劉協を献帝として即位させ、何太后も殺害した。
十常侍が後漢を直接「滅ぼした」とするのは正確ではない。
後漢王朝そのものは189年以後も献帝のもとで存続し、正式に滅亡するのは220年である。
一方で、張譲・趙忠らとその一族による収奪、官職をめぐる金銭関係、
反対者への弾圧が霊帝期の政治不信を深めたことは、『後漢書』が繰り返し記している。
さらに何進側が宦官の全面排除を図り、
宦官側が何進を殺害したことで中央政府の権力構造が一挙に崩れ、
董卓が軍事力で朝廷を掌握する余地が生まれた。
その意味では、十常侍は「後漢を滅ぼした十人」ではなく、
霊帝期の宮廷政治と189年の政変を理解するうえで中心となる宦官勢力だったと位置づける方がよい。
『三国志演義』の十常侍
『三国志演義』では十常侍が後漢末の腐敗を象徴する集団として強調され、
張譲・趙忠・封諝・段珪・曹節・侯覧・蹇碩・程曠・夏惲・郭勝の十人が挙げられる。
しかし、この名簿をそのまま正史上の「十常侍」と考えることはできない。
曹節は181年、侯覧は172年にすでに死亡しており、189年の何進暗殺に参加していない。
蹇碩も何進暗殺以前に何進によって処刑されている。
封諝は黄巾との内通が発覚して処刑された人物であり、
『後漢書』が張譲・趙忠とともに列挙する12人とも一致しない。
正史と『三国志演義』では、「十常侍」という言葉が指す人物像を分けて考える必要がある。
十常侍の評価
『後漢書』は張譲・趙忠らに極めて厳しい評価を与えている。
本人だけでなく父兄・子弟まで州郡へ進出して貪欲な行為を重ねたこと、
賄賂によって官職が左右されたこと、宮殿造営や地方からの徴収を利用して利益を得たことなど、
具体的な記録も少なくない。
ただし、後漢末の政治的混乱を「十常侍という悪人集団が国家を破壊した」
という構図だけで説明すると、外戚・皇帝・士人・地方軍の動きが見えなくなる。
霊帝自身が張譲・趙忠を強く信任し、財貨を蓄える政策を進め、
何進と袁紹も宦官排除のために外部の軍隊を洛陽へ招いた。
また、宦官のすべてが同一の政治姿勢だったわけでもない。
黄巾の乱の際に改革を訴えた呂強のような宦官もおり、
蹇碩と郭勝の対立からもわかるように、宮中の宦官は常に一枚岩だったわけではない。
十常侍を理解する際に重要なのは、固定された「十人の悪党」として扱うのではなく、
皇帝の側近という立場から人事・財政・宮廷政治へ強い影響力を及ぼした
霊帝期の宦官勢力として捉えることである。
↓↓霊帝の信任を受け、たびたび諫言した呂強についての個別記事は、こちら

まとめ
「十常侍」という名称は有名だが、正史に固定された十人の組織が存在したわけではない。
『後漢書』が実際に描いているのは、張譲・趙忠を中心として皇帝の側近に集まり、
本人だけでなく親族や賓客まで官界へ進出させた宦官勢力である。
彼らの権力を支えたのは霊帝の信任であり、そのため霊帝が死ぬと何進との対立が急速に表面化した。
189年の政変によって何進と宦官勢力が相次いで消滅した結果、
勝者が朝廷を安定させるのではなく、洛陽へ進軍してきた董卓が実権を握った。
十常侍の問題は宦官個人の腐敗だけではなく、皇帝の私的な側近が人事や財政へ介入し、
外戚や官僚との対立を軍事力で決着させるまでになった後漢末の政治構造そのものにあった。
史書・参考文献
・范曄『後漢書』巻78「宦者列伝」
・范曄『後漢書』巻69「竇武伝」「何進伝」
・范曄『後漢書』巻67「党錮列伝」
・范曄『後漢書』巻71「朱儁伝」
・司馬光『資治通鑑』巻56・57・58・59
・陳寿『三国志』魏書巻1「武帝紀」裴松之注
・羅貫中『三国志演義』
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