【後漢】侯覧|巨万の賄賂と張倹弾圧で知られる宦官

後漢の宦官 侯覧 037.宦官

侯覧(こうらん、生年不詳~172年)は、後漢の桓帝・霊帝期に権勢を振るった宦官である。
山陽郡防東県の出身で、桓帝の初めに中常侍となった。

『後漢書』は侯覧について、権勢を背景に放縦に振る舞い、
受け取った贈賄が「巨万」に達したと記している。

莫大な財産だけが侯覧の特徴ではない。
同僚の段珪とともに土地を所有し、その僕従や賓客が民衆や旅人を侵害したほか、
兄の侯参も益州刺史として富裕者を大逆罪に陥れ、財産を没収した。

さらに地元の督郵・張倹に不正を追及されると、逆に張倹を「党人」として告発する動きに関与し、
建寧2年(169)の大規模な党人弾圧につながっている。

一方、侯覧の経歴には一度失脚しても短期間で復職した記録があり、
桓帝から霊帝初期にかけて宮廷で強い影響力を維持していたことがわかる。
最終的には熹平元年(172)、専権と奢侈を告発されて印綬を没収され、自殺した。

侯覧の出自と桓帝時代の台頭

侯覧は山陽郡防東県の人である。
生年や家族の詳しい出自、宦官となった時期については史料に記録がない。

『後漢書』「宦者列伝」によれば、桓帝の初めにはすでに中常侍となっていた
中常侍は皇帝の身近に仕える高位の宦官職で、
後漢では皇帝への近さを背景として政治や人事にも影響を及ぼす者が現れていた。

侯覧について『後漢書』は「佞猾を以て進む」と評し、
権勢を頼んで貪欲かつ放縦に振る舞い、受け取った財物は巨万に達したと記している。

ただし具体的な総額は示されていない。

五千匹の絹を献上して関内侯となる

延熹年間(158~167)、後漢では羌との戦争などが続き、国家財政は著しく悪化していた。
朝廷は百官の俸禄や王侯の租税を一時的に借り上げるほど資金に窮した。

このとき侯覧は絹五千匹を朝廷へ献上し、関内侯に封じられた。

さらに大将軍梁冀が延熹2年(159)に粛清された後、
侯覧は梁冀誅殺の議に関与した功績を名目として高郷侯へ進んだ。

梁冀排除そのものを中心となって実行したのは単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡らであり、
侯覧を彼らと同じ主導者として扱うことはできないが、
政変後の恩賞に加わったことは『後漢書』に記されている。

段珪との土地経営と兄・侯参の収奪

侯覧は宮廷で財産を蓄えるだけでなく、
同じ宦官の小黄門・段珪とともに地方にも田地を所有していた。

段珪の家は済陰郡にあり、侯覧もその周辺に土地を置いていた。
その田業は済北国との境界に近く、侯覧・段珪の僕従や賓客は周辺の民衆を侵害し、
街道を行く旅人まで襲っていたという

済北相・滕延が侯覧の配下を処刑する

済北相の滕延は、侯覧・段珪の僕従や賓客による犯罪を取り締まった。
関係者を一斉に捕らえ、数十人を処刑して遺体を街道にさらしたという。

これに侯覧と段珪は激怒し、滕延を桓帝へ訴えた。
その結果、滕延は無辜の者まで多数殺害した罪を問われて廷尉へ召還され、官職を免ぜられた。

滕延は後に京兆尹となり、統治能力を評価されて「長者」と称された人物だが、
侯覧らの勢力に対する取り締まりでは失脚することになった。
『後漢書』は、滕延を退けることに成功すると侯覧らがさらに放縦になったと記している。

兄・侯参が富裕者を大逆罪に陥れる

侯覧の兄・侯参は益州刺史となった。
『後漢書』によれば、
侯参は財産を持つ者を見つけると大逆罪を犯したと偽って処刑し、その財産を没収した。
前後して集めた財物は「累億」、すなわち億を重ねるほどの額に達したと記されている。

侯参の行為を問題視した太尉の楊秉が上奏すると、
侯参は檻車に乗せられて都へ召還されることになった。
しかし侯参は洛陽へ到着する前に自殺した。

京兆尹の袁逢が途中の宿舎で侯参の荷物を調べると、
車は三百両余りに及び、金銀・絹布・珍宝が数え切れないほど積まれていたという。

侯覧も兄の不正に関連して免官された。
しかし失脚は長く続かなかった。
『後漢書』は「旋復復官」と記しており、侯覧はまもなく再び官職へ戻っている。

兄が大量の財物を集めた事件に連座しながら短期間で復帰できたことからも、
当時の侯覧が宮廷でなお強い影響力を持っていたことがわかる。

張倹による告発と侯覧の豪邸・墓

侯覧の生涯で最も重要な対立相手となったのが、山陽郡の官人・張倹である。
この対立については『後漢書』「宦者列伝」と「党錮列伝」で記述の置き方に違いがある。

「張倹伝」では延熹8年(165)、山陽太守翟超に東部督郵として起用された張倹が、
すでに侯覧とその母の罪を告発したとする。

一方、「侯覧伝」では建寧2年(169)、侯覧が母の死によって帰郷し、
大規模な墓を築いた際の告発を詳しく記している。

したがって両者の対立は169年に突然始まったのではなく、
少なくとも桓帝時代から続いていたとみられる。

381軒の家と118頃の田地を奪う

建寧2年(169)、侯覧の母が死去すると、侯覧は故郷へ戻って大規模な墓を築いた。

張倹はこの機会に侯覧の行状を調べ、その罪を列挙して告発した。
そこには、これまでに民家381軒と田地118頃を奪ったこと、
邸宅を16か所も建てたことが記されていた。
各邸宅には高楼・池・庭園があり、堂や楼閣が連なり、彩色や朱漆で飾られ、
その規模は宮殿に似るほどだったという。

侯覧は生前から自分の墓である「寿冢」も造っていた。
石槨を備え、二つの闕を設け、長い廊屋を築いたうえ、
その建設のために他人の家を壊し、既存の墓を掘り返したとされる。
さらに張倹の告発には、良民を捕らえたり、女性や子供を奪ったりしたことまで含まれていた。

告発文を皇帝へ届かせない

張倹は侯覧の処刑を求める上奏を行った。
ところが侯覧は途中で上奏文が皇帝のもとへ届かないよう妨害し、張倹の告発は握り潰された。

そこで張倹は侯覧の邸宅と墓を破壊し、その財産を没収したうえで、
改めて罪状を詳細に記して上奏した。
さらに侯覧の母についても、生前に多くの賓客と交際して郡国の行政へ干渉していたとして告発した。

この上奏も皇帝のもとには届かなかった。

侯覧自身だけでなく、その母や賓客までが地方政治へ影響を及ぼしていたと記録されている点は、
後漢における有力宦官の権力が本人の官職だけに限定されていなかったことを示している。

張倹への報復と第二次党錮の禁

張倹による追及を受けた侯覧は、今度は張倹を政治的に排除する側へ回った。

張倹と同郷の朱並は以前から張倹に嫌われており、
侯覧の意向を受けて、張倹と同郡の二十四人が互いに称号をつけて「党」を組織し、
国家を危うくしようとしていると上書した。

張倹らは「八俊」「八顧」「八及」などと呼ばれる集団を作り、
石を立てて盟約を結び、張倹を首領としているという内容だった。

霊帝は張倹らの逮捕を命じた。

張倹の逃亡

張倹は逮捕を逃れて各地を転々とした。

その名声はすでに広く知られていたため、張倹が突然門前に現れると、
人々は自分や一族が処罰される危険を承知で彼をかくまった。
張倹を助けたため重罪に処せられた家は十数家に及び、
宗族まで滅ぼされた者もいたと『後漢書』は記している。

やがて張倹は東萊へ逃れ、李篤の家に身を寄せた。
外黄令の毛欽が兵を率いて捕らえに来たが、
李篤は「張倹が天下に名を知られながら、罪もなく逃亡していることを知っていて捕らえるのか」
と問いかけた。
毛欽もその言葉を受け入れ、張倹を逮捕せず立ち去ったという。

張倹は最終的に塞外へ逃れ、侯覧の存命中に捕らえられることはなかった。

李膺・杜密らへ弾圧が拡大する

侯覧と張倹の私的な対立は、それだけでは終わらなかった。

大長秋の曹節は張倹事件を利用し、
かつて党人として処分された人物を改めて追及するよう官吏へ働きかけた。
李膺・杜密・范滂・翟超ら百人余りが逮捕され、その多くが獄中で死亡した。

その後も地方では、個人的な恨みを持つ相手を「党人」として告発する例が相次ぎ、
死刑・流刑・禁錮などの処分を受けた者は六、七百人に及んだ。

したがって、第二次党錮の禁を侯覧一人が引き起こしたとするのは正確ではない。
侯覧の張倹への報復が大規模弾圧の直接の契機の一つとなり、
それを曹節らが以前からの党人へ拡大させたと見る方が史料の経過に合う。

↓↓桓帝・霊帝に仕えた宦官曹節についての個別記事は、こちら

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曹節に代わって長楽太僕を領する

張倹らへの弾圧が進んだ後、侯覧は曹節に代わって長楽太僕を領した。

長楽宮は皇太后の宮殿であり、侯覧は単に財産を蓄えた地方出身の宦官ではなく、
霊帝初期の宮廷でも高い官職を占めていた。

専権を告発され自殺する

熹平元年(172)、侯覧の権勢は突然終わった。

官吏が侯覧について「専権驕奢」、すなわち権力を独占して驕り、奢侈を重ねていると上奏した。
霊帝は詔を下して侯覧の印綬を没収した。

侯覧は自殺した。
その後、侯覧の一派とみなされた者も官職を免ぜられた。
兄の侯参の事件では一度免官されながら復職した侯覧だったが、
今度は宮廷へ戻ることなく生涯を終えた。

朱雀闕に残された侯覧への批判

同じ熹平元年、竇太后が死去した頃、
洛陽の朱雀闕に何者かが朝廷を批判する文章を書いた事件が起きている。

そこには、天下が大乱していること、曹節と王甫が竇太后を幽閉して死なせたことに続き、
「常侍侯覧は多くの党人を殺した」と記されていた。

誰がこの文章を書いたのかはわからない。
司隷校尉劉猛は書かれた内容が正しいと考えて犯人捜索に積極的ではなく、そのため左遷された。
後任の段熲が厳しく捜査すると、太学の学生まで含む千人余りが拘束された。

侯覧の死と同じ年にその名が党人弾圧の責任者として公然と書き残されたことは、
当時の洛陽で侯覧がどのように見られていたかを伝える史料でもある。

侯覧の死後と張倹

侯覧が172年に死亡しても、張倹に対する党人としての追及が直ちに取り消されたわけではない。
張倹は長期間にわたって逃亡を続けた。

転機となったのは中平元年(184)の黄巾の乱である。
朝廷は反乱への対応を迫られ、中常侍の呂強らの進言もあって党錮の禁を解除した
張倹はようやく故郷へ戻ることができた。

その後、大将軍や三公から招聘され、少府への任官も命じられたが、いずれも辞退した。
献帝初年に飢饉が起きた際には自らの財産を使って郷里の人々を救い、
数百人がその援助によって生き延びたと『後漢書』は伝えている。

侯覧自身については、死後に追贈された、名誉を回復された、
あるいは家族が再び大きな権力を得たとする記録は残されていない。

↓↓霊帝期に繰り返し諫言した宦官呂強についての個別記事は、こちら

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侯覧の人物像と評価

侯覧については、『後漢書』に具体的な財産・土地・邸宅の数字が残されているため、
後漢の有力宦官の中でも富と奢侈の印象が特に強い。

しかし、単なる「大富豪宦官」として扱うだけでは不十分である。
侯覧は桓帝のもとで中常侍となり、梁冀粛清後には侯爵へ進み、一度失脚しても復職した。
さらに霊帝期には張倹への報復から党人弾圧へ関与し、長楽太僕を領するまでになっている。

一方、侯覧に関する記録の大部分は『後漢書』「宦者列伝」と「党錮列伝」によるもので、
いずれも侯覧の収奪や権勢を批判する立場から書かれている。

それでも、381軒の家屋、118頃の田地、16か所の邸宅、兄侯参の三百両余りの荷車など、
具体的な数字を伴う告発が残されていることから、
その一族が非常に大きな財産と地方への影響力を持っていたこと自体は軽視できない。

侯覧の生涯で特に重要なのは、その財産形成と政治的権力が切り離せなかったことである。
皇帝側近の中常侍という地位を背景に財物を集め、その親族や賓客が地方へ勢力を広げ、
それを摘発しようとした地方官を逆に失脚させることができた。

侯覧と張倹の対立は、
こうした宦官権力と地方官・士人の対立が党錮の禁へ結びついていく具体的な事例となっている。

まとめ

侯覧の名を特徴づけているのは莫大な財産だが、
史料から見える問題は富そのものより、その形成と維持に宮廷での権力が深く関わっていた点にある。

兄の侯参が富裕者を大逆罪に陥れて財産を没収し、侯覧と段珪の配下が地方で住民や旅人を侵害し、
侯覧自身も多数の家屋や田地を奪ったと告発された。
さらに張倹から追及されると、今度は党人告発を利用して政敵を排除する側に回っている。

最終的にはその権勢を支えきれず、172年に印綬を没収されて自殺した。
侯覧の生涯は、桓帝・霊帝期に皇帝側近の宦官、その家族、賓客が
中央政治と地方社会の双方へ影響を及ぼしていた実態を示す事例の一つである。

史書・参考文献

・『後漢書』巻78「宦者列伝(侯覧伝)」
・『後漢書』巻67「党錮列伝(張倹伝)」
・『後漢書』巻54「楊震列伝(楊秉伝)」
・司馬光『資治通鑑』巻55・56

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