司馬遷(しばせん、生没年不詳)は、前漢の武帝時代に活動した歴史家であり、
父・司馬談の遺志を継いで『史記』を完成させた人物である。
『史記』は黄帝から前漢武帝の時代までを扱い、
帝王だけでなく諸侯、将軍、思想家、刺客、遊侠、商人など多様な人々を記録した紀伝体の歴史書で、
後世の中国における正史編纂にも大きな影響を与えた。
司馬遷自身の生涯については、『史記』巻130「太史公自序」と『漢書』巻62「司馬遷伝」、
さらに自身が任安へ送った「報任安書」に詳しい。
若い頃には中国各地を巡り、郎中となって西南地方へ使者として派遣され、
父の死後に太史令を継いだ。
暦法の改定に携わりながら史書の編纂を進めたが、
李陵を弁護したことで武帝の怒りを買って投獄され、宮刑を受ける。
その後は中書令として宮廷に復帰し、屈辱を抱えながら父から託された史書を完成へ導いた。
司馬氏の家系と青年期
司馬談の子として龍門に生まれる
司馬遷は龍門に生まれた。
『太史公自序』には「遷は龍門に生まれ、河山の陽に耕牧す」とあり、
若い頃には黄河と山々に囲まれた土地で農耕や牧畜にも携わったことが記されている。
生年について正史に明記はなく、紀元前145年説と紀元前135年説があるため、
確定した生年として扱うことはできない。
父の司馬談は武帝に仕えた太史令で、天文・暦法・祭祀などを担当するとともに、
歴史の記録にも携わった人物だった。
司馬談自身も唐都から天官を学び、楊何から『易』を受け、
黄子から道家の学説を学んだと『太史公自序』に記されている。
司馬遷が記した系譜によれば、
司馬氏の祖先は古くから天文や歴史記録を担当し、周代には史官を世襲したとされる。
その後、一族は衛・趙・秦などへ分かれ、秦に移った系統からは司馬錯が出て蜀を攻略し、
その子孫には白起に従って長平の戦いに参加した司馬靳、秦代に鉄官を務めた司馬昌らがいたという。
ただし、『太史公自序』が司馬氏の系譜を堯・舜の時代にまで遡らせている部分には
伝承的な要素が含まれる。
司馬遷自身にとって重要だったのは、
自らの家が古くから天文と歴史記録を担ってきたという認識であり、
それは後に父の遺志を継いで歴史を書く意識とも結びついていた。
↓↓祖先の一人・司馬錯についての個別記事は、こちら

十歳で古文を誦し、孔安国らから学ぶ
『太史公自序』によれば、司馬遷は十歳になると「古文」を誦することができた。
ここでいう古文を単純に『尚書』だけに限定する必要はなく、
古い文字で書かれた文献を学んでいたことを示す記述とみられる。
後世の『漢書』儒林伝には、孔安国が古文『尚書』を伝え、
司馬遷も孔安国からその古義について教えを受けたことが記されている。
また司馬遷は董仲舒から『春秋』を学んだと伝えられ、
後の『史記』にも儒家の歴史観から影響を受けた部分が見られる。
↓↓儒教を国家の根本理念へ押し上げた董仲舒についての個別記事はこちら

二十歳頃、中国各地を巡る
二十歳になると、司馬遷は大規模な旅行に出た。
『太史公自序』はその行程をかなり具体的に記している。
まず南へ向かって長江・淮河流域を巡り、会稽山へ登って伝説上の禹にまつわる禹穴を訪ね、
九疑山を望み、沅水・湘水を下った。
そこから北へ向かって汶水・泗水を渡り、斉・魯の地で学び、孔子の遺風を訪ねた。
鄒・嶧にも赴き、鄱・薛・彭城を経て、梁・楚を通って帰還した。
これは単なる遊覧ではなく、司馬遷が後に記述する古代の聖王、諸侯、孔子、戦国・楚漢の人物たちと
関係する土地を実際に歩いた経験だった。
『史記』には各地の地理や風俗、旧跡、現地に残っていた伝承を踏まえた記述があり、
この壮遊は司馬遷の歴史叙述を形作った経験の一つとなった。
郎中として武帝に仕え、父の遺志を継ぐ
郎中となり西南地方へ派遣される
各地への旅行から戻った司馬遷は、郎中として武帝に仕えた。
郎中は皇帝の近くに仕え、宿衛や使者などを務める官職である。
司馬遷は武帝の命を受けて西へ向かい、巴・蜀より南へ進んで邛・笮・昆明などの地域を巡り、
任務を終えて朝廷へ戻った。
武帝が西南方面への進出を進めていた時期であり、
司馬遷自身も中央の書物だけでなく、帝国周辺部の地理や人々を直接見る機会を得ている。
『史記』西南夷列伝などに見られる西南地域への関心を考えるうえでも、
この使者としての経験は無視できない。
父・司馬談から歴史編纂を託される
司馬遷が西南への使者から戻った頃、武帝は泰山で封禅を行うため東方へ向かっていた。
父の司馬談は太史令でありながら封禅に随行できず、周南に滞在したまま病に倒れた。
帰還した司馬遷は河洛の間で父と再会した。
『太史公自序』によれば、司馬談は息子の手を握って涙を流し、
自分たちの祖先はかつて周王室の太史を務めていたこと、
漢が天下を統一して以来、多くの明君・賢臣・忠臣・義士が現れたにもかかわらず、
自分はそれを歴史としてまとめられなかったことを語った。
そして自分の死後に司馬遷が太史となったなら、
自分が書こうとしていたものを忘れてはならないと遺言した。
司馬遷は涙を流しながら、父が整理してきた旧聞をすべて論述し、
欠けることのないようにすると答えた。
「父の遺志を継いで『史記』を完成させた」という点は、この父子のやり取りに直接基づいている。
ただし司馬談がすでにどこまで史書を執筆していたのか、
現在の『史記』のどの部分が父に由来するのかについては議論があり、
単純に「司馬談が書き始め、司馬遷が続きを書いた」と区分できるわけではない。
太史令となり史書編纂を進める
司馬談が死去してから三年後、司馬遷は父の後を継いで太史令となった。
太史令は歴史を書くことだけを専門とする官職ではなく、
天文観測、暦法、国家祭祀に関係する記録なども担当した。
司馬遷はこの職に就いたことで、朝廷に保管されていた「石室金匱の書」、
すなわち国家の文書や記録を閲覧できる立場となり、それらを整理しながら史書編纂の準備を進めた。
父の死から五年後にあたる太初元年(前104)には、武帝のもとで暦法改定が行われた。
司馬遷もこの事業に参加し、鄧平・唐都らとともに新しい暦の制定に関わった。
これが太初暦であり、暦の改定は武帝が元号・暦・祭祀などを整え、
新しい王朝秩序を示す事業の一部でもあった。
『太史公自序』によれば、司馬遷はこの頃から父が残した史料と朝廷所蔵の記録を整理し、
本格的に歴史書の編纂を進めていった。
李陵事件と宮刑
李陵の戦いぶりを弁護する
天漢2年(前99)、武帝は李広利を匈奴討伐へ派遣した。
李陵も歩兵五千を率いて出征し、匈奴の単于が率いる大軍と戦った。
李陵軍は孤立した状態で匈奴軍と十日余りにわたって戦い、多数の敵を倒したものの、
援軍を得られないまま矢も尽き、最終的に敗北した。
李陵が匈奴に降伏したという知らせが届くと、武帝は激怒し、朝廷でも李陵を非難する声が強まった。
『報任安書』によれば、司馬遷は武帝から意見を求められた際、
李陵は普段から士卒と苦楽をともにして人望を得ており、
五千に満たない歩兵で匈奴の大軍と戦って大きな損害を与えたことを述べた。
また李陵が生きて降伏したとしても、
機会を得て漢に報いようという意図があるのではないかと考え、その戦功を評価した。
司馬遷の意図は、李陵の降伏そのものを正当化することではなく、
敗北という結果だけでそれまでの奮戦を否定するべきではないというものだった。
しかし武帝は、司馬遷が李陵を弁護することで主将だった李広利を非難していると受け取り、
司馬遷を獄に下した。
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死刑に相当する罪に問われる
司馬遷は李陵を弁護したことで「誣上」、すなわち皇帝を欺いた罪に問われ、
死刑に相当する処罰を受けることになった。
『報任安書』で司馬遷自身が語るところによれば、当時は財貨によって罪を贖う制度があったが、
司馬遷の家は貧しく、自らを贖うための財産を用意できなかった。
友人たちからの救援もなく、皇帝の側近から弁護する者も現れなかった。
その結果、司馬遷は獄中に置かれ、最終的に宮刑、すなわち腐刑を受けた。
宮刑は男性の生殖能力を奪う肉体刑であるだけでなく、
当時の士人にとって極めて強い社会的屈辱を伴う刑罰だった。
司馬遷自身も『報任安書』で、
先祖を辱めることの中でも宮刑以上の恥辱はないという趣旨を記している。
したがって、司馬遷が受けた苦痛を「家系の断絶」とだけ説明するより、
身体を損なわれたこと、先祖や家名を辱めたという意識、
そして刑余の人として社会から蔑視されたことを含めて理解する必要がある。
宮刑を受けても史書編纂を捨てなかった
『太史公自序』では、李陵事件によって獄に繋がれた司馬遷が、
「身体を損なわれ、もはや用いられることもない」と嘆いたことが記されている。
しかし司馬遷は、
過去にも困難や屈辱のなかから後世に残る著作を完成させた人物がいたことを思い起こした。
文王は羑里に囚われて『周易』を演じ、
孔子は陳・蔡で困窮して『春秋』を作り、
屈原は追放されて『離騒』を書き、
左丘明は失明して『国語』を残し、
孫臏は脚を切られながら兵法を論じ、
呂不韋は蜀へ移されて『呂氏春秋』を伝え、
韓非は秦に囚われながら「説難」「孤憤」を著したと考えた。
司馬遷は、こうした人々が胸中に鬱積した思いを抱え、それを後世へ伝えるために著述したと捉え、
自らも歴史書の編纂を続けた。
この「発憤著書」の意識は、宮刑を受けて初めて『史記』を書き始めたことを意味するものではない。
史書の編纂は李陵事件以前から進められており、宮刑はその途中で起きた事件だった。
司馬遷は屈辱によって執筆を断念するのではなく、
それまで続けてきた著述を完成させることに自らの生の意味を見いだしたのである。
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宮刑後の中書令と『報任安書』
中書令として宮廷へ復帰する
宮刑を受けた後、司馬遷は中書令となった。
『漢書』司馬遷伝は、刑を受けた後に中書令となり、
武帝から尊寵されて職務を任されたことを記している。
中書令は宮中で皇帝の文書や奏事に関わる官職であり、司馬遷は処刑されることなく宮廷へ戻った。
しかし、それはかつての名誉を取り戻したことを意味しなかった。
宮刑を受けた者が宮中の機密に関わる職に就いたことで、
司馬遷は自らを「刑余の人」として強く意識することになった。
『報任安書』には、身体を損なわれた自分がどれほど才能や徳を持っていたとしても、
もはや名誉を得ることはできず、かえって人々の嘲笑を招くだけだという苦悩が率直に記されている。
任安への手紙で宮刑後の心情を明かす
司馬遷の内面を知るうえで重要なのが「報任安書」である。
これは友人の任安から、賢人を推挙するよう求める手紙を受けた司馬遷が、
その依頼に応じることのできない事情を説明した書簡で、『漢書』司馬遷伝にも収録されている。
司馬遷はその中で李陵事件を詳しく振り返り、自分が李陵を弁護した意図、武帝から誤解された経緯、
獄中で救援する者がいなかったこと、宮刑によって受けた屈辱を語っている。
同時に、自分がなぜ死を選ばず生き続けたのかについても述べた。
司馬遷にとって、単に死ぬこと自体が難しかったわけではない。
何も成し遂げないまま死ねば、自分の死は「九牛の一毛」のように軽く扱われ、
世間から罪人が死んだだけと思われるにすぎないと考えていた。
それよりも、父から託され、自ら長年取り組んできた著述を完成させないまま終わることを恐れた。
そのため司馬遷は、古今の変化を明らかにし、一家の言を成すことを目指して史書を書き続けた。
『史記』の完成と歴史叙述
本紀・表・書・世家・列伝からなる130篇
司馬遷がまとめた『史記』は、
本紀12篇、表10篇、書8篇、世家30篇、列伝70篇の合計130篇からなる。
『太史公自序』は総字数を52万6500字と記している。
本紀は帝王を中心として時代の推移を記し、表は複数の国や人物の出来事を年代ごとに整理し、
書は礼・楽・暦・天官・河渠・経済など制度や社会の重要分野を扱った。
世家は主として諸侯や重要な家系を、列伝は個々の人物や特定の集団・周辺諸国などを記録する。
この五つの形式を組み合わせることで、
一人の皇帝を中心に歴史を並べるだけでは捉えられない
政治・社会・人物の動きを複数の角度から記述した。
後世にはこの形式が「紀伝体」と呼ばれ、班固の『漢書』をはじめ、
中国の正史編纂に大きな影響を与えることになった。
黄帝から武帝期までを一つの歴史として描く
『史記』は伝説的な黄帝の時代から司馬遷自身が生きた前漢武帝期までを対象とした。
『史記』を「中国最初の通史」と呼ぶことは一般的だが、
現代的な意味での通史と完全に同じものではない。
重要なのは、一王朝だけの歴史ではなく、
王朝の交替を越えて長い時間の流れを一つの体系として構成した点にある。
司馬遷自身は、自分の仕事について単に新しい歴史を「作る」のではなく、
過去の出来事を述べ、世に伝わる史料を整理するものだと説明している。
その一方で、130篇をまとめるにあたって「一家の言を成す」と述べており、
史料を並べるだけではなく、自らの判断によって歴史全体を構成しようとしたことも分かる。
帝王だけでなく多様な人間を記録する
『史記』の特徴の一つは、皇帝や諸侯だけを歴史の主体としなかったことである。
将軍、官僚、儒者、思想家だけでなく、
刺客、遊侠、商人、医者、占い師、滑稽な言動で知られた人物などにも独立した列伝を設けた。
項羽は皇帝にならなかったにもかかわらず「項羽本紀」に置かれ、
陳勝も「陳渉世家」として扱われている。
これは司馬遷が単純に「弱者や敗者に寄り添った」ことだけでは説明できない。
政治的な成功や正式な身分だけではなく、
その人物が歴史の流れにどのような役割を果たしたかを重視して
人物を配置した結果と見る方が適切である。
宮刑の経験は『史記』をどう変えたのか
司馬遷自身が大きな屈辱を経験したことと、
『史記』に敗者や不遇の人物が生々しく描かれていることを結びつけて論じることは多い。
しかし「宮刑を受けたため、弱者に寄り添う歴史を書くようになった」
と単純に因果関係を断定することはできない。
『史記』の編纂は李陵事件以前から始まっており、
その基本構想も父・司馬談の遺志と太史令としての活動の中ですでに形成されていた。
一方、『太史公自序』で司馬遷自身が、
屈原・左丘明・孫臏・韓非らの苦難と著述を自分の境遇に重ねていることは明らかである。
宮刑後の経験が、苦境に置かれながら言葉を後世へ残した人物に対する
司馬遷の意識をいっそう深めたと見ることはできる。
したがって、『史記』の人物描写を司馬遷自身の苦難だけから説明するのではなく、
若年期の壮遊、父から受け継いだ史官としての意識、朝廷所蔵史料の調査、
武帝期の政治を直接経験したこと、そして李陵事件と宮刑という複数の要素の中で捉える必要がある。
『史記』完成後の司馬遷と死
『史記』を後世へ残そうとする
『太史公自序』は、『史記』130篇、52万6500字をまとめ、
「名山に蔵し、副を京師に在き、後世の聖人君子を俟つ」という趣旨を記している。
『報任安書』でも司馬遷は、自らの著述について、
天と人との関係を究め、古今の変化を通じ、一家の言を成すことを目指したと述べている。
さらに、完成した書を名山に蔵し、理解してくれる人物へ伝えることができれば、
それまで受けた屈辱にも耐えることができるという強い意識を示した。
『史記』は単なる官命による王朝史ではなく、
司馬談から受け継いだ計画を司馬遷自身が完成させ、後世に残そうとした著作だった。
完成年と没年は確定していない
司馬遷の晩年については、青年期や李陵事件ほど詳しい記録が残っていない。
『史記』の完成を紀元前91年頃とする説は広く見られるが、
完成時期を一点に確定することには問題がある。
また司馬遷の没年も正史には明記されておらず、
「前91年頃に『史記』を完成させ、その後まもなく死亡した」と断定することはできない。
『漢書』司馬遷伝には、宮刑後に中書令となって職務を担ったことは記されるが、
その最期について具体的な記述はない。
さらに後世の衛宏『漢書旧儀』には、
司馬遷が『史記』の中で景帝や武帝の過失を厳しく記したため武帝の怒りを買い、
再び獄に下されて死亡したという説も伝わる。
しかし、これは司馬遷の死に関する後世の異説であり、確実な最期として採用することはできない。
司馬遷がいつ、どこで死去したのかは不明のままである。
歴史家としての司馬遷
司馬遷の最大の業績は、単に膨大な史料を集めたことではなく、
それらを本紀・表・書・世家・列伝という形式に再構成し、
黄帝から自らの時代までを一つの歴史として描いたことにある。
司馬遷は太史令として朝廷の記録を利用しただけではなく、若い頃に各地を歩いて旧跡や伝承に接し、
郎中として西南地方にも赴き、武帝の宮廷で同時代の政治を直接経験した。
父・司馬談から受け継いだ史書編纂の志に、
こうした自らの経験と調査を重ねたことが『史記』の基礎となった。
李陵事件と宮刑はその編纂途中で起きた。
司馬遷は肉体的・社会的な屈辱を受けながらも著述を放棄せず、
過去に苦難の中から著作を残した人々に自らを重ね、史書を後世へ伝えることを選んだ。
『史記』の紀伝体は後の正史の基本的な形式となり、
その文章は歴史書としてだけでなく文学作品としても長く読まれた。
後漢の班固は司馬遷の文章について、
事実を記すことに優れ、虚飾せず、善を称え悪を隠さない「実録」であると評価している。
一方で班固は司馬遷の思想、とりわけ道家を重んじ儒家の評価と一致しない部分については
批判も加えており、後世の評価が全面的な賛美だけだったわけではない。
「太史公」という呼称も司馬遷と『史記』を象徴する名称として定着し、
その著作は中国の歴史叙述のあり方に長く影響を与えた。
まとめ
司馬遷は、父・司馬談のもとで史官の家に連なる意識を受け継ぎ、
若い頃には中国各地を巡って各地の歴史や伝承に接した。
郎中として武帝に仕えて西南地方へ派遣された後、父の臨終に立ち会って歴史編纂の遺志を託され、
太史令を継いで朝廷の記録を調査しながら史書の編纂を進めた。
李陵事件では、その戦いぶりを弁護したことで武帝の怒りを買い、獄に下されて宮刑を受けた。
司馬遷はその屈辱を『報任安書』に率直に記しながら、
父から託された著述を途中で終わらせることを拒み、
本紀12篇・表10篇・書8篇・世家30篇・列伝70篇からなる『史記』130篇をまとめた。
晩年と没年には不明な点が残るが、『史記』が確立した紀伝体は後世の正史編纂に継承され、
中国における歴史叙述の基本的な形式の一つとなった。
お薦め商品
「史記」の全ストーリーを一冊に凝縮。
史書・参考文献
・司馬遷『史記』巻130「太史公自序」
・班固『漢書』巻62「司馬遷伝」
・班固『漢書』巻88「儒林伝」
・司馬遷「報任安書」(『漢書』巻62「司馬遷伝」所収)
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