清王朝の皇帝家系図と一覧|ヌルハチから溥儀まで

皇帝一覧・家系図
 

清:略家系図

清王朝皇帝一覧と家系図(ヌルハチから溥儀まで)
清王朝皇帝一覧と家系図

清(1636/1644–1912):皇帝一覧

廟号諡号名(諱) 生年-没年(没年齢)在位ー退位
(年齢) 
在位期間
太祖
(天命帝)
努爾哈赤ヌルハチ1559-1626
(67歳)
1616ー1626
(57歳)ー(67歳)    
10年
太宗 
(崇徳帝)
皇太極ホンタイジ1592-1643
(51歳)
1626ー1643
(34歳)ー(51歳)
17年
世祖 順治帝   福臨フリン1638-1661
(23歳)
1644ー1661
(6歳)ー(23歳)
17年
聖祖康熙帝玄燁げんよう1654-1722
(69歳)
1661ー1722
(7歳)ー(69歳)
61年
世宗雍正帝胤禛いんしん1678-1735
(57歳)
1722ー1735
(44歳)ー(57歳)
13年
高宗乾隆帝弘暦こうれき1711-1799
(88歳)
1735ー1796
(24歳)ー(85歳)
60年
(実質64年)   
仁宗嘉慶帝顒琰ぎょうえん1760-1820
(60歳)
1796ー1820
(36歳)ー(60歳)
24年
宣宗道光帝旻寧びんねい1782-1850
(68歳)
1820ー1850
(38歳)ー(68歳)
30年
文宗咸豊帝奕詝えきちょ1831-1861
(30歳)
1850ー1861
(19歳)ー(30歳)
11年
穆宗同治帝載淳さいじゅん1856-1875
(19歳)
1861ー1875
(5歳)ー(19歳)
14年
徳宗光緒帝載湉さいてん1871-1908
(37歳)
1875ー1908
(4歳)ー(37歳)
33年
宣統帝溥儀ふぎ1906-1967
(61歳)
1908ー1912
(2歳)ー(6歳)
4年

※補足(重要ポイント)

・清は1616年に後金として建国、1644年に北京入城で中国王朝として確立
・乾隆帝は1796年に退位したが、実権を保持(実質的在位は64年)。
・宣統帝(溥儀)は1912年に退位し、清は滅亡。後に満洲国皇帝となる。

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①太祖・ヌルハチ|後金を建国した清王朝の始祖

・ヌルハチ(1559~1626年)は女真族の建州女真出身。
 1583年に挙兵すると、建州女真の諸部を統合し、さらにハダ・ホイファ・ウラ・イェヘなど
 周辺の女真勢力を次々と服属させた。
・勢力拡大と並行して、軍事・社会組織として「八旗」を整備
 兵士とその家族を旗ごとに編成する軍事・行政組織で、
 のちの清王朝を支える統治体制の基礎となった。
 また、モンゴル文字をもとに女真語を表記する文字も作らせた。
・1616年、ヘトゥアラでハンを称して「後金」を建国し、年号を「天命」と定めた。
 これによってヌルハチは女真諸部を率いる有力者から、独立した国家の君主となった。
・1618年にはに対して「七大恨」を掲げて挙兵。
 翌1619年のサルフの戦いでは、分進してきた明軍を各個に撃破して大勝し、
 との力関係を大きく変えた。
・その後は遼東へ勢力を拡大し、1621年に遼陽・瀋陽などを攻略。
 1625年には瀋陽へ遷都し、後金は女真諸部を統合した政権から、
 領だった遼東を支配する国家へと成長した。
・1626年、さらに遼西へ進出して寧遠城を攻撃したが、袁崇煥ら軍の抵抗を受けて攻略に失敗した。
 連勝を重ねて勢力を拡大してきたヌルハチにとって、寧遠の戦いは大きな挫折となった。
・寧遠攻略から数か月後の1626年、ヌルハチは死去した。
 寧遠で負傷したとする記録もあるが、その傷が直接の死因だったかについては断定できない。
 享年68(数え年)。

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②太宗・ホンタイジ|「清」を名乗った皇帝

・ホンタイジ(1592~1643年)はヌルハチの第8子。
 1626年に父が死去すると後金のハンとなり、ヌルハチが築いた女真中心の国家を、
 漢人・モンゴル人も組み込んだ国家へと発展させた。
から投降した漢人官僚や武将を積極的に登用し、明の制度も取り入れて国家機構を整備した。
 また八旗にもモンゴル人や漢人を組み込み、満洲人だけに依存しない軍事体制を築いていった。
・モンゴル諸部への進出を進め、1635年にはチャハル部を服属させて元朝の皇帝に伝わったとされる
 玉璽を獲得した。同年、「女真」の民族名を「満洲(マンジュ)」へ改称した。
1636年には国号を後金から「大清」へ改め、皇帝に即位した。
 これによってヌルハチ以来の後金は清へと転換し、
 ホンタイジは満洲・モンゴル・漢人を支配する皇帝としての立場を明確にした。
に対しては長城方面からたびたび侵攻する一方、遼西の明軍への攻撃を続けた。
 1642年には松山・錦州方面で明軍を破り、洪承疇を降伏させるなど、
 山海関外におけるの防衛力を大きく弱体化させた。
・朝鮮にも圧力を強め、1636年に自ら軍を率いて侵攻した。
 翌1637年、朝鮮の仁祖を降伏させ、朝鮮に明との冊封関係を断たせて清へ服属させたことで、
 を東方から孤立させる体制を築いた。
・1643年、ホンタイジは盛京(瀋陽)で急死した。北京を占領してを滅ぼすことはできず、
 清軍が山海関を越えて北京へ入るのは翌1644年、順治帝の時代となる。

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③順治帝・福臨|北京に入った清最初の皇帝

・順治帝・福臨(1638~1661年)はホンタイジの第9子。
 父が1643年に急死すると、わずか6歳(数え年)で即位した。
 ただし幼少だったため、政権の実権は摂政となった叔父ドルゴンが握った。
・1644年、李自成の反乱軍によって北京が陥落し、崇禎帝が自害してが滅亡した。
 ドルゴンは将・呉三桂と結び、山海関の戦いで李自成軍を撃破。
 その後、順治帝を北京へ迎え、北京を清の首都とした
 清軍の北京進出を実際に指揮したのはドルゴンであり、当時6歳の順治帝ではない。
・北京入城後も、ドルゴンを中心とする清政権は南明や各地の反清勢力に対する征服戦争を進めた。
 1645年には南京を占領して南明の弘光政権を崩壊させ、清の支配を江南へ拡大した。
・同じ1645年、ドルゴン政権は剃髪令を発し、漢人男性に満洲人の習俗である辮髪を強制した。
 これに反発した江南各地で抵抗が起こり、揚州や嘉定などでは清軍による苛烈な鎮圧が行われた。
 これらは順治帝の治世中に起きた出来事ではあるが、幼少の順治帝が主導した政策ではなく、
 摂政ドルゴンのもとで行われた中国征服政策である。
・1650年にドルゴンが死去すると、ここから順治帝自身の親政が始まる。
 順治帝はドルゴンの称号や地位を剥奪してその勢力を排除し、
 摂政に集中していた政治権力を皇帝のもとへ取り戻した。
・親政を始めた順治帝は、漢人官僚の登用を進める一方、
 満洲人と漢人を併用する清の統治体制を整えていった。
 科挙も実施し、中国王朝の制度を利用しながら、
 征服した広大な地域を安定して統治する体制作りを進めた。
・ただし順治帝の親政期にも清の中国統一は完成していない。
 南明最後の永暦帝は西南地方で抵抗を続け、鄭成功も東南沿海で清に対抗していた。
 清がこれらの勢力を最終的に排除していくのは、順治帝の死後となる。
・私生活では董鄂妃を深く寵愛したことで知られる。董鄂妃は皇貴妃となったが1660年に死去し、
 順治帝も翌1661年に天然痘によって死去した。享年24(数え年)。

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④康熙帝・玄燁|清王朝の最盛期を築いた長期政権

・康熙帝・玄燁(1654~1722年)は順治帝の第3子。1661年、8歳(数え年)で即位した。
 当初はオボイら4人の輔政大臣が政治を担ったが、
 成長した康熙帝は1669年にオボイを拘束して実権を取り戻し、本格的な親政を開始した。
・1673年、呉三桂・尚可喜・耿精忠の三藩を廃止しようとしたことを契機に「三藩の乱」が勃発した。
 呉三桂らの勢力は中国南部の広い地域に及んだが、康熙帝は撤藩の方針を維持し、
 1681年までに反乱を鎮圧した。
・1683年には福建水師提督の施琅を台湾へ派遣し、
 鄭成功の子孫が支配していた鄭氏政権を降伏させた。
 台湾を清の統治下に組み込んだことで、滅亡後も続いていた有力な反清勢力の一つが消滅した。
・北方ではロシア帝国の進出と衝突し、1689年にネルチンスク条約を締結した。
 清とロシアの国境を定めるとともに、武力衝突をいったん収束させ、
 両国間の外交・通商関係を整える契機となった。
・モンゴル方面ではジュンガル部のガルダンと対立し、康熙帝自身も遠征を行った。
 1696年のジョーン・モドの戦いなどを経てガルダンの勢力を弱体化させ、
 外モンゴルのハルハ諸部に対する清の支配を強めた。
・晩年にはジュンガルがチベットへ進出したため清軍を派遣し、
 1720年にラサを占領してジュンガル勢力を排除した。
 これによって清はチベットへの政治的・軍事的関与を本格化させた。
・内政では黄河の治水や漕運の安定に取り組み、江南へたびたび南巡した。
 文化・学術事業にも力を入れ、『康熙字典』『古今図書集成』など大規模な編纂事業を進め、
 その治世は雍正帝・乾隆帝へ続く「康乾盛世」の出発点となった。
・一方、晩年には皇太子・胤礽を二度にわたって廃立し、
 その後継をめぐって皇子たちが争う「九子奪嫡」が激化した。
 長期政権の最後には皇位継承問題が大きな政治問題となった。
・1722年、康熙帝は69歳(数え年)で死去した。在位61年に及ぶ長期治世の後、
 第4皇子・胤禛が皇位を継承し、雍正帝として即位した。

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⑤雍正帝・胤禛|13年間で清の統治を引き締めた皇帝

・雍正帝・胤禛(1678~1735年)は康熙帝の第4子。
 康熙帝晩年の「九子奪嫡」と呼ばれる激しい後継者争いを経て、1722年に即位した。
 その即位をめぐっては後世さまざまな「遺詔改竄説」が生まれたが、
 皇位簒奪を裏付ける確実な証拠はない。
・即位後は皇帝への権力集中を進め、
 康熙帝晩年に緩みが生じていた官僚統制や地方財政の立て直しに取り組んだ。
 地方官に不足分を自費で補わせる慣行を改めるため「養廉銀」を導入し、
 官僚の待遇改善と汚職抑制を図った。
・税制では、康熙帝期から始まっていた人頭税を土地税へ組み込む「攤丁入畝」を各地へ拡大した。
 雍正帝が新たに考案した制度ではないが、その治世に広く実施されたことで、
 人頭税を個別に徴収する従来の仕組みが大きく改められた。
・西北のジュンガルとの戦争に対応するため、
 1729年ごろに軍事情報を迅速に処理する機関として軍機房を設け、これがのちの軍機処へ発展した。
 皇帝が少数の側近と直接重要政務を処理する仕組みが定着し、
 従来の官僚機構を経由するより迅速に意思決定できる体制が整えられた。
・地方統治では雲南・貴州・四川などで「改土帰流」を推進し、世襲の土司による支配を廃して、
 中央政府が任命する官僚による統治へ切り替えていった。
 これによって西南地域に対する清朝中央政府の直接支配が強化された。
・康熙帝晩年の皇位継承争いを繰り返さないため、雍正帝は後継者の名前を生前には公表しない
 「秘密建儲」を採用した。後継者を記した文書を乾清宮の「正大光明」額の裏に保管し、
 皇帝の死後に公開する方式で、皇太子をめぐる皇子や重臣の派閥形成を防ごうとした。
・雍正帝は自ら大量の奏摺に目を通して朱批を書き込み、地方官と直接情報をやり取りした。
 改革の実務そのものは田文鏡・李衛・鄂爾泰らの重臣や地方官が担ったが、
 彼らを登用して政策を監督し、最終的な判断を下したのは雍正帝だった。
・1735年、雍正帝は58歳(数え年)で死去し、秘密建儲によって後継者に定めていた
 第4子・弘暦が乾隆帝として即位した。
 在位13年と短かったが、財政・官僚統制・地方統治・皇帝直属の政務処理を強化し、
 乾隆帝が受け継ぐ清朝の統治体制を整えた。

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⑥乾隆帝・弘暦|清王朝最大版図の時代

・乾隆帝・弘暦(1711~1799年)は雍正帝の第4子。
 1735年に即位し、祖父・康熙帝以来の長期政権を築いた。
 雍正帝が強化した中央集権的な統治体制を引き継ぎ、
 清の国力が最盛期を迎えた時代の皇帝となった。
・西方ではジュンガルの内紛に介入し、
 乾隆帝の命令を受けた班第・兆恵らが1755年から遠征を開始した。
 アムルサナーの反乱を鎮圧してジュンガル勢力を壊滅させ、さらにホージャ兄弟の反乱も平定。
 1759年までに天山山脈の南北を支配下に置き、
 現在の新疆にあたる広大な地域を清の版図へ組み込んだ。
・チベットやモンゴルに対する統制も強化した。
 1791~92年にグルカ軍がチベットへ侵入すると、乾隆帝は福康安らを派遣して撃退し、
 その後チベットの統治制度を再編した。
 こうした内陸アジアへの進出によって、乾隆期には清の支配領域が最大規模に達した
・乾隆帝はジュンガル・回部、金川、台湾、ネパール、ミャンマー、ベトナムなどへの軍事行動を
 「十全武功」として自らの功績とした。ただし実際の遠征は各地の将軍が指揮しており、
 ミャンマーやベトナムへの遠征のように清軍が苦戦し、講和に終わったものも含まれている。
・文化事業では乾隆帝の命令によって『四庫全書』の編纂が進められ、
 紀昀ら多数の学者が実務を担った。
 一方、その過程では清朝に批判的と判断された書物の禁書・改変・廃棄も行われ、
 乾隆期には「文字の獄」と呼ばれる言論弾圧も相次いだ。
・治世後半には和珅を重用し、和珅は軍機大臣などの要職を兼ねて大きな権力を握った。
 官僚機構では汚職や規律の弛緩が問題となり、人口増加や軍事費の増大など、
 長期政権が抱える負担も大きくなっていった。
・1796年には白蓮教徒を中心とする大規模な反乱が始まり、清軍は鎮圧に苦戦した。
 反乱は乾隆帝の死後まで続き、多額の軍事費を必要としたため、
 乾隆期後半には最盛期の繁栄の裏で清朝の財政・統治上の問題が表面化していた。
・1796年、乾隆帝は祖父・康熙帝の在位61年を超えないため、
 在位60年で第15子・顒琰に譲位し、嘉慶帝を即位させた。
 しかし太上皇帝となった後も実権を保持し、和珅も引き続き権勢を振るった。
・1799年、乾隆帝は89歳(数え年)で死去した。
 その直後、嘉慶帝は和珅を失脚させて自殺を命じ、乾隆帝の長期政権は完全に終わった。

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⑦嘉慶帝・顒琰|繁栄の後始末に追われた皇帝

・嘉慶帝・顒琰(1760~1820年)は乾隆帝の第15子。1796年に父から譲位されて即位したが、
 乾隆帝は太上皇帝となった後も政治上の実権を保持し、重臣・和珅も権勢を維持していたため、
 嘉慶帝は当初、自ら政治を主導することができなかった。
・1799年に乾隆帝が死去すると、嘉慶帝は直ちに和珅を失脚させ、罪状を挙げて自害を命じた
 和珅の莫大な財産も没収し、乾隆帝晩年に強まった側近政治と官僚腐敗の是正に着手した。
・内政では官僚の綱紀粛正や財政再建を進め、地方官による不正や贈収賄の取り締まりを図った。
 しかし腐敗は官僚機構の広い範囲に及んでおり、和珅一人を排除しただけでは解決できず、
 乾隆帝の長期治世で蓄積した財政・行政上の問題への対応を迫られた。
・即位時にはすでに白蓮教徒を中心とする反乱が四川・湖北・陝西などへ拡大していた。
 嘉慶帝は清軍による鎮圧を続ける一方、地方の郷勇や団練も利用し、
 住民を堡寨へ集めて反乱勢力と切り離すなどの対策を進めた。
 反乱は1804年までにほぼ鎮圧されたが、長期戦によって多額の軍事費が費やされ、
 八旗・緑営の戦闘力低下も明らかになった
・1813年には天理教徒の一部が宦官の協力を得て北京の紫禁城へ侵入する事件が発生した。
 このとき嘉慶帝は北京を離れており、宮中にいた皇子・旻寧(のちの道光帝)が
 自ら武器を取って侵入者と戦った。皇帝の居城そのものが反乱勢力に襲撃された事件は、
 首都の警備や社会統制にも深刻な問題が生じていることを示した。
・対外的には南シナ海沿岸で海賊勢力が拡大し、清朝はその鎮圧にも追われた。
 張保仔らが率いる大規模な海賊勢力に対し、清軍による攻撃だけでなく投降を認める政策も用い、
 1810年ごろまでに主要な海賊勢力を解体した。
・1820年、嘉慶帝は熱河の避暑山荘で61歳(数え年)で急死し、
 第2子・旻寧が道光帝として即位した。
 嘉慶帝の治世は乾隆期から引き継いだ反乱・財政難・軍事力低下・官僚腐敗への対応に費やされ
 清朝が抱える構造的な問題が次第に表面化した時代となった。

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⑧道光帝・旻寧|アヘン戦争に敗れた皇帝

・道光帝・旻寧(1782~1850年)は嘉慶帝の第2子。
 皇子時代の1813年、天理教徒が紫禁城へ侵入した際には自ら銃を取って戦い、
 1820年に嘉慶帝が死去すると即位した。宮廷では倹約を徹底した皇帝として知られる。
・国内では乾隆・嘉慶期から続く財政難や官僚腐敗への対応を迫られた。
 新疆西部ではジャハーンギール・ホージャが反乱を起こしたため、道光帝は長齢らに鎮圧を命じ、
 1828年にジャハーンギールを捕らえた。しかし各地の軍事費や行政経費が財政を圧迫し、
 八旗・緑営を中心とする清朝の軍事体制にも問題が蓄積していた。
・対外問題では、イギリス商人などによって中国へ持ち込まれるアヘンの増加と、
 それにともなう銀の国外流出が深刻化
した。清朝内ではアヘンの合法化論と厳禁論が対立したが、
 道光帝は最終的に厳禁策を採用し、1838年に林則徐を欽差大臣として広州へ派遣した。
 林則徐は外国商人からアヘンを提出させ、1839年に虎門で大量のアヘンを処分した
・清とイギリスの対立が深まり、1840年にアヘン戦争が勃発した。
 イギリス艦隊が中国沿岸を攻撃すると、 道光帝は林則徐を解任し、
 琦善らにイギリスとの交渉を担当させた。
 しかし戦況の悪化にともなって強硬策と講和策の間で方針が揺れ、
 清軍は近代的な艦船や火砲を備えたイギリス軍に各地で敗北した。
・1842年、イギリス軍が長江を進んで南京に迫ると、道光帝は講和を認め、
 清側の耆英・伊里布らが交渉して南京条約を締結した。
 清は香港島の割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海の五港開港、賠償金の支払いなどを認め、
 その後の追加条約によって欧米諸国の権益がさらに拡大した。
・1850年、道光帝は69歳(数え年)で死去し、第4子・奕詝が咸豊帝として即位した。
 同年末には広西で太平天国へ発展する金田蜂起が起こり、
 次代の清朝は大規模な国内反乱と欧米列強との対立に同時に直面することになった。

⑨咸豊帝・奕詝|太平天国と列強に挟撃された皇帝

・咸豊帝・奕詝(1831~1861年)は道光帝の第4子。1850年、20歳(数え年)で即位した。
 翌1851年には洪秀全らが太平天国を建国し、大規模な反乱が始まった。
・太平天国軍は1853年に南京を占領して「天京」と改称した。
 清の正規軍である八旗・緑営だけでは鎮圧できず、
 曽国藩ら漢人官僚による地方武装の編成を認め、湘軍などが反乱鎮圧の中心となっていった。
・太平天国以外にも捻軍の反乱や各地の回民蜂起が相次いだ。反乱鎮圧のため軍事費が増大し、
 清朝は釐金などの新たな財源や地方官僚の軍事力への依存を強めた。
・対外的には1856年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)が始まり、イギリス・フランスと戦った。
 1858年に天津条約が結ばれたものの、条約批准をめぐる対立から再び戦争となった。
・1860年、英仏連合軍が北京へ進撃すると、咸豊帝は熱河の避暑山荘へ退避した。
 北京に残った恭親王奕訢が交渉を担当し、円明園が焼き払われた後に北京条約を締結。
 清は天津条約を批准し、天津の開港や九竜半島の一部割譲などを認めた。
・1861年、咸豊帝は北京へ戻らないまま熱河で31歳(数え年)で死去し、
 唯一の男子・載淳が同治帝として即位した。

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⑩同治帝・載淳|「同治中興」の幼帝

・同治帝・載淳(1856~1875年)は咸豊帝の唯一の男子。1861年、6歳(数え年)で即位した。
 咸豊帝が指名した粛順ら8人の顧命大臣が幼帝を補佐したが、
 まもなく西太后・慈安太后と恭親王奕訢が辛酉政変で彼らを排除し、
 両太后が垂簾聴政を行い、恭親王が政務を担う体制が成立
した。
・国内では曽国藩・李鴻章・左宗棠ら漢人官僚・軍人が湘軍・淮軍などを率いて反乱鎮圧を進め、
 1864年に太平天国の首都・天京を攻略した。その後も捻軍などの反乱が鎮圧され、
 咸豊帝期から続いていた大規模な内乱は次第に収束へ向かった。
・同じ時期には恭親王や曽国藩・李鴻章・左宗棠らを中心に、西洋の軍事技術や産業を導入する
 洋務運動が進められた。江南製造総局などの軍需工場が設けられ、
 外国語や西洋技術を学ぶ教育機関も整備された。
 こうした内乱の鎮圧と統治の立て直しが進んだ時期は同治中興と呼ばれる。
・1873年、同治帝は17歳(数え年)で親政を開始し、両太后による垂簾聴政はいったん終了した。
 しかし親政期間は約2年と短く、太平天国の鎮圧や洋務運動の開始など、
 同治年間の主要な政策の多くは親政以前に両太后・恭親王・漢人官僚らによって進められた。
・1875年、同治帝は19歳(数え年)で死去した。男子がいなかったため、西太后の妹の子であり、
 同治帝の従弟にあたる載湉が皇位を継ぎ、光緒帝として即位した。

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⑪光緒帝・載湉|改革を目指し、西太后に敗れた皇帝

・光緒帝・載湉(1871~1908年)は醇親王奕譞の子で、道光帝の孫にあたる。
 同治帝に男子がいなかったため、1875年に4歳で皇帝に擁立された。
 幼少期は西太后と慈安太后が垂簾聴政を行い、
 慈安太后の死後は西太后が大きな政治的影響力を持った。
・対外戦争では清仏戦争を経て、
 1885年の天津条約によって清はベトナムに対する宗主権を事実上失った。
 1894年には日清戦争が勃発し、 翌1895年の下関条約で台湾・澎湖諸島などを日本へ割譲し、
 多額の賠償金を負担することになった。
・日清戦争後、光緒帝は康有為・梁啓超ら改革派を登用し、
 1898年に「戊戌変法(百日維新)」を開始した。
 教育・行政・軍事・産業などの改革を急速に進めたが、
 同年9月に西太后らが「戊戌政変」によって改革を停止。
 康有為・梁啓超は国外へ逃亡し、譚嗣同ら6人が処刑され、
 光緒帝も中南海の瀛台に幽閉されて政治的実権をほぼ失った
1900年には義和団事件が拡大し、
 清朝が列強に宣戦すると八カ国連合軍が北京を占領し、西太后と光緒帝は西安へ避難した。
 翌1901年に清朝は辛丑条約(北京議定書)を結び、
 巨額の賠償金の支払いや北京への外国軍駐留などを認めた。
・1908年11月、光緒帝は38歳(数え年)で死去し、西太后もその翌日に死去した。
 光緒帝の遺体を用いた後年の調査では毛髪などから高濃度のヒ素が検出され、
 急性ヒ素中毒で死亡した可能性が高いとされたが、誰が毒を与えたのかは確定していない。

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⑫宣統帝・溥儀|中国最後の皇帝

・宣統帝・溥儀(1906~1967年)は醇親王載灃の子で、光緒帝の甥にあたる。
 1908年、3歳(数え年)で皇帝に即位し、父の載灃が摂政王として政治を担った。
・清政府は立憲政治への移行を進め、
 1909年には各省に諮議局、1910年には中央に資政院を開設した。しかし改革への不満は収まらず、 
 1911年には鉄道国有化をめぐる反発から四川保路運動が起こり、清朝への不満がさらに拡大した。
1911年10月、武昌起義をきっかけに辛亥革命が勃発すると、
 各省が相次いで清朝からの独立を宣言した。清政府は袁世凱を起用したが、
 袁世凱は革命派とも交渉を進め、清朝の存続と共和政への移行をめぐる協議が行われた。
・1912年2月12日、隆裕皇太后が幼い溥儀に代わって退位を決定し、退位詔書が公布された。
 これによって清王朝は滅亡し、溥儀には「清室優待条件」によって
 退位後も紫禁城で生活することが認められた。
・1924年、北京政変で馮玉祥の軍が北京を掌握すると、溥儀は紫禁城から退去させられた。
 その後天津へ移り、1931年の満洲事変後には日本の関東軍の支援を受けて満洲へ渡った。
1932年に満洲国の執政となり、1934年には皇帝に即位したが、
 満洲国は日本の強い支配下に置かれていた。
 1945年の日本敗戦によって満洲国が崩壊すると、溥儀はソ連軍に拘束された。
・戦後はソ連での抑留を経て1950年に中華人民共和国へ引き渡され、
 撫順戦犯管理所などに収監された。1959年に特赦され、その後は北京で生活し、
 1967年に61歳で死去した。

王朝らしさ

「異民族帝国の成功 → 近代化失敗」

キーワード

  • 康乾盛世
  • 八旗制度
  • 文字の獄
  • アヘン戦争
  • 義和団

空気感

  • 前半:超安定
  • 中盤:停滞
  • 後半:列強圧力

物語性

  • 康熙帝の長期政権
  • 乾隆帝の全盛
  • 光緒帝と西太后
  • 溥儀の退位

崩壊パターン

「近代化失敗 → 革命」

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