仇士良(きゅうしりょう、781~843年)、字は匡美。
循州興寧の出身で、唐の憲宗・穆宗・敬宗・文宗・武宗の時代に活動した宦官である。
若くして東宮に入り、憲宗の即位後は内給事・監軍・五坊使などを歴任した。
文宗の時代には左神策軍中尉となって禁軍を掌握し、
大和9年(835)の甘露の変では李訓らによる宦官排除計画を察知して文宗を宮中へ連れ戻し、
その後の大規模な粛清を主導した。
甘露の変以後は魚弘志らとともに朝廷へ強い影響力を及ぼし、
文宗が晩年に自らを「家奴に制せられている」と嘆くほどの状態を生んだ。
文宗の死に際しては皇太子李成美を退けて潁王李瀍、のちの武宗を皇太弟として迎え、
皇位継承にも直接関与した。
しかし武宗は仇士良を内心では警戒し、李徳裕を重用してその影響力を抑えた。
仇士良は会昌3年(843)に致仕し、同年に死去したが、
翌年には私邸から大量の武器が発見され、官爵を削られて家産を没収された。
宦官の家系に生まれ、憲宗の東宮へ入る
循州興寧の出身
仇士良の出自について、『新唐書』は字を匡美、循州興寧の人と記す。
唐代の神道碑である鄭薫「内侍省監楚国公仇士良神道碑」では「海豊興寧人」とされ、
曾祖父の仇上客は内給事、祖父の仇奉詮は内常侍を務めたと記されている。
少なくとも曾祖父・祖父の代から宮廷の宦官職に関わる家系だったことが分かる。
父の仇文晟について碑文は生前の官歴を明確に記さず、
仇士良が出世した後に特進・左監門衛将軍を追贈されたとしている。
神道碑によれば、仇士良は63歳で会昌3年(843)に死去しており、
これを数え年として逆算すると生年は建中2年(781)となる。
皇太子時代の憲宗に仕える
仇士良は20歳になる前に東宮へ入り、当時皇太子だった李純に仕えた。
李純は順宗の子で、永貞元年(805)に即位して憲宗となる。
神道碑には仇士良が掖庭局宮教博士となり、緋魚袋を与えられたことが記される。
憲宗即位後は、皇太子時代から仕えていた関係によって宣徽供奉官となり、紫金魚袋を賜った。
その後、朝散大夫・内侍省内給事、さらに内常侍へと昇進している。
五坊使となり、吐突承璀の軍事行動にも関わる
元和3年(808)、仇士良は内外五坊使となった。
五坊とは皇帝の狩猟に用いる鷹・犬などを管理する機関であり、
五坊使となった宦官は京畿各地へ出向いて狩猟や鳥獣の徴発に関与した。
『新唐書』は、仇士良が元和年間から大和年間にかけてたびたび内外五坊使を務め、
鷹を検分するため畿内を巡るたびに地方官へ物資の供給を要求し、
その振る舞いは「寇盗よりも甚だしかった」と厳しく評している。
これに対して神道碑は農民に害を与えず秩序を守った人物として描いており、
両史料の評価は大きく異なる。神道碑は死後の顕彰文であるため、
その人物評価はそのまま史実とみなすことはできない。
元和5年(810)、昭義節度使の盧従史が朝廷に反抗的な姿勢を示すと、
憲宗は神策軍護軍中尉の吐突承璀を使って盧従史を拘束した。
神道碑によれば、このとき仇士良も軍中におり、盧従史拘束に協力したという。
正史の仇士良伝では詳しく扱われないが、
仇士良が比較的早い時期から神策軍系統の宦官と軍事行動をともにしていたことを示す記録である。
元稹殴打事件には史料の食い違いがある
仇士良の初期の逸話として知られるのが、詩人・元稹との敷水駅での争いである。
『新唐書』仇士良伝では、
仇士良が宿駅の上等な部屋をめぐって御史の元稹と争い、元稹を殴って負傷させたとする。
御史中丞の王播は、御史と中使のどちらが正室を使用するかについて
従来どおり到着順とするよう奏上したが、憲宗は元稹を擁護せず、元稹を左遷した。
ところが『唐会要』や『旧唐書』系統の記録では、元稹を鞭で殴った宦官は「劉士元」とされている。
したがって、仇士良本人が元稹を殴ったと断定するには史料上の問題がある。
仇士良が事件に関係していた可能性はあるものの、
少なくとも「仇士良が元稹を殴打した」という『新唐書』の記事と、
劉士元を実行者とする記事の双方を区別しておく必要がある。
平盧・鳳翔・鄂岳などの監軍を歴任する
元和10年(815)、仇士良は大中大夫・内常侍となり、平盧軍の監軍として中央を離れた。
翌年には召還され、淮西で呉元済討伐が続くなか、
淮西行営宣慰使として前線へ派遣されたことも神道碑に記されている。
元和15年(820)には右監門衛将軍となり、再び内外五坊使を務め、
上柱国を授けられて南安県開国男に封じられた。
穆宗の長慶年間には爵位が子、さらに侯へ進み、長慶2年(822)には鳳翔監軍使となった。
その後は開国公へ進み、宝暦2年(826)に中央へ召還されたのち郡公となり、
鄂岳監軍使に任じられている。
神道碑はこの時期を非常に好意的に記すが、
仇士良が各地の監軍を繰り返し経験しながら
軍事・宮廷双方の人脈を蓄積していったこと自体は確認できる。
文宗のもとで神策軍中尉へ昇る
王守澄と対立する立場を利用される
大和元年(827)、仇士良は中央へ戻って宣徽供奉官となり、
内坊典内侍省を経て右神策軍副使となった。
翌年には右領軍衛将軍・内外五坊使となり、
大和6年(832)には内侍知省事、大和7年には大盈庫使となって染坊も管轄した。
さらに飛龍使を務め、皇帝の馬政にも関わっている。
この頃、文宗は王守澄を中心とする宦官勢力を排除しようとしていた。
李訓と鄭注は、王守澄と仇士良の仲が悪いことに着目し、
仇士良を引き上げて両者を対立させることを文宗に勧めた。
大和9年(835)5月、仇士良は左神策軍中尉兼左街功徳使となった。
神策軍中尉は皇帝直属の禁軍を掌握する重要な職であり、ここで仇士良は宮廷政治の中心に入った。
↓↓皇帝擁立や廃立にも関与した宦官・王守澄についての個別記事は、こちら

王守澄が毒殺される
文宗・李訓・鄭注はまず王守澄の排除を進めた。
王守澄は神策軍の実権から遠ざけられたのち、
文宗の命を受けた内養の李好古によって毒を賜り死亡した。
ただし、李好古を「この時点ですでに仇士良の娘婿だった」とする説明には注意が必要である。
後世の記録では李好古と仇士良家の婚姻関係が確認できるが、
墓誌研究では王守澄毒殺時には李好古の先妻が存命だったことも指摘されている。
したがって、仇士良が娘婿を使って王守澄を殺したと単純化するのは避けた方がよい。
王守澄が死んでも、文宗側の計画は終わらなかった。
李訓と鄭注の最終的な目的は、王守澄一人ではなく宦官勢力そのものを除くことにあった。
甘露の変で文宗を宮中へ連れ戻す
「甘露」を口実に宦官を誘い出す計画
大和9年11月、李訓らは宦官を一挙に殺害する計画を実行に移した。
当初、李訓と鄭注は王守澄の葬儀を利用して宦官を集め、兵を使って討つことを考えていた。
しかし李訓は鄭注だけに功績を独占されることを嫌い、
鄭注とは別に郭行余・王璠・羅立言・韓約・李孝本らと計画を進め、
先に宦官を殺したうえで鄭注も排除しようとした。
11月21日、文宗が朝会に臨むと、
左金吾衛大将軍の韓約が「左金吾の庁舎裏の石榴の木に甘露が降った」と奏上した。
李訓らは吉兆である甘露を皇帝自身が見るよう勧めたが、
まず宰相や官人たちが確認に行き、「本物の甘露とは思えない」と報告した。
そこで文宗は、左神策軍中尉の仇士良と右神策軍中尉の魚弘志ら宦官に確認へ行くよう命じた。
韓約の様子から異変を察する
仇士良らが左金吾の詰所へ到着すると、韓約の顔色が変わり、汗を流していた。
仇士良はその様子を不審に思い、「将軍はなぜそのような様子なのか」と問いただした。
その直後、風によって幕がめくれ、内部に多数の武装兵が潜んでいるのが見え、武器の音も聞こえた。
仇士良らは罠だと察して引き返した。
門を閉じて退路を断とうとする者もいたが、仇士良が一喝したため閉門に失敗し、
仇士良らは文宗のもとへ戻って「南衙に変事が起きた」と告げた。
文宗を軟輿に乗せて宮中へ退避させる
計画を察知された李訓は、
金吾衛の兵士へ「皇帝を守る者には一人につき百緡を与える」と叫んで兵を集めた。
これに対して宦官側は文宗を軟輿に乗せ、宮中へ運び込もうとした。
李訓は輿に取りすがって「まだ奏上が終わっていない」と引き留めたが、
宦官の郗志栄に殴られて倒された。
羅立言が率いる京兆の吏卒三百余人、李孝本が率いる御史台の従者二百余人も宮殿へ入り、
宦官側には十数人の死傷者が出た。
しかし文宗を乗せた輿は宣政門内へ入り、門が閉じられた。
仇士良らは皇帝の身柄を確保したことで主導権を握った。
神策軍を出して大規模な捕縛を行う
仇士良らは左右神策軍副使の劉泰倫・魏仲卿らに、
それぞれ五百人の禁兵を率いさせて宮門の外へ出した。
禁兵は李訓らの関係者だけでなく、官庁にいた官吏や民衆まで殺害した。
『資治通鑑』では、宮城内で逃げ遅れた官吏ら六百余人が殺され、
さらに各役所の吏や商人など千人余りも死亡したとする。
王涯・賈餗・舒元輿・李訓らのほか、王璠・郭行余・羅立言・李孝本なども捕らえられた。
『新唐書』は、仇士良が捕らえた王涯・舒元輿らを脅して反乱を自白させ、
その供述書を朝廷へ示したと記す。
宦官側は李訓らの計画を「皇帝に対する反逆」と位置づけ、関係者とその一族を処刑した。
甘露の変後、仇士良には特進・右驍衛大将軍が加えられ、魚弘志らも昇進した。
神策軍を握る仇士良と魚弘志の影響力は、それまで以上に強まった。
甘露の変後、文宗を圧迫する
李石を刺客に襲わせる
甘露の変後に宰相となった李石は、仇士良に対して比較的強い態度を取った。
『新唐書』によれば、仇士良は議論でたびたび李石に屈したことから李石を憎み、
親仁里で刺客に襲わせた。李石は乗っていた馬が走り出したため辛うじて逃れたが、
その後は身の危険を恐れて宰相を辞した。
劉従諫から公然と非難される
一方、昭義節度使の劉従諫は甘露の変後の粛清を強く批判した。
劉従諫は王涯らが長く朝廷に仕えた大臣であり、
富貴を保ちたい彼らが反乱を起こす理由はないと主張し、
仇士良らが自らを守るために宰相たちを反逆者として殺したと非難した。
さらに、自分は奸臣を排除するためなら「清君側」に赴くとまで述べた。
この上書は広く人々に読まれ、仇士良は動揺した。
仇士良は劉従諫を検校司徒へ昇進させて懐柔しようとしたが、
劉従諫は「死者の冤罪を晴らさず、生きている自分だけが恩賞を受ける理由はない」と辞退し、
その後も仇士良らを批判した。
文宗は劉従諫の存在を背景として以前よりは宦官に対抗できるようになり、
仇士良らも一時的に慎重になった。
王涯らの遺骨を再び掘り出す
甘露の変で殺された王涯・賈餗らについては、後に令狐楚が遺体の埋葬を願い出た。
文宗はこれを認め、薛元賞に命じて王涯ら十一人を長安城西へ葬らせ、それぞれ衣一襲を与えた。
しかし『資治通鑑』によれば、
仇士良は密かに人を使って墓を掘り返させ、遺骨を渭水へ捨てさせたとされる。
甘露の変関係者の名誉回復を許さない姿勢を示す出来事だった。
文宗が「家奴に制せられている」と嘆く
開成4年(839)、病を患っていた文宗は翰林学士の周墀を呼び、
自分はどのような皇帝に見えるかと尋ねた。
周墀が堯・舜に比すべき君主だと答えると、
文宗は自分が尋ねたいのは周の赧王や後漢の献帝と比べてどうかということだと述べた。
そして赧王や献帝は強臣に制せられただけだが、自分は「家奴」に制せられており、
彼らよりもさらに劣ると涙を流した。
ここでいう「家奴」は宮中の宦官を指す。
仇士良一人だけを名指しした言葉ではないが、
甘露の変後に神策軍を握っていた仇士良・魚弘志らの権力を背景とする発言だった。
文宗廃位を企てたという逸話には疑問がある
『新唐書』仇士良伝には、
仇士良と魚弘志が甘露の変後、文宗を恨んで何度も廃位を考えたという逸話も収録されている。
その中では、仇士良らが夜中に翰林学士の崔慎由を呼び出し、
皇太后の命令として新しい皇帝を立てる詔書を書くよう命じたとされる。
崔慎由は一族を滅ぼすことになるとして拒否し、仇士良らは文宗の前で皇帝の過失を列挙したのち、
「この学士がいなければ、お前はもうこの座にはいられなかった」と文宗に言い放ったという。
ただし、この話はそのまま史実とすることができない。
司馬光は『資治通鑑考異』で、
崔慎由が翰林学士となった時期と話の年代が合わないことを指摘し、採用していない。
したがって、仇士良が文宗の廃位を具体的に実行しかけたという逸話は、
『新唐書』に収録されているものの信頼性に問題のある記事として扱う必要がある。
↓↓『資治通鑑』の編者・司馬光についての個別記事は、こちら

文宗の死と武宗擁立
皇太子李成美を退ける
開成5年(840)、文宗の病状が悪化した。
文宗は敬宗の子である李成美を皇太子としていた。
病が重くなると、枢密使の劉弘逸・薛季棱は宰相の李珏・楊嗣復を宮中へ呼び、
皇太子に監国させようとした。
これに対し、仇士良と魚弘志は李成美の立太子に自分たちが関わっていなかったため、
皇太子は幼く病弱であるとして別の人物を立てることを主張した。
李珏はすでに皇太子が定められている以上、途中で変更するべきではないと反対した。
しかし仇士良らは詔を偽り、文宗の弟にあたる潁王李瀍を皇太弟とした。
さらに神策軍を率いて十六宅へ行き、李瀍を迎えて少陽院へ入れた。
文宗はその後まもなく死去し、李瀍が武宗として即位した。
李成美・安王李溶・楊賢妃を死なせる
武宗即位後、仇士良は新帝に対し、陳王へ戻された李成美、安王李溶、楊賢妃を処分するよう勧めた。
楊賢妃は以前、安王李溶を皇嗣とするよう望んだことがあった。
仇士良はこれを問題として取り上げ、三人を残せば皇位をめぐる異論の種になると武宗へ訴えた。
武宗はこれを受け、李成美・李溶・楊賢妃の三人に死を命じた。
さらに文宗から寵愛を受けていた楽人や宦官も次々と処刑・左遷された。
仇士良はこの功績によって驃騎大将軍となり、楚国公に封じられた。
神道碑では開府儀同三司・左衛上将軍にも進み、食邑三千戸、実封三百戸を得たと記される。
「宦官なのに子を蔭官させるのか」と李中敏に批判される
武宗即位後、仇士良は開府儀同三司の恩典を利用して、自分の子を千牛の官へ取り立てるよう求めた。
これに対して給事中の李中敏は、
「開府の位なら子を蔭官させる資格はある。しかし内謁者監にどうして子がいるのか」
という趣旨の判定を書いた。
宦官である仇士良が「子」を官職へ推そうとした矛盾を皮肉ったもので、
仇士良はこれを恥じ、怒ったとされる。
神道碑には仇士良の男子として従広・亢宗・従源・従渭・従潩の五人が記されている。
碑文は単に「男五人」としており養子とは明記していないが、
仇士良が宦官である以上、家を継がせるための養子・家嗣として理解するのが自然である。
また安定胡氏を夫人とし、魯国夫人に封じられたことも碑文に見える。
武宗によって次第に権力を削られる
武宗は仇士良を内心では警戒する
武宗は仇士良によって擁立された皇帝だったが、
『新唐書』は武宗が仇士良を内心では嫌い、表面上だけ尊重していたと記す。
武宗は判断力が強く、自ら政治を行おうとする性格だった。
さらに李徳裕を宰相として重用したため、
仇士良が文宗期と同じように朝政へ介入することは次第に難しくなった。
神策軍を扇動して李徳裕を攻撃しようとする
会昌2年(842)、武宗に尊号が加えられた際、赦書が出された。
仇士良は神策軍の兵士に対し、
宰相が赦書を作成する際に禁軍へ支給される絹・食糧・馬の飼料を減らしたという話を広め、
「本当にそうなら楼前へ行って争うべきだ」とけしかけた。
李徳裕がこれを武宗へ報告すると、武宗は使者を神策軍へ送り、
「赦書は朕自身の意思であり、宰相は関係ない。誰がこのようなことを言ったのか」と告げさせた。
皇帝自身が責任を引き受けたことで兵士は静まり、仇士良は動揺した。
神策軍の不満を宰相攻撃へ利用しようとする方法が、武宗には通用しなかったことになる。
病を理由に退き、宦官たちへ「皇帝を忙しくさせよ」と語る
会昌3年(843)、仇士良は観軍容使となって左右の禁軍を統括する立場に進んだが、
ほどなく病を理由に辞任し、内侍監・知省事となった。
さらに老齢を理由に致仕を願い出て認められた。
仇士良が私邸へ戻るとき、宦官たちが送別に集まった。
『新唐書』によれば、仇士良は彼らに対し、皇帝への仕え方として次のような趣旨を語った。
皇帝を暇にしてはならない。
暇になれば書物を読み、儒臣と会って諫言を聞くようになり、
思慮が深くなって遊興を減らしてしまう。
そうなれば宦官への恩寵も権力も弱くなる。
だから財貨や鷹馬を増やし、球戯・狩猟・音楽・女性などによって皇帝を楽しませ、
政務について考える暇を与えなければ、政務の権限は自分たちの手に残る――という内容だった。
集まった宦官たちは再拝してこれを聞いたという。
この発言は仇士良を象徴する逸話として有名だが、現存する主要な記録は『新唐書』による。
神道碑には当然ながら記されず、むしろ仇士良を忠臣として描いている。
会昌3年に死去する
神道碑によれば、仇士良は会昌3年6月23日、長安の広化里にあった私邸で死去した。享年63。
武宗は二日間朝会を停止し、仇士良に揚州大都督を追贈した。
翌会昌4年(844)正月23日、万年県寧安郷鳳栖原社季村に葬られ、
先に死亡していた夫人の胡氏も合葬された。
死後の家宅捜索と官爵剥奪
仇士良の死から翌年、私邸に大量の武器が隠されていたことが告発された。
『新唐書』は「家に兵数千物を蔵す」と記し、数千に及ぶ兵器が発見されたとしている。
武宗は仇士良の官爵を削り、その家産を籍没させた。
生前には揚州大都督を追贈されていたが、死後一年ほどで評価は大きく変わったことになる。
一方、大中5年(851)になると、宣宗の命によって鄭薫が「内侍省監楚国公仇士良神道碑」を撰した。
碑文は仇士良を歴代皇帝に忠節を尽くした人物として顕彰し、
憲宗期の盧従史拘束、淮西での活動、甘露の変などをすべて功績として描いている。
ただし、この碑の建立をそのまま「仇士良の官爵が正式に復旧された」
とするのは慎重であるべきである。
碑文から宣宗が過去の功績を顕彰したことは確認できるが、
会昌4年の削官爵・籍没を正式に撤回したという正史の記事とは別問題だからである。
『新唐書』は仇士良について、二王・一妃・四宰相を殺し、
二十余年にわたって「貪酷」であったと総括する。
ここでいう二王は安王李溶と陳王李成美、一妃は楊賢妃であり、
四宰相は甘露の変で殺害された李訓・王涯・賈餗・舒元輿を指すと考えられる。
もっとも、これらの死は仇士良が単独で決定したものではなく、
甘露の変の粛清や武宗即位時の政治過程の中で生じたものであり、
「仇士良が個人的に七人を殺した」と単純化するのは適切ではない。
まとめ
仇士良は、地方軍の監軍や五坊使を経て神策軍中尉まで昇り、
皇帝直属の禁軍を背景として文宗・武宗期の政治に強い影響を及ぼした宦官だった。
甘露の変では李訓らの計画を察知して文宗を宮中へ戻し、
その後の粛清によって宦官側の優位を確立した。
さらに文宗の死後には皇太子李成美を退け、武宗の擁立にも中心的に関与した。
しかし武宗は仇士良に政治を委ねず、李徳裕を重用してその影響力を抑えた。
仇士良は843年に致仕してほどなく死去し、
翌年には私邸から大量の武器が発見されたことで官爵を削られ、家産を没収された。
仇士良の経歴は、唐後期に神策軍を掌握した宦官が皇帝の側近という範囲を超え、
宰相の進退や皇位継承にまで影響を及ぼした時代を具体的に示している。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻17下「文宗本紀」
・『旧唐書』巻18上「武宗本紀」
・『旧唐書』巻184「宦官伝」
・『新唐書』巻207「宦者伝・仇士良」
・司馬光『資治通鑑』巻245~247
・王溥『唐会要』巻61
・鄭薫「内侍省監楚国公仇士良神道碑」(『全唐文』巻790)
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