高仙芝(こうせんし、生年不詳~756年)は、
唐の玄宗期に安西四鎮を拠点として西域で活躍した武将である。
高句麗系の出身で、父の高舍鶏とともに安西へ移り、二十代で将軍となった。
開元末には安西副都護・四鎮都知兵馬使に進み、
天宝6載(747)の小勃律遠征では吐蕃の影響下にあった地域へ長距離遠征を敢行して大勝し、
安西四鎮節度使へ昇った。
その後も朅師国や石国へ兵を進めたが、
石国を欺いて降伏させたうえで王を捕らえ、財宝を大量に得たことは西域諸国の反発を招いた。
天宝10載(751)のタラス河畔の戦いでは大食軍と交戦し、葛邏禄の離反によって大敗している。
天宝14載(755)に安禄山が反乱を起こすと、高仙芝は討伐軍の副元帥として東征した。
洛陽から敗走してきた封常清の進言を受け、
潼関へ退いて防備を整えたことで反乱軍の西進を阻止したものの、
監軍の辺令誠から敗戦と軍需物資の横領を訴えられ、封常清とともに処刑された。
高句麗系武将の子として安西で成長
父・高舍鶏とともに唐の辺境軍へ
高仙芝は高句麗系の人物である。
『旧唐書』『新唐書』はいずれも「高麗人」と記しており、
父の高舍鶏は河西軍に入り、軍功を重ねて四鎮十将や諸衛将軍にまで昇った。
高仙芝は若い頃に父とともに安西へ移り、父の軍功によって遊撃将軍に任じられた。
二十代にはすでに将軍となり、やがて父とほぼ同格の官位に並んだという。
『旧唐書』は高仙芝について、容姿が整い、騎射に優れ、決断力があり勇猛だったと評している。
一方、『新唐書』では父の高舍鶏が高仙芝の性格を「儒緩」とみなし、
武将としてやっていけるのか心配していたとも記される。
若い頃から粗暴な猛将として知られていた人物ではなく、
後の大胆な軍歴とは異なる印象を父に持たれていたことになる。
当初は安西節度使の田仁琬や蓋嘉運に仕えたが、それほど重く用いられなかった。
高仙芝を本格的に抜擢したのは、その後に安西四鎮節度使となった夫蒙霊詧である。
開元末には安西副都護・四鎮都知兵馬使となり、安西軍の中心的な指揮官へ進んだ。
封常清を最初は容貌で退ける
この頃、高仙芝のもとへ仕官を求めてきた人物が封常清だった。
封常清は30歳を過ぎても官職を得られず、貧しい生活を送っていた。
高仙芝が軍を率いて出る際には鮮やかな衣服を着た従者三十人余りを伴っていたため、
封常清はその一員になることを望んだ。
しかし高仙芝は、痩せて足に障害のあった封常清の容貌を見て採用しなかった。
翌日も封常清が願い出ると、「従者はすでに足りている」と断った。
封常清はこれに対し、自分は高仙芝の義を慕って仕えたいのであり、
容貌で人を選ぶなら孔子が澹台滅明を見誤った故事と同じになるという趣旨で反論した。
それでも高仙芝は採用しなかったが、封常清は数十日にわたって門前で待ち続けたため、
ついに根負けして従者に加えた。
後に封常清は高仙芝を支える軍政官となり、安西四鎮節度使にまで上ることになる。
高仙芝自身にとっても、最初は見抜けなかった人物の才能を、
実績を確認した後には大きく用いることになる逸話である。
↓↓唐の西域支配を支えた封常清についての個別記事は、こちら

達奚部落討伐で封常清の才能を知る
開元末、達奚部落が唐に背き、黒山方面から西へ進んで砕葉を目指した。
玄宗は夫蒙霊詧に迎撃を命じ、夫蒙霊詧は高仙芝に二千騎を与えた。
高仙芝は長距離移動で疲弊していた達奚部落を捕捉し、ほぼ壊滅させた。
この戦いの際、従者として参加していた封常清は
命令されていないにもかかわらず戦勝報告を作成した。
その内容には、
軍の宿営地、井戸や泉、敵と遭遇した状況、戦闘の推移、勝利までの作戦が詳しく整理されていた。
高仙芝が読むと、
自分が朝廷へ報告したかった内容がほぼすべて書かれていたため、その能力に驚いた。
高仙芝は以後、封常清を判官として重用するようになる。
小勃律遠征と安西四鎮節度使への昇進
吐蕃の影響下にあった小勃律
天宝6載(747)、高仙芝に大きな転機となる小勃律遠征が命じられた。
小勃律の王は吐蕃と結び、吐蕃から王女を妻として迎えていた。
これによって西北の二十余国も吐蕃の影響を受け、唐への貢献が途絶えていた。
唐は田仁琬・蓋嘉運・夫蒙霊詧らの時代から小勃律攻略を試みていたが成功していなかった。
そこで玄宗は高仙芝を行営節度使とし、歩騎一万人を率いて小勃律を攻めるよう命じた。
高仙芝軍は安西を出発し、撥換城、握瑟徳、疏勒、葱嶺守捉、播密川を経て特勒満川へ進んだ。
『旧唐書』『新唐書』は各地点までの日数を詳しく記しており、
安西から極めて長距離を進軍したことが分かる。
三軍に分かれて連雲堡を攻撃
高仙芝は特勒満川で軍を三つに分けた。
疏勒守捉使の趙崇玼に三千騎を与えて北谷から進ませ、
撥換守捉使の賈崇瓘には赤仏堂方面から進ませた。
高仙芝自身は監軍の辺令誠とともに護密国方面から進み、
七月十三日の朝に吐蕃の連雲堡で合流する計画を立てた。
連雲堡には千人余りが入り、その南方の山上にも八千から九千の兵が陣を構えていた。
さらに城下を流れる婆勒川は増水しており、容易に渡れる状態ではなかった。
高仙芝は牛・羊・豚の三牲を捧げて川を祭り、将兵に三日分の食糧を持たせて川辺へ集めた。
兵士たちは渡河は無謀だと考えたが、実際には旗も馬具も濡れないほどの状態で渡り切り、
対岸で隊列を整えることができた。
高仙芝は辺令誠に対し、もし渡河途中に敵が襲ってきていたら敗れていたが、
すでに渡り終えて布陣できた以上、天が敵を与えたのだという趣旨の言葉を述べた。
高仙芝軍はそのまま山上の敵を攻撃し、朝から昼頃までの戦闘で大勝した。
『旧唐書』によれば、五千人を討ち、千人を捕らえ、馬千余匹と大量の軍需物資を得た。
辺令誠を残してさらに山中へ進む
連雲堡を破った後、高仙芝はさらに奥地へ進もうとした。
玄宗から派遣されていた術士の韓履冰や監軍の辺令誠は、険しい山岳地帯への進軍を恐れた。
高仙芝は辺令誠らと病弱な兵三千余りを連雲堡に残し、自ら主力を率いて前進した。
三日後には坦駒嶺へ到達した。
そこから先は四十里余りに及ぶ急峻な下り道だったため、将兵は進むことを嫌がった。
高仙芝は兵士たちがためらうことを予測し、先に二十余騎を胡人の服装に変装させ、
「阿弩越城の人々が迎えに来た」と思わせる策を使った。
兵士たちが「どこまで連れて行くつもりなのか」と不満を口にしたところへ、
あらかじめ送り出していた騎兵が現れ、
「阿弩越城の胡人は唐軍を歓迎しており、娑夷河の藤橋も切断した」という偽りの報告を行った。
高仙芝は喜んだふりをして進軍を命じ、兵士たちを嶺から下らせた。
実際に進んでみると、阿弩越城の人々は唐軍を迎え入れたため、高仙芝はそのまま小勃律へ迫った。
小勃律王を欺いて吐蕃との連絡を断つ
高仙芝は将軍の席元慶に千騎を与え、小勃律王のもとへ先行させた。
席元慶には、小勃律を攻めるのではなく、
大勃律へ向かうために道を借りたいだけだと説明するよう命じた。
さらに小勃律の有力者たちが出てきた場合には、
玄宗からの褒賞を与えると称して呼び出し、まとめて拘束するよう指示した。
席元慶が到着すると、計画通り吐蕃と強く結びついていた有力者たちを拘束した。
小勃律王と吐蕃出身の王妃は石窟へ逃げ込んだため、すぐには捕らえられなかった。
高仙芝は到着すると、吐蕃側についていた有力者五、六人を処刑し、
ただちに娑夷河の藤橋を切断させた。
この橋は幅が狭いうえ、完成まで一年ほどかかるほどの大規模なもので、
吐蕃が小勃律方面へ軍を送る際の重要な連絡路となっていた。
唐軍が橋を切り終えた頃には吐蕃軍が迫っていたが、すでに渡ることはできなかった。
高仙芝はその後、小勃律王と王妃に降伏を呼びかけ、二人を捕らえて小勃律を制圧した。
夫蒙霊詧から「高麗奴」と罵られる
高仙芝は小勃律王と王妃を連行して帰還し、戦勝報告を朝廷へ送った。
ところが上官の夫蒙霊詧は、高仙芝が自分を通さず直接朝廷へ戦勝を報告したことに激怒した。
『旧唐書』では、夫蒙霊詧が高仙芝を「高麗奴」と罵り、
自分が于闐使、焉耆鎮守使、安西副都護、安西都知兵馬使へと推薦してきたのに、
なぜ自分の指示を待たず戦勝を報告したのかと責めたことが記されている。
夫蒙霊詧は、本来なら斬るべき罪だが、新たに大功を立てたため処分しないとまで言った。
この様子を見た辺令誠は朝廷へ密かに報告し、
高仙芝ほどの功臣がこのままでは憂いのうちに死んでしまうと訴えた。
玄宗は高仙芝を鴻臚卿・御史中丞とし、夫蒙霊詧に代えて安西四鎮節度使に任じた。
高仙芝にとって、後に自分を処刑へ追い込むことになる辺令誠が、
この時点では昇進を助けた人物だった。
↓↓監軍として派遣された宦官・辺令誠についての個別記事は、こちら

かつて自分を陥れた者を処刑しなかった
夫蒙霊詧が中央へ召還されることになると、本人は高仙芝から報復されるのではないかと恐れた。
しかし高仙芝は節度使となった後も夫蒙霊詧に対して以前と同じように礼を取り、
夫蒙霊詧の方がかえって不安を深めたという。
高仙芝を夫蒙霊詧へ讒言したことのある程千里、畢思琛、王滔、康懐順、陳奉忠らも、
高仙芝が節度使になったことで処罰を恐れた。
高仙芝は程千里に対して「外見は男だが心は婦人のようだ」と責め、
畢思琛には、かつて自分の荘園を奪ったことを覚えているかと問いただした。
さらに王滔らも呼び出して杖で打とうとしたが、しばらくして全員を赦した。
高仙芝は、言いたいことを言ってしまえばもう問題はないという態度を示したため、
軍中の人々は報復を恐れなくなった。
朅師・石国への遠征とタラス河畔の敗戦
朅師国王を捕らえる
天宝8載(749)から9載頃、高仙芝は朅師国への遠征にも関わった。
朅師王の勃特没が吐蕃と結び、小勃律に駐屯する唐軍の補給路を妨害したため、
吐火羅葉護が唐へ討伐を要請した。
玄宗は安西軍の出動を認め、高仙芝が朅師を破って勃特没を捕らえた。
その後、唐は勃特没の兄・素迦を新たな朅師王として立てた。
この遠征は『旧唐書』高仙芝伝には詳しく記されていないが、
『資治通鑑』は『実録』などをもとに、高仙芝が朅師を破ったことを記している。
石国を欺いて降伏させる
天宝9載(750)、高仙芝は石国を攻撃した。
『旧唐書』高仙芝伝では、石国を平定して王を捕らえたことが簡潔に記されるが、
『資治通鑑』はより厳しい内容を伝えている。
それによれば、高仙芝は石国といったん和約を結び、
油断させた後に軍を進めて王と住民を捕らえ、老弱者を殺害した。
石国王は唐へ連行され、その後長安で処刑された。
これは高仙芝の西域経営にとって大きな転換点となった。
小勃律遠征では吐蕃勢力を排除する存在として周辺諸国に影響を与えたが、
石国への対応によって唐に対する不信が広がった。
大量の財宝を得る
石国遠征では、高仙芝自身が大量の財物を得たことも正史に明記されている。
『旧唐書』は高仙芝を「性貪」、すなわち貪欲な性格だったと評し、
石国から瑟瑟と呼ばれる宝石を大量に得たほか、黄金を積んだ五、六頭分の駱駝、
名馬や宝玉などを手に入れたとする。
『資治通鑑』も石国から得た宝石や黄金などを高仙芝が自家の財産にしたと記している。
ただし『旧唐書』は一方で、高仙芝は蓄えた財産を人へ惜しみなく分け与え、
求められれば断らなかったとも記す。
私財を増やすことには積極的だったが、財物を抱え込む吝嗇な人物ではなかったという評価である。
父の高舍鶏はかつて、高仙芝の性格がおとなしく、自立できないのではないかと心配していた。
しかしこの頃には高仙芝は大きな軍功を立て、家には巨万の財産を持つ人物になっていた。
石国王子が大食へ救援を求める
石国王の子は捕縛を免れて周辺諸国へ逃れ、
高仙芝が欺いて石国を攻め、財物を略奪したことを訴えた。
これを聞いた西域諸国は高仙芝に反発し、大食と結んで唐の安西四鎮を攻めようとした。
高仙芝はその動きを知ると、敵の攻撃を待つのではなく自ら大食軍を攻撃する方針を取った。
天宝10載(751)、高仙芝は漢兵・蕃兵合わせて三万人を率い、西へ七百里余り深入りした。
タラス河畔で五日間戦う
高仙芝軍は怛羅斯、すなわちタラス付近で大食軍と遭遇した。
両軍は五日間にわたって対峙したが、唐側についていた葛邏禄が途中で離反し、
大食軍とともに唐軍を挟撃した。
高仙芝軍は大敗し、『資治通鑑』によれば兵士の多くが死亡し、残ったのは数千人にすぎなかった。
これは高仙芝の軍歴における最大級の敗北だった。
タラス河畔の戦いはしばしば「唐とアッバース朝による中央アジアの覇権決戦」と説明されるが、
中国側史料では、その直接的な背景として石国処分への反発が強調されている。
石国王子が周辺諸国へ訴え、大食と結びついたことが戦争へつながったと記されているため、
高仙芝自身の石国政策と切り離して考えることはできない。
李嗣業と段秀実によって退路を確保する
大敗した高仙芝に対し、右威衛将軍の李嗣業は夜間に撤退するよう進言した。
しかし退路は狭く、前方には唐軍に従っていた抜汗那の兵や人馬が密集して道を塞いでいた。
李嗣業は大きな棒を振るって道を開き、人馬を倒しながら高仙芝らを通過させた。
混乱の中で部隊は散り散りになったが、別将の段秀実が李嗣業の声を聞きつけた。
段秀実は李嗣業に対し、敵を恐れて先に逃げるのは勇ではなく、
自分だけ助かって兵を置き去りにするのは仁ではないと厳しく非難した。
李嗣業はこれを聞いて謝罪し、追撃軍を防ぎながら散った兵を集めた。
この働きによって残存兵はまとまって安西へ帰還することができた。
帰還後、李嗣業は段秀実の働きを高仙芝に報告し、段秀実は都知兵馬使を兼ねるようになった。
中央への転任と安史の乱
河西節度使への任命が取り消される
天宝8載(749)、高仙芝は長安へ入朝し、
小勃律遠征などの功績によって特進を加えられ、左金吾衛大将軍同正員となった。
さらに子一人にも五品官が与えられるなど、玄宗から厚遇を受けた。
その後も西域で軍功を重ね、石国遠征後には開府儀同三司を授けられた。
さらに朝廷は、河西節度使の安思順に代えて高仙芝を武威太守・河西節度使に任命しようとした。
これに強く抵抗したのが安思順だった。
安思順は配下の胡人たちに自ら耳を切り、顔を傷つけさせたうえで、朝廷に留任を訴えさせた。
彼らが身体を傷つけてまで安思順を引き留めようとする姿を示すことで、
安思順が河西の将兵から強く支持されていることを訴えようとしたのである。
この動きを監察御史の裴周南が朝廷へ報告すると、玄宗は安思順の留任を認めた。
そのため、高仙芝の河西節度使就任は取り消されることになった。
高仙芝はその後、中央で右羽林大将軍を務め、天宝14載(755)には密雲郡公に封じられた。
安西四鎮節度使として長く西域の軍事を担ってきた高仙芝は、
こうして長安の禁軍を率いる立場へ移っていった。
安禄山の反乱で討伐軍副元帥となる
天宝14載11月、安禄山が范陽で反乱を起こした。
玄宗は皇子の栄王李琬を討賊元帥とし、高仙芝をその副元帥に任じた。
高仙芝には飛騎・彍騎のほか、朔方・河西・隴右から都へ到着する兵を統率させ、
さらに関中で五万人を募集して軍を編成するよう命じた。
高仙芝は御史大夫も兼ね、先行して東へ向かった封常清を追う形で出陣した。
玄宗は望春亭まで出て高仙芝を慰労し、監軍として辺令誠を同行させた。
高仙芝は陝州へ進んで陣を置いた。
封常清の進言を受けて潼関へ撤退
一方、洛陽防衛を担当していた封常清は、
急募した未訓練兵では安禄山軍を防ぎ切れず、連戦の末に洛陽を失った。
封常清は残兵を率いて陝州へ退き、高仙芝と合流した。
封常清は、何日も戦ったが安禄山軍の勢いは抑えられず、しかも潼関には十分な兵がいないため、
このまま反乱軍が進めば長安が危険になると説明した。
そして陝州を捨てて潼関を固守するよう進言した。
高仙芝はこれを受け入れた。
唐軍は太原倉にあった銭や絹を兵士に分配し、残った物資を焼却して潼関へ撤退した。
反乱軍の騎兵が追撃してきたため、唐軍は混乱し、武器や物資を捨てて逃げる兵も多かったが、
高仙芝は潼関へ到着すると防御設備を修復した。
さらに索承光を善和戍へ置き、潼関周辺の守備を固めた。
反乱軍の騎兵が到着したときにはすでに防備が整っており、潼関を突破することができず撤退した。
『旧唐書』はこれを「仙芝之力也」と記し、潼関を守れたのは高仙芝の働きだったと評価している。
辺令誠の讒言と処刑
辺令誠の要求を繰り返し拒否する
高仙芝軍を監督していたのは、小勃律遠征にも同行した宦官の辺令誠だった。
かつて夫蒙霊詧との確執では高仙芝を擁護した人物だが、
安史の乱では両者の関係は大きく変化していた。
『資治通鑑』によれば、辺令誠は軍中でたびたび高仙芝に私的な要求を持ちかけたが、
高仙芝は多くを受け入れなかった。
辺令誠は長安へ戻ると、玄宗に高仙芝と封常清の敗戦を報告した。
封常清については反乱軍の強さを過度に説いて人心を動揺させたとし、
高仙芝については数百里の土地を放棄して潼関まで退却したうえ、
兵士に支給する食糧や恩賞まで横領したと訴えた。
玄宗はこの報告に激怒し、辺令誠自身に処刑命令を持たせて潼関へ戻した。
封常清が先に処刑される
封常清は死の直前、玄宗に対する遺表を辺令誠へ託し、
自分の死後も安禄山を軽視しないでほしいと訴えた。
封常清の遺体はその場に置かれた。
その後、高仙芝が外から戻ってきた。
辺令誠は陌刀を持つ兵百人余りを従え、高仙芝に対しても皇帝から命令があると告げた。
「退却の罪なら死ぬ。横領は冤罪だ」
処刑命令を聞いた高仙芝は、敵を前にして退却したことを罪とするなら死を受け入れると述べた。
しかし、兵糧や恩賞を横領したという罪については、事実ではないと強く否定した。
高仙芝は周囲にいた将兵へ、自分が兵糧や恩賞を着服したことがあるならそう言えばよい、
そうでなければ冤罪だと声を上げてほしいと呼びかけた。
兵士たちは一斉に「冤罪だ」と叫び、
その声は地を震わせるほどだったと『旧唐書』『資治通鑑』は記している。
それでも処刑命令が撤回されることはなかった。
高仙芝はその場で斬られた。
封常清の遺体を見て最期の言葉を残す
高仙芝の処刑時には、先に殺された封常清の遺体が近くに置かれていた。
高仙芝は封常清の遺体を見て、自分が封常清を低い身分から取り立て、判官とし、
やがて自分に代わって節度使となるまでにしたが、
今日ついに二人とも同じ日に死ぬことになったという趣旨の言葉を述べた。
封常清はもともと、高仙芝が外見を見て採用を拒んだ人物だった。
その後、能力を認めて重用し、長年西域で行動を共にした二人が、
最後は同じ監軍の奏上によって同日に処刑されたことになる。
高仙芝の死後、その軍は将軍の李承光が暫定的に引き継いだ。
高仙芝の死後と評価
高仙芝の死後、唐朝が正式に名誉回復を行ったことを『旧唐書』『新唐書』の本伝は伝えていない。
ただし、処刑直前に兵士たちが一斉に冤罪を訴えたことからも、
少なくとも兵糧・恩賞の横領という罪状については
軍中で事実と受け取られていなかったことが分かる。
一方、高仙芝の生涯をすべて「冤罪で殺された名将」という像だけで捉えることも適切ではない。
小勃律遠征では、長距離の山岳行軍、軍の分進、増水した川の渡河、兵士を進ませるための偽装、
小勃律王を油断させる謀略、吐蕃との連絡橋の切断など、多くの軍事的判断を成功させている。
安史の乱でも封常清の進言を受け入れ、陝州に固執せず潼関へ退いたことで、
反乱軍の長安への進撃を一時止めた。
その反面、石国に対しては和約を利用して攻撃し、
国王を捕らえ、老弱者を殺害したと『資治通鑑』は記している。
さらに大量の財宝を私財としたことも正史に明記されており、
この政策が西域諸国の反発を強め、タラス河畔の戦いへつながった。
タラスでの大敗も、葛邏禄の離反だけを原因にして高仙芝自身の責任を完全に除くことはできない。
唐軍が大食軍との戦争へ進んだ背景には、
石国への処置によって周辺勢力との関係を悪化させた高仙芝の西域政策があった。
したがって高仙芝の生涯を、西域で軍功を重ねた名将という一面だけで捉えることは適切ではない。
唐の西域支配を大きく前進させた軍事指揮官であると同時に、
その強硬な征服政策によって反発を招き、タラスで大敗した人物でもある。
最期については、潼関へ撤退した判断そのものが失策だったとは言いにくい。
実際に高仙芝が守備を整えたことで反乱軍は潼関を突破できずに退いている。
その状況で、辺令誠の報告だけを受けた玄宗が封常清と高仙芝を相次いで処刑したことは、
安史の乱初期における唐朝の指揮系統の混乱を示す事件でもあった。
まとめ
高仙芝は、高句麗系の武将の家に生まれ、
安西軍で頭角を現して西域の軍事を任されるまでになった人物である。
小勃律遠征で示した山岳行軍と作戦遂行能力は際立っていたが、
石国への強硬な処置は周辺諸国の反発を招き、タラス河畔の敗戦へつながった。
安史の乱では敗走する封常清の意見を受け入れて潼関を固め、反乱軍の進撃を止めたにもかかわらず、
辺令誠の奏上によって処刑された。
西域での大きな軍功と強圧的な側面、タラスでの敗北、
そして潼関での処刑までを合わせて見ることで、高仙芝の実像はより明確になる。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻104「高仙芝伝」
・『新唐書』巻135「高仙芝伝」
・『新唐書』巻153「段秀実伝」
・司馬光『資治通鑑』巻215~217
・『冊府元亀』
・『唐会要』
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