田令孜|皇帝を連れ回して政治を混乱させた宦官

唐の宦官 田令孜 035.宦官

田令孜は末の宦官で、僖宗の側近として権力を握った人物である。
神策軍を背景に政治の実権を握り、末の混乱期に宮廷政治を主導した。

その専横はの政治を崩壊寸前に追い込み、
黄巣の乱の激化、皇帝の二度の逃亡、藩鎮内戦など、末の混乱の中心にあった。

出自と宦官入り

本姓は陳であり、宦官となった後に「田」の姓を与えられた。
兄には、陳敬瑄・陳敬珣がおり、後に兄は西川節度使となるなど、
田令孜の権力を背景に出世した。

懿宗の時代、義父に連れられて宦官となり、
最初は馬の管理をする「小馬坊使」という下級職だった。

皇帝僖宗との関係

田令孜は僖宗から非常に信任されていた。

僖宗は幼くして即位した皇帝であり、
田令孜を「阿父(父のような存在)」と呼んだと伝えられる。

この強い信任によって、田令孜は宮廷政治の中心人物となった。

神策軍の掌握

神策軍中尉

田令孜はやがて左神策軍中尉となり、神策軍の指揮を握った。
神策軍後期最大の中央軍であり、この役職は事実上の禁軍司令官である。

つまり田令孜は
 ・皇帝の側近
 ・神策軍の指揮
 ・宮廷政治
という三つの権力を同時に握ることになった。

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養子軍団(義子)

宦官が武将を養子にする制度

田令孜の権力を支えたものの一つが義子(養子)である。
末の宦官は有力な武将を養子とし、軍事勢力を作ることがあった。

田令孜も多くの武将を義子とし、軍事的な支持基盤を築いた。

義子制度によって、「宦官」「軍閥」「神策軍が結びつき、
末の政治は複雑な権力構造となった。

この仕組みは、後の軍閥時代にも影響を与えたとされる。

黄巣の乱:長安陥落と皇帝逃亡

874年、黄巣の乱が起こる。

880年、黄巣軍が長安に迫ると、田令孜は僖宗を伴って都を脱出し、蜀(四川)へ向かった。

この脱出は極めて急な決定だったため準備も十分ではなく、宮廷は大きな混乱に陥った。
多くの官僚は皇帝の出発を知らされないまま長安に取り残され、
中央政府は事実上機能停止の状態となった。

当時、皇帝直属軍である神策軍はすでに弱体化しており、
長安を守ることは困難だったとされる。

逃亡の途上で田令孜は皇帝の護衛として行動し、僖宗の信任はさらに深まった。

皇帝が都を離れて避難するという事態は極めて異例であり、
この出来事は王朝の権威が大きく揺らいだことを象徴する事件となった。

王重栄との対立

塩池利権争い

885年、田令孜は河中節度使・王重栄と対立する。
原因は塩池(塩の専売利益)の支配をめぐる争いだった。

二大軍閥が田令孜討伐に動く

王重栄(河中)は李克用(河東)と同盟を結ぶ。

これに対し田令孜は
 ・朱玫
 ・李昌符
などと結び対抗した。

しかし戦いは王重栄側の勝利となり、田令孜は劣勢となる。

皇帝の再逃亡

戦局が不利になると、田令孜は再び僖宗を連れて鳳翔 → 興元へ逃れる。

この頃には中央政府より軍閥の方が強い状態になっていた。

失脚

軍閥との対立が続く中で、宮廷内でも田令孜への批判が高まる。
やがて彼は政治の中心から退き、西川へ向かった。

最期:成都で捕らえられ、王建に殺される

田令孜は兄の陳敬瑄を頼って西川に逃れた。
その後、西川は王建によって攻略される。

田令孜は捕らえられ、893年に兄とともに処刑された。

歴史的評価:唐末崩壊の象徴

  • 幼帝を操り、神策軍を独占した専横宦官

  • 黄巣の乱を悪化させ、長安を二度放棄

  • 藩鎮との対立を激化させ、末の崩壊を加速

田令孜は、末の政治崩壊を象徴する存在として、 後世の史家から厳しく批判されている。

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