竇憲(とうけん)は、後漢の章帝・和帝期に活動した外戚・武将。
章帝の皇后である竇皇后の兄として宮廷で勢力を伸ばし、
和帝即位後には幼帝を補佐する竇太后のもとで朝政を掌握した。
一方で、竇憲の名を中国史に残したのは外戚としての権勢だけではない。
永元元年(89)、北匈奴を稽落山で破り、燕然山まで進軍して班固に戦勝碑文を作らせた。
この遠征は「燕然勒石」として後世まで語られ、
永元3年(91)の金微山の戦いによって北匈奴はさらに西方へ追われた。
しかし、その出発点には劉暢暗殺事件があった。
処罰を恐れた竇憲が匈奴遠征を願い出たと『後漢書』は記している。
軍功によって大将軍となった後は朝廷を圧倒する権力を握ったが、
永元4年(92)、成長した和帝による粛清を受け、封国で自殺を命じられた。
出自と章帝時代
名門・竇氏に生まれる
竇憲、字は伯度。生年は伝わっていない。
扶風郡平陵県を本貫とする竇氏の出身で、後漢建国に功績を挙げた竇融の曾孫にあたる。
竇氏はさらに前漢までさかのぼる家柄でもあった。
竇融の七世祖にあたる竇広国は文帝の皇后・竇皇后の弟で、章武侯に封じられている。
後漢に入ると竇融が光武帝に帰順して功臣となり、その一族は皇室との婚姻を重ねた。
竇憲の父は竇勛、母は東海恭王劉彊の娘である沘陽公主。
つまり竇憲は父方では後漢の功臣竇融の子孫、母方では光武帝の曾孫にあたる皇族の血を引いていた。
しかし父の竇勛は罪を得て処刑され、竇憲は幼くして父を失った。
この父の死は後年まで竇憲の行動に影響を残した。
妹が後の章徳竇皇后で、弟には竇篤・竇景・竇瓌らがいた。
妹が章帝の皇后となる
建初2年(77)、妹の竇氏が章帝の後宮に入り、翌年に皇后となった。
これによって竇憲の立場は一変する。
竇憲は郎に任じられ、その後、侍中、虎賁中郎将へと昇進した。
弟の竇篤も黄門侍郎となり、兄弟は宮中に出入りして皇帝の側近となった。
賞賜も重なり、陰氏・馬氏など歴代の外戚や諸王・公主でさえ竇兄弟を憚るほどになったという。
沁水公主の園田を奪う
権勢を得た竇憲は、沁水公主の所有する園田に目をつけた。
沁水公主は明帝の娘で、竇憲にとって皇族の公主である。
それにもかかわらず、竇憲は権勢を背景に園田を安値で手に入れた。
公主は竇憲を恐れ、異議を唱えられなかった。
後に章帝が外出した際、この園田を見て公主に事情を尋ねた。
そばにいた竇憲は、公主が真相を話さないよう密かに威圧したという。
やがて事情を知った章帝は激怒した。
『後漢書』によれば、章帝は竇憲の行為を趙高の「指鹿為馬」以上だと厳しく非難し、
皇族の公主さえ不当に土地を奪われるのであれば一般の民はなおさらだと叱責した。
さらに章帝は、国家にとって竇憲など「孤雛腐鼠」のようなものにすぎない
という趣旨の言葉まで浴びせた。
竇憲は震え上がり、皇后も服を改めて深く謝罪した。
最終的に園田は沁水公主へ返還された。
竇憲自身は処罰されなかったものの、章帝は以後、彼に重要な職務を任せなかったとされる。
↓↓鹿を馬と言わせた趙高についての個別記事は、こちら

父の事件を調べた韓紆への報復
竇憲は父・竇勛の死に強い恨みを抱いていた。
永平年間、謁者の韓紆は竇勛の事件を取り調べた人物だった。
竇憲は後に客を使って韓紆の子を殺害させ、その首を父の墓前に供えたという。
『後漢書』は竇憲について、
性格は果断でせっかちであり、わずかな恨みでも必ず報復したと記している。
韓氏への報復は、その性格を示す具体例として伝えられている。
和帝即位と竇氏の権力掌握
和帝即位と竇太后の臨朝
章和2年(88)、章帝が死去し、和帝が即位した。
和帝はまだ幼く、竇皇后が皇太后として臨朝称制を行った。
竇憲は侍中として宮中の機密を扱い、外に対して太后の命令を公布する立場となった。
章帝の遺詔によって竇篤は虎賁中郎将、竇景・竇瓌も宮中の要職に置かれ、竇氏兄弟が内廷を固めた。
↓↓章帝の母(養母)として外戚勢力を主導した竇皇后についての個別記事は、こちら

鄧彪と桓郁を登用する
竇憲はただ自ら前面に出るのではなく、朝廷内に支持基盤を築いた。
前太尉の鄧彪は章帝から尊敬された人物で、温厚な性格でもあった。
竇憲は鄧彪を太傅に推し、百官がその指示を受ける体制を整えた。
竇憲が行おうとする政策は、外では鄧彪から奏上させ、
内では竇太后に報告し、ほとんどが認められたという。
また、歴代皇帝の教育に関わった桓郁を推薦し、宮中で和帝に経書を講じさせた。
『後漢書』は、こうした人事によって内外の人々が竇氏に従い、
当初は大きな反発が表面化しなかったとしている。
劉暢暗殺事件
竇憲の転機となったのが、都郷侯劉暢の暗殺だった。
劉暢は斉殤王の子で、章帝の喪に服するため洛陽を訪れていた。
劉暢は歩兵校尉鄧疊の一族と親しく、鄧疊の母を通じて長楽宮の竇太后にも接近した。
やがて竇太后から召し出されるほどになった。
竇憲は、劉暢が竇太后の寵愛を得れば宮中における自分の権力が分割されるのではないかと恐れた。
そこで配下の刺客を送り、警備兵が配置された屯衛の中で劉暢を暗殺させた。
劉暢の弟に罪を着せる
竇憲は暗殺後、その罪を劉暢の弟である利侯劉剛に負わせようとした。
侍御史と青州刺史に命じ、劉剛らを取り調べさせた。
しかし事件の真相は発覚した。
竇太后は激怒し、竇憲を宮中に閉じ込めた。
父の仇への報復や公主の園田強奪とは異なり、
今度は皇族を暗殺し、さらに別の皇族へ罪を転嫁しようとした事件だった。
死罪を逃れるため匈奴遠征を願い出る
竇憲は処刑されることを恐れ、自ら北匈奴を討って罪を償いたいと申し出た。
ちょうど南匈奴から北匈奴討伐の要請が届いていたため、竇憲は車騎将軍に任命された。
金印紫綬を授けられ、官属は司空に準じ、執金吾の耿秉が副将となった。
北軍五校、黎陽・雍の兵、辺境十二郡の騎兵に加え、羌・胡の兵も動員された。
後世には竇憲は対匈奴戦争の名将として知られるが、
『後漢書』の記述に従えば、この遠征は当初から軍功を求めて計画されたものではなく、
劉暢暗殺事件による処刑を免れるために始まったものだった。
北匈奴遠征と軍功
稽落山の戦いと燕然勒石
永元元年(89)、竇憲は耿秉とともに北匈奴への大規模な遠征を開始した。
竇憲と耿秉はそれぞれ四千騎を率い、
南匈奴の左谷蠡王師子の一万騎とともに朔方郡の雞鹿塞から出撃した。
南単于屯屠河は一万余騎を率いて満夷谷から、
度遼将軍鄧鴻らも羌胡・南匈奴の軍勢とともに稒陽塞から進み、涿邪山で合流した。
竇憲は副校尉閻盤、司馬耿夔・耿譚らに精鋭一万余騎を与え、北匈奴軍と稽落山で戦わせた。
北匈奴は大敗し、北単于は逃走した。漢軍はさらに追撃し、私渠比鞮海まで進んだ。
『後漢書』によれば、名王以下一万三千人を斬り、捕虜と馬・牛・羊・駱駝など百余万頭を獲得した。さらに八十一部、前後二十余万人が漢に降った。
燕然山に登り、班固に銘文を書かせる
勝利した竇憲と耿秉は、塞外三千余里にある燕然山まで進んだ。
そこで山に登って石に戦功を刻み、漢の威徳を記念した。
文章を担当したのが、『漢書』の著者として知られる班固である。
これが「燕然勒石」と呼ばれる故事であり、班固の「封燕然山銘」は後世まで伝わった。
銘文では、漢軍が砂漠を越えて匈奴の旧地へ進み、漢の国威を遠方に示したことが称えられている。
「勒石燕然」「燕然勒功」は後世、
中国王朝の武将が北方で大功を立てることを象徴する表現となった。
北単于への使者と古鼎
竇憲は帰還に際して軍司馬の呉汜と梁諷を北単于のもとへ送り、金帛を与えて漢への帰順を促した。
北匈奴内部では動揺が広がっており、使者が進むにつれて一万余人が降伏した。
梁諷らは西海付近で北単于に会い、前漢の呼韓邪単于の故事にならって漢に服属するよう説いた。
北単于はこれを受け入れようとし、弟の右温禺鞮王を漢へ入朝させた。
しかし竇憲は単于本人が来なかったことを理由に、その弟を送り返した。
この頃、南単于は漠北で古い青銅鼎を入手し、竇憲へ贈った。
鼎には「仲山甫鼎」とあり、子孫が永くこれを保有することを願う銘文が刻まれていたという。
竇憲はこの鼎を朝廷に献上した。
大将軍となる
遠征の成功を受け、朝廷は使者を五原へ送り、竇憲を大将軍に任命した。
さらに武陽侯、食邑二万戸を与えようとしたが、竇憲は侯爵を固辞した。
当時、大将軍の席次は三公の下だった。
しかし竇憲の威勢があまりに強くなったため、公卿たちはその意向を察し、
大将軍の席次を太傅の下、三公の上へ変更するよう奏上した。
大将軍府の官属も増員・昇格された。
洛陽へ凱旋すると倉庫を開いて将兵に恩賞を与え、
遠征に参加した郡太守級官僚の子弟は太子舍人に任命された。
竇氏一族の栄華
竇篤は衛尉、竇景・竇瓌は侍中・奉車都尉・駙馬都尉などを務め、
四兄弟は競うように豪華な邸宅を築いた。
翌年、朝廷は改めて竇憲を冠軍侯、食邑二万戸とし、
竇篤を郾侯、竇景を汝陽侯、竇瓌を夏陽侯として、それぞれ六千戸を与えた。
しかし竇憲だけは再び侯爵を受けなかった。
その後、竇憲は軍を率いて涼州へ出鎮し、鄧疊を副将とした。
北匈奴をさらに追い詰める
北単于は再び漢への入朝を申し出た。
竇憲は中護軍の班固を中郎将として派遣し、司馬梁諷とともに北単于を迎えさせた。
しかしその間に北単于は南匈奴の攻撃を受けて負傷し、逃亡したため、班固は私渠海から引き返した。
北匈奴の弱体化を見た竇憲は、さらに軍事行動を進めた。
永元3年(91)、右校尉耿夔、司馬任尚・趙博らを派遣して金微山で北匈奴を攻撃させ、大勝した。
北単于は逃亡し、その行方は分からなくなった。
この敗北によって北匈奴の漠北における勢力は決定的に衰え、残存勢力の一部は西方へ移動した。
ただし、後世のヨーロッパに現れるフン族と北匈奴を直接同一視できるかについては議論があり、
竇憲の遠征をそのまま「フン族西遷の原因」と断定することはできない。
大将軍府と竇憲の権勢
大将軍府に集まった班固・傅毅・崔駰
匈奴遠征後、竇憲の幕府には当時を代表する文人が集まった。
班固は中護軍として仕え、燕然山の銘文を作成した。
傅毅は主記室となり、竇憲が大将軍になると司馬へ進んだ。
崔駰も主簿として幕府に加わった。
『後漢書』傅毅伝は、竇憲の幕府について文章の盛んなことは「当世に冠たり」と評している。
崔駰は竇憲を繰り返し諫める
崔駰は単に竇憲を称賛した人物ではなかった。
竇憲が権力をほしいままにするようになると、崔駰はたびたび諫言した。
匈奴遠征中にも竇憲の違法行為が増えたため、
主簿として数十回にわたり意見書を提出し、問題点を指摘したという。
竇憲はこれを嫌い、次第に崔駰を遠ざけた。
やがて崔駰を長岑県の長に推薦する形で幕府から出したが、崔駰は赴任せず帰郷した。
朝廷を覆った竇憲の権力
北匈奴を破った後、竇憲の名声と権力は頂点に達した。
軍事面では耿夔・任尚らを配下とし、鄧疊・郭璜らを腹心とした。
班固や傅毅らが文章を担当し、地方の刺史や太守にも竇憲の門下から任命される者が増えた。
大将軍府が軍事機関であるだけでなく、
人事・政治・文化にまで影響を及ぼす巨大な権力機構となっていたことがうかがえる。
郅寿と楽恢
竇憲に逆らった官僚への圧力も強まった。
尚書僕射の郅寿と楽恢は竇憲の意向に逆らい、相次いで自殺に追い込まれたと『後漢書』は記す。
朝臣は竇憲を恐れ、その意向を察して従うようになった。
一方で、司徒袁安や司空任隗らは竇氏の権力に抵抗した。
匈奴遠征による財政負担が大きくなると、任隗は竇憲を召還するよう繰り返し上奏し、
袁安とともに竇氏に対して直言を続けた。
竇氏一族の横暴
竇憲だけでなく、一族全体が朝廷の要職を占めた。
竇篤は特進となり、三公に準じる礼遇を受けた。
竇景は執金吾、竇瓌は光禄勲となった。
叔父の竇霸は城門校尉、竇褒は将作大匠、竇嘉は少府となり、
ほかにも侍中・将軍・大夫・郎吏など十余人が官職に就いていた。
なかでも竇景の行状は『後漢書』で詳しく非難されている。
竇景の奴客や執金吾配下の緹騎は権勢を頼みに民衆を侵害し、
財物を強奪し、罪人を奪い取り、女性をさらったという。
商人は彼らを避けるため店を閉ざし、官吏も恐れて告発できなかった。
竇太后自身がこれを知り、竇景を免官して特進だけを残した。
これに対して竇瓌は経書を好み、節約して身を慎んでいたと記されており、
『後漢書』も竇氏兄弟を一様に描いてはいない。
和帝による粛清と竇憲の死
和帝が竇憲排除へ動く
永元4年(92)、竇氏政権は突然崩壊した。
この頃、鄧疊と弟の鄧磊、その母、竇憲の女婿である射声校尉郭挙、その父郭璜らが結びついていた。郭挙らは宮中にも出入りし、やがて和帝を殺害する計画を立てたと『後漢書』は記す。
和帝は密かに計画を知った。
しかし竇憲は軍を率いて都の外にいた。
先に行動すれば、竇憲が軍事力を背景に反乱を起こす危険があったため、
和帝はすぐには動かなかった。
和帝が協力者に選んだのが中常侍の鄭衆だった。
↓↓外戚排除に協力した宦官・鄭衆についての個別記事は、こちら

竇憲の帰京を待って宮城を封鎖
竇憲と鄧疊が軍を率いて洛陽へ帰還すると、
朝廷は表向きには大鴻臚を郊外まで出迎えさせ、将兵にも恩賞を与えた。
その後、和帝は北宮へ移動し、執金吾と五校尉に兵を率いさせて南宮・北宮を警備させ、
洛陽の城門を閉じた。
鄧疊・鄧磊・郭璜・郭挙らは一斉に逮捕され、獄中で処刑された。その家族は合浦へ流された。
続いて使者が竇憲の大将軍印綬を没収した。
竇憲は大将軍を解任され、かつて辞退していた冠軍侯に改めて封じられた。
竇篤・竇景・竇瓌も中央から追放され、それぞれの封国へ向かうよう命じられた。
竇憲の死
和帝は竇太后への配慮から、竇憲を公然と処刑する形を取らなかった。
その代わり、竇憲らの封国には厳格で有能な国相を配置し、行動を監視させた。
竇憲・竇篤・竇景は封国に到着すると、自殺を迫られた。永元4年(92)のことである。
竇瓌だけは日頃から身を慎んでいたため、この時点では自殺を強要されなかった。
竇憲の宗族や賓客のうち、彼の力によって官職を得た者も免官され、本郡へ帰された。
竇憲の死後
班固も竇氏失脚に巻き込まれる
竇憲の失脚は、その幕府にいた人々にも及んだ。
班固も竇氏の賓客として取り調べの対象となった。
以前、班固の家の奴僕が洛陽令の種兢の行列を妨害し、酔って罵ったことがあった。
種兢は激怒したものの、当時は竇憲の権勢を恐れて処罰できなかった。
竇氏が失脚すると、種兢は班固を逮捕して投獄した。
班固は永元4年(92)、獄中で死去した。六十一歳だった。
和帝は後に種兢を譴責し、事件を担当した官吏を処罰している。
竇瓌も後に自殺を命じられる
粛清を免れた竇瓌も、そのまま生涯を終えたわけではない。
竇皇后がかつて和帝の実母である梁貴人一族を陥れた際、竇憲ら兄弟も関与していた。
永元10年(98)、梁棠兄弟が流刑地の九真から帰還する途中、
長沙を通過した際に竇瓌へ自殺を迫り、竇瓌も死んだ。
竇氏一族の帰京
竇憲の粛清後、一族の一部は本郡へ戻されていた。
永初3年(109)、和熹鄧太后が臨朝していた時代になると、
かつて本郡へ帰された竇氏の人々に対して、安豊侯竇万全とともに洛陽へ戻ることが許された。
竇氏そのものが竇憲の失脚によって断絶したわけではなく、
その後も一族から官僚や後宮の女性が出ている。
竇憲の評価
竇憲の評価を難しくしているのは、軍事的功績と政治的行動の落差にある。
范曄は『後漢書』の論で、衛青・霍去病が強大な前漢の国力を使い、
長年にわたって匈奴と戦っても完全には制圧できなかったのに対し、
竇憲は羌胡などを含む辺境の混成軍を率いて一挙に北匈奴を破り、
稽落山の彼方まで追撃して燕然山に功績を刻んだとして、その軍功自体を高く評価している。
実際、稽落山の勝利、燕然勒石、北匈奴諸部の大量降伏、さらに金微山での追撃は、
後漢の北方政策に大きな転換をもたらした。
しかし范曄は同時に、これほどの功績がありながら後世に竇憲が名将として称えられなかった理由を、
その晩年の行いに求めている。
竇憲は皇后の兄という立場から権力を得たが、
章帝時代にはすでに沁水公主の園田を奪い、父の事件に関わった韓紆の家族へ報復した。
和帝即位後には劉暢を暗殺し、その罪を別人に負わせようとしている。
匈奴遠征も、その暗殺事件による処刑を免れるために始まったものだった。
一方、遠征そのものは大きな軍事的成果を挙げ、その結果として竇憲の権力はさらに拡大した。
大将軍の席次は三公より上へ引き上げられ、地方官の人事にも影響を及ぼし、
弟や親族が中央官界を占めた。班固・傅毅・崔駰ら一流の文人が集まった大将軍府も、
この権力の一部だった。
永元4年の粛清は、単なる一武将の失脚ではない。
幼少で即位した和帝が外戚竇氏から実権を取り戻した政変であり、
その過程で宦官の鄭衆が皇帝側の協力者として重要な役割を果たした。
後漢ではこの後も外戚と宦官が皇帝権力をめぐって大きな役割を担うことになる。
竇憲は、後漢最大級の対匈奴戦勝を実現した将軍であると同時に、
外戚として朝廷を圧倒する権力を握り、その権力ゆえに和帝から排除された人物だった。
「燕然勒石」という軍事的功績だけでも、外戚の専横だけでも、
その生涯全体を捉えることはできない。
まとめ
竇憲は後漢の功臣竇融の曾孫に生まれ、妹が章帝の皇后となったことで外戚として台頭した。
章帝時代から沁水公主の園田を奪うなど権勢を振るい、
和帝即位後には竇太后の兄として朝政の中心に入った。
劉暢を暗殺した事件によって処罰の危機に陥ると、北匈奴討伐を願い出て出征し、
永元元年には稽落山で大勝して燕然山に戦功を刻んだ。
その後も金微山への遠征によって北匈奴を追い詰め、大将軍として三公を上回る地位を得た。
しかし軍功によって強大になった竇氏の権力は、やがて和帝にとって排除すべき存在となった。
永元4年、和帝は鄭衆とともに竇氏排除を決行し、竇憲は大将軍の印綬を奪われて封国へ送られ、
自殺を命じられた。
竇憲の死後には幕府に属した班固も事件に巻き込まれて獄死し、竇氏一族も中央政界から排除された。
一方、燕然山に刻まれた戦功は「燕然勒石」という故事となり、
竇憲の政治的評価とは別に、北方遠征の象徴として後世に残った。
史書・参考文献
『後漢書』巻4「和帝紀」
『後漢書』巻10上「皇后紀上・章徳竇皇后」
『後漢書』巻23「竇融列伝・竇憲」
『後漢書』巻40下「班彪列伝下・班固」
『後漢書』巻45「袁張韓周列伝」
『後漢書』巻80上「文苑列伝上・傅毅、崔駰」
『後漢書』南匈奴列伝・北匈奴列伝
班固「封燕然山銘」(『文選』巻56)
『資治通鑑』漢紀(章帝・和帝期)
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