唐王朝の皇帝家系図と一覧|李淵から哀帝まで

唐王朝皇帝一覧・家系図 家系図
  1. 唐:略家系図
  2. 唐(618–907):皇帝一覧
    1. ※補足(唐の特殊枠)
    2. ①高祖(李淵)|建国者
      1. 関連リンク
    3. ②太宗(李世民)|唐建国の実質的な立役者
      1. 関連リンク
    4. ③高宗(李治)|唐の最大版図を実現
      1. 関連リンク
    5. ④中宗(李顕)|母・妻・娘に振り回され続けた皇帝
      1. 関連リンク
    6. ⑤睿宗(李旦)|激動の時代を生き抜いた生存力の高い皇帝
      1. 関連リンク
    7. ⑥玄宗(李隆基)|唐王朝を最盛期を築き、衰退のきっかけも作った皇帝
      1. 関連リンク
    8. ⑦粛宗(李亨)|唐を滅亡寸前から救った皇帝
      1. 関連リンク
    9. ⑧代宗(李豫・李俶)|安史の乱後の混乱を引き継いだ再建期の皇帝
      1. 関連リンク
    10. ⑨徳宗(李適)|中央集権の立て直しを試みたが、逆に混乱を招いた皇帝
      1. 関連リンク
    11. ⑩順宗(李誦)|可能性はあったが、時間がなかった皇帝
    12. ⑪憲宗(李純)|「元和中興」と呼ばれる復興期を実現した皇帝
    13. ⑫穆宗(李恒)|唐の衰退を再加速させた皇帝
      1. 関連リンク
    14. ⑬敬宗(李湛)|遊興に溺れ、宦官に殺された若き皇帝
    15. ⑭文宗(李昂)|名君の資質はあるが、時代がそれを許さなかった皇帝
      1. 関連リンク
    16. ⑮武宗(李炎)|中国史上最大規模の宗教弾圧(会昌の廃仏)
    17. ⑯宣宗(李忱)|安定期を作り出した皇帝
    18. ⑰懿宗(李漼)|唐の衰退を決定的に進めた皇帝
    19. ⑱僖宗(李儇)|流亡の皇帝
      1. 関連リンク
    20. ⑲昭宗(李晔)|唐最後の抵抗を試みた皇帝
      1. 関連リンク
    21. ⑳哀帝(李柷)|軍閥に翻弄された悲劇の少年皇帝
  3. 王朝らしさ:
    1. キーワード
    2. 空気感
    3. 物語性
    4. 崩壊パターン
  4. 関連リンク

唐:略家系図

唐王朝皇帝一覧と家系図(李世民、玄宗、武則天含む)
唐王朝皇帝一覧と家系図

唐(618–907):皇帝一覧

廟号諡号名前
(諱)
生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
在位期間
 高祖 李淵り・えん566-635
(69歳)
618ー626
(52歳)ー(60歳)
  8年  
太宗李世民り・せいみん598-649
(51歳)
626ー649
(28歳)ー(51歳)
23年
高宗李治り・ち628-683
(55歳)
649ー683
(21歳)ー(55歳)
34年
中宗李顕り・けん656-710
(54歳)
684ー684
(28歳)ー(28歳)
約1年
睿宗李旦り・たん662-716
(54歳)
684ー690
(22歳)ー(28歳)
6年
 則天順聖皇帝 武曌ぶ・しょう624-705
(81歳)
690ー705
(66歳)ー(81歳)
15年
 中宗李顕り・けん656-710
(54歳)
705ー710
(49歳)ー(54歳)
5年
 睿宗李旦り・たん662-716
(54歳)
710ー712
(48歳)ー(50歳)
2年
玄宗李隆基り・りゅうき685-762
(77歳)
712ー756
(27歳)ー(71歳)
44年
肅宗李亨り・こう711-762
(51歳)
756ー762
(45歳)ー(51歳)
6年
代宗李豫り・よ727-779
(52歳)
762ー779
(35歳)ー(52歳)
17年
徳宗李适り・かつ742-805
(63歳)
779ー805
(37歳)ー(63歳)
26年
順宗李誦り・しょう761-806
(45歳)
805ー805
(44歳)ー(44歳)
約半年
憲宗李純り・じゅん778-820
(42歳)
805ー820
(27歳)ー(42歳)
15年
穆宗李恒り・こう795-824
(29歳)
820ー824
(25歳)ー(29歳)
4年
敬宗李湛り・たん809-827
(18歳)
824ー827
(15歳)ー(18歳)
3年
文宗李昂り・こう809-840
(31歳)
827ー840
(18歳)ー(31歳)
13年
武宗李炎り・えん814-846
(32歳)
840ー846
(26歳)ー(32歳)
6年
宣宗李忱り・しん810-859
(49歳)
846ー859
(36歳)ー(49歳)
13年
懿宗李漼り・さい833-873
(40歳)
859ー873
(26歳)ー(40歳)
14年
僖宗李儇り・けん862-888
(26歳)
873ー888
(11歳)ー(26歳)
15年
昭宗李曄り・よう867-904
(37歳)
888ー904
(21歳)ー(37歳)
16年
哀帝李柷り・しゅく892-908
(16歳)
904ー907
(12歳)ー(15歳)
3年

※補足(唐の特殊枠)

  • 武則天は唐の皇帝ではなく 「武周(690–705)」の皇帝として扱うのが厳密。
    ただし唐史の流れで必ず並べられる。
  • 中宗・睿宗は 二度即位しているため、表では行を分けている。
  • 哀帝は907年に朱全忠により禅譲させられ、唐は滅亡。

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①高祖(李淵)|建国者

の崩壊していく中で、息子の李世民(のちの太宗)の進言もあり、
 太原の名門貴族・李淵が挙兵。
・617年に大興城(長安)を制圧、
 翌618年にの恭帝侑から禅譲を受けて建国された。

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②太宗(李世民)|唐建国の実質的な立役者

・玄武門の変(626年)
 長安宮城の北門玄武門にて、皇太子・李建成と四男・李元吉を殺し、
 さらに父の①高祖(李淵)に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった。
・中国史でも屈指の安定期であり、その治世を「貞観の治」と呼ぶ。

■治世の特徴
 ・有能な人材を登用(魏徴など)
 ・税制の安定
 ・法律の整備
 ・民衆の負担を軽減
 ・農業生産の回復と経済の安定
 ・東突厥を撃破し、北方を安定
 ・西域へ勢力を拡大

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③高宗(李治)|唐の最大版図を実現

・皇太子・李承乾がクーデター未遂を起こして失脚、
 ②太宗(李世民)の寵愛を受けた魏王・李泰も排除され、
 ②太宗(李世民)が溺愛した呉王・李恪(の煬帝の外孫)を擁立する動きがあったため、
 長孫無忌は李恪に謀反の罪を着せて自殺に追い込み、一族を処刑。
 長孫無忌の推挙により、②太宗(李世民)の死後に即位した。
武則天の夫。病弱で政治的存在感が薄い。政治の主導権は以下。
  初期   :外戚・長孫無忌
  中期〜晩年:皇后・武則天

■治世の特徴
・唐の最大版図を実現
・官僚制度の整備

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④中宗(李顕)|母・妻・娘に振り回され続けた皇帝

・父・③高宗(李治)の死後に即位。
 皇后の韋氏の一族を重用しようとすると、母・武則天がクーデターを起こし、
 わずか 約2か月で廃位。④中宗(李顕)は長く幽閉生活を送ることになった。
 武則天が実権を掌握し、のちに自ら皇帝になった。
武則天が老齢になり、クーデターで退位。
 ④中宗(李顕)がは復位したものの、政治の主導権は、韋皇后と娘・安楽公主
・多くの史書は「韋皇后安楽公主に毒殺された可能性」を示唆。

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⑤睿宗(李旦)|激動の時代を生き抜いた生存力の高い皇帝

・兄・④中宗(李顕)の一度目の廃位の際、皇帝に据えられたが、
 実権はすべて母・武則天が握り、李旦は名目上の皇帝にすぎなかった。
武則天が自ら皇帝となり、武周王朝を建てた際は、
  皇位を奪われ、太子として幽閉に近い生活を送った。
・兄・④中宗(李顕)の死後、李隆基(のちの玄宗)と武則天の娘・太平公主らが
 クーデターを起こし、韋皇后一派を粛清。その後、二度目の皇帝として復位した。
・⑤睿宗(李旦)は復位はしたものの、実権は李隆基(のちの玄宗)と武則天の娘・太平公主
 その後、両者は対立。
・権力闘争が激化する中、⑤睿宗(李旦)は自ら皇位を譲り、息子の李隆基が即位した。
 ⑤睿宗(李旦)はその後も「太上皇」として存命し、716年に死去。

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⑥玄宗(李隆基)|唐王朝を最盛期を築き、衰退のきっかけも作った皇帝

・治世前半は、「開元の治」と呼ばれる黄金時代。東アジア最大の超大国に。
  ・官僚制度の整備、人材登用
  ・経済の安定
  ・文化繁栄
  ・国際都市・長安の発展
  ・文化の黄金期
  ・シルクロード交易の最盛期
楊貴妃の登場と政治の乱れ
  ・楊貴妃を寵愛し、政治が側近や外戚に傾き、軍閥が台頭。
・安史の乱
  ・安禄山(節度使)・史思明が大規模反乱を起こし、唐の首都・長安は陥落。
  ・⑥玄宗(李隆基)は長安を捨て蜀へ逃亡。
   途中で兵士たちが「楊国忠と楊貴妃の処刑」を要求し、楊貴妃は自害させられた。
・息子の⑦粛宗に譲位し、太上皇として余生を過ごす。

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⑦粛宗(李亨)|唐を滅亡寸前から救った皇帝

・安史の乱で長安が陥落し、⑥玄宗(李隆基)は蜀へ逃亡、
 ⑦粛宗(李亨)は軍に推されて別行動を取る 。
 その混乱の中で、宦官李輔国の進言で、⑥玄宗(李隆基)に無断で即位。
 (⑥玄宗(李隆基)は後にこの即位を追認し、自らは太上皇となった。)
・安史の乱への対応
  ・名将・郭子儀を中心に軍を再編
  ・ウイグル(回鶻)と同盟
  ・
反乱軍を討伐
  ・長安・洛陽を奪還
宦官李輔国と張皇后の専横を抑えられず、
 晩年は政治的主導力を失ったまま病に倒れ、在位6年で崩御。

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⑧代宗(李豫・李俶)|安史の乱後の混乱を引き継いだ再建期の皇帝

・本名は李俶(り・しゅく)、のちに李豫(り・よ)に改名。
・⑧代宗(李豫)は皇太子になる前から軍事の中心にいた。
・⑦粛宗(李亨)の皇后・張氏と宦官李輔国の後押しで皇太子となる。
・⑥玄宗(李隆基)と⑦粛宗(李亨)が相次いで崩御。
 宦官李輔国らに擁立され、⑧代宗(李豫)が即位した。

  治世の前半:宦官政治との戦い
  治世の中盤:外患と藩鎮の台頭
         ~吐蕃の侵攻(763年)、僕固懐恩の乱(765年)
  治世の後半:財政改革と内政の立て直し
         ~吏治・漕運・塩政を整備、両税法へ移行する前段階の形成

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⑨徳宗(李適)|中央集権の立て直しを試みたが、逆に混乱を招いた皇帝

・若い頃から聡明と評されていた。
・⑧代宗(李豫)の死により即位。 即位時の年齢は37歳。

  治世前半:改革への挑戦
        ~財政改革(塩の専売強化は中唐以降の財政基盤を作った)
        ~藩鎮(地方軍閥)との対立。有力藩鎮が反乱を起こし、
         ⑨徳宗(李適)は長安を追われて逃亡する事態にまで発展。
  治世中盤:朱泚の乱と長安陥落
        ~長安に駐屯していた兵士が待遇に不満を持ち反乱、長安を占領。
         ⑨徳宗(李適)は逃亡し、郭子儀らの協力でようやく長安を奪回。
  治世後半:宦官政治の固定化
        ~反乱鎮圧の過程で、宦官仇士良霍仙鳴 などが軍権を握る。

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⑩順宗(李誦)|可能性はあったが、時間がなかった皇帝

・若い頃から聡明で温厚と評された。
・即位直後に重い中風(脳卒中)を発症し、言語障害と運動障害が残ったとされる。
 そのため、政治の実権が分散し、宮廷は改革派と保守派で揺れ動くことになる。
・順宗期に行われた改革は「永貞の革新」と呼ばれる。
 中心人物は、王叔文や王伾らの官僚グループで、唐後期の腐敗構造を正そうとした。
宦官勢力の反発、保守派の巻き返し、皇帝の病状悪化により、永貞の革新は半年で崩壊した。
・息子の李純(のちの憲宗)に譲位した後は「太上皇」として静かに暮らした。

⑪憲宗(李純)|「元和中興」と呼ばれる復興期を実現した皇帝

・⑪憲宗(李純)の治世は「元和中興」と呼ばれ、 安史の乱以降で最も唐が安定し、
 中央の力が回復した時代とされる。
・⑩順宗(李誦)に行われた「永貞の革新」は失敗したが、その改革精神を受け継ぎ、
 より現実的な形で唐の再建に取り組んだ。
  ・中央集権の回復
  ・宦官との協調
  ・財政の改善
・憲宗期は政治だけでなく文化も安定し、 中唐文学(韓愈・柳宗元など)が
 発展した時代でもある。
・⑪憲宗(李純)は後半になると強権化し、 宦官の権力を削ごうとしたため、関係が悪化。
 突然死。宦官・陳弘志らによって寝所で暗殺されたとされる。

⑫穆宗(李恒)|唐の衰退を再加速させた皇帝

・酒宴・音楽・遊興を好み、政務を軽視したと史書に記される。
・⑪憲宗(李純)が強権で押さえつけていた「藩鎮(地方軍閥)」「宦官勢力」
 が再び力を取り戻し、政治は不安定化していく。
・在位わずか4年、29歳で急死。死因は病とされるが、遊興による健康悪化とも言われる。

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⑬敬宗(李湛)|遊興に溺れ、宦官に殺された若き皇帝

・音楽・舞踊・狩猟などを好み、政務よりも娯楽に傾いたとされる。
・15歳で即位したときには、すでに朝廷の主導権は宦官が握っており、
 政治を動かせる状況ではなかった。
・遊興にふけり、側近の宦官や近侍に対しても
 暴力的な振る舞いを見せることがあったとされる。
 そのため、宮中の不満が高まり、夜間の宴席中に、宦官王守澄らによって殺害された。
 享年18歳。 在位わずか3年での悲劇だった。

⑭文宗(李昂)|名君の資質はあるが、時代がそれを許さなかった皇帝

・最初から“力のない皇帝”としてスタートした。
  ・
宦官禁軍(皇帝直属軍)を完全に掌握
  ・皇帝は軍事力を持たない
  ・宦官の監視下で自由に政治ができない
  ・藩鎮(地方軍閥)も半独立状態
学問好きで温厚、改革意欲の強い皇帝だったが、 宦官の軍事支配を打破できず、
 ついに「甘露の変」という大事件を招いた。
 この失敗により、宦官の権力はさらに強まり、皇帝は完全に傀儡化。
 ⑭文宗(李昂)はうつ状態に近い精神状態になったと記録される。
・31歳で崩御。 死因は病とされるが、精神的疲弊が大きかったと考えられている。

甘露の変(835年)とは
 文宗(李昂)は、宰相・李訓、将軍・鄭注らと密かに宦官討伐を計画。
 「甘露(霊験のある露)が降った」と偽り、宦官を呼び寄せて
 一気に殺害する計画作戦だった。
 しかし、宦官仇士良が先に察知し、逆に文宗側の官僚・兵士を大量虐殺。
 文宗自身も宦官に拘束され、宮中で監禁状態に置かれた。
 甘露の変は、「唐が再び立ち直る可能性を完全に失った事件」 とされる。

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⑮武宗(李炎)|中国史上最大規模の宗教弾圧(会昌の廃仏)

・当初、皇位継承の有力候補ではなかったが、宦官の支持を受けて即位。
・若く精力的で、政治への意欲も強かったが、
 宦官の軍事支配という構造は変わらず、皇帝の権力は限定的だった。
・仏教弾圧(会昌の廃仏)で有名。中国史上最大規模の宗教弾圧であり、
 唐の財政は一時的に改善した。史書によれば、
  ・寺院 4,600以上を破壊
  ・僧尼 26万人を還俗(俗人に戻す)
  ・寺院の土地・財産を没収し、国家財政に組み入れた
・⑮武宗(李炎)自身は、道教を深く信仰。
 不老長寿を求めて道教の丹薬(鉱物系の薬)を服用の影響で体調を崩し急死。

⑯宣宗(李忱)|安定期を作り出した皇帝

・性格は寡黙、「愚かな王子」と周囲から軽視され、長い間、皇位とは縁の薄い存在だったが、
 ⑮武宗(李炎)の死後、宦官の支持で即位。
・即位すると評価は一変。短期間ながら政治を立て直し、
 「小中興」と呼ばれる安定期を作り出した。その治世は 「大中の治」 と呼ばれる。
  ・財政と行政の安定
  ・宦官とのバランスを取った統治
  ・⑮武宗(李炎)の仏教弾圧(会昌の廃仏)を緩和
・⑯宣宗(李忱)自身が詩文に優れ、文化を愛した皇帝だったため、
 「文学」「書画」「音楽」などが再び活発になり、宮廷文化が安定した。
・49歳で崩御。死因は病とされるが、詳細は不明。

⑰懿宗(李漼)|唐の衰退を決定的に進めた皇帝

・酒宴・音楽・舞踊・宮廷の娯楽を好み、 政務をほとんど顧みなかったと史書に記される。
 贅沢と浪費が続き、財政悪化が進んだ。
・⑰懿宗(李漼)は仏教を強く信仰し、政治を左右するほどだった。
  ・仏舎利(仏の遺骨)を盛大に迎える儀式
  ・寺院への過剰な施し
  ・僧侶の増加
・⑯宣宗(李忱)が抑えていた宦官勢力が、懿宗期に再び暴走。
・藩鎮の独立化が加速。
・社会不安の拡大による民衆の不満。

⑱僖宗(李儇)|流亡の皇帝

宦官田令孜らに擁立されて11歳で即位。
 幼少のため政務は宦官が掌握し、⑱僖宗(李儇)は遊興にふける生活を送った。
黄巣の乱(874〜884)
 塩の密売商人だった黄巣が大反乱を起こし、長安も陥落。
 ⑱僖宗(李儇)は蜀(成都)へ逃亡し、10年近く都に戻れなかった。
李克用などの軍閥が活躍し、黄巣の反乱は鎮圧したが、その代償として、
 地方軍閥は完全に自立、唐王朝の統制力はほぼ崩壊した。
・混乱の中で、病死(27歳)。

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⑲昭宗(李晔)|唐最後の抵抗を試みた皇帝

・原名は李杰 → 李敏 → 即位後に李晔へ改名。
・昭宗(李晔)は学問好きで、儒教を重んじ、政治改革への意欲が強かったとされる。
 皇帝権力回復を目指し、宦官勢力を排除や藩鎮との戦いなどの改革を試みたが、失敗。
・軍閥の力には勝てず、実権を握った朱全忠により殺害された。

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⑳哀帝(李柷)|軍閥に翻弄された悲劇の少年皇帝

・朱全忠は、⑲昭宗(李晔)を殺害し、
 幼い⑳哀帝(李柷)を皇帝に据え、完全な傀儡政権を作った。
・907年、朱全忠は⑳哀帝(李柷)に禅譲を強制し、自ら後梁の太祖として即位。
 これにより、唐王朝は滅亡。
・⑳哀帝(李柷)
は「済陰王」に格下げされ、形式上は生かされたが、
 朱全忠にとっては邪魔な存在であり、翌908年に毒殺されたとされる。享年16歳。

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王朝らしさ:

「華麗なる世界帝国 → 宮廷クーデターと宦官

キーワード

空気感

  • 前半:世界帝国の絶頂
  • 中盤:反乱で衰退
  • 後半:宦官政治

物語性

崩壊パターン

「反乱 → 地方軍閥化 → 宦官政治」

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