蹇碩は後漢末期の宦官で、
霊帝の信任を一身に受け、西園八校尉の筆頭として近衛軍を掌握した人物。
霊帝の死後は、皇太子劉協(のちの献帝)を擁立しようと動くが、
外戚・何進に阻まれ、逆に殺害されてしまう。
その死は、後に董卓の台頭、そして後漢崩壊へとつながる
「後漢末の連鎖崩壊の起点」とも言える。
蹇碩とは
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霊帝に最も寵愛された中常侍
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西園八校尉の筆頭・上軍校尉
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皇太子劉協(献帝)擁立を計画
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外戚・何進に殺害される
霊帝の寵愛と出世
霊帝の側近として台頭
蹇碩は霊帝に深く寵愛され、 中常侍(皇帝の最側近)に抜擢された。
宦官の中でも特に信任が厚く、宮中の実務を掌握した。
西園八校尉の筆頭に任命
霊帝は軍制改革として「西園軍」を創設し、
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上軍校尉
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下軍校尉
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左・右・前・後・中・外
の八校尉を置いた。
蹇碩は宦官でありながら、 身体が壮健で武勇に優れていたため、
上軍校尉に任命され、八校尉の筆頭となった。
これは異例中の異例で、 宦官が近衛軍の最高指揮官となった唯一の例とされる。
皇太子問題と劉協(献帝)擁立計画
霊帝は劉弁を嫌い、劉協を皇太子にしたかった
霊帝には
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劉弁(のちの少帝)
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劉協(のちの献帝) の二人の皇子がいた。
霊帝は劉弁の軽率な性格を嫌い、 劉協を皇太子にしたいと考えていた。
蹇碩に「劉協を守れ」と遺言
霊帝は死の直前、蹇碩に 「劉協を補佐し、皇位につけよ」 と遺言したと伝えられる。
蹇碩はこの遺志を守るため、 劉協擁立のクーデターを計画する。
何進との対立と蹇碩の最期
何進は劉弁を擁立
霊帝の死後、外戚の何進(何皇后の兄)は
自分の姉の子である劉弁を皇帝に即位させた。
これは蹇碩の計画と真っ向から対立する。
↓↓体制崩壊の中心にいた・何皇后についての個別記事は、こちら

蹇碩、何進誅殺を計画
蹇碩は劉協を皇帝にするため、 邪魔となる何進を誅殺しようと動いた。
しかし計画は露見し、逆に何進の手勢に襲われ、 蹇碩は殺害されてしまう。
蹇碩の死が後漢崩壊の引き金に
蹇碩の死後、
蹇碩の死は、 後漢末の大混乱の“最初のドミノ”だったと言える。
曹操との因縁
曹操が蹇碩の叔父を処刑
曹操が若い頃、洛陽北部尉を務めていた時、
蹇碩の叔父が夜間外出の禁令を破ったため、曹操はこれを捕らえて棒で打ち殺した。
この事件は、「曹操は権勢ある宦官の親族でも容赦しなかった」 という逸話として有名。
三国志演義での扱い
十常侍の筆頭のように描かれる
小説『三国志演義』では、 蹇碩はしばしば十常侍の中心人物として描かれる。
実際には十常侍とは別系統の宦官だが、
「霊帝に寵愛された悪宦官」というイメージが強調されている。
↓↓三国時代の幕開けを引き起こした・十常侍についての個別記事は、こちら

歴史的評価
宦官としては異例の軍事指揮官
蹇碩は宦官でありながら、
・近衛軍の最高指揮官
・皇太子擁立の中心人物
という異例の地位にあった。
霊帝の遺志を守ろうとした忠臣か?
史書では、
・霊帝の遺言を守ろうとした忠臣
・皇太子問題に介入した危険人物
という二つの評価が存在する。
彼の死が後漢崩壊の起点
蹇碩が何進に殺されたことで、 後漢末の大混乱が一気に加速した。
蹇碩は、 後漢末の歴史を動かした“影のキーマン”と言える。

