亦失哈(イシハ)|黒竜江下流へ派遣された明の宦官

亦失哈(明の宦官) 037.宦官

亦失哈(イシハ、生没年不詳)は、の永楽帝・宣徳帝の時代に、
黒竜江下流の奴児干(ヌルガン)方面へ繰り返し派遣された宦官である。

永楽年間の朝は、遼東から松花江・黒竜江流域に住む女真などの諸集団との関係を広げ、
現地首長にの官職を与えて衛所に組み込んだ。
1409年には黒竜江下流に奴児干都指揮使司(奴児干都司)が置かれ、
亦失哈はその後、船団を率いて現地へ派遣された。

亦失哈自身が奴児干都司を創設したわけではない。
その役割は、すでに設けられていた奴児干都司と周辺の諸集団との関係を維持し、
皇帝の命令や恩賞を伝え、朝貢を促し、朝の北東方面への働きかけを実行することにあった。

亦失哈の活動を伝える重要な史料が、黒竜江下流の特林に建てられた永寧寺の二つの碑である。
1413年の「勅修奴児干永寧寺記」と1433年の「重建永寧寺記」には、
亦失哈の遠征と現地の状況が記録されている。

鄭和が大船団を率いてインド洋方面へ派遣された時代、亦失哈はの北東辺境で活動した。
史料に残る前半生は乏しいものの、
その事績は永楽・宣徳年間における朝と黒竜江下流域の関係を知るうえで重要である。

亦失哈の出自

亦失哈の生年、出生地、両親などは明らかになっていない。

一般には女真出身の宦官とされることが多いが、
亦失哈自身についてまとまった伝記を記した正史の列伝はなく、
その出自を詳細にたどることは難しい。

代には、北方や西南地域など中国内外のさまざまな出身者が宦官として宮廷に入り、
皇帝の命令を受けて外交や軍事、地方行政に関与した。
永楽帝はとりわけ宦官を各方面へ派遣しており、鄭和の西洋下りもその代表例だった。

亦失哈もそのような皇帝直属の使者として北東方面へ派遣された人物である。

一方、亦失哈がいつ宦官となったのか、どのような経緯で永楽帝に仕えたのかについて、
確実な記録はほとんど残されていない。
靖難の役以前から燕王朱棣に仕えていたとする説明も見られるが、
確実な史料によってその経歴を連続的に再構成することはできない。

したがって、亦失哈の人物伝を確実な史料からたどることができるのは、
永楽帝の北東政策に関与するようになってからである。

永楽帝と北東地域

1402年、靖難の役に勝利した朱棣が即位し、永楽帝となった。

永楽帝の時代には、モンゴル高原への遠征、安南への出兵、鄭和の西洋下りなど、
朝の対外活動が活発化した。
北東方面でも、遼東よりさらに東から北に広がる女真諸集団との関係が強化された。

当時の女真は一つの統一国家を形成していたわけではない。
側では建州女真・海西女真・野人女真などと呼ばれる多数の集団が存在し、
それぞれの首長が独自に活動していた。

朝はこうした首長を直接排除しての官僚を送り込むのではなく、
来朝した首長らに指揮使・指揮僉事・千戸・百戸などの官職を授け、
衛所の形式によって明朝の秩序に組み込んだ。

現地の首長は朝へ馬、貂皮、海東青などの方物を献じ、朝は官職、衣服、絹、鈔などを与えた。

こうした朝貢・官職授与・交易を組み合わせた関係が、
朝による北東地域への働きかけの基本となった。

1409年、奴児干都司が設置される

永楽7年(1409年)、朝は黒竜江下流方面を統轄する機関として奴児干都指揮使司を設置した。

『明太宗実録』によれば、奴児干方面の首長たちはすでに朝へ来朝し、衛が置かれていた。
その後、現地が要衝であるとして元帥府の設置を求める上奏があり、
朝は奴児干都司を置くことを決めた。

東寧衛指揮の康旺が都指揮同知となり、王肇舟らが都指揮僉事に任命され、
現地の人々を統轄することになった。
また、海東青などを毎年朝貢させ、駅伝の役割を果たす狗站も設けられた。

ここで注意すべきなのは、奴児干都司の設置が亦失哈の最初の奴児干派遣より前だったことである。

亦失哈が奴児干都司を自ら創設したと説明されることがあるが、
『明太宗実録』では1409年の設置が確認できる。
亦失哈が大船団を率いて奴児干へ向かったのは、その後のことである。

また、奴児干都司を朝内地の州県と同じ直接統治機関とみなすこともできない。
現地首長をの官職体系に組み込みながら関係を維持する、羈縻的な性格の強い統治機構だった。

1411年、亦失哈が奴児干へ向かう

永楽9年(1411年)、亦失哈は皇帝の命を受け、奴児干方面へ派遣された。

1413年に建立された「勅修奴児干永寧寺記」によれば、
このとき亦失哈らは官軍千余人を率い、二十五艘の大船で現地へ向かった。

奴児干はの都から遠く離れ、陸路だけで容易に到達できる地域ではなかった。
黒竜江・松花江などの巨大な河川を利用する必要があり、大規模な船団の建造と運用が不可欠だった。

亦失哈の一行には兵士だけでなく、
朝と現地諸集団との交渉や物資輸送を担う人々も含まれていたと考えられる。

碑文には、現地に吉列迷をはじめとするさまざまな人々が住み、
漁労や狩猟などによって生活していたことも記されている。

亦失哈の任務は彼らを軍事的に征服しての官僚による直接支配を敷くことではなく、
皇帝の命令を伝え、現地首長との関係を維持することにあった。

奴児干都司と現地首長

亦失哈が活動した奴児干都司の仕組みでは、現地の有力者が重要な役割を担った。

朝は各地に衛を置き、その首長に指揮・千戸・百戸などの官職を与えた。
首長たちは朝の官職を持ちながら、それぞれの地域や集団を従来の形で統率した。

永楽10年(1412年)には、奴児干・乞里迷・兀剌など各地の女真・野人の首長百七十八人が
朝へ来朝したことが『明太宗実録』に記録されている。

朝は新たに十一衛を設け、
来朝した首長らを指揮・千戸・百戸などに任命し、誥命、印章、冠帯、衣服、鈔などを与えた。

こうした官職は朝側から見れば皇帝を頂点とする秩序への編入を意味したが、
現地社会そのものが朝内地と同じ行政制度に改編されたわけではない。

亦失哈の派遣は、この緩やかな関係を実際に維持する役割を担っていた。

物資を与え朝貢を促す

亦失哈の遠征では、軍事力だけでなく大量の物資が重要な役割を果たした。

永寧寺碑には、衣服、器物、穀物などを現地の人々に与え、
酒食を用意して宴を開いたことが記されている。

現地側からは海東青をはじめとする方物が朝へ献じられた。

朝にとって朝貢は皇帝への服属を示す政治的儀礼だったが、
現地首長にとっては朝から衣服や絹などを得る交易の機会でもあった。

官職と印章を授け、物資を与え、朝貢を受け入れる。
この関係を繰り返し確認することによって、
遠隔地に朝との政治的・経済的関係を形成することが、亦失哈の派遣の重要な役割だった。

1413年、永寧寺を建立

永楽11年(1413年)、奴児干の特林に永寧寺が建立された。

場所は黒竜江が海へ注ぐ河口に近い地域で、
元代にもこの一帯には北東地域を管轄する拠点が置かれていた。

亦失哈らは寺院を建立して仏像を安置し、その経緯を石碑に刻んだ。
これが「勅修奴児干永寧寺記」である。

碑文には亦失哈の派遣、奴児干都司、現地住民の生活、
朝から与えられた物資などが記されており、
代の黒竜江下流域を知るための重要な同時代史料となっている。

永寧寺建立には仏教を通じて現地の人々を教化するという朝側の理念も示されている。

ただし、寺院を建てたことだけをもって
現地社会が朝の文化や宗教を全面的に受け入れたと考えることはできない。
永寧寺と碑は、遠隔地へ皇帝の権威を示す政治的な施設であると同時に、
亦失哈らの活動を記録する拠点でもあった。

永楽年間に繰り返された奴児干派遣

亦失哈の奴児干への航行は一度では終わらなかった。

1433年の「重建永寧寺記」は、
永楽年間に亦失哈らが大船を率いて五度奴児干へ赴き、現地の人々を慰撫したと記している。

これは奴児干都司が、
一度役所を設置すれば自動的に機能するような統治機構ではなかったことを示している。

朝の中央から奴児干までは非常に遠く、
現地にはの官僚や軍隊が内地と同じ密度で配置されていたわけでもない。
皇帝の使者が定期的に訪れ、恩賞や官職を与え、現地首長との関係を確認する必要があった。

亦失哈はその役割を繰り返し担った。

永楽年間を通じて、黒竜江・松花江流域では多数の衛所が設置され、現地首長の来朝も続いた。
亦失哈の航行は、こうした朝の北東政策を現地で支える活動の一つだった。

永楽帝の死後も続いた北東派遣

永楽22年(1424年)、永楽帝が死去した。

その後、洪熙帝を経て宣徳帝が即位したが、
奴児干方面との関係がただちに断絶したわけではなかった。

宣徳年間にも奴児干方面から首長たちが来朝し、
朝は官職の継承を認め、衣服や鈔などを与えている。

亦失哈も再び北東へ派遣された。

「重建永寧寺記」には、
宣徳初年に太監となっていた亦失哈が再び部衆を率いて奴児干へ赴き、
現地の人々を慰撫したことが記されている。

永楽帝一代だけの使者ではなく、宣徳帝の時代にも同じ地域への派遣を任されたことから、
亦失哈が長期間にわたって奴児干方面の実務に関わっていたことが分かる。

1432年、再び大船団を率いる

宣徳7年(1432年)、亦失哈は再び奴児干へ向かった。

この遠征について「重建永寧寺記」は、
亦失哈が都指揮の康政とともに官軍二千人を率い、五十艘の大船で現地へ赴いたと記している。

1411年の遠征が千余人・二十五艘だったことと比較すると、大規模な船団だった。

亦失哈らが現地に到着すると、以前建立した永寧寺はすでに失われ、基址だけが残っていた。

碑文によれば、寺院を破壊した人々は亦失哈らの到着を恐れた。
しかし亦失哈らは皇帝の「好生」の意を体し、
彼らを処罰するのではなく慰撫し、酒食を与えたという。

この記述は朝側が自らの統治理念を顕彰するために作成した碑文であり、
その表現をそのまま現地社会の実態とみなすことはできない。
それでも、亦失哈の遠征が軍事的な懲罰だけを目的としていたわけではなく、
既存の関係を回復・維持することを重視していたことは読み取れる。

1433年、永寧寺を再建

宣徳8年(1433年)、亦失哈らは永寧寺を再建した。
新たに仏像を安置し、その経緯を記録する石碑も建立された。これが「重建永寧寺記」である。

この碑は1413年の「勅修奴児干永寧寺記」と並び、
亦失哈の活動を知るための最も重要な史料となった。

碑文には永楽年間から宣徳年間にかけての亦失哈の派遣が回顧されているため、
『明実録』だけでは断片的になりがちな彼の活動を補うことができる。

二つの碑が残されたことで、亦失哈は代の数多くの宦官の中でも、
その具体的な活動を現地の金石史料から確認できる人物となった。

亦失哈の最後

1432~1433年の奴児干派遣以後、亦失哈の活動を詳細に追える史料は乏しくなる。

生年が分からないため、このとき何歳だったのかも不明である。
死去した年や場所、墓所についても確実な記録は確認できない。

したがって、亦失哈の生涯を「出生から死まで」連続的に復元することはできない。

史料上の人物像は、永楽年間に奴児干へ派遣された宦官として現れ、
宣徳年間まで北東地域への派遣を担ったところで途切れている。

奴児干都司は「明の直接支配」だったのか

亦失哈を扱う際に問題となるのが、奴児干都司をどのように評価するかである。

朝側の碑文や実録では、現地の人々が来朝して官職を受け、朝貢し、
皇帝の徳に服したという形で記録される。

しかし、奴児干都司の存在を現在の地方行政機関と同じように考えることはできない。

朝が現地の土地と住民を戸籍によって一元的に把握し、
中央から派遣した官僚によって日常行政を直接行っていたわけではない。
実際の統治には現地首長が利用され、
朝との関係も朝貢・官職授与・交易などを通じて維持されていた。

亦失哈が何度も大船団を率いて現地へ向かわなければならなかったこと自体、
この地域に対する朝の支配が内地とは異なる性格だったことを示している。

一方で、奴児干都司や多数の衛が設置され、首長への官職授与が行われ、
朝の使節が黒竜江下流まで繰り返し到達したことも史実である。

「完全な直接支配」か「まったく支配していなかった」かという二者択一ではなく、
現地首長を介した朝独特の羈縻的な関係として理解する必要がある。

鄭和と亦失哈

亦失哈は、同じ永楽帝に仕えた宦官・鄭和と比較されることがある。

鄭和は1405年から大船団を率いて東南アジア、インド洋、アラビア海方面へ航海し、
各地の国々と朝との朝貢関係を構築した。

亦失哈が向かったのは反対方向だった。
遼東から松花江・黒竜江を経て河口へ至り、女真や吉列迷などの諸集団との関係を維持した。

二人の活動地域と規模は異なるため、亦失哈を単純に「北方の鄭和」とすることはできない。
しかし、皇帝直属の宦官が船団を率いて遠隔地へ派遣され、現地勢力に皇帝の命令と恩賞を伝え、
朝貢関係を形成・維持したという点には共通性がある。

永楽帝が宦官を対外政策の実務者として利用したことを示す二つの事例として、
鄭和と亦失哈を位置づけることができる。

永寧寺碑が後世に残したもの

亦失哈本人の伝記は正史にまとまった形では残らなかったが、
彼が建立・再建した永寧寺の碑は後世まで残った。

この二碑が重要なのは、亦失哈という一人の宦官の事績を伝えるだけではない。

15世紀前半の黒竜江下流にどのような人々が暮らしていたのか、
朝がどのような方法で彼らとの関係を築こうとしたのか、船団がどの程度の規模だったのか、
どのような物資が与えられたのかなどを知る手掛かりとなっている。

19世紀には清朝の学者らによる調査も行われ、碑文の拓本が作られた。
日本でも内藤湖南らが二碑を研究し、代の北東地域史を考える重要史料として検討している。

亦失哈について分かることの多くが、彼自身の列伝ではなく、
この二つの石碑と『明実録』の記事を組み合わせることで復元されている。

亦失哈の評価

亦失哈は、戦場で大軍を率いて領土を征服した将軍ではない。
また、奴児干都司を自ら創設した人物でもない。

彼の役割は、朝が1409年に設置した奴児干都司と周辺諸集団との関係を、
皇帝の使者として現地で維持することにあった。

その手段には軍船と官軍による威勢だけでなく、
官職の授与、衣服や食糧などの下賜、宴、朝貢の受け入れ、仏教寺院の建立などが含まれていた。

そして一度の派遣で終わらず、永楽・宣徳の二代にわたって黒竜江下流へ繰り返し赴いた。

代の北東政策は亦失哈一人によって行われたものではない。
奴児干都司の康旺・王肇舟をはじめとする現地・遼東の官人、多数の衛所首長、
船団を構成した官軍など、多くの人々によって成り立っていた。

その中で亦失哈は、皇帝の命令を遠く黒竜江下流まで運び、
現地と朝中央を結ぶ使者として長期間活動した人物だった。

まとめ

亦失哈は、永楽帝・宣徳帝に仕え、
15世紀前半に黒竜江下流の奴児干方面へ繰り返し派遣された宦官である。

前半生について確実な記録は乏しく、生年・出生地・宦官となった経緯も明確ではない。
一方、永楽年間以降の活動は『明実録』と永寧寺碑によって具体的に確認できる。

1409年に朝が奴児干都司を設置した後、
1411年には亦失哈が官軍千余人と二十五艘の船を率いて現地へ向かった。
現地首長との関係を維持し、物資を与え、朝貢を促す一方、1413年には特林に永寧寺を建立した。

その後も奴児干への派遣は続き、
永楽年間だけで五度現地へ赴いたことが1433年の「重建永寧寺記」に記されている。
宣徳帝の時代にも再び派遣され、1432年には官軍二千人と五十艘の大船を率いて奴児干へ向かい、
失われていた永寧寺を再建した。

奴児干都司は朝内地と同じ直接統治機構ではなく、
現地首長への官職授与、朝貢、交易などを組み合わせた羈縻的な性格を持っていた。
亦失哈はその仕組みを現地で維持する皇帝直属の使者として活動した。

亦失哈の晩年と没年は分からない。
しかし、1413年と1433年の二つの永寧寺碑が残されたことで、
その活動は朝の黒竜江下流への進出と現地諸集団との関係を示す具体的な記録として
後世に伝えられている。

史書・参考文献

・『明太宗実録』
・『明宣宗実録』
・「勅修奴児干永寧寺記」
・「重建永寧寺記」
・『明史』職官志
・内藤湖南「奴児干永寧寺二碑補考」

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