前漢王朝の皇帝家系図と一覧|劉邦から滅亡まで

皇帝一覧・家系図
 

前漢:略家系図

前漢皇帝家系図(劉邦から孺子嬰
までの血統と在位の流れ)
前漢皇帝家系図

前漢(前202-9):皇帝一覧

廟号諡号名前
(諱)
生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
在位
期間 
高祖高祖劉邦りゅう・ほう前256-前195
(61歳)
前202ー前195
(54歳)ー(61歳) 
7年
恵帝恵帝劉盈りゅう・えい前210-前188
(22歳)
前195ー前188
(15歳)ー(22歳)
7年
前少帝劉恭りゅう・きょう不詳-前184
(不詳)
前188ー前184
(不詳)ー(不詳)
4年
後少帝劉弘りゅう・こう不詳-前180
(不詳)
前184ー前180
(不詳)ー(不詳)
4年
太宗文帝劉恒りゅう・こう前203-前157
(46歳)
前180ー前157
(23歳)ー(46歳)
23年
景帝劉啓りゅう・けい前188-前141
(47歳)
前157ー前141
(31歳)ー(47歳)
16年
世宗武帝劉徹りゅう・てつ前156-前87
(69歳)
前141ー前87
(15歳)ー(69歳)
54年
昭帝 劉弗陵りゅう・ふつりょう 前94-前74
(20歳)
前87ー前74
(7歳)ー(20歳)
13年
廃帝
(昌邑王)
劉賀りゅう・が前92-前59
(33歳)
前74ー前74
(18歳)ー(18歳)
27
宣帝劉詢りゅう・じゅん前91-前49
(42歳)
前74ー前49
(17歳)ー(42歳)
25年
元帝劉奭りゅう・せき前75-前33
(42歳)
前49ー前33
(26歳)ー(42歳)
16年
成帝劉驁りゅう・ごう前51-前7
(44歳)
前33ー前7
(18歳)ー(44歳)
26年
哀帝劉欣りゅう・きん前25-前1
(24歳)
前7ー前1
(18歳)ー(24歳)
6年
平帝劉衎りゅう・かん前9-6
(15歳)
前1ー6
(8歳)ー(15歳)
7年
孺子嬰
(皇帝には即位せず) 
劉嬰りゅう・えい5-25
(20歳)
6ー9
(1歳)ー(4歳)
3年

※補足

  • 前少帝・後少帝呂后政権の傀儡皇帝で、生年や正確な年齢は史料で不明な部分がある。
  • 孺子嬰は「皇帝」ではなく「皇太子・孺子」として即位させられたが、
    実質的に漢の最後の君主として皇帝一覧に含めることが多い。
  • 廃帝・劉賀は在位わずか27日で廃位された、前漢で最も在位期間の短い皇帝。

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①高祖(劉邦)|農民出身から漢帝国を築いた皇帝

・沛県の亭長から秦末の反乱に参加し、項羽とともに秦を滅ぼした。
 秦滅亡後は漢王に封じられたが、やがて項羽と天下を争う「楚漢戦争」へ突入した。
・韓信・張良・蕭何らを登用し、前202年の垓下の戦いで項羽を破って天下を統一。
 皇帝に即位して漢王朝を建国し、長安を都とした。
・建国後は韓信・彭越・英布ら異姓諸侯王を次々と排除し、代わって劉氏一族を諸侯王に配置。
 皇帝を中心とする支配体制を整えていった。
・匈奴との戦いでは、前200年の白登山の戦いで冒頓単于に包囲される危機に陥った。
 その後は匈奴と和親関係を結び、北方との全面戦争を避けた。
・晩年には皇太子・劉盈を廃して、寵愛する戚夫人の子・劉如意を皇太子にしようとしたが
 実現しなかった。この後継者問題は、劉邦の死後に起こる呂后と戚夫人の悲劇へつながっていく。

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②恵帝(劉盈)|母・呂后の権力に圧倒された皇帝

・高祖・劉邦と呂雉の子。父から一時廃太子を検討されたものの、前195年に皇帝へ即位した。
・即位後は母の呂后が大きな政治的影響力を持った。
 呂后は劉邦の死後、かつて皇太子の座を争った劉如意を殺害し、
 その母・戚夫人を「人彘」にしたと『史記』『漢書』に伝えられている。
・恵帝は戚夫人の惨状を見せられて大きな衝撃を受け、以後政治から遠ざかるようになったとされる。
・一方、劉邦時代の重臣・蕭何や曹参らが政務を担い、
 秦末以来の戦乱で疲弊した社会を休養させる政策が続けられた。
・前188年、22歳で死去。男子はいたものの、皇位継承は完全に呂后の支配下に置かれた。

③前少帝|呂后に擁立され、廃された幼帝

・恵帝の死後、呂后によって皇帝に擁立された幼帝。実際の政治は太皇太后となった呂后が掌握した。
・前少帝の出自については史料上複雑で、
 『史記』『漢書』では恵帝と後宮女性の間に生まれ、張皇后の子として育てられたとされる。
・成長すると、自分の生母が呂后によって殺されたことを知り、
 将来その報復をすると語ったとされる。
・これを知った呂后によって前184年に廃位され、幽閉されたのち殺害されたと伝えられている。

④後少帝|呂后政権最後の皇帝

・前少帝が廃されると、呂后によって新たに皇帝へ擁立された。
・在位中も実権は呂后が握っており、呂氏一族が王や高官に任じられて政治・軍事の中枢を占めた。
・前180年に呂后が死去すると、陳平・周勃ら劉邦以来の功臣と劉氏諸侯王が呂氏一族を排除する
 「諸呂の乱」が起こった。
・呂氏勢力が滅ぼされると後少帝も廃され、代王・劉恒が新たな皇帝として迎えられた。
・前少帝・後少帝の時代は、形式上は劉氏皇帝が存在しながら、
 実質的には呂后が漢帝国を統治した時期だった。

⑤文帝(劉恒)|「文景の治」を築いた倹約皇帝

・高祖・劉邦の子で、母は薄姫。呂后の死後に呂氏一族が排除されると、
 功臣たちによって代王から皇帝へ迎えられた。
・減税や刑罰の軽減を進め、農業を重視。
 宮殿建設などの出費も抑え、倹約を重んじる皇帝として知られる。
・肉刑の廃止を進めるなど刑罰制度の改革も行い、秦末以来の戦乱で疲弊した社会の安定に努めた。
・匈奴に対しては大規模な征服戦争を避け、和親を基本としながら国力の回復を優先した。
・文帝から次の景帝にかけての安定した時代は「文景の治」と呼ばれ、
 後の武帝による積極的な対外政策を支える財政的・社会的基盤となった。

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⑥景帝(劉啓)|呉楚七国の乱を鎮圧した皇帝

・文帝の子。父の政策を受け継ぎ、倹約と民力休養を重視したことで「文景の治」を完成させた。
・一方、漢初に大きな領土と権力を与えられていた劉氏諸侯王の勢力が、
 中央政府にとって大きな問題となっていた。
・御史大夫・晁錯の進言を受けて諸侯王の領地削減を進めると、
 前154年に呉王・劉濞を中心とする「呉楚七国の乱」が勃発した。
・景帝は反乱側の要求を受けて晁錯を処刑したものの反乱は収まらず、周亜夫らを派遣して鎮圧。
 以後、諸侯王の軍事・政治的な力は大きく削がれた。
・皇太子をめぐっては当初の劉栄を廃し、
 館陶公主らの働きかけもあって王夫人の子・劉徹を皇太子とした。この劉徹が後の武帝となる。

⑦武帝(劉徹)|前漢を巨大帝国へ変えた皇帝

・景帝の子。前141年に即位し、54年にわたる長期政権を築いた。
・諸侯王の領地を子弟へ分割相続させる「推恩令」などを進め、地方の諸侯王勢力を弱体化。
 皇帝を中心とする中央集権体制を強化した。
衛青霍去病らを起用して匈奴へ大規模な攻勢を行い、河西回廊などへ勢力を拡大。
 張騫を西域へ派遣し、と中央アジア諸国との交流を大きく広げた
・南越や衛氏朝鮮を滅ぼすなど領域を拡大し、帝国は最盛期を迎えた。
 一方、長期間の戦争によって財政負担も増大し、塩・鉄・酒などへの国家統制を強化した。
・董仲舒ら儒学者を登用し、儒学を国家統治の重要な思想として位置づけた。
 司馬遷が『史記』を著したのも武帝の時代である。
・晩年には「巫蠱の禍」が発生し、皇太子・劉拠とその母・衛子夫が死に追い込まれた。
 武帝は死の直前、幼い劉弗陵を後継者に選び、霍光らに輔政を託した。

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⑧昭帝(劉弗陵)|霍光に支えられた幼帝

・武帝の末子。父の死後、わずか7歳で皇帝に即位した。
・幼帝だったため、武帝の遺命を受けた霍光・金日磾・上官桀らが政務を補佐したが、
 やがて輔政官の間で権力争いが発生した。
・上官桀らは燕王・劉旦と結んで霍光の排除を企てたが失敗。
 上官桀らは処刑され、霍光が朝廷で圧倒的な権力を握るようになった。
・武帝晩年の大規模な対外戦争を抑制し、民力の回復を図った。
 昭帝期には「塩鉄会議」も開かれ、武帝以来の経済政策をめぐって議論が行われた。
・前74年、20歳で男子を残さず死去。
 後継者を決めたのは、事実上の最高権力者となっていた霍光だった。

⑨廃帝・劉賀|わずか27日で廃位された皇帝

・武帝の孫で、昌邑王・劉髆の子。
 昭帝が男子を残さず死去したため、霍光らによって皇帝へ迎えられた。
・しかし即位後の振る舞いが皇帝にふさわしくないとして、霍光らが上官皇太后に廃位を奏上した。
・『漢書』には、即位から短期間に多数の不適切な行為をしたと記されているが、
 この記録には廃位を正当化する政治的な意図が含まれている可能性も考慮する必要がある。
・即位からわずか27日で廃位され、昌邑王の地位も失った。後に宣帝によって海昏侯に封じられた。
・2011年に江西省で海昏侯墓が発見され、大量の金製品・青銅器・竹簡などが出土したことで、
 現代でも注目を集めている。

⑩宣帝(劉詢)|民間で育った「中興の名君」

・武帝の曾孫で、巫蠱の禍で死んだ皇太子・劉拠の孫。
 幼少時に一族が処刑され、自身も獄につながれるという異例の境遇を経験した。
張賀らの援助を受けて成長し、民間に近い環境で暮らした後、
 劉賀が廃位されると霍光によって皇帝に擁立された。

・即位当初は霍光が大きな権力を握っていたが、霍光の死後、
 その一族が反乱を企てたとして霍氏を粛清し、皇帝親政を確立した。
・官僚の実務能力を重視し、地方政治の監督や刑罰の適正化に努めた。
 その治世は前漢後期の安定期として「昭宣の治」と呼ばれる。
・対外的には匈奴の内部分裂を利用して優位に立ち、西域都護を設置して西域支配を強化した。
・幼い頃から支えた許平君を皇后とし、「故剣を求む」の故事でも知られる。
 その一方、許皇后は霍光の妻・霍顕の陰謀によって毒殺されたと『漢書』に記されている。

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⑪元帝(劉奭)|儒学を重んじる一方、皇帝権力が揺らぎ始める

・宣帝の子。儒学を重視し、儒学者を積極的に登用した皇帝として知られる。
・父・宣帝は皇太子時代の劉奭について、儒学に傾きすぎていることを危惧し、
 「漢家には覇道と王道を併用する制度がある」と戒めたことが『漢書』に伝えられている。
・治世には宦官の石顕が中書令として大きな権力を握り、
 官僚たちを排除するなど政治への影響力を強めた。
・匈奴との関係では呼韓邪単于が漢へ入朝し、
 宮女の王昭君が匈奴へ嫁いだ「昭君出塞」の故事が生まれた。
皇后・王政君の一族も次第に勢力を伸ばし始める。
 後に前漢を滅ぼす王莽は、この王氏一族から登場することになる。

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⑫成帝(劉驁)|王氏外戚が権力を握った時代

・元帝と王政君の子。前33年に即位すると、母の王政君が皇太后となり、
 その兄弟たちが次々と高官へ登用された。
・王鳳をはじめとする王氏一族が大司馬などの要職を占め、外戚による政治支配が急速に強まった。
後宮では趙飛燕と妹の趙合徳を寵愛したことで有名。趙飛燕は皇后となった一方、
 それまで寵愛されていた班婕妤らは後宮の権力争いから距離を置くようになった。
・成帝には後継となる男子がなく、前7年に死去。皇位は甥の劉欣へ移った。
成帝期に拡大した王氏外戚の権力は、その後の王莽台頭の大きな基盤となった。

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⑬哀帝(劉欣)|王氏を退けるも短命に終わった皇帝

・元帝の孫で、定陶恭王・劉康の子。成帝に男子がいなかったため皇太子となり、前7年に即位した。
・即位すると成帝時代に権力を握っていた王氏一族を政権中枢から遠ざけ、
 自らの祖母・傅太后や母方・妻方の外戚を重用した。
・寵臣・董賢を異例の若さで大司馬に任じたことでも知られる。
 哀帝と董賢の関係から生まれた「断袖」の故事は、後世まで広く知られることになった。
・土地や奴婢の集中を抑える改革も試みたが、
 既得権益層の反発などによって十分な成果を上げられなかった。
・前1年、24歳で男子を残さず死去。
 すると王政君が再び主導権を握り、王莽を大司馬として政権中枢へ復帰させた。

⑭平帝(劉衎)|王莽の権力が頂点へ向かった幼帝

・元帝の孫にあたる中山孝王・劉興の子。哀帝の死後、わずか9歳ほどで皇帝に擁立された。
・幼帝だったため、実際の政治は王政君と王莽が主導。特に王莽は大司馬として朝廷の権力を掌握し、
 儒教的な理想政治を掲げながら自身の権威を高めていった。
王莽は自らの娘を平帝の皇后とし、皇帝との関係をさらに強化した。
・6年、平帝は15歳で急死した。王莽による毒殺説が伝えられているが、
 『漢書』本文は死因を毒殺とは断定していない。
・平帝に男子がいなかったため、王莽は皇族の中から幼い劉嬰を後継者として選んだ。

⑮孺子嬰|皇帝になれないまま前漢最後の君主となった幼児

・宣帝の玄孫にあたる劉氏皇族。平帝が男子を残さず死去すると、
 わずか1歳ほどの劉嬰が後継者に選ばれた。
・ただし正式に皇帝へ即位したわけではなく、
 「皇太子」とされ、王莽が「摂皇帝」として政治を行った。
 このため孺子嬰を前漢の皇帝に数えるかどうかには扱いの違いがある。
・王莽は周公旦が幼い成王を補佐した故事になぞらえて摂政を装ったが、
 次第に皇帝に近い権威を獲得していった。
9年、王莽はついに劉嬰から皇位を受ける形を取り、自ら皇帝に即位。
 国号を「新」とし、前漢は滅亡した。

・孺子嬰はその後も生き延びたが、25年、新末の混乱の中で劉氏復興を掲げる反乱勢力に担ぎ出され、
 最終的に殺害された。

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王朝らしさ:

「草創の豪族国家 → 儒教帝国へ」

キーワード

  • 楚漢戦争の荒々しさ
  • 文景の治(倹約・安定)
  • 武帝の大拡張
  • 外戚の台頭と王莽の簒奪

空気感

  • 前半:成り上がり武人政権
  • 中盤:国家として完成
  • 後半:皇帝が弱体化、外戚政治

物語性

崩壊パターン

「外戚の専横 → 王莽に乗っ取られる」

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