程元振は、唐の粛宗・代宗期に台頭した宦官で、
李輔国の部下から出発し、最終的には禁軍を掌握して朝廷を支配した権臣である。
しかしその専横と讒言により、唐の政治は大きく混乱し、
最終的には長安陥落の責任を問われて失脚、
流刑途中で殺害されるという最期を迎えた。
出自と宦官入り
程元振は京兆府三原県(現在の陝西省)出身。
若くして宦官となり、宮廷の宦官機構「内侍省」に仕えた。
当初は宮廷の雑役的な立場だったが、
やがて禁軍の弓兵部隊を統率する役職「内射生使」に昇進。
この頃、有力宦官 李輔国 の配下となり、権力中枢に近づいていく。
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粛宗末期:張皇后のクーデターを察知し、太子を守る
張皇后の“太子廃立計画”を察知
粛宗が病に倒れると、張皇后は太子・李豫(後の代宗)を排除し、
越王・李係を皇位につけようと画策した。
程元振はこの陰謀を察知し、李輔国に報告。
李輔国と共に禁軍を動かし、 張皇后・越王らを逮捕・殺害した。
このクーデター鎮圧の功績により、程元振は太子の信任を得て急速に出世した。
代宗即位後、程元振は次々と要職を手にする。
・内侍省の実権掌握
・禁軍の一部統率
・驃騎大将軍
・邠国公
これにより彼は、宮廷と軍事の両方に影響力を持つ宦官となった。
代宗即位:李輔国を排除し、禁軍を掌握
程元振は、出世のきっかけを作った李輔国と対立するようになる。
代宗は当初、李輔国に強く依存していたが、
程元振は巧みに代宗へ働きかけ、ついに李輔国の権力を奪うことに成功する。
その後、李輔国は自宅で刺客に暗殺された。
李輔国を排除した後、程元振は
・右監門衛大将軍
・鎮軍大将軍
・元帥府行軍司馬
などに任じられ、禁軍の最高指揮権を掌握し、宮廷最大の権力者となった。
軍中では「十郎」と呼ばれ、恐れられたという。
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讒言政治と将軍たちの粛清
程元振は権力を握ると、将軍や官僚を次々と排除した。
こうした讒言政治のため、
・将軍たちは朝廷を信用しなくなる
・藩鎮と中央の関係が悪化
という重大な副作用を生んだ。
これは後の唐の軍閥化にも影響したと言われる。
忠臣を次々と失脚させる
有力将軍来瑱 (らいてん)を反逆の罪で讒言し、流罪にさせた。
その途中で来瑱は自殺に追い込まれる。
さらに節度使 李懐譲 も反逆を疑われ、恐れて自殺した。
安史の乱の名将 李光弼 に対しても、しばしば讒言を行い、政治的に孤立させた。
吐蕃侵攻と長安陥落
情報を握りつぶした宦官
763年、チベット帝国(吐蕃)が唐の西方を侵攻した。
このとき地方から、「援軍要請」「緊急報告」が届いていたが、
程元振はそれを代宗に報告しなかったと言われる。
その結果、吐蕃軍は長安へ迫り、
首都長安は占領され、代宗は陝州へ逃亡する事態となった。
この国家的危機の原因として、
朝廷の官僚たちは一斉に程元振を非難した。
追放:女装して密かに長安へ戻る
代宗はかつての功績を考慮し、処刑ではなく 罷免と追放 にとどめた。
程元振は流罪になった後、女装して密かに長安へ戻ったという。
目的は、「再び政権を握ること」「政変を起こすこと」だったとされる。
しかしこの計画はすぐに発覚し、再び捕らえられた。
最期:流刑途中で仇敵に殺される
最終的に程元振は、
・四川方面への流刑
・その後江陵へ移送
という処分を受ける。
そして江陵で、恨みを持つ者に殺害されたと伝えられる。
歴史的評価:唐を混乱させた“危険な宦官”
程元振は、「中唐の政治混乱を加速させた宦官」 として後世に強く批判されている。

