封常清(ほうじょうせい、生年不詳~756年)は、
唐の玄宗期に西域で活躍し、安西四鎮節度使にまで昇った武将である。
貧しい境遇から身を起こし、30歳を過ぎてから高仙芝の従者となったが、
達奚部落討伐で戦勝報告の作成能力を認められ、
判官、行軍司馬、安西副大都護、安西四鎮節度使へと異例の昇進を重ねた。
小勃律遠征では高仙芝を補佐し、大勃律遠征では自ら軍を率いて勝利するなど、
唐の西域支配を支えた人物でもある。
一方、天宝14載(755)に安禄山が反乱を起こすと、玄宗の命を受けて洛陽防衛に赴いたが、
急募した未訓練兵では安禄山軍を防ぎ切れなかった。
潼関への撤退を進言して反乱軍の西進を食い止めたものの、
敗戦を問題視した玄宗と監軍・辺令誠によって処刑される。
封常清が最期に残した上表は、安禄山軍を軽視しないよう玄宗に訴える内容であり、
その後の戦局を考えるうえでも重要な史料となっている。
出自と高仙芝への仕官
外祖父とともに安西で育つ
封常清は蒲州猗氏の出身で、現在の山西省運城市臨猗県付近にあたる。
生年や父母について詳しい記録は残っていない。
『旧唐書』によれば、封常清の外祖父は罪を犯して安西へ流され、
胡城の南門を守る軍務に就いていた。
ここでいうのは祖父ではなく母方の祖父である。
外祖父は読書を好み、城門の楼上に封常清を座らせて学問を教えたため、
封常清は多くの書物に触れて育った。
外祖父が死去すると、封常清は頼る者を失って貧しい生活を送った。
30歳を過ぎても官職や名声を得ることができず、安西で身を立てる機会を求めていた。
史書は封常清の外見について、細身で片足が短く、歩行にも障害があったと記している。
『新唐書』も「素瘠、又脚跛」とし、痩せて足が不自由だったことを伝えている。
後世には容貌が醜かったとも説明されるが、正史で確実に確認できるのは、
痩身で足に障害があり、高仙芝から容姿を理由に軽く見られたという点である。
高仙芝に何度断られても門前へ通う
開元末、夫蒙霊詧が安西四鎮節度使を務め、その配下で高仙芝が都知兵馬使として頭角を現していた。
高仙芝が軍を率いて出る際には、鮮やかな衣服を着た三十人余りの従者を伴っていた。
封常清はこの一員になることを望み、自ら願書を提出した。
しかし高仙芝は封常清の外見を見て採用しなかった。
翌日も願い出たが、「すでに従者は足りている」と断られた。
これに対して封常清は、自分は高仙芝の高義を慕って仕えたいのであり、
容貌によって人材を選ぶなら孔子が容貌で澹台滅明を見誤った故事と同じことになる、
という趣旨で反論した。
それでも採用されなかったため、封常清は高仙芝が出入りするたびに門前で待ち続けた。
それが数十日に及ぶと、高仙芝もついに根負けし、封常清を従者の一人に加えた。
後に安西四鎮を率いる人物となる封常清の軍歴は、
30歳を過ぎてから、この下級従者の地位から始まった。
↓↓唐の勢力を中央アジア深くまで拡大した高仙芝についての個別記事は、こちら

達奚部落討伐で才能を認められる
高仙芝の意図をすべて盛り込んだ戦勝報告
開元29年(741)頃、達奚部落が唐に反し、黒山方面から西へ進んで砕葉を目指した。
夫蒙霊詧は高仙芝に二千騎を与えて追撃させ、封常清も従軍した。
高仙芝軍は長距離を移動して疲れていた達奚部落を捕捉し、大きな勝利を収めた。
このとき封常清は命じられたわけでもないのに、軍営で戦勝報告書を作成した。
報告には、軍が通過した宿営地、井戸や泉の位置、敵軍と遭遇した状況、
戦闘の推移、勝利に至った作戦までが詳細に整理されていた。
高仙芝が読んでみると、自分が朝廷へ報告したいと思っていた内容が
ほとんど余すところなく盛り込まれていた。
高仙芝は封常清の才能に驚き、その戦勝報告を正式に採用した。
凱旋後、夫蒙霊詧の判官である劉眺や独孤峻らも報告書を読み、
「この文章を書いた者は誰か」と尋ねた。
高仙芝が自分の従者である封常清だと答えると、
彼らは封常清を席へ招いて話し、その能力を高く評価した。
これをきっかけに封常清は従者から軍政を担う立場へ進み、
達奚討伐の功績によって疊州の戍主となり、さらに判官に任じられた。
その後も軍功を重ね、鎮将・果毅・折衝などを歴任していった。
高仙芝の判官として西域を支える
小勃律遠征に従軍する
天宝6載(747)、高仙芝は吐蕃と結んでいた小勃律への遠征を命じられた。
小勃律はパミール高原周辺の要地に位置し、吐蕃がこの地域への影響力を強めたことで、
西域諸国と唐との交通にも影響が出ていた。
高仙芝は険しい山岳地帯を越えて小勃律へ進み、
吐蕃軍の拠点を破り、小勃律王と吐蕃出身の王妃を降伏させた。
封常清もこの遠征に従軍し、功績を挙げた。
同年、高仙芝が夫蒙霊詧に代わって安西四鎮節度使になると、
封常清は慶王府録事参軍・節度判官に任じられ、紫金魚袋を与えられた。
さらに朝散大夫となり、安西四鎮の倉庫、屯田、武器、財政、営田などを担当するようになる。
高仙芝が遠征すると、封常清はしばしば留後として安西の軍政を任された。
単に作戦立案だけに長けていたのではなく、
補給・倉庫・屯田・兵器・財政まで管理できる実務能力を持っていたことが、
高仙芝から重用された大きな理由だった。
鄭徳詮を杖殺して軍紀を示す
封常清の治軍の厳しさを示す逸話として、鄭徳詮の事件がある。
鄭徳詮は高仙芝の乳母の子で、高仙芝から兄弟同然に扱われていた。
郎将となって家政まで任され、軍中でも強い威勢を持っていた。
封常清が留後を務めていたある日、鄭徳詮は封常清を軽く見て、
馬を走らせながら封常清の従者の列へ突っ込み、そのまま通り過ぎた。
封常清は役所へ戻ると鄭徳詮を呼び出し、彼が門を通過するたびに後ろの門を閉じさせた。
そして、自分がかつて低い身分から高仙芝に仕えたことは承知しているはずだが、
現在は高仙芝から留後を任されている以上、公衆の面前で侮辱することは許さないと告げた。
封常清は「軍紀を粛正するため、しばらく郎将の命を借りる」として鄭徳詮を杖六十に処し、
死亡した鄭徳詮をうつ伏せのまま外へ引きずり出させた。
高仙芝の妻と乳母は門外で泣いて助命を求めたが、間に合わなかった。
知らせを受けた高仙芝は驚いたものの、封常清と会っても責める言葉を口にしなかった。
封常清も謝罪しなかった。
その後も罪を犯した大将二人を処刑したため、軍中では封常清を恐れない者はいなくなったという。
これは「射殺」したという記録ではなく、『旧唐書』は「撃殺二人」としており、
処刑方法までは明確ではない。
高仙芝のもとを離れ安西軍政の中心へ
天宝10載(751)、高仙芝が河西方面へ移ると、封常清も再び判官として推薦された。
その後、王正見が安西節度使になると、封常清は四鎮支度営田副使・行軍司馬となった。
天宝11載(752)に王正見が死去すると、封常清は安西副大都護・御史中丞となり、
持節安西四鎮節度・経略・支度・営田副大使を兼ねて、
安西四鎮の節度事を実際に取り仕切る立場へ進んだ。
30歳を過ぎて無名の従者となった人物が、
十数年ほどで唐の西域軍事を担う最高級の地位にまで上ったことになる。
大勃律遠征と安西四鎮節度使時代
段秀実の進言を採用して伏兵を破る
天宝12載(753)、封常清は自ら軍を率いて大勃律を攻撃した。
唐軍は菩薩労城付近まで進み、先鋒部隊が相次いで勝利した。
封常清は敵が崩れていると判断し、そのまま追撃しようとしたが、斥候府果毅の段秀実が制止した。
段秀実は、敵軍が弱い様子を見せながら何度も敗走しているのは
唐軍を誘い込むためではないかと考え、左右の山林を捜索するよう進言した。
封常清がその意見を採用して捜索させると、実際に伏兵が発見された。
唐軍は伏兵を破り、大勃律軍を大敗させ、降伏を受け入れて帰還した。
封常清が部下の進言を受け入れ、戦況判断を修正したことまで『資治通鑑』に記されている点は、
鄭徳詮の事件に見られる厳格な統率だけではない、指揮官としての性格を示している。
北庭・伊西まで管轄する
天宝13載(754)、封常清は朝廷へ入り、御史大夫を兼ね、一人の子に五品官を与えられた。
邸宅も下賜され、すでに亡くなっていた父母にも官爵が追贈された。
その後、北庭都護の程千里が中央へ移ると、封常清が北庭都護を代行し、伊西節度使なども兼ねた。
安西四鎮だけでなく北庭・伊州・西州方面にまで職務が広がったことで、
封常清は唐の西域経営を広い範囲で担う将軍となった。
『旧唐書』『新唐書』は封常清について、勤勉で質素であり、苦労を厭わなかったと記している。
遠征の際にも驢馬や騾馬に乗り、自分の厩舎には馬を一、二頭しか持たなかった。
軍功によって高位へ進んだ後も華美な生活を好まず、賞罰を明確にした人物だったとされる。
安史の乱と洛陽防衛
玄宗の前で安禄山討伐を申し出る
天宝14載(755)、封常清は再び朝廷へ入り、11月に華清宮で玄宗へ謁見した。
この頃にはすでに安禄山が范陽で反乱を起こしていた。
玄宗が安禄山の反逆を嘆き、どのように討つべきか尋ねると、
封常清は自ら洛陽へ向かうことを申し出た。
封常清は、天下が長く太平だったため中原の人々は戦争を知らなくなっているが、
反逆する側と討伐する側では大義が異なり、戦況にも変化があるとして、
洛陽の府庫を開いて勇士を募れば、
ほどなく安禄山の首を取って朝廷へ献じることができると豪語した。
玄宗はその言葉を勇ましいものとして受け入れ、
翌日、封常清を范陽節度使に任命して洛陽へ向かわせた。
しかし、封常清が実際に直面した状況は、この見通しとは大きく異なっていた。
十日ほどで六万人を集める
封常清は急いで洛陽へ向かい、府庫を開いて兵士を募集した。
十日ほどで六万人を集めたと『旧唐書』『新唐書』は記す。
数字だけを見れば大軍だったが、
その多くは市民、商人、日雇いの労働者などから急募した者で、十分な軍事訓練を受けていなかった。
これに対して安禄山軍は、范陽をはじめ北方辺境で実戦経験を積んだ精鋭騎兵を中心としていた。
長年西域で正規軍を指揮してきた封常清にとっても、
短期間で集めた洛陽の兵をただちに実戦部隊へ変えることはできなかった。
封常清は河陽橋を断つなどして防衛を整え、反乱軍の進撃に備えた。
葵園から洛陽市街まで連戦する
安禄山軍は黄河を渡って陳留を陥落させ、罌子谷を抜けて洛陽へ迫った。
先鋒が葵園まで達すると、封常清は精鋭騎兵を出して迎撃し、
反乱軍の騎兵数十から百余りを討ち取った。
しかし安禄山軍の本隊が到着すると支えきれず、封常清は上東門へ退いた。
そこでも戦ったが敗れ、反乱軍は洛陽城内へ進入した。
封常清は都亭駅で再び戦い、さらに宣仁門でも防戦したものの、いずれも敗北した。
封常清は提象門から退却し、大木を倒して道路を塞ぎながら追撃を遅らせ、
谷水を経て西の陝郡へ向かった。
『旧唐書』に残る封常清の遺表によれば、
戦闘は一日二日のものではなく、12月7日から13日まで続いた。
封常清自身も、自軍が訓練されていない寄せ集めの兵でありながら、
辺境の精鋭騎兵を相手に戦い続けたことを述べている。
潼関への撤退と失脚
高仙芝に潼関防衛を進言する
陝郡まで退いた封常清は、後続の討伐軍を率いていた高仙芝と合流した。
封常清は安禄山軍の勢いが極めて強く、正面から戦うことは難しいと説明した。
しかも潼関には十分な兵が配置されておらず、
反乱軍に突破されれば長安が直接危険にさらされるため、
陝郡を放棄して潼関を固守するべきだと進言した。
高仙芝はこれを受け入れた。
二人は陝郡から撤退し、太原倉にあった銭や絹を将兵へ分配して、残った物資を焼却した。
追撃してきた反乱軍によって撤退途中の唐軍は混乱したものの、
高仙芝らは潼関に入り、防備を整えた。
反乱軍の騎兵が潼関へ到達したときにはすでに防御態勢が整っており、
突破することができず退却した。
洛陽・陝郡を失ったこと自体は唐側の敗北だったが、
潼関で敵を止めるという封常清の判断は、この時点では有効に機能した。
官爵をすべて剥奪される
洛陽陥落の報告を受けた玄宗は、封常清の官爵を剥奪した。
封常清は敗戦後、三度にわたって使者を送り、安禄山軍の実情や敗戦の経緯を上奏した。
しかし玄宗から返答はなかった。
そこで封常清は自ら長安へ向かい、直接玄宗へ戦況を説明しようとした。
ところが渭南まで来たところで、官爵を剥奪し、
高仙芝軍へ戻って一兵卒の立場から功を立てるよう命じる詔が届いた。
封常清は潼関へ戻り、官服ではなく黒い衣を着て、高仙芝のもとで左右両軍の監督を務めた。
辺令誠の讒言と封常清の処刑
高仙芝と辺令誠の対立に巻き込まれる
辺令誠はしばしば高仙芝へ要求を持ちかけたが、高仙芝は多くを受け入れなかった。
辺令誠はこれを不満に思い、長安へ戻った際に玄宗へ高仙芝と封常清を批判する報告を行った。
『資治通鑑』によれば、辺令誠は封常清について、
安禄山軍の強大さを過度に説いて人心を動揺させたと訴えた。
また高仙芝については、陝郡から数百里の土地を放棄しただけでなく、
軍士へ与える糧食や賞賜を着服したとまで告発した。
ここは二人に対する罪状を分ける必要がある。
「軍需物資を横領した」という告発は主として高仙芝に対するものであり、
封常清に同じ横領罪が課されたという記述ではない。
また、辺令誠が封常清にも賄賂を要求し、
それを拒否されたため報復したという記録も正史には確認できない。
辺令誠が要求を繰り返した相手として明記されるのは高仙芝である。
玄宗は辺令誠の報告に激怒し、辺令誠自身に詔書を持たせて潼関へ戻し、
高仙芝と封常清の二人を軍中で処刑するよう命じた。
↓↓監軍として派遣された宦官・辺令誠についての個別記事は、こちら

「敵の手にかかるより、今死ぬなら甘んじる」
辺令誠が潼関へ到着すると、まず封常清を呼び出し、処刑の詔を示した。
封常清は、自分が洛陽で敗れた際に死ななかったのは、
国家の軍旗を汚し、反乱軍の手で殺されることを避けたかったからであり、
討伐に功を挙げられなかった以上、ここで死ぬことには甘んじるという趣旨を述べた。
そして、あらかじめ書いていた遺表を辺令誠へ渡し、玄宗へ届けるよう頼んだ。
封常清が遺表で最も強く訴えたのは、
自分の助命ではなく安禄山軍を軽視してはならないということだった。
封常清は、自分が率いた兵は急募した市民を中心とする未訓練の集団であり、
それを率いて范陽の精鋭騎兵と戦ったこと、
敗戦後に三度も戦況を上奏したが聞き入れられなかったことを記した。
そして、自分の死後も安禄山を軽く見ず、自分の言葉を忘れないでほしいと玄宗に訴えた。
当時の朝廷には、安禄山の反乱などほどなく鎮圧できると考える者が少なくなかった。
このため封常清の遺言は、敗戦を経験した現場の将軍から朝廷へ向けた警告でもあった。
天宝14載12月、封常清は潼関で処刑された。唐の暦を西暦に換算すると756年1月にあたる。
封常清の遺体の前で高仙芝も処刑される
封常清の遺体は処刑後、その場に置かれた。
続いて辺令誠は高仙芝を呼び出し、同じく処刑の詔を読み上げた。
高仙芝は、敵を前にして退却した責任で死を命じられるなら受け入れるが、
軍糧や賞賜を横領したという罪だけは事実ではないと訴えた。
高仙芝は周囲の兵士たちに、自分が横領したことがあるならそう答え、
ないなら冤罪だと言ってほしいと呼びかけた。
兵士たちは一斉に「冤罪だ」と叫び、その声が地を震わせたと『旧唐書』は記している。
高仙芝は傍らにあった封常清の遺体を見て、
自分が封常清を微賤の身分から取り立てて判官とし、
その後は自分に代わって節度使にまでなったのに、
ついには同じ日に死ぬことになったと語ったという。
その直後、高仙芝も処刑された。
封常清の人物像と死後の評価
封常清の経歴で際立つのは、名門出身でも、若くして武勇を認められた人物でもなかったことである。
外祖父から教育を受けたものの、外祖父の死後は貧困のなかで暮らし、30歳を過ぎても無名だった。
出世のきっかけとなったのも個人的な武勇ではなく、
達奚討伐の経過を正確に整理した戦勝報告だった。
その後も高仙芝の留守を預かり、倉庫、屯田、武器、財政などを管理しており、
封常清の強みは軍政と作戦の双方を処理できる能力にあった。
一方で軍紀には厳格で、高仙芝と親しい鄭徳詮であっても処刑し、
その後も罪を犯した将軍を処断している。
高仙芝自身もこれを私情によって覆さなかったため、封常清は軍内で強い統制力を持つことができた。
大勃律遠征では段秀実の進言を採用して伏兵を発見しており、
自分の判断に固執するだけの指揮官でもなかった。
また『旧唐書』『新唐書』がともに質素で勤勉だったと記していることからも、
軍事官僚としての規律を重視した人物像がうかがえる。
安史の乱で封常清が敗北したこと自体は事実であり、
洛陽を守り切れなかった以上、軍事的失敗まで否定することはできない。
しかし彼が率いたのは十日ほどで集めた未訓練兵であり、
相手は長年辺境で戦ってきた安禄山の精兵だった。
さらに敗戦後に潼関へ退く判断は、実際に反乱軍の西進を一時阻止する結果となった。
『新唐書』も、玄宗が周囲の言葉に惑わされて封常清と高仙芝を処刑したことを強く批判している。
封常清の遺表に記された「安禄山を軽視してはならない」という警告は、
その後に唐朝が経験する深刻な戦乱を考えれば重い意味を持つ。
封常清について、処刑後に正式な名誉回復や追贈が行われたことを
『旧唐書』『新唐書』の本伝は伝えていない。
後世に残ったのは官爵の回復よりも、西域で軍功を重ねながら、
安史の乱初期の混乱のなかで高仙芝とともに処刑された将軍としての評価だった。
まとめ
封常清は、貧困と身体的な不利を抱えながら30歳を過ぎて軍に入り、
文章作成と軍政の才能を足がかりに安西四鎮を預かる地位まで昇った人物である。
高仙芝の補佐役として出発したが、大勃律遠征では自ら軍を率い、
西域経営を担う独立した指揮官となった。
安史の乱では洛陽防衛に失敗したものの、未訓練兵で安禄山軍を迎え撃った条件は極めて不利だった。
敗走後には潼関防衛を進言し、最後まで反乱軍の実力を過小評価しないよう訴えている。
封常清の最期を単に「敗軍の将の処刑」と見るだけでは、その経歴の全体像は捉えられない。
西域軍政で積み上げた実績と、
安史の乱勃発後の朝廷が現地の軍事情勢を十分に把握できなかったことの両方を示す人物である。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻104「封常清伝」
・『新唐書』巻135「封常清伝」
・司馬光『資治通鑑』巻216・217
・『全唐文』巻330「封常清・遺表」
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