【後漢】曹節|竇武・陳蕃を倒し霊帝朝で権力を握った宦官

後漢の宦官 曹節 037.宦官

曹節(そうせつ、生年不詳~181年)は、後漢の桓帝・霊帝に仕えた宦官である。字は漢豊。
南陽郡新野県の人とされるが、もとは魏郡の出身で、
代々二千石級の官人を出した家の出だったという。

順帝の時代に小黄門となり、桓帝期には中常侍・奉車都尉へ昇進した。
曹節の名が後漢政治の中心に現れるのは、桓帝死後の霊帝擁立からである。

さらに建寧元年(168)、大将軍竇武と太傅陳蕃による宦官排除計画を察知すると、
朱瑀・王甫らとともに宮中を制圧し、偽の詔を用いて竇武・陳蕃らを死に追い込んだ。

その後も竇太后への処遇、勃海王劉悝の事件、反対派官僚への圧力などに関与し、
霊帝朝を代表する有力宦官となった。

一方で、曹節本人について残る史料は政治事件に偏っており、
後世の「悪宦官」という印象だけで個人的な性格まで推測することは避ける必要がある。

曹節の出自と桓帝時代

『後漢書』「宦者列伝」によれば、曹節は字を漢豊といい、南陽郡新野県の人だった。
ただし一族の本来の出身地は魏郡で、「世吏二千石」、
すなわち代々二千石級の高官を出していた家と記されている。
生年や幼少期、宦官となった事情については記録がない。

順帝の初年、曹節は西園騎から小黄門へ移った。
西園は後宮に近い皇帝の園林であり、ここでの勤務を経て皇帝側近の宦官へ進んだことになる。

桓帝の時代には中常侍となり、さらに奉車都尉を兼ねた。
奉車都尉は皇帝の車駕に関係する官職であり、この段階ですでに宮廷の中枢に近い位置にいた

ただし、桓帝が梁冀を排除した延熹2年(159)の政変で中心となったのは
単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡ら、いわゆる「五侯」であり、
曹節をこの政変の中心人物とすることはできない。

曹節が史料上大きな役割を果たすのは、その後の桓帝末年から霊帝初年にかけてである。

↓↓外戚・梁冀を誅滅した功績により侯に封じられた宦官たち・五侯についての個別記事は、こちら

【後漢】五侯|梁冀を倒し桓帝朝で権勢を握った五人の宦官
五侯(ごこう)は後漢の桓帝期に外戚・梁冀を誅した功績で侯に封じられた単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡の五名の宦官。外戚政治を終わらせた一方で宦官政治の前例を作り、霊帝期の宦官専横や十常侍の時代へとつながる転換点となった。

霊帝擁立と竇武・陳蕃との対立

永康元年(167)、桓帝が皇子を残さず死去すると、皇后だった竇氏が皇太后として臨朝した。
皇位継承者には河間王家の解瀆亭侯劉宏が選ばれ、後の霊帝となる。

霊帝を迎えに行く

建寧元年(168)、曹節は新皇帝を迎える役目を与えられた。
曹節は節を持ち、中黄門・虎賁・羽林あわせて千人を率いて北へ向かい、劉宏を迎えた。
洛陽へ入る際には皇帝と同じ車に陪乗したと『後漢書』は記している。

霊帝が即位すると、この擁立の功績によって曹節は長安郷侯に封じられ、六百戸を与えられた。

この時点では政権の中心にいたのは竇太后の父で大将軍の竇武と、太傅陳蕃だった。
二人は李膺・杜密・尹勲・劉瑜ら名望ある士人を朝廷へ呼び戻し、
宦官勢力を抑えて政治を立て直そうとしていた。

一方、曹節や王甫らは霊帝の乳母趙嬈や宮中の女官らと結び、竇太后にも接近した。
竇太后が曹節らを信任し、その働きかけによって官職や封爵を与えることもあったため、
陳蕃と竇武はこれを強く問題視した。

竇武と陳蕃が曹節らの排除を計画する

陳蕃は竇武に対し、曹節・王甫らが桓帝時代から政治を乱しており、
今のうちに除かなければ後に大きな問題になると主張した。

竇武もこれに同意した。

日食が起こると、陳蕃は天変を理由として宦官を罷免する機会だと促した。
竇武は竇太后へ、黄門・常侍は本来宮中の門戸や近署の財物を管理する役目にすぎないのに、
今では政治に関与し、その子弟まで各地で貪暴を働いているとして、宦官勢力の排除を求めた。

竇太后は「罪のある者を処罰することはできるが、昔からいる宦官をすべて廃することはできない」
として全面的な排除には同意しなかった。
それでも中常侍管霸や蘇康らが処刑され、次第に追及は曹節・王甫らへ及んだ。

陳蕃も上疏し、侯覧・曹節・公乗昕・王甫・鄭颯らを名指しして、
放置すれば必ず政変を起こすと警告している。

建寧元年の政変と竇武・陳蕃の死

竇武と陳蕃は、曹節らを逮捕する準備を進めた。
尚書令尹勲、侍中劉瑜、河南尹劉祐らも計画に加わり、
まず宦官側に近い長楽尚書鄭颯が捕らえられた。

取り調べの結果、曹節や王甫の名も浮上した。
しかし計画は実行前に漏洩した。

朱瑀が竇武の上奏文を盗み見る

長楽五官史の朱瑀が、竇武による宦官逮捕の上奏文を盗み見た。

朱瑀は
「放縦な者だけを処罰すればよいのに、
 我々に何の罪があって一族まで皆殺しにされなければならないのか」と怒り、
竇武と陳蕃が皇太后に働きかけて皇帝を廃そうとしていると叫んだ。

そして共普・張亮ら親しい宦官を集め、十七人で血をすすって盟約を結んだ。
曹節もこれに加わった。

霊帝を確保して宮門を閉ざす

曹節は幼い霊帝を御前殿へ移した。
趙嬈らが皇帝の周囲を守り、宮中の門は閉鎖された。

曹節らは尚書の官人を刃物で脅し、詔書を作らせた。
さらに長楽食監だった王甫を黄門令に任命し、兵を指揮できる立場に置いた。

これは正規の皇帝の意思に基づく手続きではなく、
『後漢書』も曹節らが「矯詔」、すなわち詔を偽造したと明記している。
曹節らは竇太后の璽綬を奪い、鄭颯らに節を持たせて竇武らを逮捕させようとした。

陳蕃の死

異変を知った陳蕃は、官属や学生八十人余りを率いて刀を抜き、尚書台へ突入した。
陳蕃は、大将軍竇武は国家を守ろうとしているのであり、反逆しているのは黄門の側だと叫んだ。

王甫は剣士を差し向けて陳蕃を捕らえた。
陳蕃は王甫を激しく叱責したが、北寺獄へ送られ、その日のうちに殺された。

竇武軍を崩壊させる

竇武は宮中の命令を受け入れず、歩兵営へ走り、北軍五校の兵数千人を集めた。
「中常侍が反乱した。力を尽くした者には侯爵と重賞を与える」と命じ、
宦官勢力と対抗しようとした。

曹節らは、ちょうど辺境から洛陽へ戻ったばかりで事情を知らなかった張奐を利用した。
偽の命令を出し、張奐と少府周靖に五営の兵を率いて竇武を討たせたのである。
王甫も千人余りを率いて朱雀門へ進み、竇武の兵に向かって
「お前たちは宮中を守る禁兵なのに、なぜ反逆者に従うのか」と呼びかけた。

もともと禁軍の兵士たちは宦官の権勢を恐れていたため、次第に竇武から離れて王甫側へ移った。
竇武は敗北し、自殺した。首は都亭にさらされ、宗族や賓客も多数処罰された。

張奐は後になって、自分が曹節らに利用されたことを知り、深く悔やんだ。
功績として侯爵を与えられたものの、これを固辞して受け取らなかった。

曹節らへの恩賞

政変後、曹節は長楽衛尉へ昇進し、育陽侯に封じられ、封邑三千戸を加増された。

王甫は中常侍となり、黄門令を兼任した。
朱瑀は都郷侯となり、共普・張亮らにも封爵が与えられた。

朱瑀らは政変前、明堂で密かに天へ祈り、
「竇氏は無道である。皇帝を助けてこれを討たせ、天下を安んじてほしい」と願ったとも伝えられる。
政変後には朝廷から祭祀の費用が出され、朱瑀には巨額の金銭が与えられ、
のちに華容侯へ改封された。

曹節自身もこの政変によって霊帝政権の中心的な宦官となった

霊帝朝での権力拡大

建寧2年(169)、曹節が重病になると、霊帝は病床の曹節を車騎将軍に任命した。

やがて病気が回復すると、曹節は将軍の印綬を返上し、再び中常侍となった。
位は特進、秩禄は中二千石とされ、その後大長秋へ転じた。

大長秋は皇后宮を統轄する高位の官職であり、宦官が就任することも多かった。
曹節は宮廷内部でさらに強い立場を得たことになる。

また曹節だけでなく、その父兄や子弟も公卿・校尉・州牧・太守・県令などに任じられ、
『後漢書』は一族が「天下に布満」したと記している。

党錮の禁と宦官勢力

竇武・陳蕃が倒された翌年の建寧2年(169)、第二次党錮の禁が本格化した。

李膺・杜密ら宦官勢力を批判してきた士人が処罰され、多数の人物が禁錮された。
この弾圧には侯覧らも深く関与しており、曹節だけが主導したとするのは正確ではないが、
竇武・陳蕃を排除したことで宦官勢力への政治的な対抗勢力が大きく弱体化したことは確かである。

曹節自身も呂強の上疏では、王甫・張譲らと並び、皇帝に媚びて忠良を妬み、
私党を作った宦官として名指しで批判されている。

↓↓後漢最大級の富豪宦官侯覧についての個別記事は、こちら

【後漢】侯覧|巨万の賄賂と張倹弾圧で知られる宦官
侯覧(こうらん)は後漢の桓帝・霊帝期に権勢を振るった宦官である。梁冀粛清後に高郷侯へ封じられ、巨万の賄賂を受け、民家381軒・田地118頃を奪ったとして張倹から告発された。兄・侯参による収奪、張倹への報復と党人弾圧、曹節に代わって長楽太僕を領するまでの権力拡大、172年の失脚と自殺まで、『後漢書』をもとにその生涯を詳しく解説する。

竇太后の死と曹節への告発

熹平元年(172)、南宮に幽閉されていた竇太后が死去した。

竇武の政変以来、曹節・王甫らは竇氏への強い敵意を抱いていた。
竇太后の死後、曹節と王甫は皇太后としてではなく、より低い貴人の礼で葬ることを求めた。

しかし霊帝は、竇太后が自分を皇帝に立てた人物である以上、
その恩に報いなければならないとして認めなかった。

馮貴人を桓帝に配祀しようとする

曹節・王甫らはさらに、竇太后を桓帝とは別に葬り、
桓帝の寵妃だった馮貴人を桓帝に配祀する案を出した。

これに対し廷尉陳球や太尉李咸らが強く反対した。

李咸はもし竇太后が桓帝に合葬・配祀されないなら自分は生きて帰らないとして、
毒を用意して議論へ臨んだと伝えられる。
陳球も、竇武が罪に問われたことと竇太后自身の扱いは別問題であり、
霊帝を擁立した功績を持つ皇太后を降格して葬るべきではないと主張した。

霊帝も最終的にはこの意見を採用した。

竇太后は桓思皇后として宣陵へ葬られ、桓帝と合葬された。
曹節と王甫はこの問題では自らの意向を通すことができなかった。

朱雀闕に書かれた告発文

同じ年、朱雀闕に何者かが曹節らを批判する文章を書いた。

そこには、天下が乱れていること、曹節と王甫が竇太后を幽閉して死なせたこと、
侯覧が多数の党人を殺したこと、
公卿は俸禄を受けるだけで忠言する者がいないことなどが記されていた。

霊帝は司隷校尉劉猛に犯人を捜させた。

しかし劉猛は、書かれている内容は正論だとして積極的に捜査しなかった。
ひと月以上たっても犯人は見つからなかったため、劉猛は諫議大夫へ左遷された。

代わって御史中丞段熲が捜査を担当すると、太学の学生まで含めて千人余りが拘束された。

曹節らは劉猛への怒りを収めず、段熲に別件で劉猛を告発させ、刑徒として左校へ送った。
朝臣から多くの反対意見が出たため、最終的には刑を免じられている。

勃海王劉悝の死

同じ熹平元年、曹節と王甫は桓帝の弟である勃海王劉悝の事件にも関与した。

劉悝は以前に罪を犯して癭陶王へ降格されていたが、
王甫に働きかけ、租税から五千万銭を贈る約束をして復国を求めた。
桓帝は劉悝を勃海王へ戻したが、これはもともと皇帝自身の意向でもあった。

王甫は自分の力で復国できたと考え、約束した金銭を要求した。
しかし劉悝は皇帝の意思による復国だと理解しており、王甫へ金を渡さなかった。

これを恨んだ王甫は、劉悝が反逆を企てているとして追及するようになった。
曹節も王甫らとともに劉悝の謀反を上奏し、劉悝は自殺に追い込まれた。

この事件を功績として十二人が封爵され、王甫は冠軍侯となった。
曹節も四千六百戸を加増され、それまでの分と合わせて七千六百戸を領する大侯となった。

曹節一族の権勢

曹節の権力は本人だけにとどまらなかった。
『後漢書』は、曹節の父兄・子弟が公卿、列校、州牧、太守、県令・県長などとなり、
天下に広く配置されたと記している。

その一族の横暴を示す逸話として、弟の曹破石の事件が残る。

弟・曹破石と越騎営の兵士の妻

曹破石は越騎校尉となっていた。
越騎営のある兵士の妻が美しかったため、曹破石はその女性を差し出すよう求めた。
夫である兵士は曹破石の権勢を恐れて逆らえなかった。

しかし妻本人は拒絶した。
女性は曹破石のもとへ行くことを受け入れず、自ら命を絶ったという。

『後漢書』はこの逸話の後、「その淫暴無道、この類多し」と記しており、
曹節の一族による権勢の乱用を強く批判している。

王甫の処刑と曹節への批判

光和2年(179)、曹節と長く並んで権力を握ってきた王甫が失脚した。
司隷校尉陽球が王甫と、その子の長楽少府王萌、沛相王吉を告発し、三人は獄中で死亡した。

王甫が処刑されると、郎中の審忠はこれを機会として曹節らの勢力も排除するよう霊帝へ上書した。
審忠は、竇武・陳蕃の政変以来、朱瑀・曹節らが宮中を乱し、
皇帝の璽綬を奪い、竇武・陳蕃らを殺し、その後は自分たちと一族に封爵を分配したと批判した。

さらに彼らの父兄・子弟や親しい者が中央・地方の官職を占め、豪邸を築き、財産を蓄え、
皇室用の水まで私用の池へ引き、車馬や服飾も皇帝の家に似せるほどになったと訴えた。

公卿は恐れて発言せず、州牧や太守も宦官の意向をうかがい、
人材登用まで歪められているというのが審忠の主張だった。

しかしこの上書は採用されなかった。
王甫が処刑されても、曹節の地位は揺らがなかった。

尚書令を兼ねる

その後、曹節は尚書令を兼ねた。
尚書台は皇帝の詔命や行政実務を扱う中央政府の重要機関であり、
大長秋や中常侍として宮中に影響力を持つだけでなく、
曹節が朝廷の行政機構そのものにも深く関与するようになったことを示している。

呂強が霊帝へ上疏して、曹節・王甫・張譲らの封侯や政治介入を批判したのも、
このように宦官が皇帝の側近という範囲を越えて人事や行政へ影響を及ぼしていたためだった。

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【後漢】呂強|霊帝に諫言を重ね、黄巾の乱のさなかに自害した宦官
呂強(りょきょう)は後漢霊帝に仕え、宦官でありながら十常侍らの専横を批判した人物である。黄巾の乱を前に党人の赦免や汚職官僚の処罰、宦官一族への封爵抑制などを上奏した改革論、霊帝への諫言、趙忠らとの対立、誣告によって自殺へ追い込まれた最期まで、『後漢書』をもとに生涯と人物像を解説する。

曹節の死とその後

光和4年(181)、曹節は死去した。
没年は明確だが、生年は『後漢書』には記録されていないため、享年を確定することはできない。
死後、車騎将軍を追贈された。

曹節は生前にも病気の際に車騎将軍へ任命されていたが、回復後に印綬を返している。
死後に改めて同じ官号が追贈されたことからも、
霊帝から最後まで高い待遇を受けていたことがわかる。

曹節とともに竇武・陳蕃を倒した朱瑀も後に病死し、両者の爵位は養子によって継承された。
後漢では宦官の養子が家を継ぎ、封爵を相続することが制度上認められており、
曹節の家も本人の死によって直ちに断絶したわけではなかった。

曹節の死後、大長秋の地位は趙忠へ移った。
霊帝の側近宦官の中心も、やがて張譲・趙忠らの世代へ移っていく。

曹節の死から3年後の中平元年(184)には黄巾の乱が発生し、
呂強や張鈞らが霊帝の側近宦官とその一族による政治・地方支配を厳しく批判した。

曹節本人はすでに死んでいたものの、
霊帝期に拡大した宦官とその家族による権力構造はその後も続いていた。

曹節の人物像と評価

曹節は、後世の評価が特に厳しい後漢宦官の一人である。
その最大の理由は、建寧元年の政変で偽詔を用い、竇武・陳蕃らを排除したことにある。

さらに竇太后の葬礼を格下げしようとしたこと、王甫とともに勃海王劉悝を謀反の罪に陥れたこと、
一族が中央・地方の官職へ大量に進出したことなども正史に記録されている。
弟曹破石の逸話も含め、曹節の権勢が一族へ波及していたことは明らかである。

ただし、竇武・陳蕃の政変については、曹節らだけが一方的に粛清を始めたわけではない。
先に竇武・陳蕃側が曹節・王甫らを含む宦官勢力の排除を計画し、
その計画が漏れた結果、曹節らが先手を取って宮中を掌握した。

だからといって偽詔や大量処刑が正当化されるわけではないが、
事件の経緯を省いて「曹節が忠臣を突然殺した」とするのも正確ではない。

また、曹節の権力を支えたのは霊帝自身でもあった。
霊帝は曹節を迎立の功臣として封侯し、政変後にはさらに昇進させ、
一時は車騎将軍、大長秋、最終的には尚書令まで兼ねさせた。

曹節の長期的な権勢は、宦官個人の策謀だけではなく、皇帝と宮廷制度の中で成立していた。

まとめ

曹節の生涯で最も重要なのは、竇武・陳蕃を倒した一度の政変だけではない。
霊帝を迎えた功績によって宮廷中枢へ進み、
168年の政変後も十年以上にわたって大長秋・尚書令などを務め、
一族を含めて大きな政治的影響力を維持した点にある。

その一方で、竇太后の葬礼では霊帝や陳球・李咸らの反対によって意向を退けられ、
王甫のような同盟者が処刑されることもあった。
曹節が朝廷を自由に支配できたわけではなく、
皇帝の信任と宮廷内部の勢力関係の中で権力を維持していた人物だった。

後漢末の宦官政治を理解するうえで、曹節は張譲・趙忠より一世代前に、
皇帝側近の宦官が軍事・人事・行政・封爵にまで
深く関与する体制を確立した中心人物の一人と位置づけられる。

史書・参考文献

・『後漢書』巻78「宦者列伝(曹節伝)」
・『後漢書』巻66「陳蕃伝」
・『後漢書』巻69「竇武伝」
・『後漢書』巻56「陳球伝」
・『後漢書』巻8「霊帝紀」
・司馬光『資治通鑑』巻56・57

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