【後漢】五侯|梁冀を倒し桓帝朝で権勢を握った五人の宦官

後漢の宦官 五侯 037.宦官

五侯(ごこう)とは、後漢の桓帝に仕えた単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡の五人の宦官を指す。
延熹2年(159)、桓帝が外戚の大将軍梁冀を排除した際、五人は密議に加わって政変を成功させ、
その功績によって同日に県侯へ封じられたことから「五侯」と呼ばれた。

『後漢書』はこの事件について、梁冀の失脚後に「権力は宦官に帰した」と評しており、
後漢後期に宦官が政治勢力として急速に拡大する重要な転換点となった。

ただし、五侯は最初から一つの政治集団として活動していたわけではない。
梁冀に不満を持っていた宦官を桓帝が秘密裏に集め、
その結果として五人が政変の中心になったものである。

また五人の経歴や最期も同じではなく、単超が早くに病死した後、
残る四侯の権勢が拡大し、一族や賓客による収奪が問題となった。
やがて唐衡・徐璜が死去し、左悺は告発を受けて自殺、
具瑗も爵位を降格されて失意のうちに死んでいる。

五侯の出自と桓帝に仕えた五人の宦官

『後漢書』「宦者列伝」は五人をまとめて立伝しているが、
生年や宦官となった事情については記していない。

単超は河南郡の人、徐璜は下邳国良城県の人、具瑗は魏郡元城県の人、
左悺は河南郡平陰県の人、唐衡は潁川郡郾県の人だった。

桓帝の初めには、単超・徐璜・具瑗がすでに中常侍となっており、
左悺と唐衡は小黄門史を務めていた。
つまり159年の梁冀排除によって突然宮廷へ現れた人物ではなく、
それ以前から皇帝の近くに仕えていた宦官だった。

当時の後漢では、大将軍梁冀が巨大な権力を握っていた。
梁冀の妹は順帝の皇后となり、もう一人の妹も桓帝の皇后となったため、
梁氏は二代の皇帝にわたって外戚として権勢を維持した。

梁冀は父の梁商から大将軍の地位を継ぎ、質帝を毒殺したとされる事件を経て桓帝を擁立した。
さらに李固・杜喬ら政敵を排除し、朝廷内外で梁氏に逆らうことが難しい状態を作り上げていた。
桓帝自身も梁冀の権力を恐れ、排除したいと考えながら、
その計画が漏れることを警戒して容易には行動できなかった。

梁冀排除の密議と「五侯」の誕生

延熹2年(159)、梁皇后が死去すると、桓帝は梁氏を排除する機会をうかがうようになった。
しかし朝廷の官僚を通じて計画を進めれば、梁冀に情報が漏れる危険があった。

そこで桓帝が頼ったのが、自分の身近に仕える宦官だった。

桓帝が厠で唐衡を呼び出す

『後漢書』には、この政変の始まりとなった特徴的な逸話が残されている。

桓帝は厠へ行った際、唐衡だけを密かに呼び出し、「左右の者で外舍と仲が悪い者は誰か」と尋ねた。
「外舍」とは皇后の実家、ここでは梁冀を中心とする梁氏一族を指している。

唐衡は、単超と左悺が以前、河南尹を務めていた梁不疑のもとを訪れた際、
礼が簡略だったため梁不疑の怒りを買ったことを語った。
梁不疑は二人の兄弟を洛陽の獄へ入れ、
単超と左悺が門前まで出向いて謝罪してようやく釈放されたという。

さらに唐衡は、徐璜と具瑗も梁氏一族の横暴を内心では憎んでいるものの、
恐れて口にできずにいると桓帝へ伝えた。

唐衡の回答によって、桓帝は梁氏に反感を持つ宦官を把握した。

「梁冀を誅したい」と桓帝が打ち明ける

桓帝はまず単超と左悺を密室へ呼び入れた。
そこで「梁将軍の兄弟は朝廷を専横し、内外を圧迫している。公卿以下もその意向に従っている。
今これを誅したいが、どう思うか」と尋ねた。

単超らは、梁冀は国家の奸賊であり、本来なら以前から誅されるべき人物だったと答えた。
ただし皇帝の本心がどこまで固まっているのか分からないとして慎重な態度を示した。

桓帝が本気であることを伝えると、
宦官側は「計画すること自体は難しくない。ただ陛下が途中で再び迷われることが心配だ」と答えた。
梁冀ほどの権力者を敵に回した以上、皇帝が途中で翻意すれば、
計画に加わった者は全員破滅するためだった。

桓帝は「奸臣が国家を脅かしている以上、その罪に服させなければならない。何を迷うことがあるか」
と答えた。

その後、徐璜と具瑗も呼び出され、単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡の五人による密議が成立した。

単超の腕を噛んで血盟を結ぶ

密議の最後に、桓帝は単超の腕を噛んで血を流させ、その血をもって盟約を結んだ。

皇帝自身が宦官の腕を噛んで血盟を結ぶという異例の行為は、
それだけ梁冀排除が秘密を要する危険な計画だったことを示している。

桓帝は梁冀とその宗族・党与を捕らえる詔を出した。
梁冀は抵抗できず、妻の孫寿とともに自殺し、梁氏一族とその勢力は一挙に排除された。

五侯は梁冀を倒した単なる実行役ではなく、
皇帝が朝廷官僚を信用できない状況で秘密の政変を進めるために選んだ側近だった。

同じ日に県侯へ封じられる

梁冀排除後、五人には莫大な恩賞が与えられた。

単超は新豊侯となり、食邑二万戸。
徐璜は武原侯、具瑗は東武陽侯となり、それぞれ一万五千戸と銭千五百万を与えられた。
左悺は上蔡侯、唐衡は汝陽侯となり、それぞれ一万三千戸と銭千三百万を与えられた。

また、それまで小黄門史だった左悺と唐衡も中常侍へ昇進した。

五人が同じ日に侯へ封じられたため、世間は彼らを「五侯」と呼んだ。
このほか小黄門の劉普・趙忠ら八人も郷侯へ封じられている。

『後漢書』はこの出来事の直後に「これより権は宦官に帰し、朝廷日に乱る」と記している。

ただし、これを「五侯が宦官政治そのものを始めた」と単純化するのは適切ではない。
後漢ではそれ以前にも孫程らが皇帝擁立に関与し、曹騰も桓帝擁立の功績によって封侯されている。

159年の特徴は、皇帝が外戚の最高権力者を排除するために側近宦官を直接利用し、
その成功後に五人へ大規模な封邑と政治的地位を与えたことにあった。

単超の死と四侯の権勢拡大

五侯がそろって権勢を振るった期間は長くなかった。
中心人物だった単超が病に倒れたためである。

病床で車騎将軍となった単超

単超が病気になると、桓帝は使者をそのもとへ送り、病床にあるまま車騎将軍へ任命した。
翌年、単超は死去した。

桓帝が単超に与えた葬礼は非常に厚いものだった。
宮廷用の棺である東園秘器を与え、棺内には玉具を納め、侯・将軍の印綬を贈った。
さらに皇帝の使者が葬儀を取り仕切り、埋葬の際には五営の騎兵を動員し、
侍御史に葬列を護衛させ、将作大匠に墓を造営させた。

梁冀排除における単超の働きを、桓帝がいかに高く評価していたかがうかがえる。

「左回天、具独坐、徐臥虎、唐両墮」

単超が死ぬと、残る徐璜・具瑗・左悺・唐衡の四侯の横暴がさらに強くなった
と『後漢書』は記している。

当時の人々は四人について、「左回天、具独坐、徐臥虎、唐両墮」という言葉を作った。

左悺の「回天」は天さえ動かすほどの権勢、具瑗の「独坐」は並ぶ者のない驕貴を表した。
「徐臥虎」は徐璜を伏した虎になぞらえ、
「唐両墮」は唐衡が自分の都合に応じて態度を変えることを表したと『後漢書』の注は説明している。

こうした呼称は五侯の人物像を客観的に記録したものではなく、
当時彼らの権勢がどのように受け止められていたかを示す同時代的な評語として見る必要がある。

宮殿に似た邸宅を築く

四侯は競うように大邸宅を建てた。

楼閣は壮麗で、技巧を極め、金銀の装飾品を犬や馬にまで付けた。
良家の女性を多数集めて姫妾とし、その服飾も宮女になぞらえるほど華美だったという。
従者たちは牛車に乗り、その周囲には騎兵が列を作った。

また遠縁の親族を養い、異姓の家から後継者を求めたり、奴僕を買って養子にしたりして、
自分たちの侯爵を継承させる準備まで行っていた。

兄弟や姻戚も州郡の長官となり、地方で住民から財物を取り立てた。
『後漢書』はその行為について「盗賊と異なるところがない」と厳しく批判している。

五侯一族の地方進出と徐宣事件

五侯の権勢は本人たちだけにとどまらなかった。
親族が地方長官へ大量に進出したことで、宮廷で得た権力が地方社会へ直接及ぶようになった。

単超の弟・単安は河東太守、弟の子である単匡は済陰太守となった。
徐璜の弟・徐盛は河内太守、左悺の弟・左敏は陳留太守、具瑗の兄・具恭は沛相となった。

『後漢書』は、彼らが赴任先でいずれも「蠹害」、
すなわち地方を食い荒らす害悪となったと記している。

その中でも特に詳しく記録されているのが、徐璜の兄の子・徐宣である。

李暠の娘を奪って殺害する

徐宣は下邳令となった。

それ以前、徐宣は元汝南太守の李暠の娘を求めたものの、断られていた。
ところが下邳令となると、官吏と兵士を率いて李暠の家へ押しかけ、その娘を強引に連れ去った。
徐宣は連れ去った女性を戯れに弓で射て殺し、役所の中へ埋めたと『後漢書』は記している。

当時、下邳県は東海郡に属しており、東海相を務めていたのが汝南出身の黄浮だった。
徐宣の犯罪を告発する者が現れると、黄浮は徐宣とその家族を捕らえて取り調べた。

部下たちは、徐宣が五侯の一人である徐璜の親族であることを恐れ、
処刑を思いとどまるよう繰り返し諫めた。

しかし黄浮は、徐宣は「国賊」であり、
今日これを殺して自分が明日死罪になったとしても満足だという趣旨の言葉を残し、
徐宣を棄市に処した。
さらに遺体をさらして民衆へ示したため、郡内は震え上がったという。

徐璜が桓帝へ訴える

甥を処刑された徐璜は、黄浮を桓帝へ訴えた。

桓帝は激怒し、黄浮は髪を剃られ首枷を付けられる刑を受け、
右校へ送られて労役に服することになった。

この事件は五侯の権力構造をよく示している。
地方長官が五侯一族の犯罪を処罰しても、その親族である宦官が皇帝へ直接働きかけることで、
逆に処罰した官吏が罪に問われることがあり得た。

『後漢書』は続けて、五侯の宗族や賓客による暴虐が天下に広がり、
民衆が生活に耐えられず、盗賊となって蜂起する者まで現れたと記している。

五侯の死と勢力の崩壊

単超の死後も四侯の権勢は続いたが、延熹年間の後半になると五侯本人も次々と姿を消していった。

唐衡と徐璜の死

延熹7年(164)、唐衡が死去した。
唐衡にも単超と同じく車騎将軍が追贈された。
桓帝が梁冀排除の功臣に対して、死後まで高い待遇を与えていたことがわかる。

徐璜もその後に死去した。
徐璜には葬儀のための金銭や布が与えられ、墓地も下賜された。

左悺と兄・左称が自殺する

翌年、司隷校尉韓演が左悺の罪を告発した。

告発の対象は左悺だけではなかった。
兄で太僕・南郷侯だった左称についても、州郡へ請託を行い、不正に財物を集め、
賓客を放縦にさせて官吏や民衆を侵害しているとされた。

追及を受けた左悺と左称は、ともに自殺した。

梁冀排除によって皇帝から絶大な恩賞を受けた左悺だったが、
その最期は一族による権力乱用を司隷校尉に告発された結果だった。

具瑗の失脚と死

韓演の追及は具瑗の一族にも及んだ。
具瑗の兄で沛相だった具恭が贓罪、すなわち不正な財物取得の罪を告発され、廷尉へ召還された。
具瑗は自ら獄へ出向いて謝罪し、東武陽侯の印綬を返上した。

桓帝は具瑗を処刑せず、都郷侯へ降格した。
その後、具瑗は自宅で死去した。

これによって五侯本人はすべて政治の表舞台から消えた。

五侯の死後と一族への処分

五侯本人が死んでも、彼らの爵位は養子や親族によって継承されていた。

しかし左悺・具瑗らへの追及後、朝廷は五侯一族の爵位を大幅に整理した。
単超・徐璜・唐衡の爵位を継いでいた者は、県侯から郷侯へ降格された。
年間の租税収入も三百万銭に制限された。
五侯の子弟で別に封爵されていた者は、爵位と封土をすべて没収された。
梁冀排除の際に五侯とともに封爵されていた劉普らも関内侯へ降格された。

五侯が梁冀排除によって得た巨大な政治的・経済的特権は、
桓帝自身の治世中にかなり縮小されたことになる。

ただし、五侯の失脚によって宦官の政治的影響力そのものが終わったわけではない。
侯覧曹節ら別の宦官が桓帝末年から霊帝初年に台頭し、さらに張譲・趙忠らへと続いていった。

重要なのは、五侯という五人の家系がそのまま後漢末まで朝廷を支配したのではなく、
皇帝の側近である宦官が政変を支え、その功績によって封侯され、
親族を地方官へ進出させるという権力形成の形が後の時代にも繰り返されたことである。

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五侯の人物像と歴史的位置

五侯の評価には二つの側面がある。

延熹2年の時点では、単超らは梁冀の専横を終わらせるために桓帝へ協力した人物だった。
梁冀は大将軍として長期間朝廷を支配し、李固・杜喬らを死に追い込み、
皇帝自身もその権勢を恐れていた。
五侯の協力がなければ、桓帝が梁冀を排除できたかどうかは分からない。

ところが梁冀排除後、五侯自身が巨大な封邑と財産を与えられ、
親族まで中央・地方の官職へ進出した。
『後漢書』が問題視しているのは、外戚梁氏による権力独占を終わらせた後、
その政治的空白へ皇帝側近の宦官とその一族が入り込んだ
ことである。

そのため「五侯が後漢宦官政治を始めた」という表現は大筋では理解しやすいものの、
厳密には補足が必要となる。
宦官が皇帝擁立や政治に関与した例は孫程や曹騰など以前から存在した。

五侯の時代に大きく変化したのは、宦官が外戚最高権力者を倒す政変の中心となり、
その功績を理由として五人同時に巨大な封邑を持つ列侯となり、
親族を通じて地方支配にまで影響を及ぼす規模へ拡大した
ことである。

まとめ

「五侯」という呼称は単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡が
同日に侯へ封じられたことから生まれたものであり、後世に作られた五人組の名称ではない。
『後漢書』自身が当時「世にこれを五侯と謂う」と記している。

五人が歴史上重要なのは、梁冀を倒したことだけではなく、その後の変化にある。
桓帝は外戚梁氏を排除するため、自分の身近にいる宦官を秘密の政治勢力として利用した。
そして成功後には、従来の宮廷官としての地位を大きく越える封邑・財産・政治的影響力を与えた。

しかし五侯の権勢は長く安定したものではなかった。
単超は早世し、唐衡・徐璜も相次いで死去し、左悺は自殺、具瑗は降格後に死んだ。
子弟の爵位も削減・剥奪され、五侯そのものの勢力は桓帝期のうちに衰退した。

それでも、皇帝が外戚や官僚に対抗するため宦官を利用し、その宦官が封侯され、
一族や賓客まで政治・地方社会へ勢力を拡大するという構造は残った。
五侯は、後漢宦官政治の「最初の宦官」ではなく、
宦官権力がそれまでとは異なる規模へ拡大した転換点を示す存在と位置づける方が正確である。

史書・参考文献

・『後漢書』巻78「宦者列伝(単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡)」
・『後漢書』巻34「梁統列伝(梁冀伝)」
・『後漢書』巻61「黄瓊伝」
・司馬光『資治通鑑』巻54

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