宦官とは何か?宦官制度の歴史(王朝別まとめ)
宦官とは何か?
宦官とは、去勢を施した官吏のこと。
(中国では男性器をすべて切り落とす完全去勢だったよう)
東アジアでは、戦国時代の中国に初めて見られ、
朝鮮やベトナムなど漢字文化圏の国々に広まった。
日本に宦官が存在したか否かについては諸説ある。
西アジア・地中海地域、イスラム諸国、アフリカなどにも存在した。
王朝ごとの 宦官人数
全王朝で存在しており、つまりは3千年の歴史があるということになります。
宦官の人数は王朝ごとに大きく異なりますが、特に後漢と明代で急増しています。
※一つの王朝でも期間が長いため、あくまで概算の数字です。
| 王朝 | 宦官人数(推定・記録) | 根拠・背景 |
| 殷・周 | 不明 | 甲骨文字にも宦官を示す文字がみられるが、具体的には不明。 |
| 秦 | 不明(制度は存在) | 宦官制度は存在したが、具体的な人数記録は残らず。 |
| 前漢 | 数百〜数千程度 | 宦官は存在したが、後漢ほど政治介入は強くない。 |
| 後漢 | 約15万人(宦官+官吏) | 後漢末期に宦官勢力が膨張。15万人という数字が史料に登場。 |
| 三国・魏晋南北朝 | 数千〜1万人規模 | 宦官は継続して存在するが、王朝ごとに変動。 |
| 隋 | 数千程度 | 隋代で宮刑が一度廃止され、宦官数は比較的少ない。 |
| 唐 | 数千〜1万人規模 | 唐後期に宦官が軍事権を掌握し増加。 |
| 宋 | 1万〜2万人規模 | 宦官が軍事・財政に深く関与。 |
| 元 | 数千〜1万人規模 | 宦官制度は継続するが、漢人王朝ほど多くない。 |
| 明 | 7万人以上(最大規模) | 明代は宦官制度が最も肥大化。自宮ブームも発生。 |
| 清 | 数千〜1万人規模 (末期は約3,000人) | 清末の溥儀が1923年に宦官追放を実施。 |
どのような人が宦官になるのか?
どのような人がなるのかというと、以下3パターン。
・異民族の捕虜、異国からの供物
・宮刑を受けた者
・志願者(自宮者)
生涯にわたり肉体的な不自由を伴い(排泄、性欲etc.)、子孫も残せない宦官。
なぜ、わざわざ志願して宦官(自宮)になるのでしょうか?
経済的理由(貧しい家の子供、実家への仕送りや財産の贈与、借金、賭博で大負けetc.)
というのもありますが、最も大きな理由は、「出世のため」です。
宦官は科挙も受けられず、家柄も関係ないため、
皇帝の側近として大出世できるという“抜け道”だったのです。
中国の宦官制度は、王朝ごとに役職名や組織構造が変化しつつも、
「皇帝の身近な実務を担う者」から「国家権力を握る巨大官僚機構」
へと発展していきました。
漢の宦官制度は、中国史における“宦官政治”の原型をつくった時代といえます。
唐・宋・明・清で制度が整備され、階級や役職が明確になります。
代表的な王朝ごとに、宦官の役職・階級制度を次項にまとめました。
代表的な王朝ごとの 宦官の役職・階級制度、政治への介入
| 主な役職 | 内容 |
| 内侍省(ないじしょう) | 宦官の中枢機関。皇帝の身辺・詔勅の伝達を担当。 |
| 内侍監(ないじかん) | 内侍省の長官。宦官のトップ。 |
| 内常侍(ないじょうじ) | 皇帝の側近として詔勅の伝達を行う。 |
| 内給事(ないきゅうじ) | 皇帝の命令を文書化する役。 |
| 監軍使(かんぐんし) | 軍隊の監督役。宦官が軍権を握る原因に。 |
| 主な役職 | 内容 |
| 内侍省(ないじしょう) | 宦官の最高機関。唐代を継承。 |
| 都知(とち) | 宦官の最高責任者。 |
| 提点(ていてん) | 各部署の責任者。 |
| 殿前都指揮使(でんぜんとしきし) | 宮廷警備・軍事を担当。 |
| 三司使(さんしし) | 宦官が財政にも影響力を持つ。 |
宦官制度が最も発達し、宦官専用の官僚機構「二十四衙門」が成立。
宦官が国家の行政・軍事・警察を掌握しました。
また、明代の宦官は「太監」を頂点に、九品制に似た階級が存在。
・正一品:司礼監太監
・従一品:掌印太監
・二品以下:各衙門の長官
| 宦官の最高機関 | 性質 | 役割 | 時代ごとの強弱 | 設置者 |
| 東廠 (とうしょう) | 皇帝直属の宦官による秘密警察(本家) | 監察・逮捕・ 尋問・密偵網 | 成化期(汪直)と天啓期(魏忠賢)の頃が最強 | ③永楽帝 (朱棣) |
| 西廠 (せいしょう) | 東廠の補強機関 (汪直の権力補強) | 監察・弾圧 | 成化期のみ強力。弘治期で廃止。 | ⑨成化帝 (朱見深) |
| 内行廠 (ないこうしょう) | 皇帝直属の宦官(劉瑾)による特務機関 | 官僚や後宮、民衆を監視・摘発 | 正徳期のみ強力。 | ⑪正徳帝 (朱厚照) |

中国歴史ドラマを見ていて「役職的にどっちが偉いの・・?」
「どちらも皇帝直属では・・?」って混乱することありませんか?
「錦衣衛」は、武官による皇帝直属の軍事特務機関(親衛隊)です。
廠=宦官の情報機関 錦衣衛=武官の実働部隊 という役割分担なので、
結果として、宦官が錦衣衛を“使う側”に回る構造ができました。
特に成化期(汪直)、天啓期(魏忠賢)は、宦官が錦衣衛を直接支配し、
錦衣衛の武官は“名目上の指揮官”であり、実権は宦官側にありました。
| 主な役職 | 内容 |
| 司礼監(しれいかん) | 宦官の最高機関。詔勅の起草・皇帝の命令を管理。 |
| 司礼監太監(しれいかん たいかん) | 宦官のトップ。実質的に宰相級の権力。 |
| 秉筆太監(へいひつ たいかん) | 皇帝の詔勅を代筆。国家権力の中枢。 |
| 掌印太監(しょういん たいかん) | 皇帝の印章を管理。 |
| 内官監(ないかんかん) | 宮中の実務を担当。 |
| 二十四衙門の長官 | 宦官が各部署を統括。 |
| 主な役職 | 内容 |
| 内務府(ないむふ) | 宦官の所属機関。皇帝の私的財産・後宮を管理。 |
| 総管太監(そうかん たいかん) | 宦官のトップ。 |
| 各処総管(かくしょ そうかん) | 部署ごとの責任者。 |
| 御前侍衛との連携 | 宮中警備を担当。 |
宦官の呼称の違いは? ~宦官、太監、大監、公公
中国歴史ドラマを見ていると、宦官に対して「ゴンゴン」と呼び掛けていて、
「大監」「太監」などと翻訳されていることがあります。違いを整理してみます。
| 宦官 | 身分の総称。もっとも正式な言い方。歴史用語。 | huànguān |
| 太监 | 現代中国語では、宦官全体を指す一般的呼称(高位含む)として使われることが多い。身分の総称としても、敬称としても使われる。 | tàijiàn |
| 大监 | 明・清の宦官組織の中での高位の宦官の役職名。 ※「大監」「太監」などの役職名が整ったのは明代以降。 |
dàjiàn |
| 公公 | 宦官の俗称、口語的。(ドラマで多い) | gōnggong |
つまり、宦官=大監、太監ではなく、
宦官(身分)、 太監(一般的な呼称)、 大監(高位の役職)ということになります。
宦官の教育機関 ~内教坊、内書堂、東廠・西廠の訓練所、内務府学、太監学堂
主要な宦官教育制度は以下の通り。制度として“学校”が成立したのは主に 明代・清代 であり、
それ以前は体系的な教育機関は存在せず、宦官は実務で育成した。
| 学校名 | 設置した皇帝 | 内容 | 目的 |
| 内教坊(芸能教育) | 【唐】 ⑥玄宗 | -音楽・舞踊 | 政治教育ではない |
| 内書堂(宦官学校) | 【明】 ③永楽帝 | – 読み書き(漢字) – 文書作成 (奏章・命令文) – 法律(律令) – 儀礼(宮中儀式) – 会計・財務 – 歴史・地理(基礎) | 宦官を“文官化”し、 行政実務を担当させる |
| 錦衣衛との合同訓練(非公式) | 【明】 ③永楽帝~ | – 諜報・尋問 – 軍事補助 | 宦官の監察能力強化 |
| 東廠・西廠の訓練所 | 【明】 ⑨成化帝(東廠) 憲宗期に整備 | – 監察・尋問技術 – 密偵の運用 – 情報収集法 – 拷問手続の知識 | 秘密警察宦官の尋問・監察技術を教育 秘密警察としての宦官を育成 |
| 内務府学 | 【清】 ③順治帝 (内務府制度の整備) | – 読み書き – 会計・帳簿 – 宮中儀礼 – 文書処理 | 宮中実務を担う宦官の基礎教育 明の制度を継承 |
| 太監学堂 | 【清末】 ⑪光緒帝〜⑫宣統帝 | – 国語(漢語) – 算術 – 礼法 – 近代知識(基礎) | 宦官に近代教育を与えるための学校 |
有名な宦官一覧(王朝別まとめ)
周
| 豎刁 | 春秋時代の斉 桓公に仕えた。史書に明確な名前と行動が残る最古級の自宮宦官。 桓公の遺体を放置し腐敗させた。 儒教的な歴史観では、「宦官は君主の身近に入り込み国を乱す」という説の、 最古級の具体例として扱われる。 |
秦
| 趙高 | 始皇帝に仕える。 宦官史の中でも最悪級の悪名を持つ存在。秦滅亡の元凶とされる。 |
前漢
| 中行説 | ⑤文帝(劉恒)期の宦官。匈奴に嫁ぐ公主の随行役として派遣されたことを恨み、 匈奴に帰順、漢への侵攻を煽った。 |
| 司馬遷 | ⑦武帝(劉徹)に仕えた。中国史上最大の歴史家。『史記』の著者。 |
| 張賀 | 掖庭で養われていた幼い劉病已(のちの⑩宣帝)を保護・養育し、 許平君との結婚を取り計らった。 |
| 許広漢 | 娘・許平君が、⑩宣帝(劉詢)の皇后となり、⑪元帝(劉奭)を産む。 |
| 石顕 | ⑪元帝(劉奭)に仕えた。 「権力を私物化した奸臣宦官」「前漢末期の政治腐敗の象徴」 |
後漢
| 蔡倫 | ➍和帝(劉肇)、❻安帝(劉祐)に仕えた。 紙の技術を大幅に改良(蔡侯紙)。 |
| 鄭衆 | ➍和帝(劉肇)と協力して外戚の竇憲を誅殺。 宦官が侯になる例は鄭衆にはじまる。 養子が宦官の後をつぐことは後に制度化された。 |
| 曹騰 | ❻安帝(劉祜)❽順帝(劉保)❾沖帝(劉炳)❿質帝(劉纘)⓫桓帝(劉志)に仕えた。「後漢唯一の善宦官」として高い評価を受けている。曹操の祖父。 |
| 江京 | ❻安帝(劉祜)に仕えた。外戚を排除し、皇太子廃位・皇帝すり替えを行った。 |
| 孫程 | ❻安帝(劉祜)❼少帝(劉懿)❽順帝(劉保)の三代に仕えた。 悪宦官・江京らを誅殺して、皇太子劉保(順帝)を復位させた。 |
| 五侯 | ⓫桓帝(劉志)に仕えた。外戚・梁冀の排斥に功績を挙げた「単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡」の五名の宦官の総称。 |
| 欒巴 | ❽順帝(劉保)~⓬霊帝期(劉宏)に仕えた。 儒学を好み、地方太守として善政を行い、外戚の暴政を諫めた。 |
| 侯覧 | ⓫桓帝後半~⓬霊帝期に台頭。賄賂と収奪で巨財を築いた。 |
| 曹節 | ⓫桓帝後半~⓬霊帝期に台頭。党錮の禁で宦官派が完全勝利し、十常侍の時代へ。 |
| 呂強 | ⓬霊帝(劉宏)に仕えた。黄巾の乱に際し、⓬霊帝(劉宏)に改革案を進言。 |
| 蹇碩 | ⓬霊帝(劉宏)に仕えた。近衛軍の最高指揮官。 ⓬霊帝(劉宏)の遺志を守るため劉協擁立のクーデターを計画。 |
| 十常侍 | ⓬霊帝(劉宏)に仕えた張讓・趙忠をはじめとする10人の有力宦官グループの 総称。彼らの専横が、後漢末の混乱と三国時代の幕開けを招いた。 |

党錮の禁(とうこのきん)とは?
清流派(儒者・官僚)と宦官派の政治闘争。
清流派は宦官の腐敗を批判し、宦官やそれに結びつく勢力を濁流派と名づけ
公然と批判するようになった。
宦官派はこれを弾圧し、多くの学者・官僚を逮捕・禁錮した。
(166年:第一次党錮の禁・169年:第二次党錮の禁)。
⓬霊帝(劉宏)は宦官を信任し、清流派を排除、清流派は政治勢力として消滅。
宦官は政治・財政・軍事にまで介入し、後の十常侍の専横につながった。
<黄巾の乱>
⓬霊帝期は外戚(何氏)と宦官(十常侍)が激しく対立し、政治は派閥争いに明け暮れおり、
民政は放置され、張角の勢力拡大を見逃し、反乱準備を許す結果に。
張角の反乱計画は事前に朝廷へ密告されていたが、十常侍は自分たちの利益を優先し、
対応を遅らせた結果、184年に大規模な蜂起を許してしまう。(=黄巾の乱の勃発)
反乱鎮圧のため、⓬霊帝(劉宏)は十常侍に軍事権限を与えたが、
逆に宦官の権力が増大する結果となり、後の「董卓のクーデター」や後漢崩壊へつながる。
<董卓のクーデター>
189年、⓬霊帝(劉宏)が死去。宦官(十常侍)と外戚(何進)が皇帝の後見をめぐって対立。
何進は「宦官を皆殺しにすべき」と主張、十常侍はこれを察知し、先に何進を暗殺する。
何進の部下である袁紹・袁術らが激怒し、宮中へ突入し、宦官狩りが始まる。
(十常侍の多くがこの時点で殺害される)
十常侍の中心人物・張讓と段珪は、 ⓭少帝(劉弁)と陳留王(後の⓮献帝(劉協))を
拉致して逃走したが、途中で追手に囲まれ、 張讓・段珪は黄河へ身を投げて自殺。
皇帝が保護されて長安へ戻ると、その混乱に乗じて董卓が軍を率いて入京、
宦官勢力を完全に排除し、後漢の実権を掌握した。
「宦官による外戚(何進)暗殺」→「董卓台頭」→「群雄割拠」→「三国時代」
唐
| 高力士 | ⑥玄宗(李隆基)が皇帝になる前から仕え、即位後も最も近い側近として最後まで忠義を尽くした。楊貴妃を縊死させた。 |
| 楊思勗 | ⑥玄宗(李隆基)に仕えた。宦官が武将として大軍を率いて外征する先例を作った。軍功は大きいが、残虐さが強調されるため評価は二分する。 |

二人とも⑥玄宗(李隆基)に仕え、同時期に重用されていました。
楊思勗は生年不詳なので推測になりますが、景龍年間(707年)にすでに軍功を挙げているため、二人はほぼ同世代か、楊思勗が少し年下の可能性が高い。
二人の性格や役割をまとめてみます。
・高力士
玄宗の最も信頼する側近であり忠臣。温厚・慎重・調整型。
政治的にも文化的にも玄宗の「右腕」として機能。
内廷の最高宦官・政治調整役。
・楊思勗
玄宗の軍事的な「切り札」。勇猛・苛烈・残忍。
反乱鎮圧の功績で寵遇されたが、政治の中心には立たない。
外征の軍事宦官・反乱鎮圧の名将。
| 李輔国 | 宦官である高力士の僕役として宮廷に入り、⑥玄宗(李隆基)⑦粛宗(李亨)⑧代宗(李豫)の三代にわたって宮中に仕えた。 ⑦粛宗(李亨)の晩年から⑧代宗(李豫)の初期にかけて絶大な権力を握った。 ⑦粛宗(李亨)が即位する流れを支えた。唐の宦官政治の始まりを象徴する人物。 |
| 魚朝恩 | ⑦粛宗(李亨)⑧代宗(李豫)の二代にわたり軍事と政務に深く介入。 皇帝直属の禁軍(左右羽林軍・左右龍武軍など)を掌握した軍事宦官。 後世の「神策軍」につながる軍事宦官支配の基礎を作る。 |
| 程元振 | ⑦粛宗(李亨)⑧代宗(李豫)に台頭。李輔国の後継として内廷(皇帝の身辺)と禁軍(神策軍)を同時に掌握した。吐蕃侵攻を黙殺し、長安陥落の一因を作った。 |
| 王守澄 | ⑪憲宗(李純)⑫穆宗(李恒)⑬敬宗(李湛)⑭文宗(李昴)の四代にわたり権勢をふるい、皇帝の廃立に三度関与した。甘露の変の原因を作った人物。 |
| 仇士良 | ⑭文宗(李昴)⑮武宗(李炎)⑯宣宗(李忱)の三代にわたり宮廷と禁軍を支配。 甘露の変を制して宦官政治を絶頂に導いた。「専横の極み」と評される。 |

| 田令孜 | ⑱僖宗(李儇)に仕えた。黄巣の乱で長安陥落した際に、⑱僖宗(李儇)を伴い逃亡。軍閥との対立で再び⑱僖宗(李儇)を伴い逃亡。「皇帝を連れ回して政治を混乱させた宦官」として強く批判され、「唐を滅ぼした決定的な引き金」と評価される |
| 楊復恭 | ⑱僖宗(李儇)⑲昭宗(李曄)に、田令孜の後を継いで台頭。数百人の武将を義子(養子)とし各地の軍事指揮官として配置。皇帝と対立して反乱を起こした。 |
| 劉季述 | ⑱僖宗(李儇)⑲昭宗(李曄)の時代に次第に台頭。⑲昭宗(李曄)を幽閉して太子を即位させるという宮廷クーデター(光化三年の変)を主導した。 |
| 韓全誨 | ⑲昭宗(李曄)の時代の宮中の最高権力者。⑲昭宗(李曄)をなかば拉致して鳳翔へ移動させ、その背後で宮廷政治を操った。鳳翔包囲戦に発展した。 |

「唐末二大悪宦官」といえば、仇士良と田令孜を指します。
「唐末三大悪宦官」として、上記2名に韓全誨を加えます。
宋
| 童貫 | ⑧徽宗(趙佶)に仕えた。宦官として異例の軍事指揮官。 軍事・財政・外交にまで介入し、北宋滅亡の一因をつくった人物として知られる。 明代に書かれた宋代を舞台にした小説『水滸伝』では四奸の一人として描かれ、 典型的な悪役として知られる。 |
| 梁師成 | ⑧徽宗(趙佶)に仕えた。 皇帝の筆跡を模倣し「偽の詔書」を発行。「隠れ宰相(隠相)」と呼ばれた。 |
明(鄭和/亦失哈/王振/曹吉祥/汪直/劉瑾/馮保/魏忠賢/王承恩、高寀)
鄭和(ていわ)
③永楽帝(朱棣)の命で、大艦隊を率いて南海・インド洋への遠征を指揮した航海者・武将。
1405年から1433年にかけて計7回の大航海。艦隊は200隻規模・乗員2万超とも言われ、
当時世界最大級の遠洋艦隊だった。
ヨーロッパの大航海時代(コロンブス、バスコ・ダ・ガマ)より80〜90年早い規模の
外洋航海を実現。
③永楽帝(朱棣)④洪熙帝(朱高熾)⑤宣徳帝(朱瞻基)の3代の皇帝に仕えた。
鄭和は雲南出身で、家系はイスラム教徒(回族系)とされる。
イスラム世界との交流に強みを持ち、宗教・文化的背景が外交に活かされた。
航海の目的は、朝貢体制の拡大(明の国威発揚)、諸国との外交関係の構築・貿易(香料・宝石など)、海賊・反乱勢力の鎮圧、海上交通を掌握・安定など。
鄭和が持ち帰った献上品で有名なのがキリン。
永楽帝の死後は、莫大な費用負担が財政を圧迫、文官官僚が「外洋航海は利益が少なく、国費の浪費だ」と批判、北方(モンゴル)防衛が最優先課題になったこと、等の理由により縮小。
亦失哈(いしは)
③永楽帝(朱棣)の信任を受けて黒竜江下流(ヌルガン)を担当。
明朝の東北進出における最重要人物の一人。鄭和の大航海と並び、
③永楽帝(朱棣)の積極的な対外政策を象徴する存在。
活動期間は永楽9年(1411)〜景泰年間(1450年代)で、40年以上にわたり
③永楽帝(朱棣)④洪熙帝(朱高熾)⑤宣徳帝(朱瞻基)⑥ 正統帝(朱祁鎮)⑦景泰帝(景泰帝) の5代の皇帝に仕えた。
永楽9年(1411)から宣徳8年(1433)までの約20年間にわたり、7回に及ぶヌルガン遠征を 行った。女真諸族(女真族の諸部族)を懐柔し、招撫(帰順工作)に成功。
奴児干都司(ヌルガン都司)の設置・運営を行い、現地統治の基盤を整えた。
また、永寧寺を建立し、文明的権威を誇示し(「ここは明の文化圏である」というメッセージ)
明朝の勢力圏拡大に寄与した。
永寧寺には巨大な碑文が建てられ、 明と女直諸部の関係・歴史・政策が詳細に刻まれており、
現在でも“明と女真の関係”を知るための第一級史料とされる。
王振(おうしん)
⑥正統帝(朱祁鎮)に絶対的に信任された宦官で、の側近として絶大な権力を握り、
最終的には「土木の変」で、明軍壊滅、皇帝捕虜という前代未聞の事態を引き起こした。
「皇帝の教育係」という立場から、皇帝の精神的支柱になった点が他の宦官と異なる。
若い頃は科挙に落第し私塾の教師をしていたが、のちに宦官の教育機関「内書堂」に入った。
皇太子(のちの⑥正統帝(朱祁鎮))に学識を買われ、読書を教える“司書宦官”となる。
⑥正統帝(朱祁鎮)が8歳で即位後、王振は“恩師”として絶大な信任を得て、宦官の最高位である司礼監掌印太監に昇進、英宗の祖母・張太皇太后や“三楊”(楊士奇・楊栄・楊溥)といった重臣が相次いで退くと、王振の権力は頂点に達した。
⑥正統帝(朱祁鎮)の幼さと信任を背景に、錦衣衛を掌握して反対派を粛清、官僚を支配し賄賂政治を拡大など、朝廷を実質的に支配した。文官政治は大きく弱体化した。
1449年、土木の変
北方のモンゴル系勢力オイラトに対し、王振は⑥正統帝(朱祁鎮)に無謀な親征を強行させる。
軍事経験のない王振が実質的な総司令官となり、補給も指揮も崩壊し、撤退中に土木堡で包囲され壊滅。⑥正統帝(朱祁鎮)は捕虜となり、王振自身は混乱の中で護衛将軍・樊忠に撲殺されたとも、乱戦で殺害されたともいわれている。事件後、王振一族は処刑され、財産も没収された。
曹吉祥(そうきっしょう)
⑥正統帝(朱祁鎮)復辟(奪門の変)の中心人物の一人。
宦官 王振 に接近して軍事監督(監軍)に任命され、麓川征討・兀良哈遠征・福建の鄧茂七の乱鎮圧などで軍功を積む。1499年、「土木の変」で王振が戦死すると、⑦景泰帝(朱祁鈺)により中枢から遠ざけられる。
1457年、「奪門の変」。重病の⑦景泰帝(朱祁鈺)を廃し、南宮に幽閉されていた⑥正統帝(朱祁鎮)を復位させるクーデターを石亨・徐有貞らと共に実行。この功績により、司礼大監に任命され、三大営を総督するなど絶大な権力を握る。
⑥正統帝(朱祁鎮)は曹吉祥・石亨の専横を憎んでおり、排除を進めていた。
1461年、「曹欽の乱」。養子の曹欽が、⑥正統帝(朱祁鎮)による粛清の恐れから、
武力クーデターを企てるが、密告により露見し、宮城は厳重に封鎖され、曹欽は敗走の末に自殺。一族・関係者は多数処刑され、曹吉祥本人は磔刑に処された。

三大営とは?
「五軍営」「三千営」「神機営」 の三つを合わせて 京営と呼び、
皇帝直属の中央軍として、首都防衛と宮廷の安全を担った。
指揮官には本来 勲臣(公・侯・伯)が任じられたが、
明代中期以降は宦官が掌握し、軍制の弛緩を招いた。
汪直(おうちょく)
⑨成化帝(朱見深)は宦官を重用する傾向が強く、汪直はその信任を最大限に利用し、
成化年間に最も権勢をふるった宦官の一人。西廠は彼のために設置された。
軍事にも関与し、とくに北辺の防衛や軍規の整備に一定の成果があったとされる。
「恐怖政治の象徴として悪名が強いが、軍事・治安面では有能だった宦官」 という
二面性を持つ人物として扱われる。
⑨成化帝(朱見深)の信任を背景に、東廠の提督太監(皇帝直属の秘密警察のトップ)に抜擢。
ここから一気に権力の頂点へ。
東廠の権限を大幅に拡大、錦衣衛を東廠の実働部隊として利用、⑨成化帝(朱見深)に働きかけて西廠を設置。三機関(東廠+錦衣衛+西廠)を横断的に指揮し、地方官や軍隊にまで直接命令を下せるようにした。監察・逮捕・尋問・密偵網の運用を掌握し、文官・軍官を恐怖で支配した。
清流派と激しく対立、多くの官僚が汪直の弾圧で左遷・投獄された。
⑨成化帝(朱見深)死後、⑩弘治帝(孝宗)は宦官政治を嫌い、汪直を排除。
汪直は南京に左遷され(西廠も廃止)、政治から完全に退く。
処刑されなかったが、 権勢は完全に失われた。
劉瑾(りゅうきん)
遊興を好み、政務に無関心であった⑪正徳帝(朱厚照)の身近に仕える宦官として
信任を獲得。皇帝に逸楽を勧めて遊蕩に耽溺させ、宮中と政治の実権を掌握した。
宦官グループ「八虎」の筆頭で、他の七人を従える形で絶対的な権力を持った。
死後没収された財産は、「当時の国家歳入の10年分に匹敵」と記録される。
司礼監掌印太監として詔勅・人事・財政に介入、東廠・西廠などの諜報機関を使って反対勢力を監視・弾圧・拷問・処刑、政策・軍事・地方行政まで支配するなど、国政を壟断・腐敗させた。
権力があまりに強大になり、⑪正徳帝(朱厚照)も警戒するようになった。
劉瑾の横暴に不満を持っていた八虎の一人である張永が⑪正徳帝(朱厚照)に対し、「劉瑾が謀反を企てている」 と密告。劉瑾は逮捕・処刑(凌遅刑)された。
馮保(ふうほ)
⑬隆慶帝(朱載垕)⑭万暦帝(朱翊鈞)に仕えた。
宰相・張居正の死を境に「前半は有能、後半は腐敗」した。
⑭万暦帝(朱翊鈞)が9歳で即位した頃、馮保は司礼監秉筆太監(詔勅の起草・伝達を扱う最重要ポスト)に就任。幼帝の側近として、政治の中枢に入り込む。
財政再建・税制改革・軍制整備を進めた宰相・張居正と協力し、実務担当として万暦初期の政治安定を支えた。馮保の協力があってこそ実行できた面もある。
張居正が死ぬと、彼の改革に不満を持っていた官僚たちが一斉に批判を開始。
張居正と近すぎたた馮保は巻き添えで失脚する危険を回避するため、態度を転して張居正の一族を弾劾し、財産没収に加担して自らの立場を守ろうとした。
⑭万暦帝(朱翊鈞)は成長すると、馮保の専横を嫌い、官僚の弾劾を許可。
馮保は追放され、最終的に獄死(または自殺とする説もある)した。
魏忠賢(ぎちゅうけん)
⑯天啓帝(朱由校)は木工(大工仕事)に熱中して政務を顧みなかったため、
魏忠賢が実質的に政務を掌握。
東廠・錦衣衛を支配し、反対派である東林党(儒学者・清廉派官僚のグループ)を徹底的に
弾圧し、拷問・処刑・冤罪が横行した。
全国に魏忠賢を祀る生祠が建て、自らを「堯天舜徳至聖至神」と称し、民衆には皇帝の
「万歳」に対して「九千歳」と呼ばせた。
若い頃は賭博・借金・放蕩といった素行の悪さで知られ、生活が行き詰まった結果、
自ら去勢して宦官になった。皇子(のちの⑯天啓帝(朱由校))の乳母・客氏と私通し、
その後ろ盾で宮中の実力者になった。⑯天啓帝(朱由校)が即位すると寵愛を受け、
司礼監秉筆太監(宦官の最高職)に上り詰めた。
⑯天啓帝(朱由校)が崩御すると、即位した⑰崇禎帝(朱由檢)は即座に魏忠賢を弾劾し、
逮捕命令を出す。魏忠賢は逃亡の末、自殺して生涯を終えた。

以下は、“魏忠賢の私的子分グループ”を指す蔑称です。
(いずれも後世の史書での呼び方で、正式な官職名ではない)
五虎:魏忠賢の最側近。
東廠・錦衣衛を通じて弾圧の実行役を担った中心メンバー。
五彪:五虎に次ぐ実力者。魏忠賢の中堅幹部。
地方や軍事方面で魏忠賢の意向を実行した人物群。
十狗:魏忠賢の命令を実務レベルで遂行した下級の実行部隊。
東廠の拷問・密告・弾圧の現場を担った者たち。
王承恩(おうしょうおん)、高寀(こうさい)
⑰崇禎帝(朱由檢)に最も近い位置で仕え、明末の危機の中で皇帝を支えた。
⑰崇禎帝(朱由檢)が自殺するその瞬間まで付き従った。
明朝滅亡の象徴的な場面で、「最後の忠臣」として名を残した。
⑰崇禎帝(朱由檢)は宦官を嫌う皇帝だったが、即位直後に宦官・魏忠賢を粛清した後は、
高寀・王承恩・曹化淳・杜勳など一部の宦官には依存せざるを得なかった。
⑰崇禎帝(朱由檢)崇禎帝は文官を信用せず、自分で全てを抱え込むタイプだったため、
宦官側近は精神的・実務的な負担を軽減する役割を担った。
(王承恩が“皇帝の心”を支え、高寀が“皇帝の手足”として実務を支える構図)
王承恩は、最後まで⑰崇禎帝(朱由檢)のそばを離れず、皇帝が首を吊るのを見届けた後、
自らもその場で殉死した。
高寀は、⑰崇禎帝(朱由檢)の最後の決断(自殺)に至る過程で、王承恩とともに皇帝の身辺を守ったと伝わる。王承恩のように殉死したという明確な記録はないが、宮城陥落時に死亡したとされる。

「明代三大悪宦官」といえば、王振・劉瑾・魏忠賢を指します。
「明代四大悪宦官」として、上記3名に馮保を加えます。
清
| 安徳海 | 西太后(慈禧太后)の寵愛を背景に、権勢を振るった。 |
| 李蓮英 | 安徳海の処刑後、彼にに代わり西太后(慈禧太后)の最側近として40年以上にわたり、後宮と政治の中枢に影響を与えた清末で最も影響力のあった宦官。 |
宦官が政治に介入した事件(年代順まとめ)
秦:宦官が国家を操った典型例
前漢:外戚優位で宦官は抑制気味
| 前180 | 呂氏の乱 | 呂后死後、呂氏一族と結んだ宦官・側近勢力が粛清される |
| 前141 –前87 | 武帝期 | 宦官は存在するが、基本は外戚・官僚が中心 |
| 前74 | 霍光政権 | 宦官は政治中枢に入らず抑制的 |
後漢:宦官政治の爆発
| 92 | 竇憲失脚 | 皇帝側近(宦官)が外戚排除に関与し始める |
| 107 | 鄧太后期 | 外戚と宦官が権力争いを繰り返す |
| 159 | 梁冀誅殺 | 宦官が外戚梁冀を排除し権力拡大 |
| 166 | 「十常侍」の台頭 | 皇帝の側近として政治を掌握し始める。 清流派官僚が宦官批判→弾圧される。 166年:第一次党錮の禁・169年:第二次党錮の禁 |
| 184 | 黄巾の乱 | 宦官腐敗が社会不安の背景とされる |
| 189 | 霊帝死後の政変 | 何進が宦官排除を企てるが逆に殺害され、袁紹らが宦官を大量虐殺、後漢政権が崩壊へ |
唐:軍権を握り最凶化
| 712–756 | 玄宗期 | 高力士など宦官が側近化。(政治介入の芽) |
| 755–763 | 安史の乱 | 乱後、宦官が軍権を掌握。禁軍(神策軍)を支配し、 皇帝の廃立に関与するようになる。 |
| 805以降 | 皇帝廃立 | 宦官が皇帝の擁立・廃位を左右。 |
| 835 | 甘露の変 | 文官の宦官排除計画を企てるが失敗し、宦官が完全勝利。 宦官が政権を完全に掌握する転換点。 |
| 874–884 | 黄巣の乱 | 唐の統治が崩壊、宦官も制御不能へ。 |
| 907 | 唐滅亡 | 宦官政治の時代も終焉へ。 |
宋:宦官抑制だが例外あり
明:制度化された宦官権力
| 洪武帝期 | 宦官抑制 | 洪武帝は宦官の政治介入を警戒 |
| 1399–1402 | 靖難の変 | ③洪武帝(朱棣)の政権奪取を宦官も支援 |
| 1420 | 東廠設置 | 宦官監察機関が制度化(恐怖政治の基礎) |
| 1405–1433 | 鄭和の大航海 | 宦官が国家外交・軍事を担う成功例 |
| 1411–1433 | 亦失哈遠征 | 北東方面(ヌルガン)経営 |
| 1449 | 土木の変 | 王振の専横で皇帝捕虜、明軍壊滅 |
| 1461 | 曹欽の乱 | 曹吉祥系の軍事クーデター未遂 |
| 1477頃 | 西廠設置 | 汪直が恐怖政治(東廠を上回る) |
| 1506–1510 | 劉瑾の専横 | 八虎+内行廠(最凶の秘密警察) |
| 1620–1627 | 魏忠賢独裁 | 東林党弾圧、生前に祠建立(独裁完成形) |
| 1644 | 明滅亡 | 李自成・清の侵入、宦官制度も崩壊 |

