明:略家系図

明(1368–1644):皇帝一覧
| 代 | 廟号 | 諡号 | 名前(諱) | 生年-没年 (没年齢) | 在位ー退位 (在位年齢)ー(退位年齢) | 在位期間 |
| ① | 太祖 | 洪武帝 | 朱元璋 | 1328-1398 (70歳) | 1368ー1398 (40歳)ー(70歳) | 30年 |
| ② | ー | 建文帝 | 朱允炆 | 1377-? (不詳) | 1398ー1402 (21歳)ー(25歳) | 4年 |
| ③ | 成祖 | 永楽帝 | 朱棣 | 1360-1424 (64歳) | 1402ー1424 (42歳)ー(64歳) | 22年 |
| ④ | 仁宗 | 洪熙帝 | 朱高熾 | 1378-1425 (47歳) | 1424ー1425 (46歳)ー(47歳) | 1年 |
| ⑤ | 宣宗 | 宣徳帝 | 朱瞻基 | 1399-1435 (36歳) | 1425ー1435 (26歳)ー(36歳) | 10年 |
| ⑥ | 英宗 | 正統帝 | 朱祁鎮 | 1427-1464 (37歳) | 1435ー1449 (8歳)ー(22歳) | 14年 |
| ⑦ | ー | 景泰帝 | 朱祁鈺 | 1428-1457 (29歳) | 1449ー1457 (21歳)ー(29歳) | 8年 |
| ⑧ | 英宗 | 天順帝 | 朱祁鎮 | 1428-1457 (29歳) | 1457ー1464 (30歳)ー(37歳) | 7年 |
| ⑨ | 憲宗 | 成化帝 | 朱見深 | 1447-1487 (40歳) | 1464ー1487 (17歳)ー(40歳) | 23年 |
| ⑩ | 孝宗 | 弘治帝 | 朱祐樘 | 1470-1505 (35歳) | 1487ー1505 (17歳)ー(35歳) | 18年 |
| ⑪ | 武宗 | 正徳帝 | 朱厚照 | 1491-1521 (30歳) | 1505ー1521 (14歳)ー(30歳) | 16年 |
| ⑫ | 世宗 | 嘉靖帝 | 朱厚熜 | 1507-1567 (60歳) | 1521ー1567 (14歳)ー(60歳) | 46年 |
| ⑬ | 穆宗 | 隆慶帝 | 朱載坖 | 1537-1572 (35歳) | 1567ー1572 (30歳)ー(35歳) | 5年 |
| ⑭ | 神宗 | 万暦帝 | 朱翊鈞 | 1563-1620 (57歳) | 1572ー1620 (9歳)ー(57歳) | 48年 |
| ⑮ | 光宗 | 泰昌帝 | 朱常洛 | 1582-1620 (38歳) | 1620ー1620 (38歳)ー(38歳) | 約1か月 |
| ⑯ | 熹宗 | 天啓帝 | 朱由校 | 1605-1627 (22歳) | 1620ー1627 (15歳)ー(22歳) | 7年 |
| ⑰ | 思宗 | 崇禎帝 | 朱由検 | 1611-1644 (33歳) | 1627ー1644 (16歳)ー(33歳) | 17年 |
※補足
- 建文帝(朱允炆)は靖難の変で失脚し、その後の生死が不明(焼死説・逃亡説あり)。
- 英宗(朱祁鎮)は「正統帝」として即位→土木の変で捕虜→復位して「天順帝」
として再即位。 - 景泰帝(朱祁鈺)は復位後に廃され、廟号が安定しない(史書で扱いが揺れる)。
- 最後の 崇禎帝(朱由検)は李自成の乱で北京陥落後、自害。
①洪武帝 朱元璋
紅巾軍の一派に参加し、頭角を現して勢力を拡大した
①洪武帝(朱元璋)が明を建国 首都は金陵=南京=応天府
・一世一元(1皇帝1元号)
・賦役黄冊(戸籍簿、租税台帳)
・魚鱗図冊(土地台帳)
・海禁政策
・万里の長城の改築
・中書省を廃止し、六部を皇帝直属に
→独裁強化
・衛所制(兵農一致の軍事制度)
→民戸とは別に軍戸(軍籍に編入された戸)を設定し
中央の兵部の直轄下に置く
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②建文帝 朱允炆
・①洪武帝朱元璋の長男で皇太子 朱標が38歳で病死。
その後、①洪武帝朱元璋が崩御し、朱標の子である朱允炆が21歳で即位。
・黄子澄、斉泰、方孝孺ら文臣を重用し、武断的な政治から文官中心の統治へ移行しようとした。
~強大な権限を持っていた錦衣衛の抑制
~苛烈な刑罰運用の見直し
・①洪武帝朱元璋は諸王を各地へ配置して軍権を与えていたため、
諸王勢力を抑えて中央集権化を進めようとするが、靖南の役へ発展した。
軍事経験に乏しく、①洪武帝朱元璋による功臣粛清の影響で有力将軍も不足。
主力将軍として戦った李景隆は大敗を重ね、最終局面において金川門を開き、燕軍を迎え入れた。
これにより南京は陥落し、建文政権は崩壊し、 叔父の燕王(③永楽帝(朱棣))に敗北した。
その後の②建文帝 朱允炆の生死は不明(焼死説・逃亡説あり)。
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③永楽帝 朱棣
・南京→北京へ遷都
・モンゴルへ5回の親征
・鄭和の大遠征
・『永楽大典』編纂
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④洪熙帝 朱高熾
・幼少より病弱であり、成長後は肥満体型となって自ら歩行することも困難であった。
・③永楽帝朱棣の長子として皇太子に立てられていたが、
弟の朱高煦は武勇と軍功を背景に強い影響力を持ち、皇位継承をめぐる対立が根強くあった。
・父の死後に即位したが、即位前から親征を繰り返した③永楽帝朱棣の治世において、
監国として政務を代行し、内政の維持を担っていた。
・財政の節約や税負担の軽減や労役の緩和を進め、民力の回復を重視した。
また、過度な軍事行動や大規模事業に対しては慎重な姿勢を取った。
・永楽帝期処罰や排斥を受けた旧臣の釈放や、
靖難の変において②建文帝 朱允炆に仕えたことで処罰されていた人々についても赦免を行った。
・宮刑の実施を禁止したとされ、刑罰の緩和と統治の安定化が図られた。
・文官を重用して政務の安定化を図り、後に「三楊」と称される人材を登用した。
・北方に位置する北京が外敵の影響を受けやすいことを踏まえ、
都城を北京から南京へ戻す構想も進められていたが、その死により実現には至らなかった。
・在位は極めて短く、即位から一年に満たず崩御した。
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⑤宣徳帝 朱瞻基
・③永楽帝 朱棣の孫、④洪熙帝 朱高熾の長子として生まれた。
幼少期から皇太孫として育てられ、早くから後継者としての教育を受けている。
聡明で機敏、礼儀にも通じた人物であったとされ、③永楽帝 朱棣からの信任も厚かった。
・③永楽帝 朱棣の親征に随行した経験を持ち、軍事行動や統治の実態を若い段階で直接見聞している。
・⑤宣徳帝 朱瞻基の即位に不満を抱いた叔父である漢王朱高煦が挙兵した。
親征を行い、戦闘は長期化することなく終結した。朱高煦は捕縛後、処刑された。
・永楽期以来の重臣「三楊」を引き続き重用し、政策決定において安定性を確保した。
・北方のモンゴル勢力に対しては防衛を基本とし、大規模な遠征は控えられた。
永楽期に支配下に置いていた交趾(現在のベトナム北部)からの撤退を決断した。
領土拡張よりも国家の負担軽減と安定を優先したものとみられる。
一方で、完全に軍事行動を放棄したわけではなく、必要に応じて軍を動員している。
・鄭和の航海を再開した。
・宦官に教育を施す機関として内書堂を設置した。
・祖父 ③永楽帝 朱棣の軍事的路線と、父 ④洪熙帝 朱高熾の文治志向を受け継ぎ、
それらを調整する形で統治を行った。その治世は洪熙帝の時代とあわせて「仁宣の治」と称される。
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⑥正統帝 朱祁鎮
・⑤宣徳帝 朱瞻基が若くして崩御すると、わずか8歳で即位した。
幼帝を支えたのは、永楽期以来の重臣「三楊」であった。
・しかし三楊は高齢であり、次第に死去や引退によって政界から去っていく。
宮廷内で大きな影響力を持っていた、祖母である張太皇太后も死去すると、
側近として強い影響力を持つようになったのが、
⑤宣徳帝 朱瞻基が宦官教育機関として設置した「内書堂」で学問を修めた宦官の王振である。
・北方ではオイラト部のエセンが急速に勢力を拡大し、朝貢や交易問題をめぐって対立する。
1449年、無謀な大規模親征を実施。明軍は壊滅し、⑥正統帝 朱祁鎮自身も捕虜となる。
この事件を「土木の変」と呼ぶ。
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⑦景泰帝 朱祁鈺
・「土木の変」により皇帝を失った明朝は、弟・⑦景泰帝 朱祁鈺を新皇帝として即位させる。
・一部では遷都論まで浮上したが、 兵部尚書・于謙がと強硬に反対し、防衛体制を整備した。
・オイラト部のエセンは朱祁鎮を利用して明朝へ圧力をかけようとしたが、
于謙の防衛策によって北京攻略は失敗に終わる。
結果としてエセンは交渉材料を失い、1450年に⑥正統帝 朱祁鎮を返還した。
・返還された⑥正統帝 朱祁鎮は、形式上「太上皇」とされたが、
実際には南宮へ幽閉され、厳しい監視下に置かれた。
・⑦景泰帝 朱祁鈺は新たな皇子が生まれると、兄・朱祁鎮の子である朱見深を皇太子から廃し、
自らの子を皇太子へ立てた。しかし、その新たな皇太子もほどなくして死去する。
⑦景泰帝 朱祁鈺自身も次第に病状を悪化させていった。
・1457年、石亨・徐有貞・曹吉祥らはクーデターを決行し、朱祁鎮を復位させた。
これが「奪門の変」である。
・奪門の変後、⑦景泰帝 朱祁鈺は廃位され、再び郕王とされた。その後まもなく死去した。
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⑧天順帝 朱祁鎮
・土木の変後、南宮へ幽閉された朱祁鎮に付き従い、支え続けた人物が皇后の銭皇后である。
銭皇后が朱祁鎮のために祈り続けた結果、片目を悪くし、
さらに長年の苦労によって足も不自由になったという逸話が残されている。
・明朝では一人の皇帝が一つの元号のみを用いる「一世一元」の制度が定着していたため、
復位後は「天順」の元号を用いたため天順帝とも呼ばれる。
(廟号の「英宗」で呼ばれることも多い。)
・⑦景泰帝 朱祁鈺政権を支えていた人物たちは粛清された。
後世において、于謙の処刑は⑧天順帝 朱祁鎮最大の失政の一つとして批判されることが多い。
・復位後の⑧天順帝 朱祁鎮政権では、奪門の変を成功させた功臣たちが大きな権力を握ったが、
⑧天順帝 朱祁鎮自身も彼らへの権力集中を次第に警戒するようになり、排除されていった。
・皇帝死去に伴う大規模な殉葬の廃止。
・②建文帝 朱允炆の子であり、靖難の変の後、長く幽閉されていた朱文圭を釈放した。
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⑨成化帝 朱見深
・朱祁鎮(⑥正統帝・⑧天順帝)の嫡子として皇太子の地位を維持していたが、
⑦景泰帝 朱祁鈺は実子へ皇位を継がせようと考えるようになり、は皇太子を廃される。
父朱祁鎮(⑥正統帝・⑧天順帝)も南宮へ軟禁されていたため、
幼少期から極めて不安定な政治環境で育った。
・1464年、⑧天順帝 朱祁鎮が崩御すると、18歳で即位した。
・土木の変と奪門の変によって混乱した明朝を再安定化させた。
~奪門の変以降長く否定されていた于謙の功績を改めて評価し、その名誉回復を行った。
~⑦景泰帝 朱祁鈺についても一定の復権が進められている。
・湖北・河南・陝西周辺では、戦乱や貧困によって土地を失った流民が大量発生し、
武装集団化する場合もあった。討伐だけでなく帰農政策や編入政策も併用しながら対応し、
大規模反乱への発展は抑えられている。
・北方防衛に関しては、規模親征を行うことはなく、城塞防衛や兵站維持を重視している。
・幼少期から世話役を務めていた万氏は、⑨成化帝 朱見深より19歳年上であったが、
万貴妃として後宮最大級の権勢を持つようになった。
・後世には、万貴妃が他妃の懐妊を妨害し、
堕胎や皇子殺害を命じていたという伝承も広く語られるようになった。
しかし後に、宦官によって密かに育てられていた皇子・朱祐樘が後の⑩弘治帝 朱祐樘である。
・当初は万貴妃に仕えていたとされる宦官・汪直が、
⑨成化帝 朱見深の強い信任を背景に急速に権勢を拡大し、特務機関・西廠が設置された。
・晩年になると、不老長寿や方術、道教へ傾倒し、道士や僧侶も宮廷へ深く入り込むようになった。
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⑩弘治帝 朱祐樘
・幼少期には、万貴妃が強い権勢を振るう後宮の中で育ち、
命を狙われながら成長したとも伝えられる。
・混乱と腐敗が続いた成化年間後半から政権を立て直し、
「弘治中興」と呼ばれる比較的安定した時代を築いた。
・張皇后を深く寵愛し、「一夫一妻に近い皇帝」として後世に語られることも多い。
自ら積極的に後宮拡大を行わなかったとされる。
しかし、その一方で張氏外戚の影響力は次第に拡大していった。
張皇后の弟である張鶴齢・張延齢兄弟の横暴な振る舞いが有名。
・成化後半期に宮廷へ深く入り込んでいた道士や僧侶勢力も整理し、
宦官への権限集中を抑える方向へ進んだ。
・人材登用にも力を入れ、儒教的政治理念に基づく統治を志向している。
また、倹約も重視し、無駄な宮廷支出を抑え、大規模土木事業も比較的制限している。
大規模遠征や過度な対外拡張を避け、国内安定を優先した。
・1505年、弘治帝は36歳で崩御した。
弘治帝は風寒を患った後、太医が強い薬を処方し、
その結果、鼻血が止まらなくなり、病状が急激に悪化したとされる。
なお、この時の太医は処刑されなかったと伝えられている。
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⑪正徳帝 朱厚照
・⑩弘治帝 朱祐樘の死後、14歳の⑪正徳帝 朱厚照が即位した。
・即位当初は、先帝時代から仕えていた重臣たちによって支えられていたが、
次第にこうした官僚たちの諫言を嫌うようになり、太子時代から近侍していた宦官たちを重用した。
後に「八虎」と呼ばれるようになる彼らは、⑪正徳帝 朱厚照の遊興に付き従い、
皇帝の信任を背景に朝廷内で大きな力を持った。
・八虎の中心にいたのが劉瑾である。
劉瑾は、苛烈な弾圧と収奪によって悪名を残したが、八虎内部の対立により失脚、処刑された。
・チベット仏教へ傾倒し、通常の朝政から距離を置くようになった。
・北京の宮城外に築かれた巨大な遊興施設の総称である「豹房」で、
武人、僧侶、芸人、美女、異国人など様々な人間が集められており、
正徳帝はここで宴会や軍事訓練、狩猟の模擬戦などを行っていた。
・次第に軍事行動そのものへ強く傾倒していく。
「鎮国公総督軍務威武大将軍総兵官朱寿」と称して自らに官職を与え、
紫禁城内では軍事教練や演習を行わせた。
さらに武人たちを側近として集め、軍営生活を模した行動を好んだという。
実際の軍事指揮は将軍たちが担っていたものの、自ら北辺へ赴き、軍営生活に深く関与した。
・度重なる親征や巡幸は莫大な費用を必要とし、朝廷や地方社会へ大きな負担を与えた。
・1519年、江西で寧王朱宸濠が反乱を起こした。これが「寧王の乱」である。
王陽明を中心に鎮圧され、最終的に朱宸濠を捕らえていたが、
⑩弘治帝 朱祐樘はこれを受け入れず、朱宸濠を自分が捕えた形にしようとしたとも伝えられている。
・1521年、正徳帝は江南から北京へ戻った後、舟遊びの最中に落水したとされる。
この事故以後、体調が悪化し、そのまま病死した。享年30だった。
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⑫嘉靖帝 朱厚熜
・⑩弘治帝 朱祐樘に実子がいなかったため、皇位は従弟の⑫嘉靖帝 朱厚熜に移った。
嘉靖帝即位後には、実父をどう扱うかを巡る「大礼議」が発生し、朝廷は大混乱へ陥った。
・中年以降になると道教への傾倒を深め、不老長寿を求めるようになった。
宮廷では大規模な道教儀式が頻繁に開催され、多数の道士や方士が出入りした。
皇帝は長生不老の丹薬を求め、多額の国家予算がそれらに費やされた。
さらに政務への関与を減らし、宮中の奥深くへ引きこもるようになり、政治は停滞していった。
・嘉靖朝後半の明朝を象徴するのが「北虜南倭」である。
北方ではモンゴル勢力が明朝を圧迫し、南方沿岸部では倭寇が猛威を振るっていた。
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⑬隆慶帝 朱載坖
・⑬隆慶帝 朱載坖は皇太子冊立を極端に嫌い、
数十年にわたり正式な皇太子を持たない状態に置かれた。
後継候補は実質的に、景王朱載圳と裕王朱載坖となったが、景王朱載圳が病死したため、
裕王朱載坖(⑬隆慶帝 朱載坖)が唯一の有力後継者となり、30歳で即位した。
・裕王時代に、高拱、張居正、優秀な人材と関係を築いていた。
・道教への過度な支出を削減し、方士や道士への依存を改め、滞っていた行政案件の処理を進めた。
嘉靖朝で諫言を行ったために処罰された官僚たちの名誉回復も進められた。
嘉靖朝末期に蓄積した問題は依然として深刻であったが、
官僚との対話も再開され、こうして一連の改革は、後に「隆慶新政」と呼ばれるようになる。
・明朝では建国以来、海禁政策が基本方針とされていた。
民間人による海外貿易は厳しく制限され、対外交易は朝貢貿易を中心に管理されていた。
しかし現実にはこの政策は十分に機能していなかった。
隆慶朝は方針転換を行い、1567年、福建省漳州府の月港を中心として民間海外貿易が公認された。
これが「隆慶開関」である。これにより、明朝経済は大きく活性化した。
・北方のアルタン・ハーン(漢字史料では俺答汗)は、当時の明朝にとって最大の脅威であった。
武力による解決が困難である以上、俺答汗との和平と互市貿易を実現すべきとし、
1571年、和議が成立する。これが「俺答封貢」、あるいは「隆慶和議」と呼ばれるものである。
・1572年、隆慶帝は崩御した。享年35、在位はわずか5年余りであった。
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⑭万暦帝 朱翊鈞
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⑮泰昌帝 朱常洛
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⑯天啓帝 朱由校
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⑰崇禎帝 朱由検
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王朝らしさ:
「強権専制国家 → 内部硬直」
キーワード
空気感
- 前半:軍事国家
- 中盤:制度安定
- 後半:政治麻痺
物語性
- 靖難の変
- 鄭和遠征
- 東林党
- 崇禎帝の最期
崩壊パターン
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