明:略家系図

明(1368–1644):皇帝一覧
| 代 | 廟号 | 諡号 | 名前(諱) | 生年-没年 (没年齢) | 在位ー退位 (在位年齢)ー(退位年齢) | 在位期間 |
| ① | 太祖 | 洪武帝 | 朱元璋 | 1328-1398 (70歳) | 1368ー1398 (40歳)ー(70歳) | 30年 |
| ② | ー | 建文帝 | 朱允炆 | 1377-? (不詳) | 1398ー1402 (21歳)ー(25歳) | 4年 |
| ③ | 成祖 | 永楽帝 | 朱棣 | 1360-1424 (64歳) | 1402ー1424 (42歳)ー(64歳) | 22年 |
| ④ | 仁宗 | 洪熙帝 | 朱高熾 | 1378-1425 (47歳) | 1424ー1425 (46歳)ー(47歳) | 1年 |
| ⑤ | 宣宗 | 宣徳帝 | 朱瞻基 | 1399-1435 (36歳) | 1425ー1435 (26歳)ー(36歳) | 10年 |
| ⑥ | 英宗 | 正統帝 | 朱祁鎮 | 1427-1464 (37歳) | 1435ー1449 (8歳)ー(22歳) | 14年 |
| ⑦ | ー | 景泰帝 | 朱祁鈺 | 1428-1457 (29歳) | 1449ー1457 (21歳)ー(29歳) | 8年 |
| ⑧ | 英宗 | 天順帝 | 朱祁鎮 | 1427-1464 (37歳) | 1457ー1464 (30歳)ー(37歳) | 7年 |
| ⑨ | 憲宗 | 成化帝 | 朱見深 | 1447-1487 (40歳) | 1464ー1487 (17歳)ー(40歳) | 23年 |
| ⑩ | 孝宗 | 弘治帝 | 朱祐樘 | 1470-1505 (35歳) | 1487ー1505 (17歳)ー(35歳) | 18年 |
| ⑪ | 武宗 | 正徳帝 | 朱厚照 | 1491-1521 (30歳) | 1505ー1521 (14歳)ー(30歳) | 16年 |
| ⑫ | 世宗 | 嘉靖帝 | 朱厚熜 | 1507-1567 (60歳) | 1521ー1567 (14歳)ー(60歳) | 46年 |
| ⑬ | 穆宗 | 隆慶帝 | 朱載坖 | 1537-1572 (35歳) | 1567ー1572 (30歳)ー(35歳) | 5年 |
| ⑭ | 神宗 | 万暦帝 | 朱翊鈞 | 1563-1620 (57歳) | 1572ー1620 (9歳)ー(57歳) | 48年 |
| ⑮ | 光宗 | 泰昌帝 | 朱常洛 | 1582-1620 (38歳) | 1620ー1620 (38歳)ー(38歳) | 約1か月 |
| ⑯ | 熹宗 | 天啓帝 | 朱由校 | 1605-1627 (22歳) | 1620ー1627 (15歳)ー(22歳) | 7年 |
| ⑰ | 思宗 | 崇禎帝 | 朱由検 | 1611-1644 (33歳) | 1627ー1644 (16歳)ー(33歳) | 17年 |
※補足
・建文帝(朱允炆)は靖難の変で失脚し、その後の生死が不明。
・英宗(朱祁鎮)は「⑥正統帝」として即位→土木の変で捕虜→復位して「⑧天順帝」として再即位。
・景泰帝(朱祁鈺)は英宗(朱祁鎮)の復位後に廃され、
死後の帝号・諡号・廟号の扱いが変遷した。南明では代宗の廟号を追贈された。
・最後の 崇禎帝(朱由検)は李自成の乱で北京陥落後、自害。
・南京では福王・朱由崧が皇帝に擁立され、南明政権が成立したため、
明の皇統を奉じる政権そのものは1644年以後も中国南部で存続した。
①洪武帝 朱元璋
・安徽の貧農の家に生まれ、1344年の飢饉と疫病で両親や兄を失った。
皇覚寺の僧となった後、1352年に郭子興の紅巾軍に参加し、その養女である馬氏を妻に迎えた。
・1356年に集慶(南京)を占領して拠点とし、劉基・李善長ら文臣と徐達・常遇春ら武将を登用。
1363年の鄱陽湖の戦いで陳友諒を破り、張士誠や方国珍を滅ぼして江南を制圧した。
・1368年に明を建国し、徐達を総大将とする北伐軍が元の大都を占領。
その後も四川の明玉珍政権や雲南の元残存勢力を平定し、中国の大部分を統一した。
・賦役黄冊と魚鱗図冊による戸籍・土地の管理、里甲制による地方統治、
衛所制による軍事制度を整備。1380年の胡惟庸の獄を機に丞相職を廃止し、六部を皇帝直属とした。 ・胡惟庸の獄や1393年の藍玉の獄で多数の功臣を粛清。
皇子を各地の藩王として配置したが、皇太子朱標が早世したため孫の朱允炆を後継者に定め、
1398年に70歳で死去した。
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②建文帝 朱允炆
・洪武帝の長男朱標の子。1392年に父が死去すると皇太孫に立てられ、1398年に21歳で即位した。
黄子澄・斉泰・方孝孺らを重用し、洪武帝の厳罰主義を緩和して文治政治を進めた。
・洪武帝が各地に封じた藩王の軍事力を削減するため、
周王・湘王・斉王・代王・岷王らを相次いで処分。北平を拠点とする燕王朱棣にも圧力をかけた。
・1399年、朱棣が「君側の奸臣」を除くことを名目に挙兵して靖難の変が始まった。
朝廷は耿炳文・李景隆らを派遣したが、
北平攻略の失敗や諸将の敗北によって燕軍を抑えられなかった。
・1402年、燕軍が南京へ迫ると李景隆らが金川門を開いて迎え入れ、建文政権は崩壊。
宮中の火災で死亡したとする記録がある一方、
僧侶に変装して逃れたという伝説もあり、最期は確定していない。
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③永楽帝 朱棣
・洪武帝の四男。燕王として北平に封じられ、モンゴル勢力との戦いを経験。
1399年に建文帝の削藩政策に反発して挙兵し、1402年に南京を占領して皇帝に即位した。
・方孝孺・黄子澄・斉泰ら建文帝の旧臣を処刑し、反対勢力を弾圧。
東廠を設置して宦官による監察を強化し、内閣の原型となる大学士の補佐体制を整えた。
・北京に紫禁城を造営し、1421年に南京から遷都。
北方防衛を重視してモンゴル勢力に5度親征し、最後の遠征から帰還する途中に病死した。
・1405年から鄭和に大艦隊を率いさせ、東南アジア・インド洋・東アフリカ方面まで航海させた。
1407年にはベトナムの胡朝を滅ぼして交趾を直轄領とし、北方では亦失哈を黒龍江流域へ派遣した。 ・姚広孝らを重用して『永楽大典』を編纂。
皇太子朱高熾と漢王朱高煦の後継者争いが続く中、1424年に64歳で死去した。
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④洪熙帝 朱高熾
・永楽帝朱棣の長男で、母は徐皇后。
温厚で学問を好み、儒学者や文官から高く評価された一方、
肥満と足の不自由さから武勇を重んじる父には疎まれることもあった。
靖難の変では北平の留守を預かり、李景隆の大軍による攻撃を防いだ。
・1404年に皇太子となり、永楽帝がモンゴル親征などで都を離れる際には監国として政務を代行した。
六部からの奏事を処理し、官僚人事、財政、軍糧の調達、地方行政を統括して、
父の遠征を後方から支えた。永楽帝の大規模な軍事行動や土木事業によって財政負担が増す中、
楊士奇・楊栄・楊溥ら文官と協力して行政を維持した。
・弟の漢王朱高煦は靖難の変で武功を挙げ、永楽帝の寵愛を受けて皇位を望んだ。
朱高煦らは朱高熾の失脚を図り、監国中の政務や側近の行動を問題視して繰り返し讒言した。
皇太子を補佐した官僚が投獄される事件も起こったが、朱高熾は皇太子の地位を守り、
1424年に永楽帝が死去すると即位した。
・即位後は楊士奇・楊栄・楊溥らを重用し、
永楽帝の積極的な対外遠征から内政重視へ政策を転換した。
大規模な軍事行動や造営事業を縮小し、民衆の租税・徭役を軽減するとともに、
災害に苦しむ地域への救済を進めた。また、建文帝の旧臣やその家族に対する処罰を緩和し、
永楽年間に失脚した官僚の名誉回復にも取り組んだ。
・北京への遷都によって増大した財政負担や北方の軍事的脅威を考慮し、南京への還都を計画した。
しかし実現する前の1425年に46歳で急死し、皇位は長男の朱瞻基が継承した。
在位は約10か月だったが、皇太子時代から培った行政経験を生かして政治を立て直し、
その政策は宣徳帝に引き継がれて「仁宣の治」の基礎となった。
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⑤宣徳帝 朱瞻基
・洪熙帝の長男。母は張皇后。
祖父の永楽帝に聡明さを認められ、皇太孫としてモンゴル遠征にも随行。
1425年に即位すると、翌年に反乱を起こした叔父の漢王朱高煦を親征によって鎮圧した。
・三楊を重用して官僚政治を安定させ、租税負担の調整や地方行政の改善を進めた。
父の洪熙帝と合わせて「仁宣の治」と呼ばれ、明前期の政治的安定を実現した。
・ベトナムでは黎利の抵抗が続き、1427年に交趾の直接支配を断念。
1431年には鄭和の最後の大航海を実施し、対外関係を維持した。
・宦官に教育を施す機関として内書堂を設置した。
・皇后胡善祥に男子がいないことを理由に廃后し、寵愛する孫氏を皇后に立てた。
胡善祥に明確な罪がなかったため、楊士奇らは廃后に反対した。
・絵画や書に優れ、宮廷文化の発展にも関わったが、1435年に35歳で死去。
皇位は8歳の朱祁鎮に継承された。
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⑥正統帝 朱祁鎮
・宣徳帝の長男。母は孫皇后。
1435年に8歳で即位し、祖母の張太皇太后と楊士奇・楊栄・楊溥ら三楊の補佐を受けた。
張太皇太后の死と三楊の退場後は、
幼少期から仕えた宦官・王振が皇帝の信任を背景に権力を拡大した。
・1448年には福建で鄧茂七の乱が起こり、土地制度や租税負担を背景とする農民の反乱が拡大。
北方ではオイラトのエセンが勢力を強め、朝貢貿易をめぐる対立が深まった。
・1449年、オイラトのエセンが明の北辺へ侵攻すると、正統帝は自ら大軍を率いて親征した。
しかし、軍事経験に乏しい皇帝の親征に加え、
宦官の王振が行軍や撤退に介入したことで指揮が混乱。
土木堡でオイラト軍に包囲され、明軍は壊滅的な敗北を喫した。
・土木の変で王振は死亡し、朱祁鎮自身も捕虜となった。
北京では兵部尚書の于謙らが弟の朱祁鈺を皇帝に擁立し、朱祁鎮は太上皇とされた。
1450年に帰還したものの、南宮に幽閉されて皇位から遠ざけられた。
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⑦景泰帝 朱祁鈺
・宣徳帝の次男で、正統帝朱祁鎮の弟。
1449年の土木の変で兄が捕虜となると、皇太后の承認を得て即位。
于謙を兵部尚書として重用し、南京への遷都論を退けて北京の防衛を進めた。
・各地から援軍を集めて軍を再編し、エセン率いるオイラト軍の北京攻撃を撃退。
土木の変で失われた軍事力の再建を進め、明の首都と皇帝権力を維持した。
・1450年に兄の朱祁鎮が帰還すると、太上皇として南宮に幽閉。
1452年には兄の子朱見深を皇太子から廃し、自らの子朱見済を皇太子に立てたが、
朱見済は翌年に早世した。
・1457年、病に倒れると石亨・徐有貞・曹吉祥らが奪門の変を起こし、朱祁鎮を復位させた。
景泰帝は郕王に降格され、同年に28歳で死去。
成化年間に皇帝としての諡号が回復され、南明では代宗の廟号が追贈された。
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⑧天順帝 朱祁鎮
・土木の変で捕虜となり、帰還後は弟の景泰帝に幽閉されていたが、
1457年の奪門の変によって皇帝に復位。元号を天順と改め、皇太子には再び長男の朱見深を立てた。
・土木の変後、南宮へ幽閉された朱祁鎮に付き従い、支え続けた人物が皇后の銭皇后である。
銭皇后が朱祁鎮のために祈り続けた結果、片目を悪くし、
さらに長年の苦労によって足も不自由になったという逸話が残されている。
・明朝では一人の皇帝が一つの元号のみを用いる「一世一元」の制度が定着していたため、
復位後は「天順」の元号を用いたため天順帝とも呼ばれる。
(廟号の「英宗」で呼ばれることも多い。)
・復位に協力した石亨・徐有貞・曹吉祥らを重用し、北京防衛の功臣である于謙を謀反の嫌疑で処刑。
景泰帝の支持者も処罰され、朝廷では大規模な人事の入れ替えが行われた。
・奪門の変の功臣たちは権力争いによって相次いで失脚。
石亨は投獄され、1461年には曹吉祥の養子曹欽が反乱を起こしたが鎮圧され、曹吉祥も処刑された。 ・建文帝の子として長く幽閉されていた朱文圭を釈放するなど、過去の皇位争いによる処罰を緩和。
1464年に36歳で死去する際には、皇帝の死に伴う妃嬪の殉葬を廃止するよう命じた。
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⑨成化帝 朱見深
・英宗朱祁鎮の長男で、母は周貴妃。
1449年の土木の変で父がオイラト軍の捕虜となると皇太子に立てられたが、
景泰帝が実子の朱見済を後継者に定めたため廃太子となった。
1457年の奪門の変で父が復位すると再び皇太子となり、1464年に即位した。
即位後は、奪門の変で処刑された于謙の名誉を回復し、
叔父の景泰帝にも皇帝としての礼遇を回復させた。
・治世前半には李賢・彭時・商輅らの文官を重用し、朝廷の安定を図った。
荊襄地方では流民が集まって劉通・石龍らの反乱が起こり、朝廷は討伐軍を派遣して鎮圧した。
その後、原傑らによって流民の戸籍編入と州県の整備が進められた。
北方ではモンゴル勢力への防衛を続け、1470年代には長城沿いの辺境防備を強化した。
・後宮では、幼少期から自分に仕えていた19歳年上の万氏を深く寵愛した。
万貴妃との間に生まれた皇子は早世し、後の弘治帝となる朱祐樘は宮女紀氏の子として生まれたが、
万貴妃を恐れた宮中の人々によって存在を隠され、1475年に初めて父に認められた。
・1477年、宮中に出入りした李子龍の事件を受け、宦官・汪直を長官とする西廠を設置した。
西廠は東廠を上回る規模で官僚や民間を監視し、無断逮捕や拷問によって冤罪を生んだ。
商輅らの抗議で一度廃止されたが間もなく復活し、汪直は軍事にも介入した。
1482年に汪直が失脚した後も、宮廷では万安・梁芳・李孜省らが権勢を振るい、
正規の選任手続きを経ない伝奉官の任用が問題となった。
・晩年は仏教・道教の僧侶や方士を厚遇し、宮廷の人事や財政にも影響を及ぼした。
1487年に万貴妃が死去すると、成化帝も同年に40歳で死去し、 皇太子朱祐樘が即位した。
朱祐樘は即位後、梁芳・李孜省らを処罰し、伝奉官を大量に罷免して父の晩年の政治を改めた。
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⑩弘治帝 朱祐樘
・成化帝と紀氏の子。万貴妃が権勢を振るう後宮で生まれ、宦官らによって密かに養育された。
万貴妃から命を狙われたという逸話も残る。
1475年に父から皇子として認められ、翌年に皇太子となり、1487年に即位した。
・成化帝の晩年に重用された僧侶・道士や伝奉官を排除し、劉健・李東陽・謝遷ら文官を重用。
官僚人事の正常化、財政支出の削減、租税負担の調整を進め、
政治の安定を取り戻した治世は「弘治中興」と称された。
・倹約を重んじて宮廷の浪費や大規模事業を抑制し、黄河の治水や農業の復興にも取り組んだ。
宦官の政治介入を抑え、官僚の諫言を受け入れる一方、北方ではモンゴル勢力への防衛を継続した。
・張皇后を深く寵愛し、他の妃嬪を置かなかった皇帝として知られる。
しかし、張皇后の弟である張鶴齢・張延齢兄弟は皇帝の外戚として権勢を振るい、
その横暴を十分に抑えることはできなかった。
・1505年、風寒を患った後、太医が処方した強い薬によって鼻血が止まらなくなり、
病状が悪化したと伝えられる。36歳で死去し、長男の朱厚照が即位した。
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⑪正徳帝 朱厚照
・弘治帝の長男。1505年に14歳で即位すると、
劉瑾を中心とする「八虎」と呼ばれた宦官たちを重用。
劉瑾は東廠・西廠などを利用して政敵を弾圧したが、1510年に謀反の嫌疑で処刑された。
・紫禁城の外に豹房を設け、武人・僧侶・芸人らを集めて遊興や軍事訓練に熱中。
「鎮国公総督軍務威武大将軍総兵官朱寿」を自称し、
1517年には北方へ出征して応州でモンゴル軍との戦闘に参加した。
・1519年、寧王朱宸濠が江西で反乱を起こすと、
南贛巡撫の王守仁(王陽明)が軍を集めて短期間で鎮圧。
正徳帝は反乱鎮圧後も親征を続け、江南で長期の巡幸を行った。
・1520年に清江浦付近で舟遊び中に落水し、その後に体調を崩したと伝わる。
1521年に29歳で死去し、男子がいなかったため、皇位は従弟の朱厚熜に移った。
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⑫嘉靖帝 朱厚熜
・成化帝の孫で興献王朱祐杬の子。正徳帝が男子を残さず死去すると、傍系皇族から14歳で即位。
実父を皇帝として追尊することを求め、
弘治帝の養子として皇統を継ぐべきだと主張する楊廷和らと対立した。 これが「大礼議」である。
・大礼議では皇帝の意向に反対する官僚を処罰し、
1524年には宮門で抗議した官僚たちに廷杖を加えた。
最終的に実父を皇帝として追尊し、礼制をめぐる皇帝の権威を確立した。
・道教の斎醮や不老長寿の丹薬に傾倒し、
1542年には宮女たちによる暗殺未遂事件「壬寅宮変」が発生。
以後は宮中にこもることが増え、厳嵩・厳世蕃父子が官僚人事や軍政を左右した。
・北方ではアルタン・ハーンが侵攻し、1550年には北京近郊まで迫る庚戌の変が発生。
沿岸では倭寇が活動を拡大し、胡宗憲・戚継光・兪大猷らが討伐を進めた。
・長期の軍事費と道教儀式への支出が財政を圧迫し、晩年には徐階らによって厳嵩が失脚。
1567年に59歳で死去し、46年間に及ぶ治世が終わった。
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⑬隆慶帝 朱載坖
・嘉靖帝の三男。父の嘉靖帝は皇太子の冊立を避け、裕王朱載坖と景王朱載圳が後継候補となった。
1565年に景王が病死すると裕王が事実上の後継者となり、1567年に30歳で即位した。
・裕王時代から高拱・張居正らと関係を築き、即位後は彼らを重用。
嘉靖年間に処罰された海瑞らを復職させ、道教儀式への支出を削減し、
官僚政治と財政の立て直しを進めた。この一連の改革は「隆慶新政」と呼ばれる。
・1567年、福建の月港を中心に民間の海外貿易を認める「隆慶開関」を実施。
明初以来の海禁政策を部分的に緩和し、日本との直接交易は制限したまま、
東南アジア方面との貿易を公認した。海外からの銀の流入が拡大し、商業経済の発展につながった。
・北方ではアルタン・ハーン(俺答汗)との和平を進め、
1571年に順義王の称号を与えて朝貢と互市を認める「俺答封貢(隆慶和議)」を成立させた。
これにより長年続いたモンゴルとの軍事的緊張が緩和された。
・1572年に35歳で死去。在位約5年ながら、隆慶開関と俺答封貢によって対外政策を転換し、
張居正による万暦初期の改革につながる政治的基盤を整えた。
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⑭万暦帝 朱翊鈞
・隆慶帝の三男。1572年に9歳で即位し、
母の李太后、宦官・馮保、内閣大学士張居正の補佐を受けた。
張居正は考成法によって官僚の勤務を監督し、
土地調査や一条鞭法の普及を進めて財政を立て直した。
・1582年に張居正が死去すると親政を始めたが、
張居正の権勢や不正蓄財を問題視して死後の清算を進め、その家族や関係者を処罰した。
・1592年の寧夏における哱拝の乱、豊臣秀吉による朝鮮侵攻、播州の楊応龍の乱に対処。
これらの「万暦三大征」では勝利を収めたものの、巨額の軍事費が財政を圧迫した。
・鄭貴妃の子朱常洵を皇太子に望み、長男朱常洛の冊立をめぐる「国本の争い」が長期化。
官僚の諫言に反発して朝会への出席を減らし、官職の欠員を放置するなど政務を停滞させた。
後世には「万暦怠政」と呼ばれる。
・鉱監・税使を各地へ派遣して徴税を強化し、地方社会の反発を招いた。
1619年にはヌルハチ率いる後金軍にサルフの戦いで大敗し、1620年に56歳で死去した。
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⑮泰昌帝 朱常洛
・万暦帝の長男で、母は王恭妃。
父が鄭貴妃の子朱常洵を寵愛したため皇太子冊立が遅れ、
官僚たちが長子相続を主張する「国本の争い」を経て、1601年に皇太子となった。
・1615年には張差という男が棍棒を持って皇太子の居所に侵入する「梃撃の案」が発生。
鄭貴妃の関与が疑われたが、事件の背後関係は確定していない。
・1620年に即位し、万暦年間に停滞した官僚人事の再開や、
遼東防衛のための軍事費確保に取り組んだ。
しかし即位後まもなく病に倒れ、李可灼が献上した紅丸を服用した後に急死した。
・在位約1か月、38歳で死去。薬の服用と死因をめぐる「紅丸の案」は、
梃撃の案・移宮の案とともに「明末三案」と呼ばれ、朝廷内の政争を激化させた。
・在位は約1か月であったため「一月天子」とも呼ばれる。
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⑯天啓帝 朱由校
・泰昌帝の長男。1620年に15歳で即位したが、
父の寵妃李選侍が乾清宮に留まって影響力を維持しようとしたため、
楊漣らが退去を求める「移宮の案」が発生した。
・宦官・魏忠賢と乳母客氏を重用し、魏忠賢は司礼監や東廠を掌握して官僚人事に介入。
東林党系の官僚との対立が激化し、1625年には楊漣・左光斗らが拷問を受けて獄死した。
・魏忠賢を支持する閹党が朝廷を支配し、東林書院の破壊や魏忠賢を称える生祠の建立が進んだ。
天啓帝自身は木工を好み、家具や建築模型の製作に熱中したことで「木工皇帝」と呼ばれた。
・遼東では1621年に後金軍が瀋陽・遼陽を占領し、明の防衛線が後退。
一方、1626年には袁崇煥が寧遠でヌルハチ率いる後金軍を撃退した。
・1627年に22歳で死去。男子はいずれも早世していたため、弟の信王朱由検が皇位を継承した。
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⑰崇禎帝 朱由検
・泰昌帝の五男で、天啓帝の弟。1627年に兄が男子を残さず死去すると16歳で即位した。
宦官の魏忠賢と乳母の客氏を排除し、
天啓年間に弾圧された東林党系の官僚を復帰させて政治の立て直しを図った。
・政務に熱心だったが、官僚や武将への不信が強く、内閣大学士や軍の指揮官を頻繁に交代させた。
1629年、後金軍が長城を突破して北京近郊へ迫ると、
救援に駆けつけた袁崇煥を敵との内通を疑って逮捕し、翌年に処刑した。
・陝西・山西などでは旱魃と飢饉が続き、重税や軍への給与遅配によって農民反乱が拡大。
李自成・張献忠らが各地で勢力を伸ばし、明軍は反乱鎮圧と遼東防衛の両面で消耗した。
1636年には後金が国号を清と改め、1642年の松山・錦州の陥落によって明の遼東防衛は崩壊した。
・1644年、李自成軍が北京へ迫ると、南京への遷都や皇太子の南下も議論されたが実現しなかった。
北京陥落に際して周皇后に自害を命じ、長平公主に斬りつけた後、
宦官の王承恩を伴って万歳山(現在の景山)で縊死した。
・崇禎帝の死後、山海関の呉三桂が清軍とともに李自成軍を破り、清が北京を占領した。
一方、南京では福王朱由崧が弘光帝として即位し、
隆武帝・永暦帝らの南明政権が清への抵抗を続けた。
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王朝らしさ:
「強権専制国家 → 内部硬直」
キーワード
空気感
- 前半:軍事国家
- 中盤:制度安定
- 後半:政治麻痺
物語性
- 靖難の変
- 鄭和遠征
- 東林党
- 崇禎帝の最期
崩壊パターン
「財政難+農民反乱+満洲侵攻」
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