秦淮八艶|明末清初を生きた八人の名妓

秦淮八艶(明末の名妓) 05.才女

秦淮八艶(しんわいはちえん)とは、
末から初にかけて南京や江南で名を知られた女性たちのうち、
後世とくに有名になった八人をまとめた呼称である。

「金陵八艶」とも呼ばれ、
一般には柳如是(りゅうじょぜ)、顧横波(こおうは)、馬湘蘭(ばしょうらん)、
陳円円(ちんえんえん)、董小宛(とうしょうえん)、卞玉京(べんぎょくきょう)、
寇白門(こうはくもん)、李香君(りこうくん)を指す。

八人はいずれも「名妓」として知られるが、その生涯は一様ではない。
詩人・画家として作品を残した者、著名な文人の妻妾となった者、
交代の政治的混乱に巻き込まれた者もおり、
後世の文学作品によって実像とは異なる人物像が形成された例もある。

また、現在知られる「秦淮八艶」という枠組みを、
そのまま明末当時のランキングや公認された八人組と考えるのは適切ではない。

初の余懐(よかい)が著した『板橋雑記』には秦淮の多くの名妓が記録されており、
後世、その中でも特に著名な女性たちを中心として「秦淮八艶」という呼称が定着していった。

秦淮八艶が生まれた南京・秦淮河

代の南京は、政治都市であると同時に江南を代表する文化都市でもあった。
秦淮河周辺には科挙を受験する士人や官僚、文人、富裕商人が集まり、
宴席や演劇、音楽、詩文などを介した独特の社交文化が形成されていた。

余懐の『板橋雑記』によれば、南京には南市・珠市・旧院など妓女が暮らす地域があり、
なかでも旧院には「南曲名姫」「上庁行首」と呼ばれる高名な女性たちが集まっていた。
彼女たちに求められたのは容貌だけではなく、
歌唱、楽器、書画、詩文、会話、宴席での振る舞いなど幅広い教養だった。

そのため、名妓の居所は単なる遊興の場ではなかった。
文人たちが集まり、詩を作り、絵画を鑑賞し、
音楽や演劇を楽しむ文化的なサロンとして機能することもあった。

こうした環境のなかで、名妓と文人との間には恋愛関係だけでなく、
詩文の唱和や芸術を介した交流も生まれた。

秦淮の女性たちについて多くの記録が残された背景には、
彼女たち自身の才能に加え、交流した文人たちがその姿を詩文や随筆に書き残したことがある。

「秦淮八艶」は当時から八人だったのか

秦淮八艶を理解するうえで注意したいのが、「八艶」という括りそのものの成立である。

秦淮の名妓を知る重要史料の一つに、初の文人・余懐が著した『板橋雑記』がある。
余懐は末の南京で実際に名妓や文人たちと交流しており、
交代後、失われた秦淮の繁栄を回想してこの書を著した。

しかし『板橋雑記』に登場する女性は、現在の秦淮八艶だけではない。
顧媚(顧横波)、董小宛、卞賽(卞玉京)、寇白門らのほか、
李十娘、葛嫩、王月、李大娘など多数の名妓が記録されている。

しかも馬湘蘭について、余懐は自分が生まれたころにはすでに前世代の人物であり、
実際に会うことができなかったと記している。

八人全員が同じ時期に秦淮で活動し、一つの集団を形成していたわけではないのである。
現在一般的な八人は、後世に形成された代表的な組み合わせと考えるのが適切である。

人物別名・本名など主な才能・特徴関係の深い人物
柳如是柳隠、河東君詩・文・書、政治への関心銭謙益
顧横波顧媚、字は眉生文史・蘭画龔鼎孳
馬湘蘭馬守真詩・蘭竹画王稚登
陳円円陳沅など歌舞・美貌呉三桂
董小宛董白、字は小宛詩・琴・書、生活文化冒襄
卞玉京卞賽、玉京道人小楷・蘭画・琴呉偉業
寇白門寇湄歌曲・蘭画・詩朱国弼
李香君李香とも歌唱、後世には『桃花扇』で著名侯方域

柳如是――銭謙益と結ばれた才女

柳如是(りゅうじょぜ、1618~1664)は、
秦淮八艶のなかでも特に多くの史料や作品が残る人物である。
本名については楊愛などと伝えられ、柳隠、如是、蘼蕪(びぶ)、河東君など複数の名や号を用いた。

若いころから詩文に秀で、江南の文人たちと交流した。
単に文人の宴席に侍るだけではなく、自ら詩を作り、書をよくし、
当時の知識人と文学を介して交流できるだけの教養を備えていた。

やがて柳如是は、末を代表する文人であり政治家でもあった銭謙益(せんけんえき)と結ばれる。
銭謙益は柳如是より三十歳以上年長で、すでに高名な人物だった。
二人の結婚は当時の士大夫社会でも大きな話題となり、
柳如是は銭家に入った後も「河東君」として独自の存在感を保った。

1644年に北京が陥落してが滅び、翌年には軍が南京へ迫った。
後世、柳如是は銭謙益にへの殉節を求めた女性として語られるようになる。
一方の銭謙益はに降り、その後は朝に仕えたため、柳如是の態度と対照的に語られることが多い。

ただし柳如是の政治的行動については、
後世に形成された「烈女」の人物像と同時代史料を区別する必要がある。
確かなのは、彼女が単なる文人の愛妾として埋没せず、
詩文を残し、交代後も銭謙益を取り巻く政治的・文化的環境のなかで活動したことである。

1664年に銭謙益が死去すると、銭家では財産をめぐる争いが起こった。
そのなかで柳如是は自ら命を絶った。

後世には秦淮八艶を代表する才女として評価され、
とりわけ近代の歴史学者・陳寅恪(ちんいんかく)が大著『柳如是別伝』を著したことで、
その生涯はさらに広く知られるようになった。

顧横波――「南曲第一」と評された名妓

顧横波(こおうは)は、名を媚(び)、字を眉生(びせい)といい、顧眉生とも呼ばれる。
後には横波夫人の名でも知られた。

余懐の『板橋雑記』は、顧横波について文史に通じ、とくに蘭を描くことに優れていたと記している。
その容姿と風格も高く評価され、「南曲第一」と推された
という。

彼女の住居は「眉楼」と呼ばれ、多くの書物や琴・瑟などが置かれていた。
余懐はその華麗さをの煬帝にまつわる「迷楼」になぞらえたため、
眉楼は「迷楼」とも呼ばれるようになった。
文人たちの宴席が頻繁に開かれ、顧横波は末南京の文化的社交界を代表する存在の一人だった。

その後、顧横波は合肥出身の文人・龔鼎孳(きょうていじ)の側室となった。
龔鼎孳はに仕えた後、李自成政権、さらに朝にも仕えた人物で、
交代期を生き延びて高官となった。

顧横波も龔鼎孳とともに朝下で生活し、やがて夫人として扱われるようになる。
『板橋雑記』によれば、朝で龔鼎孳が高官となった後、顧横波は寵愛を受けて封を得た。
また、彼女が「横波夫人」と署名した蘭画も人々から求められたという。

名妓から高官の夫人へと立場を変えた顧横波の生涯は、
への節義を強く語られる柳如是や李香君とは異なる。
秦淮八艶が一つの価値観を共有した女性集団ではなかったことを示す人物でもある。

馬湘蘭――八艶のなかの前世代

馬湘蘭(ばしょうらん、1548~1604)は、本名を馬守真(ばしゅしん)といい、湘蘭は字である。
家で四番目の娘だったことから「四娘」とも呼ばれた。

ここで注意したいのは、その生きた時代である。
柳如是、董小宛、李香君らが活躍した崇禎年間よりかなり前の人物であり、
が滅亡する1644年より四十年も前に死去している。
したがって馬湘蘭を「交代を経験した女性」や「軍の南下を目撃した女性」
として扱うことはできない。

馬湘蘭は詩と絵画に優れ、とくに蘭と竹を描くことで知られた。
美貌だけを評価された女性ではなく、現在まで作品が伝わる女性画家としても重要である。

彼女と深い交流を続けた人物として、蘇州の文人・王稚登(おうちとう)が知られている。
二人は長年にわたって書簡や詩を交わしたが、夫婦になったわけではなかった。

王稚登が七十歳を迎えた際、馬湘蘭は南京から蘇州まで赴いてその寿宴を祝ったと伝えられる。
帰郷後まもなく病を得て、1604年に死去した。

余懐自身は『板橋雑記』で、馬湘蘭ら前世代の名妓について「皆不得而見之」、
すなわち自分は会うことができなかったと述べている。

馬湘蘭が現在「秦淮八艶」の一人に数えられていることは、
この呼称が同時代の八人組ではなく、
後世に南京の名妓を代表する女性たちをまとめたものであることをよく示している。

陳円円――明清交代の伝説に組み込まれた美女

陳円円(ちんえんえん)は、
秦淮八艶のなかでも歴史上の大事件と最も強く結びつけられてきた女性である。

蘇州方面で名を上げた名妓で、優れた歌舞と美貌によって知られた。
冒襄(ぼうじょう)も若いころの陳円円に会っており、その姿や歌声を高く評価している。

その後、陳円円末の有力武将・呉三桂(ごさんけい)のもとに入ったとされる。

1644年、李自成が北京を攻略して崇禎帝が自害すると、呉三桂は軍と連携して李自成軍と戦った。
この歴史的転換に陳円円を結びつけたことで有名なのが、「冲冠一怒為紅顔」、
すなわち呉三桂が愛する陳円円を奪われた怒りから軍を山海関へ引き入れたという物語である。

しかし、呉三桂がと手を結んだ理由を陳円円一人への愛情や怒りだけで説明することはできない。
当時は王朝が崩壊し、李自成の大順政権とが争う極めて複雑な軍事情勢にあった。
陳円円をめぐる物語は、交代という巨大な政治事件を一人の美女と一人の武将の恋愛に集約した
後世の文学的イメージとして見る必要がある。

陳円円の後半生についても伝承が多く、呉三桂に従って雲南へ移った後、出家したとも伝えられるが、
詳細には不明な点が残る。

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董小宛――『影梅庵憶語』に残された生涯

董小宛(とうしょうえん、1624~1651)は、本名を董白、字を小宛、また青蓮とも称した。

『板橋雑記』は彼女を「天姿巧慧、容貌娟妍」と評し、
幼少期から書を学び、成長すると裁縫、音楽、料理、茶など幅広い分野に通じたと記している。
一方で騒がしい宴席を好まず、山水や静かな場所を愛したともいう。

董小宛の生涯が詳しく知られている最大の理由は、
夫となった冒襄が、彼女の死後に『影梅庵憶語(えいばいあんおくご)』を著したことである。

冒襄は復社系の文人として知られ、字の辟疆(へききょう)でも呼ばれる。
二人が初めて会ったのは董小宛が十六歳のころで、紆余曲折を経た後、
董小宛は冒家に入り側室となった。

1644年にが滅亡すると、江南も戦乱に巻き込まれた。
冒家も避難を余儀なくされ、董小宛は一家とともに各地を転々とした。
生活が安定した後も家族の看病などに力を尽くし、順治八年(1651年)、二十代の若さで死去した。

『影梅庵憶語』には、董小宛の衣食、趣味、月を愛したこと、
料理や香に対する感覚、冒襄を看病した様子などが細かく記されている。
ただし、これは夫が亡き妻を追悼して書いた回想録であり、董小宛自身による自伝ではない。
その点を踏まえて読む必要がある。

後世には董小宛を順治帝の寵妃・董鄂妃(とうがくひ)と同一人物とする説も生まれたが、
年代や経歴が一致せず、史実としては認められていない。

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卞玉京――琴と蘭画に秀で、晩年は女道士に

卞玉京(べんぎょくきょう)は、本名を卞賽(べんさい)といい、賽賽とも呼ばれた。
後に女道士となり、「玉京道人」と号した。

『板橋雑記』によれば、書を知り、小楷に巧みで、蘭を描き、琴を弾くことにも優れていた。
十八歳で蘇州へ赴いて虎丘に暮らしたころには、客に対して普段はあまり話さなかったものの、
気に入った相手には機知に富んだ会話を続け、座にいる人々を感服させたという。

卞玉京との関係でよく知られる文人が、
初を代表する詩人・呉偉業(ごいぎょう)、号を梅村という人物である。

二人の間には若いころから交流があり、交代後に再会した際、卞玉京は呉偉業の前で琴を弾いた。
呉偉業はその体験をもとに「聴女道士卞玉京弾琴歌」を作り、
彼女の過去と戦乱によって失われた時代を重ね合わせている。

卞玉京は一時ある人物のもとへ嫁いだものの満足できず、その後そこを離れた。
やがて良医の鄭保御を頼り、別館で暮らしながら仏教に深く帰依した。
『板橋雑記』には、長斎を守り、戒律を厳格にし、
舌から血を出して『法華経』を書写したという逸話まで記されている。

十数年後に死去し、無錫の恵山に葬られた。

寇白門――千金を投じて朱国弼を救った「女侠」

寇白門(こうはくもん)は、名を湄(び)、字を白門といった。

『板橋雑記』は彼女を静かな美しさを持つ一方で、自由闊達な性格の女性として描いている。
歌曲を歌い、蘭を描き、詩についても一定の素養があったという。

十八、九歳のころ、寇白門は保国公・朱国弼(しゅこくひつ)のもとに入った。

転機となったのは1644年の滅亡である。
李自成が北京を攻略すると朱国弼は降伏し、その後、家産や家族が官に没収される事態となった。

このとき寇白門は千金を用意して朱国弼の身柄を救ったと『板橋雑記』は伝えている。
その後、彼女自身は短衣をまとい、一人の侍女だけを連れ、馬に乗って南京へ帰った。

南京に戻った寇白門は庭園を構え、文人たちと交流した。
余懐はこの時期の彼女を「女侠」と表現している。

その後、揚州のある孝廉に従ったものの意に沿わず、再び南京へ戻った。
晩年にも若い文人たちとの交流を続けたが、
病床で親しくしていた韓生に裏切られたことに激怒したという逸話が残り、ほどなく病没した。

寇白門は八艶のなかでも、滅亡によって夫の家が没落し、自ら財産を投じてその身柄を救った後、
自力で南京へ帰ったという具体的な行動が史料に残る人物
である。

李香君――史実と『桃花扇』の間

李香君(りこうくん)は、
秦淮八艶のなかでも後世の文学によって人物像が大きく形成された女性である。

南京の名妓として知られ、文人・侯方域(こうほういき)と関係を結んだ。
侯方域は復社に参加した文人で、末の政治対立とも無縁ではなかった。

二人の物語を後世に決定的に有名にしたのが、
代の孔尚任(こうしょうじん)が著した戯曲『桃花扇』である。

『桃花扇』では、侯方域と李香君の恋愛を中心に、
復社と阮大鋮(げんたいせい)らの政治対立、
弘光政権の成立と崩壊、軍による南京占領までが描かれる。

李香君は権力者への屈服を拒む気丈な女性として描かれ、
血のついた扇に桃の花を描いた「桃花扇」が物語を象徴する。

ただし、『桃花扇』は歴史書ではなく戯曲である。
実在人物や実際の政治事件を多く取り入れているものの、
李香君の言動や「血染めの桃花扇」などについては文学作品としての脚色を区別しなければならない。

その一方で、李香君の名が単なる名妓の一人を超え、
朝滅亡を象徴する女性として後世に記憶されたことには、『桃花扇』の影響が極めて大きい。

八人は本当に「愛国的な烈女」だったのか

後世の秦淮八艶には、「への忠節を貫いた八人の女性」というイメージが付加されることがある。
しかし八人の実際の経歴を見ると、この評価を全員に一律に当てはめることはできない。

柳如是には交代後の政治活動と結びつく記録があり、
李香君は『桃花扇』によってへの節義を象徴する人物となった。
寇白門は滅亡後に朱国弼を救った逸話を持つ。
一方、顧横波の夫・龔鼎孳は清朝に仕え、顧横波自身も清朝から封を受けている。
さらに馬湘蘭は1604年に死去しているため、そもそもの滅亡を経験していない。

したがって、秦淮八艶を「八人全員が朝に殉じた愛国女性」と説明するのは後世の美化に近い。
むしろ興味深いのは、同じ「秦淮八艶」と呼ばれながら、
それぞれがまったく異なる形で時代と向き合ったことである。
への忠節を示したとされる者もいれば、朝の社会で生き続けた者、
宗教に身を寄せた者、政治とは距離を置いて芸術に生きた者もいた。

名妓はどのような存在だったのか

現代日本語の「妓」という字から、秦淮の名妓を単純に娼婦と理解すると、
その社会的な位置づけを捉えにくい。

もちろん彼女たちは身分上大きな制約を受け、
男性中心の社会のなかで自由な人生を保証された女性ではなかった。
しかし高級な名妓には、歌舞や楽器だけでなく、
詩文、書画、会話、礼儀など高度な文化的能力が求められた。

『板橋雑記』に描かれる顧横波の眉楼には書籍や琴が並び、
董小宛は書、琴、料理、茶に通じ、卞玉京は小楷・蘭画・琴を得意とした。
寇白門も歌や蘭画を学び、馬湘蘭に至っては作品が現在まで伝わる画家でもある。

彼女たちと交流した男性にも、
銭謙益、冒襄、侯方域、呉偉業、王稚登ら当時を代表する文人が含まれている。

そのため秦淮の名妓を理解するには、「美貌を売った女性」という一面だけではなく、
末江南の文人文化を支えた芸能者・文化人としての側面を見る必要がある。

同時に、その才能が高く評価されたからといって、
彼女たちが男性文人と社会的に対等だったわけではない。
誰に身請けされるか、妻妾のどの位置に入るか、戦乱の際にどのような扱いを受けるかなど、
人生の重要な局面で女性側の選択肢は限られていた。

秦淮八艶の生涯には、末江南の文化的繁栄だけでなく、
当時の女性が置かれていた社会的な制約も表れている。

明の滅亡と秦淮文化の終焉

秦淮八艶の多くが活動した17世紀前半、王朝は深刻な危機に直面していた。
財政難、各地の反乱、後金からへと発展した満洲勢力の拡大によって、
王朝の支配は急速に揺らいでいった。

1644年、李自成軍が北京を攻略し、崇禎帝が自害しては事実上崩壊する。
その後、南京では福王朱由崧(しゅゆうすう)を皇帝とする弘光政権が成立したが、
翌1645年には軍によって南京も陥落した。

この戦乱は、秦淮の文化にも大きな打撃を与えた。
余懐が『板橋雑記』を書いたのは、こうした繁栄が失われた後である。
彼は序文で、かつて歌舞や音楽で賑わった場所が交代後には草に覆われ、
楼館も焼け、美人たちも亡くなったと回想している。

余懐にとって名妓たちを記録することは、単に昔の美女を懐かしむことではなかった。
彼自身、「一代之興衰、千秋之感慨」、すなわち一つの時代の興亡を記すことなのだと説明している。

この視点から見ると、秦淮の名妓たちが後世まで語り継がれた理由も理解しやすい。
彼女たちは末の南京で最も華やかな文化の一角を担った人々であり、
その生活が戦乱によって失われたことで、王朝最後の繁栄を象徴する存在となったのである。

『板橋雑記』『影梅庵憶語』『桃花扇』――八艶を伝えた記録

秦淮八艶について調べる際には、史料と文学作品を区別する必要がある。

最も重要な記録の一つが余懐の『板橋雑記』である。
余懐自身が末の南京で活動した文人であり、
顧横波、董小宛、卞玉京、寇白門など多くの名妓について、
その容貌、芸、性格、結婚、晩年などを書き残した。

董小宛については、冒襄の『影梅庵憶語』がさらに詳しい。
これは董小宛の死後、冒襄が亡き妻を追悼して著した回想録で、
二人の出会いから家庭生活、戦乱、看病、死に至るまでが記されている。

一方、李香君について後世のイメージを決定づけた『桃花扇』は、孔尚任による戯曲である。
実在人物と歴史的事件を素材としているが、
作品中の出来事をそのまま史実として扱うことはできない。

陳円円についても同様に、呉三桂が彼女のために清軍を引き入れたという有名な物語は、
交代後の詩や文学によって強く定着したものである。

秦淮八艶には、実際の人生と後世に作られた「美女伝説」が重なっている。
どこまでが同時代の記録で、どこからが文学的脚色なのかを分けて見ることで、
八人それぞれの実像はより明確になる。

まとめ

秦淮八艶は、初の南京・江南で名を知られた女性たちを、
後世「八人の名妓」としてまとめた呼称である。

八人は同じ時代に一つの集団として活動したわけではなく、
馬湘蘭のように滅亡より数十年前に死去した人物もいる。
また、全員を「への忠義を貫いた女性」とする後世のイメージも、実際の経歴とは一致しない。

一方で、詩、書、絵画、琴、歌舞などに優れ、
当時を代表する文人たちと交流した女性が多かったことは確かである。

彼女たちの記録が王朝の滅亡と重なったことで、
秦淮八艶は末江南の華やかな文化と、
その消滅を象徴する存在として語り継がれることになった。

史書・参考文献

・余懐『板橋雑記』
・冒襄『影梅庵憶語』
・孔尚任『桃花扇』
・陳寅恪『柳如是別伝』
・銭謙益『牧斎有学集』
・呉偉業『梅村家蔵稿』

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