于謙|土木の変で明朝を救った北京防衛の功臣と奪門の変による悲劇

于謙(明・名臣) 034.政治家・文官

于謙(うけん、1398〜1457年)は、
明の宣徳帝・正統帝・景泰帝に仕えた政治家で、字を廷益という。

河南・山西の巡撫として飢饉対策や河川整備、北方防衛に実績を残し、
1449年の土木の変では、皇帝朱祁鎮がオイラト軍の捕虜となった朝廷で北京の放棄に反対した。

兵部尚書として各地の軍を集め、景泰帝の即位を支えて北京防衛を指揮したが、
1457年の奪門の変で英宗が復位すると、謀反の罪を着せられて処刑された。

『明史』には、その地方統治、軍制改革、政敵との対立、
処刑後に財産がほとんど見つからなかったことまで記録されている。

出生と若年期

浙江での出生と進士合格

于謙は1398年、浙江省杭州府銭塘県に生まれた。
字は廷益で、幼少期から学問に励み、儒学の素養を身につけた。

『明史』于謙伝には、7歳の于謙を見た僧侶が、
将来は国家の危機を救う宰相になると予言した逸話が収められている。
これは後年の北京防衛の功績と結びつけて語られた人物伝上の逸話である。

于謙が成長した時代は、永楽帝が南京から北京への遷都を進め、
モンゴルへの親征を繰り返していた時期にあたる。
明朝は皇帝を中心とする統治機構を整備するとともに、科挙によって官僚を登用しており、
于謙も1421年(永楽19年)に進士に合格して官界へ進んだ。

宣徳年間の初めに監察御史となると、
その明快な答弁と率直な意見によって宣徳帝・朱瞻基の信任を得た。


都御史の顧佐は部下に厳しいことで知られたが、
于謙については自分より才能が優れていると認め、特に重んじたという。

↓↓第五代皇帝・宣徳帝についての個別記事は、こちら

朱瞻基(宣徳帝)|仁宣の治を完成させた明第5代皇帝の生涯と実像
朱瞻基(しゅせんき/宣徳帝)は明の第5代皇帝で、叔父朱高煦の反乱を自ら鎮圧して皇位を守り、三楊と呼ばれる重臣たちを登用して政治の安定を図った。父洪熙帝とともに「仁宣の治」と称される繁栄期を築いた一方、寵愛する孫氏を皇后に立てるため胡善祥を廃し、宦官の政治関与につながる制度も整えた。領土拡張より国内の安定を優先した宣徳帝の功績と、その治世に残された問題をたどる。

漢王朱高煦の反乱と監察御史としての活動

1426年、永楽帝の次男である漢王朱高煦が宣徳帝に反旗を翻すと、于謙は皇帝の親征に随行した。
朱高煦が降伏した後、宣徳帝は于謙にその罪を糾弾させた。


『明史』によれば、于謙は厳しい言葉で反乱の罪を列挙し、
朱高煦は地に伏して震え、死罪に値すると繰り返した。
宣徳帝はその態度を喜び、帰還後には重臣たちと同等の褒賞を与えている。

その後、江西の巡察では冤罪によって投獄されていた数百人を救済し、
陝西では住民を苦しめていた官吏や軍人の不正を告発した。

于謙の仕事は権力者への批判だけではなく、
地方行政の実情を調べ、制度の不備を改めることにも及んでいた。

宣徳帝は于謙の能力を認め、兵部右侍郎に抜擢して河南・山西の巡撫を命じた。
于謙は少人数で各地を巡り、村の長老や住民から事情を聞き、必要な改革を上奏した。
水害や干ばつが起きれば速やかに報告し、中央政府による対応を求めた。

河南・山西には備蓄穀物が大量に蓄えられていたが、飢饉の際に十分活用されていなかった。
1441年(正統6年)、于謙は毎年春に食糧不足の世帯を調査し、
官倉の穀物を貸し付ける制度を提案した。
秋の収穫後に返済させる一方、高齢者や病人、
返済能力のない貧困者には返済を免除する内容であり、朝廷はこれを採用した。

黄河に近い地域では堤防を補強し、一定の距離ごとに監督者を置いて維持管理を徹底させた。
街道には樹木を植え、井戸を掘らせて旅人の飲み水を確保した。
また、大同方面の軍政監督を強化し、
将軍たちが私有化していた屯田を官有地に戻して辺境軍の食糧供給に充てた。

こうした施策によって地方での信望を高め、
河南・山西の官吏や住民から広く支持されるようになった。


↓↓漢王の乱を起こした朱高煦についての個別記事は、こちら

朱高煦|永楽帝に寵愛された漢王の皇位継承争いと壮絶な最期
朱高煦(しゅこうく)は、永楽帝朱棣の次男として靖難の変で軍功を挙げ、兄の朱高熾と皇位を争った漢王。皇太子排斥や私兵養成によって父と対立し、洪熙帝の死後には甥の宣徳帝に反旗を翻した。漢王の乱と宣徳帝の親征、楽安での降伏、幽閉後に銅缸で焼き殺されたと伝わる壮絶な最期まで、その生涯をたどる。

正統年間と王振との対立

宦官王振の台頭と于謙の投獄

1435年に宣徳帝が崩御すると、幼い朱祁鎮(正統帝)が即位した。
初期の朝廷では三楊と呼ばれる重臣たちが政治を支えていたが、
彼らが相次いで政界を去ると、皇帝の側近である宦官の王振が強い影響力を持つようになった。

于謙は河南・山西の巡撫として実績を重ね、中央の重臣からも高く評価されていた。
楊士奇ら三楊が健在だった時期には、于謙の上奏は迅速に認可されたという。
しかし、中央の権力構造が変わると、率直な言動や権貴への迎合を拒む態度が不利に働いた。

1446年ごろ、于謙は中央へ赴いた際に、参政の王来と孫原貞を自分の後任候補として推薦した。
これに対して通政使の李錫が、昇進できない不満から勝手に後任を推薦したとして弾劾した。

『明史』によれば、王振に逆らった同姓同名に近い御史との取り違えも事件に関係しており、
于謙は死罪に相当すると判断され、約3か月間投獄された。
やがて誤りが明らかになって釈放されたものの、大理寺少卿へ降格された。

これに対し、河南・山西の官吏や住民は数千人規模で留任を求めて上書し、
周王・晋王らも于謙の復帰を支持した。
朝廷はその声を受け入れ、再び河南・山西の巡撫に任じた。

この時期、山東・陝西から河南へ流入した避難民は20万人を超えていた。
于謙は官倉の穀物を放出して救済するとともに、
流民に土地、牛、種子を与えて定住させる政策を進めた。
河南・山西での行政経験は、食糧供給、住民の動員、軍事拠点の維持を一体として扱うものだった。

1448年、于謙は兵部左侍郎として中央に召還された。

↓↓正統帝の信任を背景に権力を握った王振についての個別記事は、こちら

王振|正統帝の信任を背景に権力を握り、土木の変で命を落とした明の宦官
王振(おうしん)は明の正統帝に仕えた宦官で、皇太子時代の教育係から司礼監の重臣となり、皇帝の信任を背景に朝廷で強大な権力を握った人物。張太皇太后と三楊の死後、錦衣衛を利用して李時勉ら官僚を弾圧し、人事にも介入した。1449年にはオイラトのエセンに対する正統帝の親征を後押ししたが、撤退経路の変更や土木堡での滞陣が明軍の壊滅を招いた。皇帝が捕虜となる大敗の中で王振も死亡し、その一族は敗戦の責任を問われて処罰された。

オイラトの勢力拡大と北方情勢の悪化

正統年間後半、モンゴル高原ではオイラトの有力者エセンが勢力を拡大していた。
明朝とオイラトの間では朝貢使節の人数や交易、下賜品をめぐる対立が深まり、
国境地帯で軍事的緊張が高まった。

1449年、オイラトのエセンが明の北辺へ侵攻すると、
正統帝は自ら軍を率いて討伐する意向を示した。
王振はこれを制止せず、むしろ親征を後押しした。

兵部尚書の鄺埜や于謙らが反対したものの、正統帝は諫言を退け、大軍を率いて北方へ出撃した。
鄺埜は遠征に随行し、于謙は北京に残って兵部の事務を担当した
。

準備不足のまま始まった遠征では、補給と指揮に混乱が生じ、明軍は撤退を余儀なくされた。
そして土木堡でオイラト軍の攻撃を受け、主力部隊は壊滅した。
王振は混乱の中で殺害され、英国公張輔や鄺埜ら多くの重臣が戦死し、正統帝自身も捕虜となった。

皇帝と主力軍を同時に失ったことで、北京の朝廷は統治と防衛の両面で危機に陥った。

↓↓土木堡でオイラト軍の捕虜となった正統帝についての個別記事は、こちら

朱祁鎮(英宗)|土木の変と奪門の変を経験した明朝皇帝
朱祁鎮(しゅきちん/明英宗)は明朝で二度皇帝となった人物。9歳で即位し、宦官・王振を重用したが、1449年の土木の変でオイラト軍の捕虜となった。帰国後は弟の景泰帝によって南宮に幽閉され、1457年の奪門の変で復位。北京防衛の功臣・于謙を処刑し、石亨・徐有貞ら復位功臣も相次いで失脚した。晩年の朱文圭釈放や宮妃の殉葬廃止まで、その治世をたどる。

土木の変と北京防衛

南京遷都論を退ける

土木の変の報せが北京に届くと、朝廷では皇帝の弟である郕王朱祁鈺が監国として政務を担当した。
しかし、京師を守る精鋭部隊の多くは土木堡で失われ、
残された兵は10万人にも満たなかったと『明史』は記している。
オイラト軍が北京へ進撃する可能性が高まるなか、
朝廷では戦うべきか、都を移すべきかが議論された。

侍講の徐珵、後の徐有貞は、天象の異変を理由として南京への遷都を主張した。
これに対して于謙は、北京は天下の根本であり、都を動かせば国家の大事は失われると反論した。
さらに、宋が南方へ移った前例を挙げ、北京放棄の危険を訴えた。

『明史』には、
このとき于謙が「南遷を口にする者は斬るべきだ」と激しく主張したことが記録されている。
郕王は于謙の意見を支持し、北京を守る方針が決定された。

于謙は両京、河南、山東などから軍を呼び集め、
沿岸防衛に従事していた兵や食糧輸送に携わる部隊にも北京への集結を命じた。
各地からの援軍を確保するとともに、兵器の修理、食糧の確保、城門の防備を進めた。
軍事上の指揮権を集中させるため、兵部尚書に昇進した。

↓↓監国として政務を担当した郕王朱祁鈺についての個別記事は、こちら

朱祁鈺(景泰帝)|土木の変後の北京防衛と奪門の変で失脚した明朝第7代皇帝
朱祁鈺(しゅきぎょく/景泰帝)は明の第7代皇帝で、土木の変で兄の正統帝が捕虜となった後、皇位に就いた人物。于謙を重用してオイラト軍から北京を守り、壊滅した明軍の再建を進めた。しかし帰国した兄を南宮に幽閉し、甥の朱見深を廃して実子を皇太子に立てたことで皇位継承をめぐる対立が深まった。実子の夭折と自身の病を経て奪門の変で廃位され、死後には皇帝の称号まで奪われた。

朝廷の混乱を収拾する

北京では軍事的危機に加え、王振への憎悪によって朝廷内部も混乱していた。
官僚たちは王振一族の処罰を求め、その一派である馬順が言官を叱責すると、
給事中の王竑が馬順を殴り、ほかの官僚も加わって朝廷は騒然となった。

郕王が恐れてその場を離れようとすると、于謙は人々をかき分けて郕王を引き止め、
馬順らの処罰を認めるよう進言した。
郕王がこれを宣言すると混乱は収まり、その際、于謙の官服の袖は引き裂かれていたという。

朝廷を退出した于謙に対し、吏部尚書の王直は手を取って、
今の国家は于謙を頼りにしていると語った。
北京防衛を決定した後も、軍の再編と朝廷内部の秩序回復を同時に進めなければならなかった。

景泰帝の擁立と皇位継承問題

正統帝はオイラトの捕虜となっていたが、明朝には皇太子の朱見深がいた。
しかし朱見深は幼く、北京に迫る軍事的危機に対応するため、
朝廷では郕王朱祁鈺を新皇帝に擁立する議論が進んだ。

朱祁鈺は当初、皇位を受けることをためらった。
これに対して于謙は、
臣下たちは国家を憂えているのであって私利のために擁立するのではないと説得した。
皇太后孫氏の了承を経て、1449年9月、朱祁鈺は景泰帝として即位した。

この時点では正統帝の子である朱見深が皇太子の地位を維持した。
兄が存命のまま弟が皇帝になる異例の継承だったが、
捕虜となった正統帝を皇帝のままにしておけば、
オイラト側がその身柄を利用して明朝に要求を突きつけることができた。

新皇帝の即位によって、北京の朝廷は独自に命令を発し、軍を統率する体制を確立した。

↓↓正統帝の子・朱見深についての個別記事は、こちら

朱見深(成化帝)|土木の変と奪門の変という大混乱の中で成長した皇帝
成化帝(朱見深/しゅけんしん)は、明朝第8代皇帝として23年間在位した。土木の変で父の英宗が捕虜となり、皇太子の地位を奪われた幼少期を経て即位。于謙の名誉を回復し、荊襄流民の反乱や北方の女真勢力への対応を進めた。一方、年上の万貴妃を寵愛し、宦官・汪直に西廠を監督させて官僚への監視を強め、道士の李孜省らも重用した。紀氏が産んだ朱祐樘の出生と養育、弘治帝への皇位継承まで、その治世をたどる。

北京城外に軍を展開する

景泰帝の即位後、于謙は北京防衛の具体策を上奏した。

兵器が不足していたため工部に修理と製造を命じ、民兵を募集して戦力を補充した。
通州に蓄えられた大量の食糧については、敵に奪われないよう軍に運び込ませ、
運搬した兵士に米を報酬として与える方法を採用した。
城外の住民は城内へ移し、軍が戦闘に集中できるようにした。

また、文官の軒輗らを地方統治に、武将の石亨・楊洪・柳溥らを軍事指揮に起用するよう進言した。
于謙は軍事上の責任を自ら引き受け、失敗した場合には処罰を受けると明言した。

1449年10月、エセンは捕虜の正統帝を伴い、紫荊関を突破して北京へ迫った。
石亨は軍を城内に集め、堅く守って敵を疲弊させる策を提案したが、
于謙は消極的な籠城では敵に明軍を軽視させるとして反対した。

于謙は集結した約22万の軍を北京の九門の外に配置した。
安定門には陶瑾、東直門には劉安、朝陽門には朱瑛、西直門には劉聚、阜成門には顧興祖、
正陽門には李端、崇文門には劉得新、宣武門には湯節を配し、
自らは石亨・范広らとともに徳勝門の外に陣取った。

さらに城門を閉じ、軍に無断で退却することを禁じた。
将軍が兵を見捨てて逃げれば将軍を処罰し、
兵が将軍を見捨てて逃げれば後続部隊が退却者を斬るという厳しい軍令を発した。
城外で戦う兵に退路を与えず、敵の攻撃を正面から受け止める態勢を整えたのである。

徳勝門・西直門の戦いとエセン軍の撤退

エセンは北京の明軍が整然と布陣しているのを見て、短期間で攻略することが難しいと悟った。
オイラト側は正統帝の身柄を利用し、明朝の重臣を交渉の場に呼び出そうとしたが、
景泰帝と于謙らは応じなかった。

エセン軍が徳勝門へ進むと、于謙は石亨に伏兵を配置させ、少数の騎兵で敵を誘い込んだ。
オイラト軍が接近すると、范広の率いる部隊が火器を使用して攻撃し、伏兵も一斉に襲いかかった。
『明史』によれば、この戦闘でエセンの弟の孛羅や平章の卯那孩が砲撃を受けて死亡した。

オイラト軍は西直門方面へ移動したが、孫鏜が迎撃し、石亨も援軍を送って退けた。
彰義門付近では武興らが敵の先鋒を破ったものの、
功績を争った宦官の騎兵が突出して陣形を乱し、武興は流れ矢を受けて戦死した。
敵が明軍を追撃すると、城外の住民たちも屋根に上って石や瓦を投げつけ、
王竑らの援軍が到着して敵を退けた。

双方は約5日間対峙したが、オイラト軍は北京を攻略できず、
各地から明朝の援軍が到着することで退路を断たれる危険も生じた。
エセンは正統帝を連れて西方へ撤退し、于謙は諸将に追撃を命じた。

北京防衛の功績によって于謙には少保の官位が加えられ、軍務を総督する地位が与えられた。
しかし本人は、都の周辺に敵軍が迫ったこと自体が国家の恥であるとして褒賞を辞退しようとした。
景泰帝は辞退を認めず、于謙は引き続き北方防衛の整備を担当した。

北京防衛は于謙一人による勝利ではなく、景泰帝の決断、石亨・范広・孫鏜らの戦闘指揮、
各地から集まった軍隊、城外の住民の抵抗によって実現した。
そのなかで于謙は、防衛方針の決定から兵力の動員、諸将の配置、戦闘の指揮までを統括した。

景泰年間の政治と軍制改革

北方防衛の再建と団営の創設

北京防衛に成功した後も、オイラトの脅威が消えたわけではなかった。
于謙は真定・保定・涿州・易州などの守備を強化し、
山西にも重臣を派遣して北方からの再侵攻に備えた。

1450年にはオイラト軍が万全を包囲すると、
范広を派遣して対応させ、敵が撤退した後も居庸関方面に軍を駐屯させるよう求めた。

景泰年間の重要な軍制改革が、京軍を再編した「団営」の創設である。
従来の京軍は五軍営・神機営・三千営などに分かれ、
それぞれに指揮官がいたため、統一的な運用が難しかった。

于謙は精鋭15万人を選び、十の営に分けて合同訓練を行う制度を提案した。
各部隊を一体として運用できるようにし、
北京防衛で露呈した指揮系統の問題を改善しようとしたのである。

于謙は大同・宣府・永平・山海関・遼東方面の将軍にも防備の修繕を命じ、
城塞と軍の連携を強化した。
オイラトとの朝貢関係が再開されても警戒を解かず、
大人数の使節が入境する際には居庸関に兵を配置し、北京にも軍を整列させて不測の事態に備えた。

また、永楽年間に帰順して北京周辺へ移住したモンゴル系住民の一部が、
エセンの侵攻時に内応したことも問題となっていた。
于謙は軍務に従事できる者をほかの地域へ配置し、その家族も移住させることで、
北京周辺の防衛上の危険を減らそうとした。

土木の変に際して独石方面の守備拠点が放棄された後には、
孫安に騎兵を率いさせて龍門関から進出させ、
屯田と防衛を組み合わせながら失われた八城を回復させた。
単に北京城を守るだけでなく、北方の防衛線そのものを立て直す政策が進められた。

オイラトとの交渉と正統帝の帰還

北京攻略に失敗したエセンは、明朝との交渉に転じた。
しかし于謙は、オイラト側が過去にも講和を口にしながら侵攻したことを挙げ、
安易な和平を信用しなかった。
大同の参将許貴が交渉のための使節派遣を提案した際には、
軍人として敵を恐れる態度だと厳しく非難している。

于謙は軍事的圧力を維持するとともに、オイラト側に協力していた人物の排除も進めた。
捕虜となった正統帝に付き従い、エセンの要求を助けていた宦官の喜寧については、
大同の守将に命じて捕らえさせ、処刑した。
また、オイラト側の間者であった小田児を排除するため、
王偉に計略を授けたことも『明史』に記録されている。

1450年になると、エセンは正統帝の返還を申し出るようになった。
景泰帝は兄の帰国によって皇位が不安定になることを警戒し、積極的ではなかった。
これに対して于謙は、皇位はすでに定まっており、
兄を迎えても景泰帝の地位が変わるわけではないと説得した。
さらに、オイラト側が欺こうとしているのであれば、
迎え入れるための使節を派遣することで明朝の立場を明らかにできると述べた。

景泰帝はこの意見を受け入れ、李実や楊善らを派遣した。
こうして正統帝は1450年に帰国し、太上皇として迎えられた。
『明史』は、正統帝の帰還が実現したことについて、于謙の尽力を明記している。

ただし、帰国した正統帝が再び政治に参加することはなかった。
景泰帝は兄を南宮に住まわせ、外部との接触を厳しく制限した。

于謙も景泰帝のもとで兵部尚書を務め続けたが、
正統帝の帰還そのものには協力していたため、単純に英宗の帰国を妨げた人物とすることはできない。

皇太子の交代と景泰帝への忠誠

景泰帝は当初、正統帝の子である朱見深を皇太子として認めていた。
しかし、やがて実子の朱見済に皇位を継がせようとし、
1452年に朱見深を廃して朱見済を皇太子に立てた。

于謙は景泰帝の信任を受ける重臣であり、皇太子交代後も政権を支え続けた。
『明史』には、皇太子交代に伴って東宮の官職を兼ねる臣下に二重の俸給が認められた際、
多くの官僚が辞退し、于謙も繰り返し辞退したことが記録されている。

しかし、新たな皇太子となった朱見済は1453年に死去した。
景泰帝には後継者をめぐる問題が再び生じ、南宮には前皇帝の朱祁鎮が存命していた。
景泰帝が病に倒れると、皇位継承をめぐる不安はさらに深まっていった。

地方反乱への対応と政治手腕

于謙が兵部尚書を務めた時期には、北方のオイラトだけでなく、国内各地でも反乱が相次いでいた。
福建では鄧茂七、浙江では葉宗留、広東では黄蕭養らが蜂起し、
湖広・貴州・広西などでも苗族や瑤族などの反乱が発生した。

于謙は各地への兵力配分、将軍の任命、軍需品の輸送、軍事命令の発出を統括した。
『明史』は、緊急の軍事報告が次々と届くなかでも、于謙が迅速に判断して命令を下し、
遠隔地の将軍たちまでその指示に従ったと記している。

貴州の統治について、行政機構を縮小して軍事機関だけを残す案が出された際には、
于謙はそれでは地域を放棄するのと同じだとして反対した。
軍事的鎮圧だけでなく、地方行政を維持する必要があるという判断だった。

オイラト内部でエセンとトクトア・ブハの対立が深まった際には、
その機会を利用して大軍を派遣し、北方の脅威を取り除くことも提案した。
しかし景泰帝はこの出兵を認めず、大規模な北伐は実現しなかった。

于謙は軍政のほか、人事や行政にも強い影響力を持っていた。
景泰帝は官僚を任用する際、于謙の意見を密かに尋ねることがあり、
于謙も人物の能力や欠点を率直に答えた。

そのため、職務に適さないと判断された官僚や、
于謙ほど重用されないことに不満を持つ者たちから反感を買うようになった。

石亨・徐有貞らとの対立

于謙は規律に厳しく、功臣や有力将軍であっても軍令に違反すれば処罰を求めた。
都御史の羅通は軍功報告が不正確だとして于謙を弾劾し、
御史の顧𣉒は権限が大きすぎるとして、六部の重要案件を内閣と共同で処理するよう求めた。
于謙は祖制を根拠に反論し、景泰帝も于謙を支持したが、批判は収まらなかった。

北京防衛で功績を挙げた石亨との関係も悪化した。
石亨は以前、軍務上の失敗によって処分されていたが、
于謙の推薦によって再び起用された人物だった。
しかし、団営の指揮を任されるようになると、于謙の厳格な統制を不満に思うようになった。

石亨は于謙の子である于冕を官職に推薦したことがある。
これに対して于謙は、軍功による昇進を厳しく管理している自分が、
息子だけを特別扱いすることはできないと反対した。
石亨はこの拒絶にも怒りを募らせた。

徐珵は南京遷都を主張して于謙に退けられた後、徐有貞と改名して官界に復帰していたが、
以前の屈辱を忘れていなかった。

張軏も苗族討伐での失敗を于謙に弾劾され、宦官の曹吉祥も于謙に反感を抱いていた。

于謙は景泰帝の信任によって多くの政策を実行できた反面、
政権の中心に立つほど敵対者を増やしていた。

景泰帝が健康を損ない、政権の先行きが不透明になると、
こうした対立が于謙自身の身に及ぶことになった。

奪門の変と于謙の処刑

英宗復位と于謙の逮捕

1457年(景泰8年)1月、景泰帝が重病に陥ると、
石亨・徐有貞・曹吉祥らは南宮に幽閉されていた朱祁鎮を復位させる計画を進めた。
彼らは南宮の門を開いて朱祁鎮を迎え出し、宮中を掌握して皇帝への復位を実現させた。
これが「奪門の変」である。

復位した朱祁鎮は英宗として再び皇位に就き、元号を天順に改めた。
景泰帝は廃位されて郕王に戻され、その後まもなく死去した。

政変が成功すると、石亨らは于謙と大学士の王文を逮捕した。
于謙は景泰帝のもとで軍政を統括し、正統帝の復位を望む勢力から警戒されていた。
さらに石亨・徐有貞・曹吉祥らは、それぞれ于謙との間に個人的な対立を抱えていた。

「謀立外藩」の罪と英宗の決断

于謙と王文には、皇太子の地位を不当に変更し、
さらに襄王の子を新皇帝に擁立しようとしたという罪が着せられた。
これは皇位継承に介入する謀反の罪であり、
都御史の蕭惟禎らによって重刑に処する判決がまとめられた。

王文は激しく無実を訴えたが、
于謙は、これは石亨らの意図によるものであり、弁明しても意味がないと述べたという。

『明史』には、英宗が処刑を決める前にためらい、
「于謙には実際に功績がある」と語ったことが記録されている。
これに対して徐有貞は、于謙を殺さなければ今回の復位には正当な理由がなくなると主張した。
英宗は最終的に処刑を認めた。

于謙は1457年、北京の市中で処刑され、王文も同じ事件で命を落とした。
家族は辺境へ流され、財産は没収された。
さらに于謙と関係の深かった官僚たちにも処罰を拡大しようとする動きがあったが、
すべてが実行されたわけではなかった。

この処刑は、北京を防衛した功績を持つ于謙が、
景泰帝政権の中心人物であったために政変後の政治的対立に巻き込まれた事件だった。
とりわけ徐有貞が述べたとされる言葉は、
于謙を排除することが奪門の変の正当化と結びついていたことを示している。

処刑後に明らかになった清廉さ

于謙の財産を没収するために邸宅を調べたところ、家にはほとんど財産が残されていなかった。
厳重に鍵のかかった部屋が一つあったが、開けてみると、
中にあったのは景泰帝から下賜された蟒衣や剣などだったという。

『明史』は、于謙が景泰帝から厚遇されながらも私財を蓄えず、
与えられた品物を封じて保管していたことを伝えている。

于謙の死を悼む者も少なくなかった。
曹吉祥の配下にいた指揮の朶児は、処刑された場所に酒を注いで号泣し、
曹吉祥に鞭打たれても翌日また弔いに訪れた。
都督同知の陳逵は于謙の遺体を引き取り、仮埋葬した。
その後、遺骨は故郷の杭州へ移されて葬られた。

皇太后は于謙の処刑を後から知り、何日にもわたって嘆き悲しんだ。
『明史』は英宗も後に処刑を悔やんだと記している。

于謙の死後と奪門の功臣たちの末路

于謙の処刑後、兵部尚書には石亨の一派である陳汝言が任命された。
しかし陳汝言は1年もたたないうちに失脚し、巨額の不正蓄財が明らかになった。

英宗はその財産を見て、景泰年間に厚遇されていた于謙の家には財産がほとんどなかったのに、
陳汝言はなぜこれほど多くの財産を持っているのかと問いただした。
石亨は答えられなかったという。

また、北方で再び軍事的緊張が高まった際、
恭順侯の呉瑾が、于謙が生きていれば敵をここまで侵入させなかっただろうと述べると、
英宗は黙り込んだと記されている。

奪門の変を主導した人物たちも、その後は安泰ではなかった。
徐有貞は石亨との対立によって失脚し、石亨も権勢を失って獄死した。
曹吉祥は養子の曹欽による反乱に関与したとして一族とともに処刑された。

于謙を排除した政変の功臣たちが相次いで失脚したことで、于謙の冤罪を見直す動きが進んでいった。

名誉回復と後世の評価

成化帝による名誉回復

1464年に英宗が崩御し、その子である朱見深(成化帝)が即位すると、
于謙の名誉回復が進められた。

于謙の子である于冕は赦免されて帰還し、父の無実を訴えた。
成化帝はその訴えを認め、于謙の官職を回復するとともに、祭祀を行うことを許した。

『明史』には、このときの詔書が収められている。
そこでは、国家が危機に陥った際に于謙が社稷を守り、
公正な立場を貫いたために権臣たちの嫉妬を受けたこと、
先帝もその冤罪を認識していたことが述べられている。

成化帝による名誉回復は、奪門の変で否定された景泰年間の政治を、
全面的に否定し続けることができなくなったこととも関係していた。
景泰帝のもとで北京が守られ、明朝の統治が維持された事実は、
英宗の復位後にも消えるものではなかった。

于謙の子の于冕も官職に復帰した。
『明史』によれば、于冕は武官としての職務を望まず、
兵部員外郎に転じ、その後は応天府尹にまで昇進した。

「粛愍」「忠粛」の諡号

1489年(弘治2年)、弘治帝の時代には、給事中の孫需の進言によって于謙に
特進光禄大夫・柱国・太傅の称号が追贈され、「粛愍」の諡号が贈られた。
また、杭州の墓所には「旌功」と名づけられた祠が設けられ、
官府による定期的な祭祀が行われるようになった。

さらに万暦年間には諡号が「忠粛」に改められた。
杭州だけでなく、于謙が長年巡撫を務めた河南・山西でも顕彰が続けられた。

『明史』の編纂者は、于謙が地方官として優れた実績を残し、
国家の危機には軍を整えて国境を守ったと評している。
奪門の変で命を落としたことについても、
徐有貞・石亨らの排斥による冤罪として記し、その忠義を高く評価した。

清代以降、于謙は南宋の岳飛と並んで、
国家への忠誠を貫きながら政治的な理由で処刑された人物として語られるようになった。

両者の生涯や置かれた政治状況は異なるが、
国家防衛への功績と冤罪による死、後世の名誉回復という点で共通している。

于謙にまつわる逸話と伝承

「清風両袖」と賄賂を拒んだ官僚

于謙の清廉さを象徴する言葉として、「清風両袖」が知られている。
両袖にあるのは清らかな風だけという意味で、賄賂や贈答品を持ち帰らない官僚の姿を表す。

地方官が中央へ赴く際には、有力者への贈り物を持参する慣行があったが、
于謙はそれを嫌ったと伝えられる。
『明史』にも、于謙が北京へ赴くたびに荷物を空にしていたため、
権貴たちが不満を抱いたと記されている。

この清廉さは、景泰帝からの褒賞に対する態度にも表れていた。
景泰帝は于謙に西華門付近の邸宅を与えようとしたが、
于謙は国家が危機にあるときに臣下だけが安楽に暮らすことはできないとして辞退した。
皇帝は辞退を認めず、于謙は下賜された衣服や品物を封じて保管した。

于謙の家が簡素だったこと、
処刑後に財産がほとんど見つからなかったことも『明史』に記録されている。
「清風両袖」の逸話は、こうした官僚生活の記録と結びついて、後世に広く知られるようになった。

「石灰吟」と于謙の詩文

于謙は政治家であると同時に、詩文にも優れた人物だった。
その作品のなかでも、特に有名なのが「石灰吟」である。

千錘万鑿出深山 烈火焚焼若等閑 粉骨砕身渾不怕 要留清白在人間

石灰石が山から切り出され、火で焼かれ、砕かれても白さを残す姿に、自らの潔白を重ねた詩である。とりわけ「粉骨砕身渾不怕、要留清白在人間」は、
身を砕かれても恐れず、清白を世に残したいという意味で、于謙を象徴する言葉として知られている。

ただし、この詩を1457年の処刑直前に詠んだと断定することはできない。
「石灰吟」は于謙の作品として伝わる詩であり、
処刑に際して残した最期の言葉として扱うのは正確ではない。

于謙の死後、この詩はその生涯と重ねて読まれるようになり、
清廉な官僚としての人物像を伝える作品となった。

景泰帝の信任と于謙の性格

『明史』には、景泰帝が于謙の健康を気遣った逸話も残されている。

于謙はオイラトの侵攻以来、
官署に泊まり込んで軍務を処理することが多く、私邸に帰らない日もあった。

もともと痰を伴う持病があり、体調を崩すと景泰帝は宦官の興安や舒良を交代で見舞いに派遣した。
于謙の生活があまりに質素であることを知ると、
皇帝は衣服や食物を下賜し、自ら万歳山へ赴いて竹を伐らせ、その汁を薬として与えたという。

一方、于謙は決して温厚なだけの人物ではなかった。
自分の意見が受け入れられないと胸を叩いて嘆き、
決断力のない大臣や特権に頼る功臣・貴族を軽んじることもあった。
そのため、優れた行政能力と強い責任感を持ちながら、同時に多くの政敵を生んでいた。

景泰帝の信任は于謙の政治活動を支えたが、
その強い結びつきは、奪門の変によって政権が崩れたとき、于謙を守るものにはならなかった。

忠臣像の成立

後世の文学や演劇では、于謙は国家の危機に立ち向かい、
私利を求めず、最後には冤罪で命を落とした忠臣として描かれた。

北京防衛を成功させた功績、賄賂を拒んだ逸話、処刑後に財産が残されていなかったこと、
そして「石灰吟」の詩句が、一つの人物像として結びつけられていった。

しかし、于謙の生涯は北京防衛だけで成り立っているわけではない。
河南・山西での長年の地方統治、飢饉救済や河川整備、
北方の屯田と城塞の管理、景泰年間の軍制改革、各地の反乱への対応など、
行政官としての仕事も『明史』に詳しく記録されている。

また、北京防衛は景泰帝や諸将との協力によって実現したものであり、
于謙だけが戦ったわけではなかった。
于謙が担ったのは、危機のなかで北京防衛を決定し、
軍隊と物資を動員し、軍事指揮を統括する役割だった。

まとめ

于謙が処刑された1457年、
明朝はすでに土木の変による危機を脱し、北方防衛体制の再建も進んでいた。
その中心にいた于謙が、英宗の復位によって謀反人として処刑されたことは、
景泰年間の政治的成果と奪門の変後の権力関係が相容れなかったことを示している。

英宗は于謙の功績を認めながら処刑を許し、
その後、于謙に代わって兵部尚書となった陳汝言の巨額の不正蓄財を知って、
于謙の清廉さを改めて思い起こした。

石亨・徐有貞・曹吉祥らが相次いで失脚した後、
成化帝は于謙の官職を回復し、弘治・万暦年間には諡号の追贈と改諡が行われた。

于謙の墓所がある杭州や、巡撫として長年勤務した河南・山西で祭祀が続けられたのは、
北京防衛の功績だけでなく、地方統治で残した実績も人々に記憶されていたためだった。

『明史』が伝える于謙は、戦時の軍事指導者であるとともに、
平時には食糧・治水・辺境行政を担い、国家の危機には軍政の全責任を引き受けた官僚だった。

【中国ドラマ】「大明皇妃 -Empress of the Ming-』」史実との違いを解説
『大明皇妃 -Empress of the Ming-』は、明の永楽帝から景泰帝の時代を舞台に、孫若微の波乱に満ちた生涯を描く中国歴史ドラマ。靖難の変で家族を失った孫若微と朱瞻基の出会い、胡善祥との対立、宣徳帝の即位と皇后廃立、幼帝・朱祁鎮を支える孫太后の政治、土木の変による皇帝の捕縛、朱祁鈺の即位と奪門の変まで、ドラマのあらすじや登場人物を紹介し、実在の孫皇后の生涯と明朝の史実との違いを詳しく解説する。

お薦め商品

【お薦め】中国史がテーマのマンガ・小説・書籍
中国史をテーマにしたおすすめのマンガ・小説・書籍を紹介。『キングダム』や『三国志』だけでなく、歴代王朝の興亡や英雄たちの活躍、宮廷の権力争いを描いた作品など、中国史の魅力を楽しめる一冊を探せる。

史書・参考文献

・『明史』巻一七〇「列伝第五十八 于謙」
・『明実録』
・『国榷』
・『明通鑑』
・『続資治通鑑』
・岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』
・檀上寛『明朝とは何か』
・宮崎市定『中国史』
・川越泰博『中国皇帝列伝』

関連リンク

中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国