李善長|明朝建国を支えた宰相の実像と胡惟庸の獄

李善長(明・宰相) 034.政治家・文官

李善長(りぜんちょう、1314―1390)は、朱元璋の挙兵初期から政権運営を支え、
明建国後には中書左丞相・韓国公として文臣の最高位に立った人物である。

戦場で大軍を率いた徐達や常遇春とは異なり、軍糧の調達、人材の登用、軍中の調整、財政制度、
官制、法令、国家儀礼などを整え、朱元璋が各地を征服している間の後方を支えた。
洪武3年(1370年)の大封功臣では六人の公爵の第一位に置かれ、
朱元璋から漢の蕭何に比べられている。

しかし晩年には、自ら推挙した胡惟庸との関係を追及された。
胡惟庸が処刑された1380年には罪を問われなかったものの、
その後も事件の追及は続き、1390年には「謀反計画を知りながら告発しなかった」として
妻女・弟・甥など七十余人とともに処刑された。

翌年には王国用が、すでに人臣として最高の地位にあった李善長が
胡惟庸に加担して何を得ようとしたのかと疑問を呈し、その処刑を批判している。

明朝創業最大級の功臣が、なぜ七十七歳で「大逆不道」とされたのか。
李善長の前半生から明朝の制度整備、劉基との対立、胡惟庸との関係、
1390年の罪状と処刑、その死後に出された異議まで史料から見ていく。

朱元璋との出会い|劉邦を手本とする天下統一を進言

李善長は字を百室といい、定遠の出身だった。
『明史』は若い頃から読書を好み、智計があり、法家の学説に通じ、
物事を予測するとよく的中したと記している。

一方、元朝で官職に就いた経歴は『明史』には記されておらず、
科挙によって官僚となった経歴も確認できない。
地方では長者として知られており、元末の戦乱の中で朱元璋が滁陽へ進出すると自ら面会を求めた。

朱元璋は李善長に「四方の戦いはいつ平定できるか」と尋ねた。
李善長が持ち出したのが、秦末の乱世から天下を統一した漢の高祖・劉邦だった。

劉邦は布衣から身を起こし、度量が広く、人材を見抜いて任用し、
むやみに人を殺さなかったため、わずか五年で帝業を成した。
元朝の綱紀が崩れ、天下が分裂した現在も同じであり、
劉邦を手本とすれば天下平定は難しくないと説いた。

李善長は朱元璋の出身地である濠州が劉邦の故郷・沛から遠くないことにも触れている。
ただし、これを後の「明朝正統論」そのものとして拡大する必要はない。
『明史』が伝える中心は、朱元璋に劉邦の寛大さと人材登用を模範とするよう勧めたことにある。
朱元璋はこの進言を評価し、李善長を掌書記として側近に置いた。

李善長は参謀となって軍事計画に参与するとともに、軍糧を担当した。
新たに帰順した武将については能力を見極めて朱元璋へ報告し、
朱元璋の誠意を伝えて安心させ、武将同士が衝突すると間に入って調整した。

後に明朝の宰相となる李善長の役割は、この時点ですでに軍事作戦そのものより、
組織を維持して人と物資を動かすことにあった。

朱元璋が郭子興から疑われて兵権を削られた際には、郭子興が李善長を自らの幕下へ移そうとした。
しかし李善長はこれを断り、朱元璋のもとに残った。
朱元璋が早い段階から李善長を強く信頼した背景には、この選択もあった。

和陽防衛と長江渡河|書記だけではなかった李善長

李善長は戦場で名を上げた武将ではないが、軍事局面から完全に離れていたわけでもない。
朱元璋が和陽から雞籠山の寨を攻撃した際、少数の兵とともに留守を任された。
元軍は守備兵が少ないことを知って攻撃してきたが、
李善長は伏兵を置いて撃退し、朱元璋から能力を認められた。

その後、俞通海・廖永安らの巣湖水軍が朱元璋へ帰順すると、
李善長は長江を渡る好機だとして進軍を支持した。
朱元璋軍は采石を抜き、太平へ進出する。

李善長は攻略前に略奪を禁止する布告を用意し、
占領後すぐ城内に掲示したため、兵士は住民に危害を加えなかったとされる。

集慶を攻略した後、鎮江へ向かう際にも軍紀が問題となった。
朱元璋は部下を統制できない武将を処罰しようとしたが、李善長が助命を求めた。
鎮江攻略後には軍による住民への被害がほとんどなかったと『明史』は記している。

李善長は単に帳簿を管理する官僚ではなく、
征服地を略奪の対象から統治すべき領域へ変える役割を担っていた。

明朝建国を支えた実務|軍糧・財政・法令・官制

朱元璋が江南行中書省を設置すると、李善長は参議となり、
軍の進退、賞罰、行政上の規程の多くを処理した。
枢密院が大都督府へ改められると府司馬を兼ね、行省参知政事へ進む。
朱元璋が呉王となると右相国に任命された。

朱元璋が自ら遠征すると、李善長はたびたび本拠地の留守を任された。
将吏を統制し、住民を安定させ、前線へ送る軍糧を不足させなかった。

後に朱元璋が李善長を高く評価した最大の理由も、
華々しい戦闘ではなく、この補給と政権運営だった。

財政面では両淮の塩に専売制度を設け、
茶法を整え、貨幣制度を復活させ、鉄冶を開き、魚税を定めた。
『明史』は元朝の制度を参考にしながら弊害を取り除き、
国家収入を増加させても民を困窮させなかったと記している。


元朝の制度を全面的に否定するのではなく、
利用できる仕組みを修正して新政権へ取り込んだことが李善長の行政手法だった。

呉元年(1367年)、張士誠政権が滅亡すると、その功績によって宣国公に封じられた。
官制が右尊から左尊へ変更されると左相国となり、朱元璋政権の文官中枢を担う。

連坐を減らし、劉基とともに律令を整備

李善長は若い頃から「法家言」を学んだ人物だが、
それだけから厳罰主義者だったとするのは適切ではない。

朱元璋が長江を渡った当初、法には三種類の連坐規定があった。
朱元璋自身が「厳しすぎないか」と尋ねると、李善長は大逆罪を除いて連坐を廃止するよう求めた。
朱元璋はこれを認め、李善長と劉基らに律令を整理させている。

したがって、李善長の政治を「法家思想に基づく法治主義」「徳治より厳格な統制を優先した」と
単純化することはできない。
史料から見えるのは、法家の学説を学びながらも、戦乱から統治へ移行する中で過度な連坐を削り、
実際に運用できる法制を整えた実務家としての姿である。

1368年に朱元璋が皇帝となると、祖先への追尊、
皇后・皇太子・諸王の冊立では李善長が大礼使を務めた。

太子少師、銀青栄禄大夫、上柱国、録軍国重事となり、郊祀・社稷・宗廟の礼制を整えた。
朱元璋が汴梁へ行幸した際には首都の留守を任され、便宜に処置する権限まで与えられている。

さらに六部の官制、官民の喪服、朝賀や東宮の儀礼を定め、
天下の岳瀆・神祇の封号、諸王の封建、功臣への爵賞などにも関与した。
『元史』編纂を監修し、『祖訓録』『大明集礼』などの編纂にも携わった。

「蕭何」に比べられた開国第一の文臣

洪武3年(1370年)、朱元璋は建国功臣を大規模に封賞した。

李善長について
「汗馬の労はないが、長年自分に仕え、軍糧を供給した功績は非常に大きい」と評価し、
開国輔運推誠守正文臣、特進光禄大夫、左柱国、太師、中書左丞相を授け、韓国公に封じた。
食禄は四千石で子孫への世襲を認め、
本人について二度、子について一度の死罪を免除する鉄券まで与えた。

このとき公爵となったのは、李善長のほか徐達、常茂、李文忠、馮勝、鄧愈の六人だった。
その中でも李善長は第一位に置かれ、軍事功臣の筆頭である徐達より上位だった。

朱元璋は李善長を漢高祖劉邦を後方から支えた蕭何に比べている。

この比較は李善長の役割をよく表している。
朱元璋が各地で陳友諒・張士誠・元軍と戦っている間、
李善長は本拠を守り、軍糧と武器を送り、将吏を統制し、財政と行政を動かした。

明朝建国における功績は、戦略を立案した「軍師」というより、
拡大する軍事勢力を国家として機能させたところにあった。

↓↓軍事功臣の筆頭・徐達についての個別記事は、こちら

徐達|明朝建国を支えた名将と“粛清を免れた理由”
徐達(じょたつ)は、朱元璋の挙兵初期から従い、陳友諒・張士誠との戦いを経て江南統一を支え、25万の北伐軍を率いて元の大都を攻略した明朝屈指の名将。常遇春と「徐常」と並び称され、魏国公に封じられた開国第一功臣である。北元の名将ココ・テムルとの攻防、厳格な軍紀と朱元璋からの信頼、洪武年間の功臣粛清を免れた背景、死因をめぐる「焼鵞」の逸話が史実なのかまで、その生涯と実像を詳しく解説する。

劉基との対立と、それでも李善長を擁護した劉基

李善長と劉基の関係は単純な協力関係ではなかった。

御史中丞だった劉基が厳しく官吏を取り締まっていた時期、
中書省都事・李彬が貪欲・放縦の罪に問われた。
李善長は李彬と親しく、処刑を猶予するよう求めたが、
劉基は受け入れず、朱元璋の許可を得て李彬を処刑した。
これを機に両者の関係は悪化した。

しかし朱元璋が李善長を責め、宰相を交代させようとした際、劉基は李善長を擁護した。
朱元璋が「李善長は何度もお前を害そうとしたのに、なぜかばうのか」と尋ねても、
劉基は李善長について「勲旧であり、諸将を調和させることができる」と答えた。

宰相を柱にたとえ、取り替えるならそれに耐えられる大木が必要だとも述べている。

政治的には対立していても、劉基は李善長の政権内での調整能力まで否定していなかった。
李善長の実務能力と人間関係上の問題を同時に示す逸話である。

↓↓明朝創業を支えた軍師・劉基についての個別記事は、こちら

劉基(劉伯温)|諸葛亮に比肩 明朝創業を支えた軍師の実像と逸話
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権勢の拡大と朱元璋との距離

『明史』は李善長について「外寛和、内多忮刻」と評している。
表面上は寛厚だったが、内面では嫉妬深く、人を厳しく扱うところがあったという。


参議の李飲冰・楊希聖が自らの権限を侵すようになると罪を調べて失脚させ、
劉基とも法をめぐって争った。

一方で、張昶・楊憲・汪広洋・胡惟庸など朱元璋が重用した人物が次々と失脚しても、
李善長への信任は長く維持された。
しかし地位と富が極まるにつれて態度が驕るようになり、
朱元璋も次第に不満を抱くようになったと『明史』は記す。

洪武4年(1371年)、李善長は病気を理由に丞相を退いた。
朱元璋は臨濠に土地を与え、守冢戸百五十戸、佃戸千五百家、
儀仗士二十家を付けるという厚遇を与えた。
翌年に病状が回復すると、臨濠の宮殿建設を監督させ、
江南から移住させた富民十四万人の定着も任せている。
退任した後も完全に政治から切り離されたわけではなかった。

洪武7年(1374年)には弟の李存義が太僕丞となり、その子の李伸・李佑も官職を得た。
洪武9年(1376年)には李善長の子・李祺が朱元璋の長女・臨安公主と結婚して駙馬都尉となる。
李善長一族は功臣であるだけでなく皇帝家の姻戚となり、その栄達は頂点に達した。

しかし結婚から一か月後、御史大夫の汪広洋・陳寧が、
朱元璋が十日近く病臥したにもかかわらず李善長が見舞わず、
李祺も六日間参朝しなかったとして「大不敬」を訴えた。
朱元璋は李善長の食禄を千八百石削減した。
皇帝との関係にはすでに亀裂が現れていた。

それでも李善長は排除されなかった。
その後、曹国公李文忠とともに中書省・大都督府・御史台の重要案件を審議し、
圜丘建設を監督するなど、なお政権中枢に関与している。

↓↓朱元璋の外甥にあたる明初の中核武将の一人、李文忠についての個別記事は、こちら

李文忠|朱元璋の外甥にして明建国を支えた将軍の生涯
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胡惟庸との関係|1380年には処罰されなかった李善長

胡惟庸はもともと寧国知県だったが、
李善長の推薦を受けて太常少卿へ昇進し、最終的に丞相となった。
さらに李善長の弟・李存義の子である李佑は、胡惟庸の姪にあたる女性を妻としていた。
両家は政治的な関係だけでなく姻戚でも結ばれていた。

洪武13年(1380年)、胡惟庸が謀反を企てたとして処刑され、多数の関係者が連座した。
しかし李善長はこの時点では処罰されていない。
それどころか御史中丞が欠員になると御史台の職務を任され、何度も政策について意見を述べている。

胡惟庸の処刑を契機として中書省と丞相職そのものが廃止され、六部が皇帝直属となった。
これは明朝の政治制度を大きく変えた事件だったが、
「胡惟庸の失脚によって李善長も直ちに政治的に排除された」という単純な経過ではなかった。

洪武18年(1385年)になると、李存義父子が実は胡惟庸の一党だったとの告発が出た。
朱元璋は死罪を免じて崇明へ移したが、李善長が皇帝へ謝意を示さなかったため、
朱元璋はこれを不満に思った。李善長本人への追及が本格化するのは、さらに五年後のことである。

↓↓李善長の推挙によって丞相となった胡惟庸についての個別記事は、こちら

胡惟庸|明朝最後の宰相と胡惟庸の獄の真相
胡惟庸(こいよう)は、朱元璋に仕えて中書省左丞相に上り、明朝初期の政権中枢を握った政治家。李善長・劉基・徐達との関係、権力掌握から謀反の罪による処刑、北元・日本との内通疑惑、三万人余りが連座した胡惟庸の獄、宰相制度廃止へ至る経緯まで、その生涯と事件の実像をたどる。

1390年の粛清|七十七歳の李善長はなぜ処刑されたのか

洪武23年(1390年)、七十七歳となっていた李善長の周辺で複数の問題が続いた。

自邸を建設するため、信国公・湯和から衛卒三百人を借りようとしたところ、
湯和はこれを密かに朱元璋へ報告した。

さらに辺境への移住を命じられた罪人の中から、
李善長は自らの親族である丁斌らを何度も免除するよう求めた。
朱元璋が丁斌を取り調べると、丁斌はかつて胡惟庸の家に仕えており、
李存義父子と胡惟庸の往来について供述した。
李存義父子が再び取り調べられ、その供述から李善長本人へ追及が及ぶ。

獄辞によれば、胡惟庸は李存義を通じて李善長を謀反へ誘った。
李善長は最初、「本当なら九族が皆殺しになる」と激しく拒絶した。
胡惟庸はさらに李善長の旧知・楊文裕を使い、成功すれば淮西の地を与えて王にすると持ちかけたが、李善長はこれも受け入れなかった。

その後、胡惟庸本人も説得したが拒否された。
しかし再び李存義から誘われると、李善長は
「私はもう老いた。私が死んだ後は、お前たちの好きにせよ」という趣旨の言葉を述べたとされた。

この獄辞だけを見ても、李善長が胡惟庸の反乱に積極的に参加したという内容ではない。
問題とされたのは、謀反計画を知りながら皇帝へ告発せず、最終的に曖昧な態度を取ったことだった。

さらに別の告発が加わった。
藍玉が捕魚児海へ遠征した際、胡惟庸が北元へ送った使者・封績を捕らえたにもかかわらず、
李善長がその事実を隠して朱元璋へ報告しなかったというのである。
李善長の家奴・盧仲謙らも、李善長と胡惟庸が贈答を交わし、密かに話していたと証言した。
『明太祖実録』にも、封績に関する私書に李善長の筆跡があったとして御史が弾劾した記録が残る。

最終的な罪状は、李善長が「元勲国戚」でありながら謀反を知って告発せず、
形勢をうかがって二心を抱いたという「大逆不道」だった。

そこへ天体異変が起こり、
その占いで「大臣に災いを移すべきだ」とされたことまで処刑理由に加わった。

李善長は妻女・弟・甥など家族七十余人とともに処刑された。
同じ時期に吉安侯・陸仲亨、延安侯・唐勝宗、平涼侯・費聚、南雄侯・趙庸、滎陽侯・鄭遇春、
宜春侯・黄彬、河南侯・陸聚らも胡惟庸党として処刑され、すでに死亡していた功臣まで追及された。
朱元璋は罪状を自ら列挙し、獄辞を付して『昭示奸党三録』として天下へ公布した。

李善長の子・李祺は臨安公主とともに江浦へ移されたが処刑されず、
孫の李芳・李茂も公主との関係によって連座を免れた。

「自害を命じられた」のか

『明史』李善長伝は「遂并其妻女弟姪家口七十余人誅之」と記し、
李善長本人を含む一族が処刑されたとする。
一方、『明史紀事本末』には「太師李善長自縊」とあり、自縊したとする記録も存在する。

史料によって最期の具体的な形には違いがあるため、
「朱元璋から自害を命じられた」と一本化するより、
1390年に胡惟庸事件への連座で死に、一族七十余人が処刑されたことを中心に据える方が安全である。

李善長は本当に胡惟庸の謀反に加担したのか

李善長の罪については、処刑直後から疑問が出ていた。
死の翌年、虞部郎中王国用が朱元璋へ上書し、李善長の処刑を批判した。

王国用の論理は明快だった。
李善長は朱元璋とともに天下を取り、功臣第一となり、太師・韓国公にまで昇り、
子の李祺は皇帝の娘である臨安公主と結婚していた。
すでに臣下として得られる最高級の地位と富を手にしている。
その李善長が胡惟庸の反乱を助けて成功したとしても、得られる地位は現在以上にはならない。
それなのに七十歳を超えて一族を滅ぼす危険を冒す理由があるのか、というのである。

王国用はさらに、元末に天下を狙った者が次々と滅亡したことを李善長自身が目撃している以上、
老年になって同じ危険を冒すとは考えにくいと論じた。
天象の異変を理由に大臣を殺すことについても批判し、
「李善長ほどの功臣でもこのようになる」と天下の人々が知れば、人心が離れると警告した。
朱元璋はこの上書を受けたが、王国用を処罰しなかった。

これは後世になって作られた冤罪説ではなく、
李善長の死の翌年にはすでに処刑への異論が朝廷内から出ていたことを示している。

ただし、これだけで李善長が完全な冤罪だったと断定することもできない。
胡惟庸を李善長が推薦したこと、両家が姻戚だったこと、
李存義父子が胡惟庸事件に関係して処分されたこと、
李善長が胡惟庸の計画を聞かされたとする供述が残っていることは史料上確認できる。
封績をめぐる疑惑や家奴の証言も存在する。

問題は、それらが李善長自身による積極的な謀反参加を証明するのかという点にある。
『明史』に残された獄辞でも李善長は当初何度も参加を拒絶しており、
最終的に問われた中心は「知りながら告発しなかった」ことだった。

胡惟庸が処刑されてから十年後に李善長まで追及された経緯も含め、
罪状をそのまま無批判に受け入れることはできない。

李善長の実像|制度設計者だけではない開国功臣

李善長を「明朝の制度設計者」とだけ説明すると、その役割のかなりの部分が抜け落ちる。
朱元璋に仕え始めた当初から、帰順者の能力を見極め、武将間の対立を調整し、軍糧を確保した。
和陽では元軍を伏兵で撃退し、巣湖水軍を得ると長江渡河を支持し、
征服地では略奪を防ぐため軍紀を整えた。

政権が拡大すると、塩・茶・貨幣・鉄・魚税を整備して財政を支え、
律令、六部官制、礼制、皇太子制度、諸王封建、功臣封賞、史書編纂にまで関与した。

朱元璋が李善長を蕭何に比べたのは、戦場での華々しい勝利ではなく、
戦争を継続できる国家機構を後方で作った功績によるものだった。

一方、『明史』が「外寛和、内多忮刻」と記すように、
権力をめぐって李飲冰・楊希聖を失脚させ、劉基とも衝突した。

晩年には皇帝への礼を欠いたとして減禄され、弟・甥と胡惟庸の関係も問題となり、
湯和から衛卒三百人を借りようとした行為や親族への便宜まで朱元璋の疑念を強める材料となった。

そのため李善長の最期を、単純に「功臣を恐れた朱元璋による粛清」と断定することも、
「胡惟庸と共謀した反逆者への当然の処罰」と断定することもできない。

朱元璋との長い信頼関係、李善長一族の巨大な地位、
胡惟庸との姻戚関係、十年間にわたって拡大した胡惟庸事件、
そして死の翌年にはすでに出された処刑への異論まで含めて見る必要がある。

まとめ

李善長は学者として名を残した人物でも、戦場を駆けた名将でもない。
朱元璋がまだ一武装勢力の指導者だった時代から仕え、
人材・軍糧・財政・法令・官制・礼制を処理し、
征服戦争によって広がった領域を一つの国家として動かす仕組みを整えた人物だった。

洪武3年に功臣第一として韓国公に封じられ、朱元璋から蕭何に比べられたことが、
その役割を最も端的に示している。

その李善長が処刑されたのは、胡惟庸が死んだ1380年ではなく十年後の1390年だった。
謀反への勧誘を知りながら告発しなかったこと、北元への使者・封績をめぐる疑惑、
胡惟庸との贈答や私的往来などが「大逆不道」とされ、一族七十余人が粛清された。

しかし翌年には王国用が、すでに人臣の極みに達した李善長が
胡惟庸のために反乱へ加わる利益などないと公然と疑問を呈した。
朱元璋自身もその上書を処罰しなかった。

李善長の最期は、単なる「反逆者の処刑」では終わらない。
明朝を作る側にいた開国第一の文臣が、
建国後に拡大した政治粛清の中で「逆臣」とされるまでの過程そのものが、
洪武年間の政治を映している。

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史書・参考文献

・『明史』巻一二七「列伝第十五 李善長」
・『明史』巻一二八「列伝第十六 劉基」
・『明太祖実録』
・谷応泰『明史紀事本末』巻十三「胡藍之獄」
・焦竑『国朝献徴録』巻十「中書省左丞相太師韓国公李公善長伝」

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