劉基(1311~1375)は、字を伯温といい、元末から明初に活躍した政治家・軍略家・儒学者である。
元朝の進士から地方官となったが、方国珍への対応をめぐって政権と衝突し、
故郷へ退いて『郁離子』を著した。
その後、朱元璋に招聘されると、陳友諒を先に滅ぼしてから張士誠を討ち、
最後に中原へ進出する天下統一の順序を進言した。
朱元璋の軍師として語られることが多いが、その活動は軍事だけではない。
明朝成立後には御史中丞兼太史令として法制・軍制・監察に関与し、
李善長や楊憲、汪広洋、胡惟庸について朱元璋から意見を求められた。
天文・暦法にも通じ、文章では宋濂と並び称された。
後世には予言者・神算の軍師として神格化され、
「劉伯温」の名で『焼餅歌』をはじめ膨大な伝説が作られた。
しかし『明史』が伝える劉基の実像は、超人的な予言者ではなく、情勢判断に優れ、
必要と判断すれば朱元璋にも反対し、厳格な政治姿勢ゆえに多くの敵を作った人物である。
生涯と出自|進士から元朝官僚へ
劉基は浙江青田の出身で、字は伯温。曾祖父の劉濠は南宋で翰林掌書を務めた。
幼少から聡明で、師の鄭復初は父の劉爚に対し、
この子は将来大人物になるという趣旨の言葉を残したと『明史』は伝える。
若い頃から経書・史書を広く学び、とくに天文・星象に精通していた。
後に西蜀の趙天沢は江左の人物を論じた際、
劉基を第一に挙げ、諸葛亮に比肩する人物と評価している。
「諸葛亮に比肩する軍師」という後世の呼称だけではなく、
すでに同時代に近い人物から諸葛亮と比較されていたのである。
元の至順年間に科挙へ合格して進士となり、高安県丞に任じられた。
ここでは廉直で知られ、その後、江浙儒学副提挙となったが、
御史の職務上の問題を批判したため台臣に阻まれ、辞職している。
劉基は最初から隠者だったのではなく、科挙を経て元朝官僚となり、
行政・監察の現場を経験した人物だった。
方国珍との対立と『郁離子』
元末に方国珍が海上で勢力を拡大すると、劉基は行省に再び招聘されて元帥府都事となった。
慶元周辺に城を築いて方国珍を圧迫する策を立て、元朝側が方国珍を懐柔しようとすると、
反乱の首謀者を処罰しなければ後世への戒めにならないとして反対した。
方国珍は劉基を恐れて多額の賄賂を贈ろうとしたが、劉基は受け取らなかった。
そこで方国珍は中央の有力者へ賄賂を送り、元朝は逆に方国珍へ官位を与え、
劉基を「威福をほしいままにした」として紹興へ拘束した。
その後、山賊が各地で蜂起すると再び起用され、石抹宜孫とともに処州を守った。
功績を上申されたものの、方国珍との一件が影響して十分に用いられず、
総管府判を与えられながら軍事から外されたため、ついに官職を捨てて青田へ帰った。
この隠棲期に著したのが『郁離子』である。
寓言を用いて政治・社会・人間の欲望や権力を論じた作品であり、
単なる処世訓ではなく、元末の政治を経験した劉基の統治思想を読み取ることができる。
方国珍を避ける人々が劉基のもとへ集まると、
自ら防備を整え、賊もその地域へ近づかなかったという。
朱元璋への仕官|陳友諒を先に討つ天下統一策
朱元璋が金華・括蒼を支配すると、劉基や宋濂ら浙東の名士を招聘した。
劉基は最初は応じなかったが、孫炎から重ねて招かれて出仕し、「時務十八策」を提出した。
朱元璋はこれを喜び、礼賢館を建てて劉基らを厚遇した。
当時の朱元璋は紅巾軍の韓林児を宋王朝の後継者として名目的に奉じていた。
正月に韓林児のための御座を設けて礼拝した際、
劉基だけは拝礼せず、「牧豎」にすぎない人物をなぜ奉じるのかという趣旨の発言をした。
朱元璋に対しても天命の所在を論じ、韓林児の権威に依存しない自立路線を促した。
朱元璋から天下攻略の方針を尋ねられると、劉基は張士誠より陳友諒を先に攻撃するよう主張した。
張士誠は自領を守る性格が強いが、陳友諒は上流を占め、常に朱元璋を狙っている。
まず陳友諒を滅ぼせば張士誠は孤立し、その後に中原へ北上すれば天下を取れるという構想だった。
後に朱元璋が陳友諒、張士誠を順に破り、
北伐によって元を北方へ追った経過は、おおむねこの構想に沿うものとなった。
↓↓儒学者・文章家・歴史家である宋濂についての個別記事は、こちら

陳友諒との決戦と江州攻略
陳友諒が太平を攻略して東進すると、朱元璋陣営では降伏や鍾山への退却を唱える者まで現れた。
劉基はこれに反対し、陳友諒軍を深く誘い込んで伏兵で破る策を進言した。
朱元璋はこれを採用して陳友諒軍を撃破し、褒賞を与えようとしたが、劉基は辞退した。
その後、陳友諒が安慶を奪うと、朱元璋は自ら討伐することを劉基に相談した。
劉基は出兵を支持したが、安慶を一日攻めても落とせないと見ると、
そこへ固執せず陳友諒の本拠である江州を直接攻撃するよう進言した。
奇襲を受けた陳友諒は妻子を連れて武昌へ逃れ、江州は降伏した。
龍興を守る胡美が降伏を申し出た際には、自軍の部隊を解散させないことを条件とした。
朱元璋が難色を示すと、後ろにいた劉基が腰掛けを足で踏んで合図し、
朱元璋はその意図を理解して条件を認めた。
胡美の降伏後、江西各地も相次いで朱元璋へ帰順した。
安豊救援に反対し、鄱陽湖で朱元璋を救う
母の死によって一時帰郷した際、苗軍が反乱を起こして胡大海・耿再成らを殺害し、浙東が動揺した。
劉基は衢州から各地を鎮静させ、邵栄らと処州を回復した。
かつて対立した方国珍も劉基を恐れており、弔問の書簡を送ると、
劉基は朱元璋の威徳を説いて帰順を促し、方国珍は貢物を送るようになった。
朱元璋は帰郷中の劉基にも書簡で軍事・国政について意見を求めた。
その後、朱元璋が安豊の韓林児を救援しようとすると、
劉基は陳友諒と張士誠が機会をうかがっているとして反対した。
しかし朱元璋は出兵し、その隙に陳友諒が洪都を包囲した。
朱元璋自身も後に「君の言葉を聞かなかったため、危うく失敗するところだった」
という趣旨を語っている。
1363年の鄱陽湖の戦いでは、劉基も朱元璋の側にいた。
戦闘中、突然立ち上がって朱元璋に船を移るよう強く求め、
朱元璋が別の船へ移った直後、砲弾がそれまで乗っていた船を破壊したという逸話が『明史』に残る。
戦いが長引くと、劉基は湖口へ軍を移して陳友諒の退路を塞ぐよう進言した。
最終的に陳友諒は脱出を試みて戦死し、朱元璋最大の競争相手だった陳漢政権は急速に崩壊した。
明朝建国と政治改革|軍師だけではなかった劉基
呉元年(1367年)、劉基は太史令となり、『戊申大統暦』を献上した。
熒惑が心宿に留まる天象が現れると朱元璋に罪己詔を出すよう求め、
大旱の際には長期間滞っていた裁判を処理するよう進言した。
朱元璋から再審を任されると、その直後に雨が降ったと『明史』は記している。
さらに法制度を整えて濫刑を抑えるよう求めた。
朱元璋が夢を理由として人を処刑しようとした際には、
その夢を「土地と民衆を得る兆し」と解釈して処刑を止めさせた。
三日後に海寧が降伏すると、朱元璋は喜び、囚人を劉基に任せて釈放させた。
1368年に明が成立すると、劉基は軍衛法の制定を奏請し、御史中丞兼太史令として監察にも携わった。
朱元璋が汴梁へ向かった際には、李善長とともに都を留守にしている。
劉基は宋・元が紀綱を緩めたことが滅亡につながったとして、
御史には身分を問わず違法行為を摘発させた。
皇帝の宿衛や宦官に違法行為があれば皇太子へ報告して処罰したため、
人々から恐れられるほど厳格だった。
軍略だけでなく、法と監察によって新王朝の秩序を作ることも劉基の重要な仕事だった。
李善長との対立と李彬処刑
中書省都事の李彬が貪欲・放縦を理由に罪を問われると、
李善長は親しかった李彬の処刑延期を求めた。
しかし劉基は認めず、朱元璋へ直接奏上して許可を得たうえで李彬を処刑した。
これによって李善長との関係が悪化した。
朱元璋が帰京すると、劉基が祈雨の祭壇付近で人を殺したのは不敬だと訴えられ、
以前から劉基を恨んでいた者たちも相次いで讒言した。
ただし劉基と李善長を単純な政敵として描くこともできない。
後に朱元璋が李善長を罷免しようとした際、
劉基は「李善長は古くからの功臣で、諸将を調和させることができる」と擁護した。
朱元璋が「彼は何度もお前を害そうとしたのに、なぜ庇うのか」と問うても、
劉基は宰相を替えることを柱の交換にたとえ、
代わりとなる大材が必要だとして軽率な交代に反対した。
↓↓大封功臣第一位・李善長についての個別記事は、こちら

朱元璋への直言|鳳陽遷都と王保保への警戒
大旱が続いた際、劉基は死んだ兵士の妻たちが別営へ集められていること、
工事で死亡した者の遺骨が放置されていること、
旧呉政権の降伏者が軍戸へ編入されていることなどを挙げ、
これらが政治の不和を招いているとして改善を求めた。
しかし雨は降らず、朱元璋の怒りを受けたうえ、妻の死も重なったため帰郷を願い出た。
その直前、朱元璋が故郷の鳳陽に中都を建設しようとしていたことについて、
「鳳陽は皇帝の故郷ではあるが、都を置く場所ではない」と反対した。
また北元の名将・王保保(ココ・テムル)についても軽視してはならないと警告した。
その後、明軍は定西で王保保を破ったものの、王保保自身は北方へ逃れて抵抗を続けた。
朱元璋は劉基を再び召し出し、祖父と父を永嘉郡公に追贈し、
劉基自身にもさらに高い爵位を与えようとしたが、劉基は辞退している。
楊憲・汪広洋・胡惟庸をどう評価したのか
朱元璋は宰相候補についても劉基へ意見を求めた。
楊憲について劉基は「宰相となる才能はあるが、宰相としての器量がない」と反対した。
宰相は心を水のように公平に保ち、義理を基準として判断しなければならないが、
楊憲はそうではないという理由だった。
汪広洋については狭量で浅薄だと評し、
胡惟庸についても、馬車を操らせれば車を覆すことになるという趣旨で反対した。
朱元璋は「自分の宰相にふさわしい者は先生以上にいない」と劉基自身へ宰相就任を持ちかけたが、
劉基は自分は悪を憎みすぎるうえ、繁雑な政務にも向いていないとして辞退した。
後に楊憲・汪広洋・胡惟庸はいずれも失脚したため、
この人物評は劉基の先見性を示す逸話として有名になった。
ただし、結果を知る後世から「すべてを予言した」とまで解釈する必要はない。
劉基が朱元璋から人事について直接諮問されるほど信頼されていたことを示す史料である。
洪武3年(1370年)、劉基は開国翊運守正文臣・資善大夫・上護軍となり、誠意伯に封じられた。
禄は二百四十石だった。翌年には故郷へ帰ることを許され、中央政治の第一線から退いた。
↓↓大規模な粛清の引き金となった胡惟庸についての個別記事は、こちら

胡惟庸との対立|談洋事件から最期まで
故郷へ戻った劉基は山中に暮らし、酒と囲碁を楽しみ、自らの功績を語ろうとしなかった。
青田県令が面会を求めても会わなかったため、県令が庶民の姿で訪れると、
劉基は相手を客として迎えて食事を出した。
しかし県令だと明かされると驚いて「民」と称し、それ以後会わなかったという。
それでも政治との関係を断つことはできなかった。
劉基は以前、甌州・括州の間にある談洋が塩の密売人の拠点となっているとして、
巡検司の設置を求めていた。
ところが地元の有力者には不都合な政策だった。
茗洋で逃亡兵の反乱が起きた際、地方官が中央へ報告しなかったため、
劉基は長男・劉璉を通じて朱元璋へ直接奏上した。
このとき中書省を掌握していたのが胡惟庸だった。
胡惟庸は劉基が中書省を経由せず奏上したことなどを利用し、
談洋には「王気」があり、劉基は自分の墓地にしようとしたが住民が土地を渡さなかったため、
巡検司を設けて住民を追い出そうとしていると告発させた。
朱元璋は劉基を処罰しなかったものの、その言葉を疑い、俸禄を停止した。
劉基は恐れて南京へ赴いて謝罪し、そのまま帰郷できなくなった。
やがて胡惟庸が丞相になると、劉基は深く憂え、
「自分の予測が外れるなら、それこそ民衆の幸福である」という趣旨の言葉を残した
と『明史』は伝える。
胡惟庸は劉基を毒殺したのか
洪武8年(1375年)、劉基は病に倒れた。
『明史』によれば、南京で療養していた際、胡惟庸が医師を派遣してきた。
薬を飲んだ後、腹の中に拳ほどの石のようなものができた感覚があり、病状が悪化したという。
朱元璋は自ら文章を作って劉基へ与え、使者を付けて故郷へ帰らせた。
青田へ戻った劉基は長男・劉璉に『天文書』を渡し、
すぐ皇帝へ献上して後世の者に学ばせないよう命じた。
次男・劉璟には、政治には寛大さと厳しさの両方が必要であり、
現在は徳を修め刑罰を減らすことが重要だと語った。
また要害の地を都と連携させる防衛構想についても伝え、
「胡惟庸がいる今は遺表を出しても無意味だ。
胡惟庸が失脚した後、皇帝が自分を思い出して尋ねることがあれば、この内容を密奏せよ」
と遺言した。
その約一か月後、劉基は65歳で死去した。
後に御史中丞・塗節が胡惟庸の謀反を告発した際、胡惟庸が劉基を毒殺したとも訴えた。
このため「胡惟庸による劉基毒殺」は有名になったが、『明史』が記しているのは後年の告発であり、
毒殺が独立した証拠によって確定しているわけではない。
したがって、胡惟庸による毒殺を確定した史実として扱うことはできない。
劉基の人物像と思想|「神算の軍師」の実像
『明史』は劉基を、長い髭を生やした堂々たる風貌で、
大義を重んじ、天下の安危を論じるときには感情が表情に現れる人物だったと記している。
急難に直面すると勇気を奮い、即座に計画を決め、その意図を他人が測れないほどだったという。
朱元璋もその能力と誠実さを高く評価し、重要な相談では人払いをして長時間話し合った。
劉基を名前ではなく「老先生」と呼び、漢の高祖・劉邦を補佐した張良になぞらえて
「吾が子房」と評したとも伝えられる。
しかし『明史』は同時に、劉基について「性剛嫉悪、与物多忤」と記している。
性格が剛直で悪を強く憎み、人と衝突することが多かった。
李彬の処刑をめぐる李善長との対立や、楊憲・汪広洋・胡惟庸に対する厳しい人物評にも、
この性格が表れている。
その政治思想は単なる権謀術数ではない。
朱元璋に濫刑を止めるよう求め、晩年にも「修徳省刑」を説いた。
天下を取るための戦略を立てる一方、天下を得た後には刑罰を減らし、
徳によって統治することを求めている。
文学者としても高く評価され、『明史』はその文章を宋濂と並ぶ一代の大家としている。
『郁離子』『覆瓿集』などを残し、後世には『犁眉公集』として作品が伝えられた。
『写情集』も劉基の詩集として伝わっており、軍師という一面だけでは捉えられない文人でもあった。
天文・占術と「予言者」劉伯温
劉基が天文・暦法に詳しかったこと自体は史実である。
『明史』も「尤も象緯の学に精し」と記し、太史令として暦を献上し、
朱元璋から天象について直接質問されたことを伝えている。
ただし、後世の「未来をすべて予言した劉伯温」と史実上の劉基は分ける必要がある。
朱元璋から天象について尋ねられた際、劉基は詳細な回答を書いたものの、その草稿を自ら焼却した。
内容の大意として伝わるのは、明の国威がすでに確立した以上、
これからは寛大な政治を加えるべきだという進言だった。
『明史』自身も、世間で劉基について伝えられる神秘的な話には陰陽術や占術に関するものが多いが、
それだけが彼の本質ではないという趣旨で評している。
史実上の劉基の評価を、超自然的な予言能力だけに求めるべきではない。
『焼餅歌』と後世の神格化|諸葛亮に並ぶ軍師へ
後世の劉基は「劉伯温」の名で、
朱元璋の未来だけでなく明朝滅亡後まで予言した人物として語られるようになった。
その代表が『焼餅歌』である。
伝承では、朱元璋が食べていた焼餅を器で隠し、劉基に中身を当てさせたところから始まり、
その後の王朝の運命を暗喩によって予言したとされる。
後世には清代や近代、さらに遠い未来まで予言したとする解釈まで作られた。
しかし『焼餅歌』を劉基自身の著作と確認できる同時代史料はなく、
現在伝わる内容をそのまま劉基の予言とすることはできない。
風水によって都市を設計した、未来の王朝交代を予知したといった多くの説も、
史実と後世の伝承を区別する必要がある。
一方、「諸葛亮に並ぶ」という評価そのものをすべて後世の創作とするのも正しくない。
前述したように、『明史』は趙天沢が劉基を諸葛亮に比したことを記している。
朱元璋自身も張良になぞらえて評価した。
劉基が生前から卓越した知略家として認識されていたことが、死後の神格化を生む土台になった。
『三国志演義』の諸葛亮像や火計の描写に劉基の実績が投影された」という説については、
確かな史料的根拠を確認できない。
鄱陽湖の戦いと『三国志演義』の火計に類似点を見いだすことと、
劉基が諸葛亮像のモデルになったと断定することは別である。
史実として確認できるのは、劉基自身が早くから諸葛亮と比較され、
後世に「神算の軍師」として神格化されたことである。
死後の評価|誠意伯から文成公へ
劉基の長男・劉璉は洪武年間に官僚となったが、
胡惟庸党から圧迫され、井戸へ落ちて死亡したと『明史』は記す。
次男・劉璟も父に似て軍事を論じることを好み、後に靖難の変では建文帝側に立った。
永楽帝となった朱棣に対しても「殿下」と呼び続け、
後世まで「簒」の一字から逃れられないと述べ、投獄されて自死している。
劉基の爵位は当初一代限りだったが、
朱元璋は後にその功績を改めて評価して子孫に誠意伯を継承させた。
正徳8年(1513年)には太師を追贈され、「文成」と諡された。
嘉靖10年(1531年)には明の太祖廟への配享が認められ、子孫にも誠意伯の世襲が復活した。
劉基が明朝創業に果たした役割は、後世の「万能の軍師」という像より具体的である。
韓林児への依存に反対し、陳友諒を最優先で攻撃する戦略を示し、安慶から江州への転進、
安豊救援への反対、鄱陽湖での判断など、朱元璋の覇業に重要な局面で関与した。
同時に、建国後は軍衛法、監察、法制度、刑罰、人事について意見を述べた政治家だった。
朱元璋に従うだけではなく、安豊救援、鳳陽への遷都、王保保への対応では
皇帝自身の判断にも異論を唱えている。
軍略家、政治家、天文学者、儒学者、文学者という複数の側面を持ったことが、
劉基を単純な「朱元璋の軍師」では説明できない人物にしている。
まとめ
劉基が後世に諸葛亮と並ぶ「神算の軍師」へ変化した背景には、
実際の生涯にそれを支えるだけの戦略判断があった。
陳友諒を先に討つ天下統一策、洪都を招いた安豊救援への反対、
鄱陽湖での進言などは、『明史』にも記録された具体的な行動である。
しかし劉基の生涯で重要なのは、戦争に勝つための策だけではない。
元朝では方国珍への妥協を拒んで中央と衝突し、明朝では李善長の求めを退けて李彬を処刑し、
楊憲・汪広洋・胡惟庸の登用にも厳しい評価を下した。
朱元璋に対しても濫刑を戒め、最後まで「修徳省刑」を政治の課題としていた。
その剛直さは朱元璋から信頼される理由であると同時に、多くの政敵を生む原因にもなった。
最終的には胡惟庸の讒言によって俸禄を奪われ、
病床では胡惟庸が派遣した医師の薬を飲んだ後に病状を悪化させた。
毒殺だったかどうかは確定できないが、
明朝創業を支えた劉基の晩年が、建国後の権力闘争から逃れられなかったことは確かである。
予言者「劉伯温」の伝説を取り除いても、劉基の生涯が平凡になることはない。
むしろ史料に残された姿だけでも、元末の地方官から朱元璋の帷幄へ入り、
戦争・法制・監察・人事・天文・文学にまたがって明朝創業へ関与した、
明初を代表する知識人だったことがわかる。
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史書・参考文献
・『明史』巻一二八「列伝第十六 劉基」
・『明太祖実録』
・焦竑『国朝献徴録』
・劉基『郁離子』
・劉基『誠意伯文集』
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