李景隆(りけいりゅう、生年不詳-永楽末年)は、
明の開国功臣・李文忠の長男で、父から曹国公を継いだ武将である。小字は九江。
朱元璋の姉の孫にあたり、明皇室と血縁で結ばれた名門の後継者として朱元璋から目をかけられ、
洪武年間には各地で軍務を経験して左軍都督府を掌握し、太子太傅にまで昇った。
建文帝が即位すると削藩政策にも関与し、周王朱橚を捕らえて南京へ連行した。
靖難の変が始まると、真定で燕軍に敗れた耿炳文に代わって大将軍となり、
五十万と記される大軍を率いて燕王朱棣と戦う。
しかし北平攻略に失敗し、鄭村壩で大敗した後、
翌年には再び六十万と記される軍勢を率いながら白溝河でも敗北した。
それでも建文帝は李景隆を処刑せず、
燕軍が南京へ迫った建文4年(1402年)には講和使節として朱棣のもとへ送っている。
講和が成立しないまま燕軍が南京へ到達すると、
李景隆は谷王朱橞とともに金川門を開いて朱棣を迎え入れ、建文政権は崩壊した。
朱棣が永楽帝として即位すると、李景隆は処刑されるどころか一時は新政権の功臣として厚遇された。
しかし靖難の功臣や周王朱橚らから相次いで弾劾され、
やがて曹国公の爵位を奪われ、家族とともに邸宅へ幽閉される。
父・李文忠が応昌遠征などで北元と戦い、明を代表する名将となったのに対し、
その地位を受け継いだ李景隆は靖難の変における敗北と金川門開城によって後世に名を残した。
『明史』が「貴公子にして兵を知らず」と酷評した李景隆は、
本当に何の軍事能力もない「無能な将軍」だったのか。
朱元璋から重用された前半生、建文帝が大軍を任せた理由、北平・鄭村壩・白溝河での敗北、
金川門を開いた経緯、永楽帝即位後の厚遇と失脚まで史実からたどる。
李文忠の長男|朱元璋に期待された曹国公
李景隆は、明の開国功臣である李文忠の長男として生まれた。
小字を九江といい、生年は明らかではない。
父の李文忠は朱元璋の姉の子であり、張士誠との江南統一戦から北元遠征まで各地を転戦し、
洪武3年(1370年)には応昌を急襲して北元皇帝アユルシリダラを追い、
皇子マイダリバラや后妃、諸王、官僚らを捕らえた。
曹国公に封じられた明建国屈指の武将であり、李景隆はその軍事的名門を継ぐ立場にあった。
『明史』は李景隆について、書物を読んで典故に通じ、背が高く眉目秀麗で、
朝廷での立ち居振る舞いも堂々としていたと記している。
朱元璋も朝会のたびに李景隆へ目を向けるほど注目しており、
単なる功臣の息子ではなく、次世代の重臣として期待していた。
父の李文忠は洪武16年(1383年)冬に病に倒れ、朱元璋自ら見舞いに訪れたが、
翌洪武17年(1384年)3月に46歳で死去した。
朱元璋は李文忠を岐陽王に追封して「武靖」と諡し、太廟に配享している。
李景隆は洪武19年(1386年)に曹国公を継承した。
ここから父の名声と爵位だけではなく、
明朝の軍事を担う功臣家の後継者として活動していくことになる。
↓↓徐達・常遇春らと並ぶ明初の中核武将、李文忠についての個別記事は、こちら

各地で練兵し、左軍都督府を掌握する
李景隆は父の爵位を継いだだけで軍務経験のなかった人物ではない。
洪武年間には湖広・陝西・河南へたびたび派遣されて軍の訓練にあたり、
西方では軍馬の購入にも携わった。
その後は左軍都督府の事務を掌握し、太子太傅にも加えられている。
洪武20年(1387年)のナガチュ討伐にも従軍しており、
朱元璋の治世末期には中央軍事機構の中でも高い地位にあった。
したがって、靖難の変で突然軍事と無関係な貴公子が大将軍に抜擢されたわけではない。
ただし、ここには父・李文忠との大きな違いがあった。
李文忠は十代から実戦に入り、張士誠軍との戦い、杭州攻略、
北元遠征などで自ら大軍を率いて戦功を積み重ねたのに対し、
李景隆には靖難の変以前に数十万規模の軍勢を率いて強敵と決戦した経験が確認できない。
軍務経験はあったが、大規模な実戦を指揮した経験は乏しい。
その李景隆が、やがて明朝を二分する内戦で朝廷軍の総司令官となる。
建文帝の削藩に参加|周王朱橚を捕らえる
洪武31年(1398年)に朱元璋が死去すると、皇太孫の朱允炆が建文帝として即位した。
建文政権が直面した大きな問題が、
朱元璋の息子たちである諸王が各地に強大な軍事力を持っていたことである。
黄子澄や斉泰らは諸王の権力を削る削藩を進め、
周王朱橚・斉王朱榑・代王朱桂・岷王朱楩らが次々に処分された。
湘王朱柏は追い詰められた末に自害している。
李景隆も削藩の実行に加わった。
周王朱橚を捕らえる際には、国境防備を名目として開封へ赴き、
周王府を急襲して朱橚を拘束し、南京へ連行した。
朱橚は燕王朱棣と同母の弟であり、
李景隆は靖難の変以前から朱棣に近い皇族を取り締まる側に立っていたことになる。
削藩の矛先が自分にも向かうと判断した朱棣は、建文元年(1399年)7月、北平で挙兵した。
朱棣は自らの行動を皇帝の側近である
斉泰・黄子澄ら「君側の奸」を除くための戦いと位置づけ、「靖難」を掲げる。
ここから建文帝と叔父・朱棣による内戦、靖難の変が始まった。
↓↓21歳で即位した建文帝についての個別記事は、こちら

耿炳文の後任に李景隆が選ばれる
建文政権は当初、長興侯・耿炳文を大将軍として北伐軍を送り込んだ。
耿炳文は朱元璋の建国戦争を生き残った宿将で、特に守備戦を得意としていたが、
真定方面で燕軍の攻撃を受けて敗北する。
この敗戦を受けて、朝廷では総司令官の交代が検討された。
黄子澄らが推挙したのが李景隆だった。
斉泰は李景隆の起用に反対したとされるが、
最終的に建文帝は耿炳文を召還し、李景隆を大将軍に任じた。
李景隆が選ばれた背景には、父・李文忠の軍功、曹国公という高い家格、
朱元璋との血縁、洪武年間の軍務経験があった。
朱元璋の開国功臣が次々に死去・処刑され、
建文年間には大軍を任せられる旧功臣が少なくなっていたことも無視できない。
建文帝は李景隆に通天犀帯を与え、自ら長江まで見送って出陣させた。
さらに軍事上必要な措置を独自に行う「便宜行事」の権限まで認めており、
李景隆に対する信任は非常に厚かった。
↓↓李景隆を大将軍に推挙した黄子澄についての個別記事は、こちら

靖難の変|五十万の大軍で北平を包囲
李景隆は徳州へ向かうと、耿炳文の敗残兵を収容し、各地から軍を集めた。
『明史』ではその兵力を五十万としている。
ただし、この数字をそのまま実働兵力とみなせるかには注意が必要である。
明代の史書に記された大軍の兵数には誇張が含まれる可能性があり、
李景隆が実際に常時五十万人を一体として運用していたとまでは断定できない。
それでも朝廷が各地から大規模な兵力を集め、李景隆に朱棣討伐を託したこと自体は間違いない。
李景隆が大軍を率いて北上すると、朱棣は正面から迎え撃つのではなく、自ら北平を離れた。
永平を救援した後、そのまま大寧へ進み、寧王朱権を取り込んで朶顔三衛などの精鋭を自軍へ加える。
朱棣が本拠を離れたことで、李景隆には北平を攻略する絶好の機会が訪れた。
朱高熾が守る北平を攻める
北平の守備を任されていたのは、朱棣の長男・朱高熾だった。後の洪熙帝である。
李景隆は北平を九門から包囲して攻撃を開始した。
朱棣の主力軍が不在である以上、北平を落とせば燕軍は本拠を失い、
靖難の変そのものを早期に終わらせられる可能性があった。
守備側の朱高熾は城門を閉ざして防戦に徹し、城内の兵力をまとめて李景隆軍の攻撃を耐えた。
朝廷軍では都督・瞿能の部隊が張掖門を激しく攻め、城門突破寸前まで迫ったとされる。
『明史』では、李景隆が瞿能の軍功を妬み、
攻撃を止めさせたため攻略の機会を失ったと記されている。
この「嫉妬によって攻撃を止めた」という内心まで史実として断定することはできない。
しかし朝廷軍が北平城へ迫りながら攻略できず、朱棣の帰還を許したことは、
その後の戦局を決定づける失敗となった。
↓↓北平を守った燕王朱棣の長男・朱高熾についての個別記事は、こちら

朱棣は李景隆の弱点を見抜いていた
朱棣側の史料では、朱棣は李景隆が総司令官になったことをむしろ好機とみなしたとされる。
『革除遺事』などには、朱棣が李景隆について軍令・規律が整わず、将兵の心が一致しておらず、
北方の寒さに南方出身兵の装備が対応していないことなどを挙げ、
敗北する条件が揃っていると分析した話が記されている。
これは勝者である永楽政権側から形成された記録であり、
朱棣が開戦前からすべてを正確に予見していたと受け取る必要はない。
しかし李景隆軍が各地から集めた大軍であり、
北方の冬季戦に不慣れな兵を多数含んでいたことは、その後の大同救援でも問題となる。
朱棣は北平を朱高熾に任せたまま大寧へ向かい、李景隆に北平を攻撃させたうえで、
自らの帰還軍と北平守備軍で挟撃する構想を立てていた。
李景隆は朱棣が作り出した状況に引き込まれることになる。
鄭村壩の大敗|北平攻略軍が崩壊する
大寧を攻略した朱棣は寧王朱権を伴い、朶顔三衛などを加えた軍勢を率いて北平へ戻った。
李景隆は都督・陳暉を偵察に出したが、朱棣軍との接触を経て戦況は急速に悪化する。
建文元年(1399年)11月、両軍は北平郊外の鄭村壩で激突した。
朱棣は精鋭騎兵を投入して李景隆軍の七つの陣営を破り、燕軍の諸将も次々に攻撃を加えた。
李景隆軍は大敗し、李景隆自身は徳州へ退却する。
北平を包囲していた大軍は撤退し、大量の軍需物資が燕軍の手に渡った。
李景隆は朱棣不在という好機に北平を落とすことができず、
帰還した燕軍との野戦にも敗れたことになる。
しかし建文帝は、この敗北だけで李景隆を更迭しなかった。
大同救援|戦わないまま兵を消耗する
鄭村壩で勝利した朱棣は、李景隆軍をさらに消耗させるため大同方面へ進軍した。
建文2年(1400年)2月、朱棣が大同へ迫ると、李景隆は紫荊関を越えて救援へ向かった。
ところが朱棣は李景隆軍と正面決戦を行わず、すでに北平方面へ引き返していた。
北方は厳寒期であり、
南方から集められた李景隆軍では凍傷や飢えによる損耗が生じたと記録されている。
大軍を動かしながら燕軍主力と決戦できず、兵力だけを消耗する結果となった。
それでも建文帝は李景隆への信任を失わなかった。
むしろ前回の敗戦について、総大将としての権威が十分でなかったことも原因と考えたのか、
璽書・黄鉞・弓矢を与えて征伐を専断できる権限をさらに強化した。
これらの下賜品を運ぶ船が長江で暴風に遭って沈んだため、
改めて作り直して李景隆へ与えたと記されている。
白溝河の戦い|六十万の朝廷軍が再び敗北
建文2年(1400年)4月、李景隆は徳州で再び大軍を編成した。
武定侯・郭英、安陸侯・呉傑、平安らの軍とも合流し、『明史』では総兵力を六十万としている。
前年の北平攻略と鄭村壩での敗北後も建文帝は李景隆を更迭せず、
璽書・黄鉞・弓矢を与えて軍事上の権限を強化しており、
朝廷側は前年を上回る規模の兵力を集めて燕軍との決戦に臨んだ。
白溝河の戦いは、
「李景隆が何もできないまま六十万の大軍を失った」というほど一方的な戦闘ではなかった。
朝廷軍では平安・瞿能父子らが前線で激しく攻撃し、燕軍をたびたび押し返している。
平安は精鋭を率いて燕軍へ突入し、瞿能父子も攻勢をかけ、
朱棣自身が少数の騎兵とともに危険な状況へ追い込まれる局面も生じた。
燕軍にも多数の死傷者が出ており、戦闘は一日で決着せず翌日まで続いた。
翌日の戦闘でも朝廷軍はすぐには崩れなかった。
平安らの攻撃によって燕軍の陳亨が戦死するなど、朱棣側も損害を受けている。
ところが激戦が続く中で戦況は燕軍側へ傾き、
瞿能父子をはじめ越巂侯・兪淵、指揮・滕聚ら朝廷側の有力将校が相次いで戦死した。
前線を支えていた将たちを失ったことで朝廷軍の陣形は崩れ、
燕軍の反撃を受けて大規模な敗走へ転じた。
李景隆は徳州へ退却したが、
その際には建文帝から与えられていた璽書や斧鉞まで戦場に残したと記録されている。
朱棣は敗走する朝廷軍を追撃し、徳州へ迫った。
李景隆は徳州を維持できず、残存兵を率いてさらに済南へ退却する。
徳州の放棄によって失われたのは兵だけではなかった。
燕軍は徳州へ入ると朝廷軍が蓄積していた軍需物資を接収し、
『明史紀事本末』では「糧百余万」を得たと記している。
正確な数量を確定することは難しいものの、徳州が李景隆軍の集結・補給拠点だったことから、
白溝河の敗北は建文政権にとって人的損害だけでなく、
北方戦線を維持するための兵糧と物資まで失う結果となった。
史書には朝廷軍の死者を十数万、あるいはさらに多く記すものがあるが、六十万という総兵力を含め、
靖難の変における巨大な兵数・死者数をそのまま実数とみなすことはできない。
それでも、北平攻略に続いて建文政権が投入した主力軍が再び敗れ、
瞿能父子ら有力将校と大量の兵員・兵糧・軍需物資を失ったことは動かない。
しかも今回は、北平を攻略できずに撤退した前年とは異なり、
徳州という重要な軍事拠点まで燕軍の手に渡った。
済南でも敗北|李景隆は「単騎」で逃れる
ただし、白溝河で敗れた時点でも李景隆軍が完全に消滅したわけではない。
『明史紀事本末』によれば、済南へ退いた李景隆のもとにはなお十万余の兵が残っていた。
李景隆はこの兵力で追撃してきた燕軍を迎え撃とうとしたが、
朱棣は朝廷軍が陣形を整える前に精鋭騎兵を投入して攻撃した。
朝廷軍は再び崩れ、李景隆は済南から敗走した。
同書はこのときの李景隆について「単騎走」と記しており、
わずかな身一つで逃れたほどの敗北だったとしている。
北平攻略の失敗、鄭村壩、白溝河に続き、済南でも朱棣の追撃を止めることができなかったのである。
ここで敗残兵を収容し、崩れかけた山東方面の防衛を立て直したのが山東参政・鉄鉉だった。
鉄鉉は高巍らとともに兵を集めて済南へ入り、城の防備を整える。
朱棣はそのまま済南を攻撃したが、鉄鉉らの抵抗によって容易に攻略することができなかった。
済南攻防では、鉄鉉が朱棣に降伏を装って城内へ誘い込み、
門上から鉄板を落として殺害しようとしたとする逸話も『明史』などに残る。
計画は失敗したものの、朱棣は長期間にわたって済南を攻略できず、
最終的に包囲を解いて北方へ撤退した。
白溝河で主力軍を破った燕軍の南下を、李景隆ではなく鉄鉉らが済南で食い止めることになった。
李景隆の解任|黄子澄だけでなく練子寧も処罰を要求
白溝河と済南での敗北を受け、建文帝はようやく李景隆を前線から召還した。
後任には盛庸が起用され、朝廷軍の指揮体制が組み直される。
盛庸はその後、東昌の戦いで燕軍を破り、朱棣配下の有力将・張玉を戦死させるなど、
靖難の変がこの時点で決着していなかったことを示す戦果を挙げている。
南京へ戻った李景隆に対する朝廷内部の批判は激しかった。
もともと李景隆を大将軍に推挙した黄子澄自身が責任を感じ、
李景隆を処刑して天下に謝罪するよう求めた。
さらに副都御史・練子寧も朝廷で李景隆を面と向かって激しく責め、
処罰を求めて哭したと記録されている。
それでも建文帝は李景隆を処刑しなかった。
なぜ二度の大規模な敗戦に加えて徳州・済南まで失った李景隆を赦したのか、
史料はその理由を明確には記していない。
李景隆はここで大軍を率いる総司令官としての役割を終えたが、
政治的には完全に排除されず南京に残った。
この処遇が、靖難の変最終局面で李景隆が再び登場し、金川門開城に関与することへつながっていく。
金川門を開く|南京陥落と建文政権の終焉
靖難の変はその後も続いた。
盛庸ら朝廷軍が朱棣を苦しめた時期もあったが、
建文4年(1402年)になると朱棣は朝廷軍の防衛線を突破し、一気に南下する。
燕軍は霊璧などで朝廷軍を破り、さらに長江へ迫った。
瓜洲方面から長江を渡ると、南京は直接攻撃を受ける状況となる。
建文帝は追い詰められた。
李景隆が今度は講和使節となる
燕軍が南京へ迫ると、建文帝は李景隆、兵部尚書・茹瑺、都督・王佐を朱棣のもとへ送り、
領土を分けることを条件として講和を求めた。
かつて朱棣討伐の総大将として五十万、六十万と記される大軍を率いた李景隆が、
今度は朱棣との交渉役を務めたのである。
しかし朱棣は講和を受け入れなかった。
建文帝は最後まで李景隆を処刑せず、むしろ政権存続のための交渉に利用していたことになる。
交渉が不調に終わると、燕軍はいよいよ南京城へ迫った。
谷王朱橞と金川門を開く
建文4年(1402年)6月13日、朱棣軍は南京の金川門へ到達した。
この時、李景隆は谷王朱橞とともに金川門を開き、燕軍を城内へ迎え入れた。
南京では宮殿から火が上がり、建文帝は行方不明となる。
焼死したとする記録と、城外へ脱出したとする伝承が生まれ、その最期は後世まで謎として残った。
李景隆が金川門を開いたことによって、燕軍は南京城内へ入り、建文政権は崩壊した。
李景隆の後世評価を決定づけたのは、この金川門開城だった。
建文帝から大軍を託され、二度の大敗を喫しながら処刑を免れ、
最後にはその建文帝の都を敵軍へ開いた。
そのため李景隆は「敗将」であるだけでなく、建文帝を裏切った人物として語られるようになる。
しかし、李景隆が靖難の変の最初から朱棣と内通していたことを示す確実な史料はない。
実際に李景隆は北平を包囲し、鄭村壩・白溝河で燕軍と戦い、大量の兵員と物資を失っている。
少なくとも大将軍として朱棣を倒そうとする軍事行動を行っていたことまで否定することはできない。
金川門開城という最終局面の行動から、
靖難の変全体を通じて最初から朱棣への寝返りを計画していたと
遡って断定することはできないのである。
永楽帝即位後|裏切り者ではなく功臣として扱われる
南京へ入った朱棣は皇帝に即位し、永楽帝となった。
建文帝を支えた黄子澄、斉泰、方孝孺らが厳しく処刑される一方、
金川門を開いた李景隆は処刑されなかった。
それどころか、新政権成立の功臣として厚遇された。
李景隆には奉天輔運推誠宣力武臣・特進光禄大夫・左柱国・太子太師などが授けられ、
禄も千石加増された。『革除遺事』では従来分と合わせて四千石とされ、
子孫への世襲も認められたと記されている。
さらに朝廷で重大な議論が行われる際には李景隆が班列の首位に立った。
建文政権の大将軍として朱棣と戦った人物が、
金川門を開いたことで永楽政権では一転して上位の功臣となったのである。
しかし、この厚遇は靖難の変を朱棣とともに戦った将軍たちに強い不満を抱かせた。
彼らから見れば、李景隆は燕軍を何度も攻撃した敵将であり、
自分たちが命をかけて戦っている間に朝廷軍の総司令官を務めていた人物である。
その李景隆が最後に城門を開いただけで功臣の上位に置かれたことは、
容易に受け入れられるものではなかった。
周王朱橚の告発|かつて捕らえた王から弾劾される
永楽2年(1404年)、李景隆の立場は急速に悪化した。
最初に問題を提起した一人が周王朱橚だった。
朱橚は建文年間、李景隆によって開封で捕らえられ、南京へ連行された人物である。
その朱橚が永楽帝のもとで復権すると、
李景隆が建文年間に周王府を訪れた際に賄賂を受け取ったと告発した。
刑部尚書・鄭賜らも、李景隆が禍心を隠し持ち、逃亡者を養って不軌を企てていると弾劾した。
この段階では永楽帝は追及しなかった。
しかし攻撃は終わらなかった。
朱能・蹇義・張信らが相次いで弾劾
その後、靖難の変を朱棣とともに戦った成国公・朱能、吏部尚書・蹇義ら
文武の大臣が李景隆を弾劾した。
六科給事中の張信らもこれに加わり、李景隆と弟の李増枝が謀反を企てていると訴えた。
ここに至って永楽帝も李景隆を守らなくなる。
まず李景隆の功臣としての勲号が削られ、朝廷への出仕を禁じられた。
ただし、この段階では曹国公の爵位そのものは残されており、自宅で暮らすことを認められていた。
ところが、さらに礼部尚書・李至剛が李景隆を告発した。
李至剛は、李景隆が自宅で家人から君臣間のような跪拝を受けていると問題視し、
弟の李増枝についても多数の荘田を所有し、数百人の奴僕を抱えていると訴えた。
永楽帝はついに李景隆の曹国公の爵位を剥奪した。
李景隆は弟の李増枝、妻子ら数十人とともに自邸へ幽閉され、財産も没収された。
永楽帝即位直後には功臣の上位に置かれていた李景隆が、
わずか二年ほどで爵位も財産も失ったのである。
絶食しても死ななかった
『明史』には、幽閉された李景隆が食事を断って死のうとしたという記事がある。
李景隆は十日ほど絶食したが、それでも死ななかった。
その後も釈放されることはなく、永楽末年まで幽閉状態で生きたとされる。
李景隆の正確な没年は明らかではない。
少なくとも永楽2年の失脚直後に処刑されたわけではなく、
長期間にわたって政治から隔離されたまま生涯を終えた。
建文帝側の大将軍として敗れながら殺されず、朱棣に南京を開いて功臣となり、
その新政権でも最終的には排除された。
李景隆の政治的立場は、靖難の変の前後で大きく変転したのである。
李景隆は本当に「無能な将軍」だったのか
李景隆には「無能な敗将」という評価が強く残っており、
『明史』も「景隆貴公子、不知兵」と評している。
実際に靖難の変では、北平を攻略できず鄭村壩で敗れ、白溝河でも大軍を失った以上、
総司令官として結果を残せなかったことは否定できない。
ただし、これを軍事経験そのものがなかったという意味に取ると、洪武年間の経歴とは合わない。
李景隆は曹国公を継いだ後、湖広・陝西・河南で練兵にあたり、西方で軍馬を調達し、
左軍都督府の軍務を担当して太子太傅にも昇っている。
問題は軍務を知らなかったことではなく、それまでの経験が朱棣を相手に
数十万規模の軍勢を統率する実戦経験には結びついていなかったことにある。
父・李文忠との違いもそこにあった。李文忠は朱元璋の外甥でありながら、
十代から張士誠軍との戦いに参加し、諸全防衛、杭州攻略、
応昌への急襲などを重ねて曹国公となった。
李景隆はその爵位を継承し、軍務にも携わったが、
父が長年の戦場で蓄積した指揮経験まで受け継いだわけではない。
『明史』の「不知兵」は李景隆の敗戦を端的に表した人物評ではあるものの、
軍務経験の存在まで否定する言葉として扱うべきではなく、
李景隆の問題は、軍務経験を大規模な実戦での指揮能力へ転換できなかったことにあった。
白溝河では燕軍を追い詰めてもいる
李景隆の戦歴を一方的な惨敗の連続として描くことにも注意が必要である。
白溝河では平安・瞿能ら朝廷側の諸将が激しく戦い、朱棣自身が危機に陥る局面もあった。
燕軍は最初から最後まで余裕を持って朝廷軍を圧倒していたわけではない。
しかし総司令官に求められるのは、個々の部隊が善戦することではなく、
その戦果を軍全体の勝利へ結びつけることである。
李景隆はそれができなかった。
北平でも瞿能が城門突破へ迫り、白溝河でも朝廷軍が朱棣を追い詰める局面を作りながら、
最終的な勝利には結びつかなかった。
この点にこそ、李景隆が大将軍として評価されなかった理由がある。
建文政権の人事にも問題があった
靖難の変の敗北を李景隆一人だけの責任とすることはできない。
建文政権は当初、朱元璋時代から実戦を経験していた宿将・耿炳文を総司令官に起用したが、
真定で敗れると早期に更迭し、黄子澄の推挙によって李景隆へ交代させた。
斉泰はこの人事に反対したとされる。
当時は徐達・常遇春・李文忠らがすでに死去し、藍玉や馮勝も朱元璋晩年に処刑されていた。
朱元璋の開国功臣が次々に死去・処刑され、
建文年間には大軍を任せられる旧功臣が少なくなっていたことも無視できない。
その中で曹国公を継ぎ、洪武年間から軍務を経験していた李景隆が大将軍に選ばれた。
さらに李景隆が鄭村壩で敗れた後も、建文帝は更迭せず権限を強化し、再び大軍を与えた。
白溝河で敗れた後にも処刑せず、南京陥落直前には講和使節として起用している。
李景隆を選び、最初の敗北後も重用し続けたのは建文政権だった。
また、朝廷軍が各地から集められた大軍だったのに対し、
朱棣と燕軍には北方でモンゴル勢力と戦った経験があった。
兵数で上回ることと、軍の統率や機動力で上回ることは同じではない。
李景隆の指揮能力だけでなく、建文政権の人事と軍事運用にも敗因があったのである。
↓↓一世代上の名将たち徐達・常遇春・藍玉についての個別記事は、こちら



金川門開城は最初からの裏切りだったのか
李景隆が谷王朱橞とともに金川門を開き、朱棣を南京へ迎え入れたことは、
建文帝への明確な離反だった。
しかし、靖難の変の当初から朱棣と内通し、意図的に敗北を重ねていたとする確実な史料はない。
北平を実際に包囲し、鄭村壩・白溝河で燕軍と戦っている以上、
後の金川門開城から遡ってすべての敗戦を「最初からの裏切り」と解釈することはできない。
一方、金川門開城後の李景隆は単に赦免されたのではなく、永楽帝から功臣として高い待遇を受けた。
奉天輔運推誠宣力武臣・特進光禄大夫・左柱国・太子太師などを授けられ、
曹国公のまま禄を加増されている。
しかし建文年間に周王朱橚を捕らえ、靖難の変では燕軍を討伐した過去は消えず、
永楽2年(1404年)には周王の告発を皮切りに朱能・蹇義らから弾劾が相次いだ。
勲号と出仕資格を奪われた後、さらに爵位と財産まで失い、
弟の李増枝や妻子とともに幽閉されている。
金川門を開いたことによって李景隆は一時的に「靖難の功臣」となったが、
朱棣と挙兵当初から戦った功臣と同じ立場になったわけではなかった。
建文帝の大将軍から南京開城の功臣へ転じ、さらに永楽政権でも失脚した経歴そのものが、
李景隆がどちらの陣営にも安定した立場を築けなかったことを示している。
李景隆失脚後の李氏
李景隆の失脚によって曹国公の爵位は失われたが、
父・李文忠から続く家系そのものが断絶したわけではない。
弟の李増枝も李景隆とともに処分され、妻子らを含む一族は長期間にわたって拘束された。
しかし正統13年(1448年)になると、
李増枝らには邸宅の門を開いて自由に出入りすることが認められた。
その後、弘治年間には李文忠の子孫が再び取り立てられ、
李景隆の曾孫・李璿が南京錦衣衛世指揮使となった。
嘉靖年間には李文忠の子孫である李沂が臨淮侯に封じられ、
功臣家としての系譜は再び明朝の爵位制度へ戻っている。
李景隆本人が曹国公へ復帰することはなかったが、
その失敗によって李文忠の家系まで完全に排除されたわけではなかった。
まとめ
李景隆は、単に「名将の息子なのに無能だった人物」として片づけられるほど単純ではない。
父・李文忠から曹国公を継いだ後、湖広・陝西・河南で軍を訓練し、
西方で軍馬の調達に携わり、左軍都督府を掌握して太子太傅にまで昇った。
建文帝即位後には削藩政策にも参加し、周王朱橚を捕らえて南京へ連行している。
靖難の変が始まると、耿炳文の後任として五十万と記される大軍を任された。
朱棣不在の北平を包囲したものの攻略できず、鄭村壩で敗北し、
翌年には六十万と記される軍勢を率いながら白溝河でも敗れた。
大軍を任された総司令官として、この結果が重大な失敗だったことは否定できない。
しかし朝廷軍がすべての戦場で一方的に蹂躙されたわけではない。
北平では瞿能が城門へ迫り、白溝河では平安や瞿能父子らが朱棣を危機に追い込んでいる。
李景隆の問題は、そうした局地的な優勢を軍全体の勝利へ結びつけられなかったことにあった。
さらに建文政権自身も、耿炳文を早期に更迭して李景隆を抜擢し、
鄭村壩敗戦後にはむしろ権限を強化して再び大軍を与えた。
白溝河で敗れた後も処刑せず、南京陥落直前には講和使節として起用している。
靖難の変における朝廷側の敗北を、李景隆一人の「無能」だけで説明することはできない。
それでも李景隆の名を決定的にしたのは、最後の金川門だった。
自分を二度の敗戦後も処刑しなかった建文帝の都を、谷王朱橞とともに朱棣へ開いた。
最初から朱棣と内通していた証拠はないが、
金川門開城によって建文政権の崩壊を決定的にしたことは変わらない。
そして皮肉にも、その行動によって永楽帝から得た地位も長続きしなかった。
即位直後には功臣として厚遇されながら、周王朱橚や靖難功臣たちから相次いで弾劾され、
わずか数年で勲号・爵位・財産を失い、家族とともに幽閉された。
父・李文忠が実戦によって曹国公の地位を築いたのに対し、
李景隆はその巨大な遺産を受け継ぎながら、それに見合う軍功を残すことができなかった。
しかし同時に、李景隆の失敗は建文政権の人材不足と軍事指揮の混乱を映し出している。
靖難の変で大軍を失った敗将、
建文帝に赦された重臣、南京の門を開いた降将、永楽帝に厚遇された功臣、
そして新政権からも排除された失脚者――そのすべてが李景隆という人物の生涯だった。

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史書・参考文献
・張廷玉等『明史』巻126「列伝第十四 李文忠」
・張廷玉等『明史』巻141「列伝第二十九 斉泰・黄子澄・方孝孺」
・『明太宗実録』
・谷応泰『明史紀事本末』「燕王起兵」
・談遷『国榷』
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