李文忠(りぶんちゅう、1339年-1384年)は、元末から明初に活躍した武将で、
明の初代皇帝・朱元璋の外甥にあたる。字は思本、小字は保児。母は朱元璋の姉、父は李貞である。
12歳で母を失い、父とともに元末の戦乱を逃げ回った末、朱元璋のもとへ身を寄せた。
朱元璋から実子同然に扱われて一時は「朱」姓を名乗り、
19歳で軍を率いると池州救援を皮切りに江南各地を転戦した。
厳州を守って張士誠軍を撃退し、杭州攻略では略奪を厳禁するなど、
若くして戦闘と占領地統治の双方で頭角を現した。
明建国後は北方戦線へ移り、常遇春の死後にはその軍を引き継いだ。
洪武3年(1370年)の北伐では北元皇帝アユルシリダラを追って応昌を急襲し、
皇子マイダリバラをはじめ后妃・諸王・官僚らを捕らえ、
元朝の玉璽や宝物を獲得する大戦果を挙げている。
その功績によって曹国公に封じられ、朱元璋の血縁者というだけでなく、
徐達・常遇春らと並ぶ明初の中核武将となった。
一方、晩年には朱元璋へ殺戮を減らすよう諫め、
日本遠征や宦官の重用にも反対して皇帝の不興を買った。
洪武17年(1384年)、46歳で病死。
朱元璋はその死を医師による毒殺ではないかと疑い、医師らを処刑した。
李文忠自身は岐陽王に追封され、武靖と諡されて太廟に配享された。
朱元璋の親族として政権内部に入りながら、実戦で軍功を積み重ね、
江南統一から北元遠征、辺境統治、軍政にまで関わった李文忠の生涯を史実からたどる。
出自と朱元璋との関係|戦乱を逃れた少年から養子へ
李文忠は至元5年(1339年)、泗州盱眙に生まれた。
父は李貞、母は朱元璋の姉であり、朱元璋から見れば実の外甥にあたる。
幼名は保児だった。
12歳の時に母を失うと、父の李貞とともに元末の戦乱の中を逃げ回った。
『明史』は父子が乱軍の間を転々とし、何度も死にかけたと記している。
それから二年以上を経て、父子は滁陽にいた朱元璋のもとへたどり着いた。
朱元璋は姉の遺児である保児との再会を非常に喜び、自らの養子として「朱」姓を与えた。
後の李文忠である。
朱元璋にとって李文忠は単なる配下ではなく、血縁で結ばれた身内でもあった。
この関係は後に重要な軍を任される基盤となったが、
李文忠の地位を血縁だけで説明することはできない。
『明史』によれば、李文忠は学問を始めると非常に理解が早く、
以前から学んでいたかのようだったという。
武将となった後も学問を好み、范祖幹や胡翰を師として経義を学び、詩文にも通じた。
やがて軍人として実戦に投入され、その戦功によって朱元璋軍の中で地位を確立していく。
19歳で軍を率いる|池州救援から厳州へ
19歳になると、李文忠は舎人として親軍を率い、池州の救援へ向かった。
ここで徐寿輝の天完政権に属する軍を破り、青陽・石埭・太平・旌徳を攻略する。
さらに万年街で元軍の阿魯灰を破り、于潜・昌化では苗軍を撃退した。
淳安では夜襲を仕掛け、洪元帥の軍から千人余りを降伏させた。
若くして相次いで戦功を挙げたことで、帳前左副都指揮兼元帥府事に任じられる。
その後、鄧愈・胡大海らと合流して建徳を攻略すると、
朱元璋はここを厳州府とし、李文忠に守備を任せた。
ここから李文忠は、単に攻撃軍を率いるだけでなく、
占領地を守り、住民を統治し、周辺勢力の攻撃を防ぐ立場となった。
江南統一戦|張士誠軍を破り杭州を攻略
厳州を任された李文忠は、朱元璋が江南で勢力を拡大していく過程で重要な役割を担った。
苗軍の楊完者が数万の兵を率いて水陸から迫ると、李文忠は軽兵を率いて陸軍を撃破した。
討ち取った敵兵の首を大きな筏に載せて川へ流すと、それを見た水軍も撤退したという。
楊完者が再び侵攻すると、今度は鄧愈とともに撃退した。
浦江を攻略した際には放火や略奪を禁じ、
戦乱を避けて山中へ逃げていた鄭氏一族を呼び戻して兵に保護させた。
これによって住民が大いに喜んだと『明史』は伝えている。
楊完者の死後にはその部下三万人余りを降伏させ、さらに胡大海とともに諸曁を攻略した。
張士誠の厳州侵攻を撃退
朱元璋と江南の覇権を争った張士誠も、李文忠が守る厳州を狙った。
張士誠軍が侵攻すると、李文忠は正面から防ぐ一方、
別働隊を小北門から迂回させて敵の背後へ回し、挟撃して大破した。
一か月余り後に張士誠軍が再び攻めてきても撃退し、そのまま追撃して分水を攻略する。
三溪に張士誠軍が布陣すると再びこれを破り、陸元帥を斬って陣営を焼いた。
以後、張士誠は容易に厳州へ手を出せなくなった。
この功績によって李文忠は同僉行枢密院事へ進んだ。
胡大海が捕らえた李明道・王漢二についても、李文忠は釈放して礼遇し、
彼らを使って建昌守将の王溥を降伏させている。
武力だけでなく、降伏した敵将を利用してさらに敵勢力を切り崩す方法も用いていた。
胡大海・耿再成が殺される|浙東の混乱を収拾
その後、朱元璋軍の浙東支配は大きな危機に直面した。
苗将の蔣英・劉震らが金華で反乱を起こし、胡大海を殺害したのである。
処州でも苗軍が耿再成を殺して反乱を起こした。
李文忠は部将を派遣して反乱軍を追い払い、自ら金華の軍民を慰撫して混乱を収拾した。
さらに縉雲へ軍を置き、処州方面の鎮圧にも備えた。
その功績によって浙東行省左丞となり、
厳州・衢州・信州・処州・諸全など広い地域の軍事を統括する。
若くして一地域の守将から、浙東戦線全体を統括する将へ成長したことになる。
数十万の張士誠軍を迎撃
張士誠は諸全を繰り返し攻撃した。
守将の謝再興が救援を求めたものの、李文忠には十分な兵力がなかったため、
援軍が到着するという情報を意図的に流して敵を動揺させた。
張士誠軍が夜間に撤退を図ると守備軍が出撃し、これを大破している。
翌年には、その謝再興自身が張士誠へ寝返り、呉軍を率いて東陽へ侵攻した。
李文忠は胡深とともに義烏で迎撃し、自ら千騎を率いて敵陣へ突入して撃破する。
さらに諸全から約50里離れた場所に新城を築き、諸全と相互に支援できる防衛体制を整えた。
張士誠は李伯昇に十六万の兵を与えて新城を攻撃させたが、これを落とすことができなかった。
翌年にはさらに二十万の大軍を送り込んだため、李文忠は朱亮祖らを率いて救援へ向かった。
敵軍の多さを見た胡徳済は大軍の到着を待つよう進言したが、
李文忠は「兵は数ではなく謀にある」として決戦を選んだ。
濃霧の中で左右・中央の軍を配置した李文忠は、自ら中央で敵の主力を受け持った。
戦闘が始まると敵騎兵に幾重にも包囲されたが、李文忠は槍を振るって包囲を突破し、
味方の援軍とともに張士誠軍を大破した。
『明史』では敵兵数万を斬り、将校七百人、甲士三千人を捕らえ、
獲得した武器や兵糧は数日かけても回収しきれないほどだったと記されている。
李伯昇は辛うじて戦場から逃亡した。
朱元璋は勝報を受けると李文忠を召還し、宴を開いてその軍功を労った。
さらに御衣と名馬を与えたうえで再び任地へ戻しており、
この時点で李文忠が張士誠との東部戦線を支える中心的な将の一人となっていたことが分かる。
杭州攻略|略奪した兵士を処刑する
至正26年(1366年)、朱元璋が張士誠への総攻撃を開始すると、
李文忠には杭州方面から攻めて張士誠軍を牽制する役割が与えられた。
朱亮祖らを率いて桐廬・新城・富陽を攻略し、そのまま余杭へ進軍する。
余杭を守っていた謝五は、かつて朱元璋を裏切った謝再興の弟だった。
李文忠が命を保証すると、謝五は子供たちを連れて降伏した。
諸将は裏切り者の弟である謝五を処刑するよう求めたが、
李文忠は一度命を保証した以上は約束を破ることはできないとして殺さなかった。
その後、杭州を守っていた潘元明も降伏し、李文忠は杭州へ入城した。
李文忠は占領直後から軍紀を厳しく定め、
「勝手に民家へ入った者は死刑」と命じて兵士による略奪を禁じた。
『明史』によれば、実際に住民の釜を借りた兵士が処刑されており、
厳罰によって軍を統制したことで杭州城内の秩序は保たれた。
戦争に勝つだけでなく、占領後に兵士が住民へ危害を加えることまで抑えようとしたのである。
杭州攻略によって李文忠は兵三万人と大量の兵糧を獲得し、その功績で浙江行省平章事に昇進した。
また、この頃には朱元璋から与えられていた朱姓を離れ、本来の李姓へ戻されている。
福建平定と捨て子の保護
その後、明軍が福建へ進出すると、李文忠も浦城方面へ軍を進めた。
主力軍が撤退した後、金子隆らの残党が略奪を始めると再び討伐し、建寧・延平・汀州を平定した。
この遠征では、道路に捨てられていた子供を軍に命じて保護させたことも記録されている。
救われた子供は数え切れないほどだったという。
李文忠の統治は厳格な軍紀を特徴とする一方、戦争によって被害を受けた住民への保護も伴っていた。
明建国後の北方戦線|応昌攻略と北元追撃
1368年、朱元璋が皇帝に即位して明を建国すると、戦争の中心は江南から北方へ移った。
元の順帝トゴン・テムルは大都を放棄して北へ逃れたが、元朝そのものが消滅したわけではない。
モンゴル高原には依然として皇帝・諸王・軍隊が存在しており、
明にとって北元は最大の軍事的脅威だった。
李文忠はここでも主力将軍の一人となる。
常遇春の死後、その軍を引き継ぐ
洪武2年(1369年)、李文忠は偏将軍として右副将軍・常遇春に従い、塞外へ進軍した。
明軍は上都へ迫って元の順帝をさらに北へ追ったが、帰還途中に常遇春が急死する。
朱元璋はその軍を李文忠に引き継がせ、大軍の指揮を任せた。
朱元璋の外甥という血縁だけでなく、それまで江南各地で積み重ねた軍功によって、
常遇春の後を任せられる将として評価されていたのである。
その後、徐達軍との合流へ向かう途中で大同が元軍に包囲されていることを知ると、
李文忠は予定された進路に固執せず、救援へ向かうことを決断した。
白楊門では雪の中で元軍の夜襲を受けたものの、すぐには反撃せず陣を固めて持ちこたえ、
敵が攻め疲れたところで精鋭を投入して大破した。
この戦いでは敵将を捕らえ、斬首・捕虜を合わせて一万余りに達する戦果を挙げている。
↓↓「常十万」と称された猛将・常遇春についての個別記事は、こちら

1370年の応昌急襲|北元皇帝を追い詰める
李文忠最大の軍功の一つが、洪武3年(1370年)の北伐である。
征虜左副将軍となった李文忠は、
徐達とは別路から十万の兵を率いて北上し、野狐嶺を越えて興和へ進んだ。
さらに察罕脳児、駱駝山、開平などを攻略しながら北元軍を破り、
その勢力圏の奥深くへ進撃していった。
この頃には元の順帝トゴン・テムルが死去し、皇太子アユルシリダラが後を継いでいた。
李文忠は北元皇帝の所在が応昌にあることを探り出すと、
軍を十分に休ませることなく急進して奇襲を仕掛けた。
突然の明軍接近を受けたアユルシリダラは
わずかな供回りとともに北へ逃れたため捕縛には至らなかったが、
李文忠軍は皇子マイダリバラをはじめ、后妃・宮人・諸王・将相・官僚数百人を捕らえた。
さらに宋・元から受け継がれてきた玉璽、金宝、玉冊、鎮圭、大圭、玉帯、玉斧など、
王朝権威を象徴する多数の宝物も獲得している。
北元皇帝本人を逃した李文忠はそこで進軍を止めず、精鋭騎兵を率いて北慶州まで追撃した。
その後の帰路でも元の国公らを捕らえ、興州では三万七千人、
紅羅山ではさらに一万六千余りを降伏させて南京へ凱旋する。
北元皇帝を捕らえることこそできなかったものの、
その本拠を急襲して皇子や后妃、諸王、政権中枢の官僚を一挙に捕らえたことは、
北元に大きな打撃を与える戦果だった。
朱元璋は奉天門で李文忠の戦勝報告を受け、大規模な論功行賞を行った。
李文忠は開国輔運推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国・大都督府左都督となり、
曹国公に封じられ、禄三千石と世券を与えられた。
さらに軍国の大事に参与する地位を得ており、朱元璋の外甥という血縁だけではなく、
江南統一戦から北元遠征まで積み重ねた軍功によって、明朝を代表する功臣の一人となった。
↓↓明朝建国を軍事面から支えた名将・徐達についての個別記事は、こちら

1372年の北伐|勝ち切れなかったモンゴル遠征
洪武5年(1372年)、朱元璋は北元に対して再び大規模な遠征を行い、
李文忠は左副将軍として東路軍を率いた。
居庸関から北上してカラコルム方面へ進み、
トーラ河方面で北元の大軍と遭遇すると激しい戦闘となった。
戦いの最中には李文忠の乗馬が矢を受けたため、
下馬して短兵器を手に戦わなければならないほど追い込まれた。
指揮官の李栄が自分の馬を差し出したことで再び騎乗すると、
李文忠は軍を立て直して北元軍を破り、多数の捕虜を得た。
しかし北元側も兵力を集めて反撃したため、明軍がそのまま敵を圧倒する展開にはならなかった。
李文忠は険しい地形を利用して陣を固める一方、
捕獲した家畜を野に放ち、周囲に伏兵が潜んでいるように見せかけた。
これを警戒した北元軍が後退したため、明軍も戦場から撤退することができたが、
この遠征では曹良臣・周顕・常栄・張耀ら有力将校が戦死するなど大きな損害を受けている。
『明史』はこの戦役について「両軍勝負相当」と記しており、
洪武3年(1370年)の応昌遠征のような明軍の一方的な勝利ではなかった。
李文忠は北元の奥深くまで進軍し、苦戦しながらも軍を崩壊させず撤収したが、
北元の軍事力を決定的に打ち破ることはできなかったのである。
辺境統治と軍政|戦場以外でも重用される
李文忠はその後も北方へ出征した。
洪武6年(1373年)には北平・山西方面へ出て三角村で敵軍を破り、
洪武7年(1374年)には部将を塞外へ送り、自身も大寧・高州方面まで進軍した。
元の太尉や宗王・高官らを捕らえ、馬・駱駝・牛・羊など多数を獲得し、北元勢力への圧力を続けた。
その後もたびたび北辺の守備を担当している。
しかし李文忠の役割は戦闘だけではなかった。
成都の新城建設と四川統治
洪武4年(1371年)、傅友徳らによって明夏が滅ぼされ四川が平定されると、
李文忠は現地の慰撫を命じられた。
成都に新城を築き、要地へ軍を配置して防衛体制を整えた。
新たに征服した地域では、敵軍を倒しただけでは統治は成立しない。
城郭、防衛拠点、軍隊の配置、住民の慰撫まで必要になる。
李文忠が四川へ派遣されたことは、朱元璋がその軍政能力も評価していたことを示している。
洮州反乱の鎮圧と西安への水路整備
洪武12年(1379年)、洮州の十八部族が反乱を起こすと、
李文忠は西平侯・沐英とともに討伐へ向かい、反乱を鎮圧した。
その後、東籠山南川に城を築いて洮州衛を設置し、軍事拠点を整えることで明の支配を固めている。
帰還途中には西安城内の水質に問題があることを知った。
当時の西安では城内の水に塩分が多く、飲用に適さなかったため、
李文忠は龍首渠から水を引き入れて改善するよう朱元璋に提案した。
朱元璋はこれを採用し、西安へ水を導くための整備が行われた。
李文忠は反乱軍を鎮圧して終わるのではなく、城を築いて軍事拠点を設け、
さらに西安では住民の生活に関わる水利整備まで提案している。
各地で軍を率いる一方、平定後の防衛体制や都市の生活基盤を整える役割も担っていたのである。
軍国の重事と国子監を任される
洪武10年(1377年)には韓国公・李善長とともに軍国の重要事項を議するよう命じられた。
後には大都督府を掌握し、国子監の事務まで兼任した。
武将でありながら教育機関まで担当した背景には、李文忠自身が学問を好んだことも関係している。
『明史』は李文忠を、度量が大きく容易には内心を読ませない人物で、
戦場では大敵を前にするほど勇壮になったと評する。
一方、兵を解いて家にいる時には儒者のように慎み深かったともいう。
范祖幹・胡翰に学び、経書の意味に通じ、詩にも優れていた。
軍人一辺倒ではない人物だった。
↓↓明朝創業期において制度と統治の基盤を築いた中核人物・李善長についての個別記事は、こちら

民の税負担軽減を朱元璋へ求める
朱元璋が応天を拠点とした初期、軍事費を確保するため民田の租税が増額されたことがあった。
李文忠はその負担軽減を朱元璋へ求め、減額を認めさせている。
占領地で略奪を禁じ、捨て子を保護した行動と合わせれば、
李文忠は軍事的な成果だけでなく、戦争によって疲弊する住民への対応にも関わっていた。
朱元璋の外甥から曹国公へ|血縁だけではなかった地位
李文忠は朱元璋の姉の子であり、明朝の功臣の中でも皇帝に極めて近い血縁関係にあった。
しかし、その地位は外戚的な血縁だけによって得られたものではない。
19歳から実戦に出て、厳州・諸全・杭州をめぐる江南統一戦で張士誠軍と戦い、
明建国後には北元遠征を担った。
とりわけ1370年の応昌攻略は、北元皇帝を逃亡させ、
皇子・后妃・諸王・官僚と元朝の宝物を大量に獲得した大戦果だった。
曹国公への封爵はその軍功に対する論功行賞である。
父の李貞も後に隴西王へ追贈され、恭献と諡された。
李文忠自身も死後には岐陽王へ追封され、太廟に配享される。
功臣廟における肖像の序列も第三位とされ、明朝がその軍功を極めて高く評価していたことが分かる。
徐達・常遇春・鄧愈・湯和・沐英らとともに明初を代表する武将として扱われ、
後世には「六王」の一人として数えられることもある。
ただし、「六王」は李文忠自身が生前に属した正式な軍事集団の名称ではない。
死後の追封などをもとに明初の代表的武将をまとめて呼ぶ後世の分類として扱う方が正確である。
晩年|朱元璋への諫言で不興を買う
朱元璋は李文忠を非常に重用した。
しかし、皇帝との血縁と信頼があったからこそ、李文忠は朱元璋の政治へ諫言することもあった。
『明史』によれば、李文忠は客人から聞いた意見をもとに、朱元璋へ殺戮を少なくするよう勧めた。
さらに日本への遠征にも反対した。
元のフビライによる日本遠征が失敗したこともあり、
海を越えて大軍を送り込む遠征には大きな負担と危険が伴う。
李文忠はこうした対外遠征に慎重な姿勢を取った。
また、朱元璋が宦官を過度に近づけることについても、
「刑人」を天子の側近とするのは適切ではないという趣旨で諫めた。
後に朱元璋自身が宦官の政治介入を厳しく制限したことを考えると興味深いが、
この時の李文忠の諫言は皇帝を怒らせた。
こうした諫言が重なったことで朱元璋の意向に逆らい、譴責を受けた。
46歳で急死|朱元璋が疑った「毒殺」
洪武16年(1383年)冬、李文忠は病に倒れた。
朱元璋は自ら見舞いに訪れ、淮安侯・華中に命じて医薬の管理に当たらせた。
しかし病状は回復せず、翌洪武17年(1384年)3月に死去した。享年46。
ここで注意すべきなのが、李文忠の「毒殺説」である。
李文忠が朱元璋によって秘密裏に毒殺されたことを示す確実な史料があるわけではない。
『明史』に記されているのは逆で、
李文忠の死後、朱元璋自身が医師による毒殺を疑ったという出来事である。
朱元璋は医薬を担当していた華中の爵位を降格し、その家族を建昌衛へ流した。
さらに治療に関わった医師たちとその妻子を処刑している。
李文忠が本当に毒殺されたのか、医師に責任があったのかは史料から確定できない。
朱元璋自身が外甥の死に疑念を抱き、
医療関係者を苛烈に処罰したというところまでが確認できる事実である。
したがって、李文忠の死をそのまま「功臣粛清の一環」と位置づけたり、
朱元璋が李文忠を毒殺した可能性が高いとするのは慎重であるべきだろう。
岐陽王に追封され太廟へ
李文忠の死を朱元璋が冷淡に扱ったわけではない。
朱元璋は自ら祭文を作って弔い、李文忠を岐陽王に追封して「武靖」と諡した。
さらに太廟へ配享し、功臣廟にも肖像を置いた。
朱元璋との関係は晩年の諫言によって緊張したものの、
李文忠の建国功臣としての地位そのものが否定されたわけではなかった。
子孫|李景隆と靖難の変
李文忠には李景隆・李増枝・李芳英の三人の子がいた。
長男の李景隆が曹国公を継承する。
李景隆は小字を九江といい、典故に通じ、容姿や立ち居振る舞いにも優れていたとされる。
朱元璋からも目をかけられ、軍務を任されるようになった。
しかし李文忠と同じ軍事的才能を受け継いだわけではなかった。
建文帝の時代に靖難の変が起こると、李景隆は耿炳文に代わって大将軍となり、
数十万の大軍を率いて燕王朱棣と戦った。
ところが北平攻略に失敗し、白溝河などでも大敗する。
後には南京の金川門を開いて朱棣を迎え入れた人物としても知られ、
父とは大きく異なる評価を受けることになった。
次男の李増枝は前軍左都督、三男の李芳英は中都正留守まで昇進した。
李景隆は永楽年間に爵位を奪われたが、李文忠の家系そのものが完全に途絶えたわけではない。
後世にはその子孫が再び取り立てられ、臨淮侯に封じられる者も現れている。
↓↓長男・李景隆についての個別記事は、こちら

李文忠の実像|武勇・統治・学問を兼ねた将軍
李文忠を「朱元璋の外甥だったから出世した武将」とだけ見ることはできない。
朱元璋の血縁者であったことは、若い李文忠が政権内部で信頼を得る大きな基盤だった。
しかし19歳で軍を率いてからは、厳州防衛、張士誠軍との戦い、杭州攻略、北元遠征と、
長期間にわたって自ら軍功を積み上げている。
特に応昌攻略は、北元皇帝本人こそ取り逃がしたものの、
その皇子や后妃、諸王、官僚と元朝の象徴となる宝物を一挙に獲得した大戦果だった。
一方、1372年の北伐では大きな犠牲を出し、『明史』自身が勝敗は互角だったと記している。
李文忠を「無敗の名将」とすることも適切ではない。
軍政面では、占領地で略奪を厳禁し、降伏者との約束を守り、戦乱で捨てられた子供を保護した。
成都の城郭整備、洮州衛の設置、西安への水路導入にも関わっている。
さらに経書を学び、国子監の事務を担当し、朱元璋へ減税や殺戮の抑制を求めた。
戦場では大軍を率いて北元皇帝を追い、
平時には軍政・統治・教育へ関わり、晩年には皇帝へ直接諫言する。
朱元璋との血縁を出発点としながら、軍功によって曹国公まで上り、
明初の国家形成そのものに関わった人物だった。
墓所と後世の顕彰
李文忠の墓は南京の紫金山北麓にあり、明孝陵周辺に残る明初功臣墓の一つである。
朱元璋の孝陵に近い場所には、徐達ら建国功臣の墓も残されている。
李文忠墓には神道石刻などが残り、清の光緒年間にも修復が行われた。
現在は明孝陵とその周辺に残る明代遺構群の一部として保存されており、
李文忠が明建国功臣の中でも高い位置に置かれたことを伝えている。
まとめ
李文忠は朱元璋の外甥であり、一時は養子として朱姓まで与えられた。
だが、その生涯を血縁だけで説明することはできない。
19歳から戦場に立ち、江南では張士誠軍と戦って朱元璋の東南支配を固め、
杭州では厳格な軍紀によって占領地の秩序を守った。
明建国後には北へ転じ、常遇春の軍を継承して北元と戦い、
応昌では皇帝を逃亡させながらも皇子・后妃・諸王・官僚を捕らえる大戦果を挙げた。
それでも李文忠の特徴は、武功だけにはない。
戦争の中で住民や捨て子を保護し、占領後には城郭・水利・辺境防衛を整え、
中央では軍国の大事と国子監を任された。
晩年には、皇帝の外甥という近さを利用して朱元璋へ殺戮の抑制、
日本遠征への反対、宦官への警戒まで進言している。
その諫言は朱元璋の不興を買ったが、死後には岐陽王に追封され、太廟へ配享された。
朱元璋にとって李文忠は、単なる親族でも単なる武将でもなかった。
戦乱の少年期から身近に置き、江南統一、北元遠征、辺境統治、中央軍政まで任せた、
明建国を支える「身内」であり功臣だったのである。
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史書・参考文献
・張廷玉等『明史』巻126「列伝第十四・李文忠」
・『明太祖実録』
・谷応泰『明史紀事本末』
・談遷『国榷』
・檀上寛『明の太祖 朱元璋』白帝社
・山根幸夫編『中国史 明-清』山川出版社
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