胡惟庸(こいよう)は、明の初代皇帝・朱元璋に仕え、
中書省の左丞相として朝廷の実権を握った政治家である。
李善長の引き立てによって出世し、
官僚の人事や皇帝への奏上文書を掌握するほどの権勢を築いたが、1380年に謀反の罪で処刑された。
胡惟庸の処刑後、朱元璋は中書省と丞相職を廃止し、皇帝が六部を直接統轄する体制へ移行した。
さらに事件の捜査は十年以上にわたって続き、明朝建国の功臣である李善長をはじめ、
多数の官僚や武将が処刑される「胡惟庸の獄」へと発展した。
ただし、胡惟庸が実際に皇帝暗殺や反乱を計画していたのか、
北元や日本と内通していたのかについては、史料の成立事情を含めて検討する必要がある。
胡惟庸の出自と朱元璋への仕官
定遠出身の官僚として台頭
胡惟庸は濠州定遠県(現在の安徽省定遠県)の出身である。
生年は明らかではなく、若年期の家族構成や学問についても詳しい記録は残されていない。
元末には各地で反乱が相次ぎ、紅巾軍の蜂起を契機として元朝の支配が崩れ始めた。
朱元璋もこの動乱のなかで勢力を拡大し、江南を拠点とする独立政権を築いていった。
『明史』胡惟庸伝によれば、胡惟庸は朱元璋が和州にいた時期に帰順し、元帥府の奏差に任じられた。
その後、宣使を経て寧国県の主簿となり、知県、吉安通判、湖広僉事を歴任している。
胡惟庸の初期経歴は、戦場で軍功を重ねた武将のものではない。
朱元璋の軍事勢力が占領地を広げる過程で、
地方行政や命令の伝達を担い、官僚として昇進していったことが確認できる。
元末の戦乱期に朱元璋の陣営へ加わった点では紅巾軍の活動と関係しているものの、
胡惟庸自身が軍を率いて戦ったという具体的な戦功は、主要な伝記史料には記されていない。
李善長との関係と中央政界への進出
胡惟庸の出世を支えた人物が、明朝建国の功臣である李善長だった。
李善長も定遠の出身であり、朱元璋の勢力拡大期から軍需物資の調達、
行政制度の整備、官僚の登用などを担当していた。
胡惟庸は李善長と関係を深め、その引き立てを受けて中央政界へ進出した。
『明史紀事本末』には、胡惟庸が李善長に黄金二百両を贈り、
その結果として中央の官職を得たとする記述もある。
ただし、これは胡惟庸の処刑後に形成された伝記・事件記録に含まれるものであり、
贈賄の事実を独立した記録によって確認できるわけではない。
1367年、朱元璋が呉王を称していた時期に、
胡惟庸は太常少卿として中央に召され、やがて太常卿に昇進した。
1368年に明朝が成立すると、胡惟庸は新王朝の官僚機構でさらに地位を高め、
1370年には中書省参知政事となった。
胡惟庸と李善長の結びつきは、官職の推薦だけにとどまらなかった。
胡惟庸は兄の娘を李善長の従子・李佑に嫁がせ、両家は姻戚関係を結んでいる。
この関係は胡惟庸の政治的基盤を強めた一方、
後年の胡惟庸の獄では李善長が謀反に関与したとされる理由の一つになった。
↓↓開国第一功臣・李善長についての個別記事は、こちら

中書省を掌握した胡惟庸の権力
右丞相から左丞相への昇進
明朝成立当初の中央行政は、中書省を中心として運営されていた。
中書省には左丞相と右丞相が置かれ、その下で六部が行政実務を担当していた。
初期には李善長が宰相として政務を統括し、徐達も丞相の地位にあった。
しかし徐達は主として軍事遠征に従事していたため、
中央行政の実務は李善長や汪広洋らが担っていた。
1371年に李善長が引退すると、汪広洋が右丞相として政務を担当した。
胡惟庸も中書省左丞へ昇進し、朝廷の中枢に入った。
1373年、汪広洋が広東行省参政に左遷されると、
朱元璋は後任の丞相をすぐには任命せず、胡惟庸に中書省の政務を担当させた。
同年7月、胡惟庸は右丞相に任じられ、さらに1377年には左丞相へ昇進した。
汪広洋も右丞相として復帰したが、中央政界で主導権を握っていたのは胡惟庸だった。
皇帝への奏上文書を選別する権力
『明史』胡惟庸伝によれば、朱元璋は胡惟庸の才能を認め、当初は重用していた。
胡惟庸も皇帝の意向に従う慎重な態度を示し、次第に信任を深めたという。
しかし、権勢を得た胡惟庸は、官僚の任免や処罰に関わる事項を皇帝へ奏上せず、
独断で処理することがあったと記されている。
特に重大だったのは、各地の官庁から皇帝へ提出される上奏文書を、
胡惟庸が先に閲覧していたことである。
『明史』は、自分に不利な内容があれば朱元璋へ伝えず、隠していたとする。
中書省の長官が文書の流れを管理すること自体は職務の一部だった。
しかし、皇帝に届く情報を選別できる立場は、官僚の人事や政策判断にも影響を及ぼした。
地方官や武将にとっても、胡惟庸との関係は出世や処分を左右する問題になった。
『明史』によれば、昇進を望む官僚や地位を失った功臣たちが胡惟庸の門下に集まり、
金銀、絹、名馬、珍しい品物などを贈ったという。
胡惟庸は、単に皇帝の命令を実行する官僚ではなく、
皇帝への情報と官僚の人事を結びつける中書省の権限を利用して、
強い政治的影響力を持つようになった。
朱元璋との対立が深まった理由
朱元璋は建国後、功臣や官僚を用いて国家制度を整えながらも、
最終的な権限を皇帝自身が握ることを重視していた。
一方、丞相を頂点とする中書省は、膨大な行政事務を処理するために不可欠な機関だった。
朱元璋が直接すべての政務を処理することは難しく、宰相には一定の裁量が認められていた。
胡惟庸の権勢が問題となったのは、
この裁量が皇帝の判断を妨げる形で行使されたとされたためである。
上奏文書を隠す行為や人事への介入は、朱元璋が官僚機構を統制するうえで見過ごせないものだった。
胡惟庸の周囲には官僚だけでなく、処罰を受けた武将や不満を抱く功臣も集まっていた。
こうした人脈は、後に謀反事件が告発された際、
反乱に加わったとされる人物の範囲を広げることになった。
徐達・劉基との対立と政敵排除
徐達の告発と福寿の事件
胡惟庸の権勢を警戒した人物の一人が、明朝建国の大功臣である徐達だった。
『明史』胡惟庸伝には、徐達が胡惟庸の不正を嫌い、朱元璋にその問題を進言したと記されている。
これを恨んだ胡惟庸は、徐達の門番である福寿を自分の側に引き入れ、徐達を陥れようとしたという。
しかし、福寿は胡惟庸の働きかけを徐達に知らせたため、計画は発覚したとされる。
徐達は軍事的功績によって高い地位を得た人物であり、胡惟庸とは権力の基盤が異なっていた。
徐達の進言が記録されていることは、胡惟庸に対する批判が文官だけでなく、
建国功臣の間にも存在したことを示している。
↓↓明朝建国を軍事面から支えた名将徐達についての個別記事は、こちら

劉基との対立と毒殺疑惑
朱元璋の参謀として知られる劉基も、胡惟庸を批判した人物として記録されている。
劉基は明朝成立後、朱元璋の側近として政治に関与していたが、
やがて中央政界から退き、故郷へ戻った。胡惟庸との関係も良好ではなかった。
『明史』劉基伝には、朱元璋が宰相にふさわしい人物について劉基に意見を求めた際、
胡惟庸を推すことに劉基が反対したという記述がある。
劉基は胡惟庸を、車を操る御者にたとえながら、重要な職務を任せるには危うい人物として評した。
さらに劉基は、談洋という土地に王気があるとして民衆の居住を禁じるよう進言したが、
胡惟庸がこれに反対したとされる。
その後、劉基は胡惟庸側から告発を受け、俸禄を停止されるなど不利な立場に置かれた。
1375年、病に倒れた劉基のもとへ、朱元璋は胡惟庸に医師を伴わせて見舞わせた。
劉基は医師から薬を与えられた後、腹中に硬いものができたような異常を訴えたという。
劉基は同年に死去した。
『明史』胡惟庸伝は、胡惟庸が医師を使って劉基に毒を盛ったと記している。
一方、劉基伝では、薬を服用した後の異変や、
後に胡惟庸の罪が追及された際に毒殺が問題となった経緯が記されている。
ただし、薬の成分や直接の死因を確認できる記録はなく、
胡惟庸が医師に毒殺を命じたことを独立して証明する史料も確認できない。
劉基の毒殺は正史に記された重要な疑惑だが、確定した事実として扱うことはできない。
↓↓朱元璋の軍師・劉基(劉伯温)についての個別記事は、こちら

呉伯宗の弾劾
胡惟庸を批判した文官として、翰林学士の呉伯宗も挙げられる。
『明史』胡惟庸伝によれば、呉伯宗は胡惟庸を弾劾したため、危険な立場に追い込まれたという。
この事件は、胡惟庸の権勢が朝廷内で批判を受けていた一方、
その批判自体が容易ではなかったことを伝えている。
徐達、劉基、呉伯宗はいずれも胡惟庸に批判的だったと記録されているが、
彼らを一つの反胡惟庸派閥として扱えるだけの具体的な記録はない。
胡惟庸の獄|謀反発覚から処刑まで
陸仲亨・費聚らとの結びつき
『明史』によれば、
胡惟庸は皇帝から叱責を受けた武将たちと関係を深め、反乱に協力させようとした。
その一人が吉安侯の陸仲亨である。
陸仲亨は陝西から帰還する際、許可なく駅伝制度を利用したため、朱元璋の怒りを買った。
朱元璋は、戦乱後の民衆が苦しい生活を送るなかで、
功臣が公的な制度を私用することを厳しく非難した。
平涼侯の費聚も、蘇州の軍民を慰撫する任務に就きながら酒色にふけり、
その後に命じられたモンゴル勢力への招降でも成果を挙げられず、朱元璋から叱責されていた。
胡惟庸は両者の不安につけ込み、権力や利益を約束して味方に引き入れたとされる。
『明史』には、胡惟庸が陸仲亨と費聚を自宅に招き、
酒宴の席で互いの違法行為が発覚した場合の危険を語ったうえで、
反乱への協力を求めたという記述がある。
さらに御史大夫の陳寧とともに全国の軍馬の登録簿を調べ、
都督の毛驤を通じて衛士や亡命者を集め、反乱に備えたとも記されている。
ただし、これらの密談や軍事準備の詳細は、
胡惟庸の処刑後に成立した謀反事件の記録に依拠している。
個々の行動を同時代の独立した史料で確かめることは難しい。
胡惟庸の子と馭者の事件
胡惟庸の立場を悪化させた出来事として、息子が起こした事件も記録されている。
『明史』によれば、胡惟庸の子が馬に乗って市中を走っていたところ、車と衝突して死亡した。
胡惟庸はこれに怒り、車を引いていた者を殺害したという。
朱元璋は胡惟庸に対し、殺された者の命を償うよう命じた。
胡惟庸は金品を遺族に与えて解決しようとしたが、朱元璋は認めなかった。
この事件では、丞相の家族に関わる私的な争いが、皇帝による処罰の問題へ発展している。
『明史』は、胡惟庸がこの処分を恐れ、反乱計画を急ぐようになったと記している。
ただし、事件が実際に謀反の決断につながったかどうかは、史書の叙述と区別する必要がある。
占城の朝貢使節をめぐる事件
1379年には、占城(現在のベトナム中南部に存在した王国)からの朝貢使節をめぐる事件が起きた。
『明史』によれば、占城の使節が到着したにもかかわらず、
胡惟庸ら中書省の官僚は、その事実を朱元璋に報告しなかった。
使節の到着を知った宦官が皇帝に伝えたため、朱元璋は中書省の対応を問題視した。
胡惟庸と汪広洋は謝罪したが、責任を礼部へ転嫁しようとし、礼部側も中書省の責任だと主張した。
朱元璋は関係官僚を拘束し、事件の経緯を厳しく追及した。
この事件は、胡惟庸が掌握していた中書省の情報管理が、
外交使節の到着という重要事項にまで及んでいたことを示している。
同年末には汪広洋も罪を問われ、死を命じられた。
『明史』は、汪広洋の妾が罪人として官に没収された女性だったことも、
朱元璋の怒りを招いたと記している。
胡惟庸にとって、汪広洋の処刑は中書省の幹部が皇帝の処断を免れないことを示す出来事だった。
塗節の告発と1380年の処刑
1380年(洪武13年)正月、胡惟庸の謀反が告発された。
『明史』によれば、御史中丞の塗節が胡惟庸の反乱計画を告発し、
かつて御史中丞を務めた商暠も胡惟庸の秘密を報告した。
朱元璋は激怒し、朝廷の官僚に取り調べを命じた。
捜査では御史大夫の陳寧らも関係者として名前が挙がった。
一方、告発者の塗節についても、もともと計画に加わっていたにもかかわらず、
失敗を察して密告したと判断された。
その結果、胡惟庸、陳寧、塗節らが処刑された。
胡惟庸は中書省左丞相という最高位の文官から、一転して謀反人として処断された。
『明史』は事件の経緯を記しているものの、
告発内容を裏付ける証拠や審理の全過程が詳細に残されているわけではない。
また、後に大きく取り上げられる北元や日本との内通疑惑は、
1380年の処刑時にすべて明らかになっていたわけではなかった。
北元・日本との内通疑惑と胡惟庸の獄の拡大
北元への援軍要請
『明史』胡惟庸伝には、胡惟庸が元朝の旧臣である封績を使い、
北元の君主へ書状を届けさせ、反乱への援軍を求めたという記述がある。
1368年に明朝が成立した後も、元朝の皇族はモンゴル高原へ退いて抵抗を続けていた。
明朝にとって北元は依然として軍事的脅威だったため、
宰相が北元と結んで反乱を起こすという疑惑は重大だった。
しかし、『明史』によれば、封績との関係が改めて問題となったのは胡惟庸の死後である。
1388年、藍玉がモンゴル方面へ遠征した際、封績を捕らえたとされる。
その後、李善長がこの件を朱元璋に報告しなかったことも、李善長への疑惑につながった。
1390年になって封績の件が取り調べられ、胡惟庸の反乱計画に関する証言が得られたと記されている。
胡惟庸が処刑された1380年から十年後に、北元との内通を裏付ける証言が重要視された点は、
事件の経緯を考えるうえで欠かせない。
日本との内通疑惑
胡惟庸には、日本の勢力を利用して朱元璋を倒そうとしたという疑惑もある。
『明史』によれば、
胡惟庸は明州衛の指揮である林賢を通じて日本と連絡し、反乱に協力する兵力を求めたという。
さらに同書の日本伝には、胡惟庸が林賢を日本へ送り、
日本側の兵士を朝貢使節に偽装して明へ入国させ、皇帝を襲撃させようとしたとする記述がある。
兵士たちが持参した大きな蝋燭の内部に武器や火薬を隠していたという話も伝えられている。
ただし、この計画も胡惟庸の生前に発覚したものではない。
『明史』胡惟庸伝では、1386年に林賢の事件が取り調べられ、
胡惟庸の日本との内通が明らかになったとされている。
胡惟庸の死から六年後に浮上した疑惑であり、
当時の日本側の政治状況や外交関係との整合性についても検討が必要である。
『明史』日本伝に記された詳細な皇帝襲撃計画を、
そのまま実行寸前だった史実と断定することはできない。
李善長の処刑と三万人以上の連座
胡惟庸の処刑後も、事件の捜査と連座処罰は終わらなかった。
1385年には李善長の弟である李存義が告発を受け、胡惟庸との関係を取り調べられた。
李存義は死刑を免れたものの、崇明へ移された。
1390年には、胡惟庸と李善長の関係が再び追及された。
『明史』李善長伝によれば、胡惟庸は李存義らを通じて李善長に反乱への協力を求めたという。
李善長は当初これを拒絶したが、最終的には明確に拒み続けなかったとする証言が得られた。
また、李善長の家僕である盧仲謙らも、
李善長と胡惟庸が金品を贈り合い、密かに往来していたと告発した。
朱元璋は李善長が謀反計画を知りながら報告しなかったとして処刑を命じた。
李善長は明朝建国の第一級の功臣であり、韓国公に封じられていたが、家族や親族も連座した。
同じ時期には陸仲亨、費聚、唐勝宗、趙庸らの功臣も胡惟庸の党与として処刑された。
『明史』胡惟庸伝は、事件に連座して処刑された者が三万人余りに達したと記している。
ただし、この人数は胡惟庸の処刑当時のものではなく、
その後十年以上にわたって拡大した粛清全体に関する数字である。
朱元璋は事件の罪状をまとめた『昭示奸党録』を公布し、胡惟庸らの謀反を広く知らせた。
胡惟庸の獄は、1380年の宰相処刑に始まり、
1390年前後には明朝建国の功臣層を大きく巻き込む政治的粛清へ発展していた。
宰相制度の廃止と皇帝独裁体制への転換
中書省の廃止と六部の皇帝直属化
胡惟庸が処刑された1380年、朱元璋は中書省を廃止し、丞相職も撤廃した。
それまで中書省の統轄下に置かれていた吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部は、
皇帝の直接統轄を受けることになった。
これにより、官僚機構の頂点で皇帝と六部の間に立っていた宰相は存在しなくなった。
行政の最終的な判断は朱元璋自身に集中するようになり、明朝の中央政治は大きく変化した。
中書省の廃止は、胡惟庸個人の処刑とは異なり、制度上の変更として明確に確認できる。
宰相を復活させないという方針
朱元璋は、後継者に対しても宰相制度を復活させない方針を示した。
『皇明祖訓』には、皇帝が六部を統轄する体制を維持し、丞相を置いてはならないとする規定がある。将来、宰相の設置を求める者が現れた場合には、重く処罰するという内容も含まれている。
この規定によって、胡惟庸の獄を契機とする制度改革は、
朱元璋一代の臨時措置ではなく、明朝の基本的な統治原則となった。
ただし、宰相職が廃止されても、行政実務そのものが消えたわけではない。
朱元璋は膨大な文書を自ら処理する必要に迫られ、
後には大学士などの文官が皇帝の政務を補佐するようになった。
さらに明朝中期以降には内閣が発達し、内閣大学士が政治上の大きな影響力を持つようになる。
しかし、内閣大学士は制度上の丞相ではなく、その権限は皇帝の委任に基づいていた。
胡惟庸の獄以後、明朝では正式な宰相職が復活することはなかった。
胡惟庸の人物像と逸話
実務能力と権力への執着
『明史』は胡惟庸について、
当初は朱元璋の意向に従い、慎重に振る舞うことで信任を得たと記している。
地方官から中書省の最高位まで昇進した経歴は、
胡惟庸が官僚として長く政務に携わっていたことを示している。
ただし、具体的な行政改革や民政上の成果については、李善長などに比べて記録が乏しい。
そのため、胡惟庸を「有能な行政改革者」と評価する場合にも、
何を改革したのかを具体的に示すことは難しい。
一方、奏上文書の隠蔽、官僚の人事への介入、賄賂の受領などは『明史』が明確に記す行為である。
胡惟庸が朝廷で強い影響力を持っていたことと、
謀反を実際に計画していたかどうかは、分けて考える必要がある。
井戸から現れた石筍と祖先の墓の怪光
胡惟庸に関する逸話のなかでも、奇怪な前兆として伝えられているのが、
故郷の井戸と祖先の墓をめぐる話である。
『明史』胡惟庸伝によれば、
定遠にあった胡惟庸の旧宅の井戸から石筍が生じ、水面から数尺も突き出したという。
胡惟庸に取り入ろうとする者たちは、これを丞相にとっての瑞兆だと称えた。
さらに、胡惟庸の祖父から三代にわたる墓の上で、
夜になると天を照らすほどの光が現れるという話も広まった。
『明史』は、こうした話を聞いた胡惟庸が自負を強め、
やがて謀反の野心を抱くようになったと記している。
ただし、井戸の石筍や墓の怪光は、
胡惟庸が反逆者として描かれる過程で重要な役割を与えられた逸話である。
異常な自然現象が実際に起きたかどうかも、
胡惟庸がそれを皇帝になる前兆と受け取ったかどうかも確認できない。
賄賂と人事操作の記録
胡惟庸の門前には、官職を求める者や失職した功臣が集まったと伝えられている。
『明史』は、彼らが金銀や珍品を贈ったと記す一方、
胡惟庸がすべての贈答に対して具体的にどのような便宜を図ったのかまでは詳述していない。
李善長への黄金二百両の贈与についても、『明史紀事本末』に記録されているが、
これを根拠として胡惟庸の官歴全体が賄賂だけで築かれたと断定することはできない。
ただし、官職への推薦と私的な贈答、姻戚関係が結びついていたという記録は、
胡惟庸が築いた政治的人脈の性格を知る手がかりとなる。
胡惟庸は本当に謀反を企てたのか
1380年の告発と後年の追加罪状
胡惟庸の謀反を検討する際には、
1380年の告発内容と、その後に追加された罪状を区別する必要がある。
1380年に塗節らの告発によって胡惟庸が処刑されたことは、
事件の基本的な経過として記録されている。
一方、北元への援軍要請、日本との内通、李善長の関与などは、
胡惟庸の死後に取り調べられた事件と結びついている。
『明史』は、胡惟庸の死後も謀反の全容が明らかになっていなかったと説明する。
しかし、処刑から長い年月が経過した後に得られた証言には、
取り調べの政治的背景や供述の信頼性という問題が残る。
特に、胡惟庸と関係のあった人物が次々と処刑される過程では、
告発された側が自分の身を守るために他者の関与を認めたり、
捜査側が既存の人脈を謀反の組織として解釈したりする可能性を考慮する必要がある。
冤罪説と史料の限界
胡惟庸の謀反については、
朱元璋が宰相制度を廃止し、功臣勢力を排除するために事件を利用したという見解がある。
この見解では、胡惟庸の権力濫用や官僚との対立が存在したとしても、
それが直ちに皇帝への反乱計画を意味するわけではないとされる。
実際、胡惟庸の処刑後には中書省が廃止され、
さらに事件の追及によって李善長をはじめとする功臣層が粛清された。
結果として朱元璋の権力が強化されたことは明らかである。
しかし、制度改革によって朱元璋が利益を得たという事実だけで、
謀反の告発がすべて捏造だったと証明できるわけでもない。
胡惟庸が不正な人事や贈収賄に関与していた可能性、
武将たちと政治的な結びつきを持っていた可能性、
そして実際に反乱を計画していた可能性は、それぞれ別の問題である。
『明史』などの史書は胡惟庸を反逆者として記録しているが、
その記述には処刑後の取り調べや政治的な罪状の追加が反映されている。
したがって、謀反の実在を全面的に肯定することも、すべて冤罪だったと断定することもできない。
李善長との違い
李善長と胡惟庸は、いずれも明朝の中書省で重要な役割を果たしたが、その経歴には違いがある。
李善長は朱元璋の勢力がまだ小さかった時期から仕え、
軍需物資の調達、官制の整備、律令や礼制の制定など、建国事業の幅広い分野に関与した。
これに対して胡惟庸は、地方行政から中央官僚へ昇進し、
明朝成立後の中書省で権力を強めた人物だった。
李善長は1371年に丞相を退いた後も、韓国公として高い地位を保ち続けた。
一方、胡惟庸は現職の左丞相として処刑された。
しかし、李善長も1390年に胡惟庸の獄へ連座して処刑されたため、
引退によって粛清を免れたわけではなかった。
二人の最期は、朱元璋の政権において、
建国以来の功績や高い官位が必ずしも身の安全を保障しなかったことを示している。
まとめ
胡惟庸は、朱元璋が築いた明朝の官僚機構のなかで、
丞相がどこまで権力を行使できるかという問題に直面した人物だった。
胡惟庸が中書省を掌握し、上奏文書や官僚人事に強い影響力を及ぼしたことは、
史書に具体的に記されている。
一方、謀反の詳細、とりわけ北元や日本との内通については、
本人の処刑後に成立した証言や記録が大きな比重を占めている。
1380年の処刑は一人の宰相の失脚で終わらず、
丞相制度の廃止と、十年以上に及ぶ大規模な粛清につながった。
胡惟庸が実際に反乱を企てていたかどうかにかかわらず、
その事件を通じて朱元璋が皇帝直属の中央行政体制を確立したことは、
明朝の政治制度を決定づける変化となった。
お薦め商品

史書・参考文献
・『明史』巻三百八「列伝第一百九十六 奸臣 胡惟庸」
・『明史』巻百二十七「列伝第十五 李善長」
・『明史』巻百二十八「列伝第十六 劉基」
・『明実録』「太祖実録」
・『明史紀事本末』巻十三「胡藍之獄」
・『皇明祖訓』
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