徐皇后(じょこうごう、1362〜1407年)は、
明の第3代皇帝・永楽帝朱棣の皇后であり、建国の名将・徐達の長女である。
幼少期から読書を好み、「女諸生」と呼ばれた才女で、
洪武帝朱元璋の命によって燕王朱棣の正室となった。諡号から仁孝文皇后とも呼ばれる。
1399年に靖難の変が始まると、朱棣が出征している間、世子朱高熾とともに北平の防衛を支えた。
李景隆の大軍が北平を包囲した際には、将兵や民衆の妻たちを武装させて城壁の守備に参加させ、
燕王軍の本拠地を守り抜いた。
1402年に朱棣が皇帝となると皇后に立てられ、
戦乱で疲弊した民衆の休養、旧臣の登用、皇族への適切な処遇を進言した。
弟の徐増寿への封爵に反対して外戚への恩賞を戒め、
漢王朱高煦と趙王朱高燧の性格を憂慮して官僚による補佐を求めたことも知られる。
また、『内訓』『勧善書』を編纂し、女性教育や道徳の普及にも関わった。
1407年に46歳で死去すると、永楽帝は仏教儀礼によってその死を弔い、
チベット仏教の高僧にも追善供養を命じた。
徐皇后の出自と燕王朱棣との結婚
徐達の長女として生まれた才女
徐皇后は1362年、後に明朝建国の第一級の功臣となる徐達の長女として生まれた。
徐達は朱元璋の挙兵初期から従い、陳友諒や張士誠との戦い、
元朝に対する北伐などで功績を挙げた武将である。
徐氏が生まれた頃、朱元璋はまだ皇帝ではなく、元末の戦乱のなかで勢力を拡大していた。
徐達も各地を転戦しており、徐氏は明朝成立以前から
朱元璋の政権と深い関係を持つ武将の家に育った。
『明史』巻113「仁孝文皇后伝」によれば、徐氏は幼い頃から貞静で、読書を好んだ。
その教養の高さから「女諸生」と呼ばれていたという。
諸生とは儒学を学ぶ学生を指す言葉であり、
徐氏が女性として高い学識を持つ人物と評価されていたことを示している。
ただし、幼少期にどのような教育を受け、
具体的にどの経書や史書を修めたのかについては詳しい記録がない。
後に北平防衛で重要な役割を果たしたことから、
若い頃から軍事教育を受けていたと説明されることもあるが、
主要な史料にそのような記述は見られない。
↓↓明朝建国を軍事面から支えた名将・徐達についての個別記事は、こちら

朱元璋が自ら申し入れた縁談
徐氏の評判は朱元璋にも伝わっていた。
『明史』によれば、朱元璋は徐達を召し、
自分と徐達がまだ身分の低かった頃から交わりを持っていたことに触れ、
古来、君臣が親密な関係を結ぶ際には婚姻によって結びつくことが多かったと語った。
そして、徐達には立派な娘がいると聞いているので、自分の息子の朱棣に嫁がせたいと申し入れた。
徐達はこれを受け入れ、1376年、徐氏は燕王朱棣の妃となった。
この婚姻は、朱元璋の皇子と建国功臣の家を結びつけるものだった。
徐達は明朝の軍事を支える有力者であり、その長女が燕王妃となったことで、
燕王家と徐家の関係は一層深まった。
朱棣は朱元璋の四男であり、後に北方の重要拠点である北平を統治することになる。
徐氏はその正室として燕王家の家政を担い、皇子や公主たちを養育した。
馬皇后からの寵愛
徐氏は朱元璋の皇后である馬皇后からも深く愛された。
『明史』は、馬皇后が徐氏を非常にかわいがり、徐氏もその教えを守ったと記している。
1382年に馬皇后が死去すると、徐氏は義母の喪に服し、
三年間にわたって粗末な食事を取り、礼に従って生活したという。
また、馬皇后が生前に残した教えのうち、実行できるものは一つも忘れずに守ったと伝えられている。
馬皇后は朱元璋の正室として後宮を統率し、皇帝に諫言した人物として知られる。
徐氏も後に永楽帝の皇后となり、皇帝への進言や女性の教化に関わることになるが、
馬皇后から受けた具体的な教えの全容が記録されているわけではない。
徐氏が義母を敬い、その死後も教えを守ったという記述は、
『明史』が徐皇后の人物像を伝える際に重視した事績である。
↓↓賢后として知られる朱元璋の皇后・馬皇后についての個別記事は、こちら

七人の子と燕王家
徐氏は朱棣との間に三男四女、計七人の子をもうけた。
男子は長男の朱高熾、次男の朱高煦、三男の朱高燧である。
朱高熾は後に明の第4代皇帝・洪熙帝となり、朱高煦は漢王、朱高燧は趙王に封じられた。
女子には永安公主、永平公主、安成公主、咸寧公主がいる。
長男の朱高熾は学問を好み、温厚な性格で知られた一方、
次男の朱高煦は騎射に優れ、父の朱棣に従って戦場で功績を挙げた。
兄弟の性格や経歴の違いは、後に永楽帝の皇位継承問題へ発展する。
徐氏は朱棣の正室であると同時に、皇位継承に関わる皇子たちの母でもあった。
↓↓長男の朱高熾、次男の朱高煦についての個別記事は、こちら


燕王妃時代と徐家の分裂
北平への移住と燕王家の運営
1380年、朱棣は燕王として北平へ赴いた。
徐氏も夫に従い、燕王府で生活することになった。
北平は元朝の大都が置かれていた都市であり、明朝成立後も北方防衛の重要拠点だった。
燕王朱棣は周辺の軍事勢力を統轄し、北元への備えを担っていた。
徐氏は燕王妃として家政を取り仕切り、朱高熾らの子女を養育した。
朱棣が軍事行動に従事する機会も多く、燕王家には武将や官僚が出入りしていた。
ただし、靖難の変以前から徐氏が燕王府の軍事作戦や人事を
直接決定していたという具体的な記録は乏しい。
後に北平防衛で重要な役割を果たしたことは確かだが、
それを根拠として燕王妃時代全体を軍事参謀として描くことはできない。
徐輝祖は建文帝側に立った
1398年に朱元璋が死去すると、皇太孫の朱允炆が即位して建文帝となった。
建文帝は諸王の勢力を削減する政策を進め、燕王朱棣との対立を深めた。
1399年、朱棣が挙兵すると、明朝の皇族と功臣の家々は建文帝と燕王のどちらに従うか
という問題に直面した。徐氏の実家も例外ではなかった。
父の徐達はすでに1385年に死去しており、魏国公の爵位は息子の徐輝祖が継いでいた。
徐輝祖は建文帝に忠誠を尽くし、朱棣の軍と戦った。
徐輝祖は徐皇后の弟にあたるが、靖難の変では姉の夫である朱棣と敵対する立場になった。
徐氏が燕王妃として夫を支える一方、徐輝祖は明朝の正統な皇帝として即位した建文帝に従ったため、徐家は政治的に分かれることになった。
↓↓明朝第二代皇帝・建文帝についての個別記事は、こちら

徐増寿は朱棣に協力した
徐家のなかには、徐輝祖とは反対に朱棣へ協力した人物もいた。
徐皇后の弟である徐増寿は、南京の朝廷にいながら密かに朱棣へ情報を伝えていた。
『明史』后妃伝にも、徐増寿が朝廷の事情を燕王側へ知らせていたことが記されている。
徐増寿の行動は建文帝に発覚し、1402年、朱棣軍が南京へ迫るなかで殺害された。
同じ徐達の子でありながら、徐輝祖は建文帝に従い、徐増寿は朱棣に協力した。
徐氏が燕王妃として北平にいたことだけでなく、
実家の兄弟たちもそれぞれ異なる立場から内戦に関与していたのである。
この対立は、朱棣が皇帝となった後の徐家の処遇にも影響した。
靖難の変|李景隆の大軍から北平を守る
朱棣の出征と北平包囲
1399年、燕王朱棣は建文帝の削藩政策に反発し、北平で挙兵した。
朱棣は「君側の奸を清める」と称し、建文帝を補佐する斉泰・黄子澄らを排除することを掲げた。
しかし、実際には皇帝の命令に反して軍を動かしたため、建文帝側から見れば反乱だった。
朱棣が軍を率いて北平を離れると、燕王軍の本拠地は手薄になった。
北平は朱棣の軍事的基盤であり、家族や物資が集まる重要な都市だったため、
ここを失えば燕王軍は大きな打撃を受けることになる。
当時、朱棣の長男である朱高熾は世子として北平に残り、守備を担当していた。
朱高熾は父の出征中に城内の軍事と行政を取り仕切ったが、兵力は限られていた。
『明史』后妃伝によれば、
北平の防衛準備や軍需物資の手配については、多くの事項が徐氏の判断を仰いで行われたという。
徐氏は燕王家の家政を担うだけでなく、城の防衛を支える立場に置かれていた。
↓↓五十万と記される大軍を率いて燕王朱棣と戦った李景隆についての個別記事は、こちら

朱能の軍功と北平守備の実態
朱棣の配下には、後に靖難の変で大きな功績を挙げる朱能がいた。
朱能は燕山護衛の武官の家に生まれ、朱棣の挙兵当初から軍事行動に参加した。
『明史』巻145「朱能伝」によれば、朱能は張玉とともに北平の九門を奪取する作戦に関わり、
その後も薊州・遵化・真定などの戦いで功績を挙げた。
しかし、李景隆が北平を包囲した際、
朱能が城内の守備を直接指揮していたとする説明は正確ではない。
朱能は朱棣に従って大寧攻略に参加しており、
帰還後には左軍を率いて李景隆軍と鄭村壩で戦っている。
北平の籠城戦では、世子朱高熾が守備の中心となり、
李譲や梁明らが城門の防衛に関わったことが『明史紀事本末』に記されている。
朱能は靖難の変を支えた重要な武将だったが、
北平包囲戦における城内の守備指揮官として扱うことはできない。
将兵と民衆の妻を武装させた徐氏
李景隆軍が北平を激しく攻撃すると、城内では守備兵の不足が深刻になった。
このとき徐氏は、将兵や民衆の妻たちを励まし、武器や甲冑を与えて城壁の守備に参加させた。
『明史』は、徐氏が女性たちを励まして武装させ、城壁に登って敵軍を防がせたと記している。
女性たちが実際に城壁で防衛に加わったことは、正史に明記された徐皇后の重要な事績である。
『明史紀事本末』にも、李景隆軍が麗正門を攻撃して城が陥落寸前となった際、
城内の女性たちが城壁に登って瓦礫を投げつけ、敵軍を防いだことが記されている。
ただし、徐氏自身が甲冑をまとって敵兵と直接戦ったかどうかについては、
『明史』の記述だけでは確認できない。
また、徐氏が軍全体の作戦指揮権を持っていたとするのも正確ではない。
北平の軍事指揮は世子朱高熾や守備を担当する武将たちが担い、
徐氏は防衛準備と城内の人員動員に大きく関わっていた。
城内の女性まで守備に参加したことは、北平がそれほど厳しい状況に置かれていたことを示している。
北平防衛の成功と靖難の変への影響
北平は李景隆軍の攻撃に耐え、陥落を免れた。
その後、朱棣は軍を率いて北平方面へ戻り、李景隆軍を撃退した。
燕王軍は本拠地を維持し、靖難の変を継続することができた。
北平防衛の成功は、朱高熾や守備兵の働きによるものであり、徐氏一人の功績ではない。
しかし、兵力が不足するなかで女性たちを守備に参加させたことは、
城を維持するための重要な対応だった。
『明史』が徐皇后の伝記で北平防衛を詳しく取り上げているのも、
この事績が燕王妃としての彼女の働きを示すものだったためである。
1402年、朱棣は南京を攻略し、建文帝の政権を倒して皇帝に即位した。
北平で朱棣の本拠地を守った徐氏も、燕王妃から明朝の皇后となる。
永楽帝の皇后としての政治的役割
皇后への冊立と戦後の民生回復
1402年、朱棣が皇帝に即位すると、徐氏は皇后に冊立された。
靖難の変は1399年から1402年まで続いた内戦であり、明朝の軍隊と民衆に大きな負担を与えていた。
戦争が終わっても、軍事行動による疲弊や政治的対立は残っていた。
『明史』によれば、徐皇后は永楽帝に対し、
南北で長年戦闘が続いたため、兵士も民衆も疲れ果てていると述べ、休養を与えるよう進言した。
また、朝廷に仕える有能な人材は、もともと太祖朱元璋が残した臣下であるとして、
永楽帝が新旧の区別によって官僚を扱わないよう求めた。
永楽帝は靖難の変によって皇位を得たため、建文帝に仕えた官僚の処遇が重要な問題になっていた。
徐皇后の進言は、皇位をめぐる内戦の後も国家行政を継続するため、
旧臣を一律に排除しないよう求めるものだった。
徐皇后はさらに、古代の聖王である堯が仁政を身近な親族から始めたことを引き合いに出し、
皇族への処遇にも配慮するよう勧めた。
『明史』は、永楽帝がこれらの進言を受け入れたと記している。
弟・徐増寿への封爵に反対
徐皇后が外戚への恩賞を戒めた出来事として、弟の徐増寿への封爵をめぐる逸話がある。
徐増寿は靖難の変で朱棣に協力し、建文帝に殺害されていた。
永楽帝は即位後、その功績に報いるため、徐増寿へ爵位を追贈しようとした。
しかし徐皇后は、弟が自分の夫に協力したからといって、
皇后の実家に特別な恩賞を与えることに反対した。
『明史』によれば、徐皇后は強く反対したが、
永楽帝はその意見を採用せず、徐増寿を定国公に追封し、息子の徐景昌に爵位を継がせた。
永楽帝が決定を伝えると、
徐皇后はそれが自分の望んだことではないと述べ、最後まで謝意を示さなかったという。
この逸話は、徐皇后が実家の利益を求めて皇帝に働きかけたのではなく、
外戚への恩賞が過度になることを警戒していたとする史書の人物描写である。
なお、徐増寿はすでに死亡していたため、
定国公の爵位は追贈であり、実際にはその子の徐景昌が継承した。
徐輝祖の処遇と助命嘆願の伝承
一方、建文帝に従った徐輝祖は、永楽帝の即位後に厳しい処遇を受けた。
徐輝祖は靖難の変の間、朱棣に対して軍事的に抵抗し、南京が陥落した後も新皇帝への服従を拒んだ。
『明史』徐輝祖伝によれば、徐輝祖は父の徐達に与えられた免死鉄券を根拠に処刑を免れ、
爵位を削られて私邸に幽閉された。
徐皇后が弟の助命を嘆願したとする話も伝わる。
しかし、『明史』徐皇后伝と徐輝祖伝には、
徐皇后が永楽帝に嘆願して弟を救ったという具体的な記述はない。
徐輝祖が死刑を免れたことは確認できるが、その理由を徐皇后の嘆願だけで説明することはできない。
徐輝祖は1407年に死去した。
その後、息子の徐欽が魏国公を継いでおり、徐家の本流は断絶していない。
徐家では、朱棣に協力した徐増寿の家系が定国公となり、
建文帝に従った徐輝祖の家系も最終的には魏国公を継承した。
靖難の変によって政治的立場が分かれた徐家は、
永楽帝の即位後も明朝の有力な功臣家として存続した。
後宮の統率と皇族への諫言
漢王・趙王の性格を憂慮
徐皇后は、息子たちの将来についても永楽帝に進言していた。
『明史』によれば、徐皇后は漢王朱高煦と趙王朱高燧の性格がよくないことを憂慮し、
朝廷の官僚から適切な人物を選んで両王の補佐役を兼ねさせるよう求めた。
朱高煦は靖難の変で軍功を挙げた皇子であり、父の永楽帝からも武勇を評価されていた。
しかし、兄の朱高熾が皇太子となると不満を抱き、後には皇位継承をめぐる対立を激化させた。
朱高燧もまた、兄たちの皇位継承争いに関わることになる。
徐皇后が両王の性格を問題視し、官僚による補佐を求めたことは、
息子たちへの教育と統制を重視していたことを示している。
徐皇后の死後、朱高煦は永楽帝から私兵養成や不法行為を厳しく処罰され、
1426年には宣徳帝に対して反乱を起こした。
朱高燧の周辺でも皇位を狙う陰謀が発覚している。
ただし、徐皇后が存命であればこれらの事件を防げたとする根拠はない。
史書から確認できるのは、徐皇后が生前に二人の性格を憂慮し、
適切な補佐役を置くよう求めていたことである。
官僚の妻たちを宮中に招く
徐皇后は後宮の女性だけでなく、朝廷の官僚の妻たちにも訓戒を与えた。
『明史』によれば、徐皇后が永楽帝に政務をともに行う者について尋ねると、
永楽帝は六部の長官が行政を担当し、翰林院の官僚が政策の検討や文章の作成を担っていると答えた。
そこで徐皇后は、これらの官僚の妻たちを宮中へ招くよう求めた。
徐皇后は彼女たちに冠服や紙幣を与え、夫を支える女性の役割について語った。
その言葉によれば、妻の務めは食事や衣服の世話だけではなく、
夫の行動を正すために助言することも含まれていた。
友人の言葉には従うことも従わないこともあるが、
妻の言葉は穏やかで耳に入りやすいため、夫を善い方向へ導くことができると説いた。
徐皇后は、自分も日々皇帝に仕えながら民衆の生活を第一に考えているので、
官僚の妻たちも夫に同じことを勧めてほしいと述べた。
これは、女性が政治の官職に就くことを求めたものではない。
官僚の家庭を通じて、夫の職務や政治姿勢に良い影響を与えることを期待した訓戒だった。
後宮の規律と皇后の役割
徐皇后は皇后として後宮を統率し、宮廷の礼法を守る立場にあった。
『明史』は、徐皇后が馬皇后の教えを守り、皇帝に諫言し、外戚への恩賞を戒めたことを記している。これらの行動には、皇后が私的な利益を求めず、
皇帝や皇族の行動を正すべきだという儒教的な皇后像が表れている。
『罪惟録』には、徐皇后が妃嬪以下の女性たちに端正さと和睦を求め、
外戚には法を守るよう諭したことが記されている。
また、徐皇后自身の質素な生活が後宮にも影響したと伝えている。
ただし、後宮のすべての女性を寵愛の有無にかかわらず公平に扱ったことや、
宮女の待遇を細かく改善したことについては、具体的な事例が十分に残されていない。
徐皇后の後宮統率を考えるうえでは、確認できない日常的な逸話を付け加えるより、
官僚の妻への訓戒、外戚への恩賞の拒否、
皇子たちへの警戒といった具体的な行動を重視する必要がある。
『内訓』『勧善書』と女性教育
『内訓』二十篇の編纂
徐皇后は、女性の行動規範を説いた『内訓』を編纂した人物としても知られる。
『明史』によれば、徐皇后は古代の女性教育に関する書物である
『女憲』『女誡』などから教えを採り入れ、『内訓』二十篇を著した。
『女誡』は後漢の班昭による女性教育書として知られ、夫婦関係や家族内の礼法などを説いている。
徐皇后の『内訓』も、儒教的な倫理観に基づいて女性の行動を定める書物だった。
『内訓』は、女性が家庭のなかで果たす役割を重視し、
日常の言動から親族との関係まで幅広い問題を扱っている。
全二十篇には、徳性・修身・慎言・謹行・勤励・警戒・節倹・積善・遷善・崇聖訓・景賢範・事父母・
事君・事舅姑・奉祭祀・母儀・睦親・慈幼・逮下・待外戚などが含まれる。
その内容には、次のような規範が含まれる。
・夫婦関係のあり方
・家庭内秩序の維持
・感情の制御と節度
・上位者としての振る舞い
『内訓』は、女性に従順さを求めるだけでなく、家庭内で年長者や母親の立場にある女性が、
どのように自分の言動を律し、家族を導くべきかについても説いている。
ただし、その基本には儒教的な男女の役割分担と家族内の上下関係があり、
現代的な意味で女性の政治的権利や社会的自立を説いた書物ではない。
徐皇后が自ら皇帝に進言し、官僚の妻たちにも助言の重要性を説いていたことは、
『内訓』の内容と共通する部分を持っている。
『勧善書』と善行の普及
徐皇后は『内訓』のほかに、古人の優れた言葉や善行を集めた『勧善書』も編纂した。
『明史』によれば、徐皇后は古代の人物の言行から模範となるものを選び、
分類して書物にまとめ、天下に頒布したという。
『勧善書』は、個人が善行を積むことを勧めるだけでなく、
過去の人物の行動を通じて道徳的な判断の基準を示す書物だった。
徐皇后が重視したのは、身分や立場に応じた責任を果たし、
礼を守り、他者に対して善い行いを実践することだった。
『内訓』が主として女性の行動規範を説いたのに対し、
『勧善書』は古人の善行を集め、より広い範囲に道徳的な模範を示すものだった。
『高皇后聖訓』と馬皇后の教え
徐皇后には、義母である馬皇后の言行をまとめた『高皇后聖訓』の編纂も伝えられている。
馬皇后は朱元璋に諫言し、後宮を統率した皇后として知られ、
徐皇后自身も生前にその教えを受けていた。
『高皇后聖訓』は、馬皇后の言葉や行動を後世の模範として伝えることを目的とする書物であり、
皇后が守るべき徳目を示すものだった。
ただし、『明史』徐皇后伝で明確に著述が記されているのは『内訓』と『勧善書』である。
『高皇后聖訓』については、書誌資料や伝本の成立事情もあわせて扱う必要がある。
徐皇后の著述活動には、馬皇后から受け継いだ教えを後世へ伝えようとする姿勢と、
儒教的な家族秩序を広めようとする目的が見られる。
仏教経典の刊行と永楽帝の政治
徐皇后の文化事業は、儒教的な女性教育や勧善書の編纂だけではなかった。
永楽元年(1403年)には、徐皇后の名と結びつく『夢感仏説第一希有大功徳経』が刊行されている。
この経典は、徐皇后の夢に関する記述を伴い、
仏教的な功徳や皇帝の統治を結びつける性格を持っていた。
靖難の変によって皇位を得た永楽帝は、即位後に自らの統治の正統性を示す必要があった。
徐皇后の名による経典の刊行は、仏教の功徳を通じて皇室の権威を示す文化事業でもあった。
徐皇后の著述活動は、『内訓』による女性教育、『勧善書』による道徳の普及、
仏教経典の刊行という複数の領域に及んでいた。
儒教と仏教の双方を用いて皇室の徳を示そうとした点は、永楽帝政権の文化政策とも関係している。
家庭の秩序と国家の統治
徐皇后の著作には、家庭の秩序を社会全体の安定につなげる儒教的な考え方が表れている。
『内訓』では、
女性が自分の言動を律し、夫や子を支え、親族との関係を正しく保つことが求められる。
『勧善書』では、古人の善行を手本として人々の道徳を高めることが重視される。
その中心にあるのは、次のような考え方である。
・上下関係の明確化
・礼の徹底
・感情より理を優先する判断
・家族単位からの秩序形成
こうした思想は、明朝が建国以来重視してきた儒教的な統治理念と共通している。
徐皇后は靖難の変による内戦を経験し、その後に永楽帝の皇后となった。
戦乱によって社会が疲弊した時期に、
民衆の休養を求め、官僚の妻たちに夫を正しく導くよう説き、道徳書を頒布したことは、
彼女の政治的な進言と著述活動が別々のものではなかったことを示している。
ただし、『内訓』や『勧善書』の頒布によって
具体的にどの程度社会秩序が改善されたのかを示す記録はない。
著作の理念と、その社会的な効果は区別する必要がある。
著述と実際の行動
徐皇后の著作で説かれる節度や礼法は、史書に記された彼女自身の行動とも共通している。
その具体例として挙げられるのが、次の四点である。
・外戚の専横を抑制
・後宮の規律維持
・皇帝への諫言
・倹約の徹底
外戚への恩賞を戒めたことは、弟の徐増寿への封爵に反対した逸話から確認できる。
皇帝への諫言についても、戦乱で疲弊した民衆の休養や、旧臣の登用を求めた記録が残っている。
後宮の規律維持や倹約については、『罪惟録』に妃嬪への訓戒や質素な生活の記述があり、
徐皇后の徳行を伝える記録と関連している。
徐皇后は道徳書を著しただけでなく、自らも皇帝や皇族の行動に意見を述べた。
その一方で、皇帝の決定を常に変更させられたわけではなく、
徐増寿への封爵では永楽帝が皇后の反対を押し切っている。
倹約と永楽帝への諫言
徐皇后は、名将徐達の娘として生まれ、燕王妃から皇后へと地位を高めたが、
史書では華美な生活を求める人物としては描かれていない。
『罪惟録』には、徐皇后が質素な生活を送り、後宮にもその風習が広まったと記されている。
また、妃嬪たちには端正さと和睦を求め、外戚には法を守るよう諭したという。
『明史』が重視するのは、徐皇后が民衆の生活を気にかけ、
皇帝に対して必要な進言を行ったことである。
靖難の変が終わった後には、南北の戦乱によって疲弊した兵士と民衆に休養を与えるよう求めた。
また、建文帝に仕えた官僚を含め、太祖以来の人材を新旧の区別なく用いるよう進言している。
徐皇后は皇族への処遇にも関心を持ち、漢王・趙王には適切な官僚を補佐役として付けるよう求めた。さらに外戚への過度な恩賞を戒め、自分の弟である徐増寿への封爵にも反対した。
これらの進言には、皇帝の権威を否定するのではなく、
皇帝の判断が国家や皇族に悪影響を及ぼさないよう働きかける姿勢が見られる。
一方、永楽帝が徐皇后の言葉によって個々の処刑を取りやめたという具体的な逸話は、
徐皇后伝には多く残されていない。
永楽帝の苛烈な政治を徐皇后が全面的に抑制していたとする説明は、史料上の裏付けが不足している。
徐皇后の諫言として確実に挙げられるのは、
民生の回復、人材登用、皇族の統制、外戚への恩賞の抑制などである。
晩年と死|仁孝文皇后の最期
1407年の病と臨終の遺言
1407年(永楽5年)7月、徐皇后は病に倒れた。
『明史』によれば、病状が重くなっても徐皇后は国家のことを案じ、永楽帝に対して民衆を大切にし、広く賢才を求め、皇族には恩義と礼をもって接し、外戚を甘やかして驕慢にさせないよう進言した。
『罪惟録』には、民衆がまだ十分に回復していないことを憂慮し、賢良な人物を求めて善悪を見分け、
小さな過失によって人材を退けないよう求めたことも記されている。
さらに、皇太子には過度に悲しんで身体を損なわないよう戒め、
葬礼を簡素にして臣民へ負担をかけないよう願ったという。
これは、皇后となってから繰り返し述べてきた政治上の意見と共通している。
さらに徐皇后は、皇太子朱高熾に対しても遺言を残した。
靖難の変で北平を守った際、将兵の妻たちが自分とともに武器を持って城を守ってくれたが、
永楽帝の北巡に同行して彼女たち一人ひとりを慰労する機会を得られなかったことを悔やんだという。
徐皇后は、北平防衛に協力した女性たちへの恩を忘れていなかった。
同年7月、徐皇后は46歳で死去した。
永楽帝の悲嘆と大規模な仏教儀礼
徐皇后の死後、永楽帝は深く悲しんだと『明史』は記している。
永楽帝は南京の霊谷寺と天禧寺で大規模な仏教儀礼を行わせ、皇后の冥福を祈った。
また、群臣による祭祀を認め、光禄寺に祭祀の供物を用意させた。
さらに『明太宗実録』巻69には、永楽帝が「如来大宝法王哈立麻」に命じ、
山西の五台山で徐皇后の追善供養を行わせたことが記されている。
哈立麻はチベット仏教カルマ・カギュ派の高僧、カルマパ5世デシン・シェクパ(得銀協巴)である。
永楽帝はこの法会のため、白銀千両や錦・緞・綾・羅・絹布など二百六十匹を与え、
ほかの高僧たちにも銀や絹織物を下賜した。
徐皇后の葬礼では、南京の仏教寺院だけでなく、チベット仏教の高僧も追善供養に関わっていた。
永楽帝がカルマパ5世を重んじていたことは、皇后の死後に行われた儀礼からも確認できる。
永楽帝は徐皇后の死後、新たな皇后を立てなかった。
ただし、その後の永楽帝の北方遠征や強硬政策が徐皇后の死によって始まったとする根拠はない。
永楽帝は徐皇后の生前から軍事遠征や大規模な国家事業を進めており、
皇后の死と政策の変化を直接結びつけることはできない。
仁孝皇后の諡号と長陵への埋葬
1407年、徐皇后には「仁孝皇后」の諡号が贈られた。
1409年、永楽帝は昌平の天寿山に皇帝陵の造営を始めた。陵墓はその後完成し、
徐皇后は1413年にここへ移葬された。これが明の十三陵の一つである長陵である。
長陵は永楽帝と徐皇后の合葬陵となり、後に永楽帝もここへ葬られた。
1424年、朱高熾が洪熙帝として即位すると、母の徐皇后にはさらに長い尊諡が贈られた。
その正式な諡号は「仁孝慈懿誠明荘献配天斉聖文皇后」である。
また、徐皇后は太廟にも祀られ、永楽帝の皇后として明朝の祖先祭祀に位置づけられた。
徐皇后は1407年に死去したため、
夫の永楽帝が1424年に亡くなるまでの約17年間をともに過ごすことはなかった。
また、長男の朱高熾が洪熙帝となる姿も見ていない。
まとめ
徐皇后は、朱元璋が徐達との関係を深めるために燕王朱棣の正室として迎えた女性だったが、
靖難の変では北平の防衛に直接関わり、
将兵や民衆の妻たちを武装させて城を守るという具体的な功績を残した。
皇后となってからは、戦乱で疲弊した民衆の休養、旧臣の登用、皇族の統制、
外戚への恩賞の抑制を永楽帝に進言した。
弟の徐増寿への封爵に反対したことや、漢王朱高煦・趙王朱高燧の性格を憂慮したことは
、皇后としての立場と実家・子女への私情を分けようとした行動として記録されている。
『内訓』『勧善書』の編纂と官僚の妻たちへの訓戒には、
家庭内の道徳と国家の統治を結びつける儒教的な考え方が表れている。
さらに仏教経典の刊行にも関わり、儒教と仏教の双方を通じて皇室の徳を示そうとした。
1407年の臨終に際しても、徐皇后は民衆と皇族の処遇について進言し、
北平防衛に協力した女性たちへの慰労を忘れなかった。
永楽帝はその死を厚く弔い、チベット仏教の高僧にも追善供養を命じ、
新たな皇后を立てることなく長陵に合葬することになる。

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史書・参考文献
・『明史』巻一百十三「列伝第一 后妃一 成祖仁孝文皇后徐氏」
・『明史』巻一百二十五「列伝第十三 徐達・徐輝祖」
・『明史』巻一百四十五「列伝第三十三 朱能」
・『明太宗実録』巻六十九・巻七十二
・『明史紀事本末』巻十六「燕王起兵」
・『罪惟録』「徐皇后」
・『内訓』
・『勧善書』
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