【唐】辺令誠|高仙芝・封常清を処刑へ追い込んだ唐の監軍宦官

唐の宦官 辺令誠 037.宦官

辺令誠(へんれいせい、生年不詳~756年)は、の玄宗に仕えた宦官である。
天宝6載(747)の小勃律遠征では中使として高仙芝に同行し、
その功績を玄宗へ報告して高仙芝の安西四鎮節度使就任につながる役割を果たした。
ところが安史の乱が起こると再び高仙芝軍の監軍となり、
潼関へ撤退した高仙芝封常清を玄宗へ告発し、二人を処刑する勅命を自ら執行した。

その後、潼関が陥落して玄宗が長安を離れると、
辺令誠は崔光遠とともに混乱する長安に残ったが、安禄山側へ投降した。
のちに叛軍から脱出して粛宗のもとへ戻ったものの、
玄宗に背いて賊へ投じた罪を問われ、至徳元載(756)9月に処刑された。

辺令誠には独立した列伝がなく、
生年・出身地・家族・宦官となった経緯も史書には残されていない。
そのため、その生涯は『旧唐書』高仙芝伝・封常清伝・崔光遠伝・粛宗本紀、『新唐書』高仙芝伝、
『資治通鑑』などに散在する記録からたどる必要がある。

出自と玄宗に仕えた宦官としての立場

生年・出身地は分かっていない

辺令誠の前半生について、正史はほとんど何も伝えていない。
生年、出身地、父母、宦官となった時期はいずれも不明であり、
高力士魚朝恩のように独立した宦官伝も設けられていない。

『旧唐書』宦官伝では、玄宗期に重用された宦官たちを列挙するなかに辺令誠の名が見える。
そこでは高力士に続いて楊思勖・黎敬仁らが挙げられ、
さらに孫六・韓荘・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・辺令誠らが
「殿頭供奉、監軍、入蕃、教坊、功徳主当」などの任務を任されたと記される。

したがって辺令誠は、少なくとも天宝年間までには
玄宗から外部への派遣や軍隊の監督を任される立場にあった宦官だった。

小勃律遠征と高仙芝の昇進

高仙芝とともに西域へ向かう

辺令誠が史書に明確に姿を現すのは天宝6載(747)の小勃律遠征である。

当時、小勃律は吐蕃と結び、その王は吐蕃の王女を妻としていた。
これによって西北の二十余国が吐蕃の影響下に入り、への貢献が途絶えたため、
玄宗は安西副都護の高仙芝に歩騎一万人を与えて小勃律を攻撃させた。

辺令誠は中使として高仙芝軍に同行した。
中使とは皇帝から派遣される宦官使者であり、この遠征における辺令誠は単なる従軍者ではなく、
玄宗の代理として軍の行動を監督する立場にあった。

高仙芝は軍を三つに分け、疏勒守捉使の趙崇玼、撥換守捉使の賈崇瓘にそれぞれ別路を進ませ、
自らは辺令誠とともに護密国方面から進軍した。
三軍は七月十三日の朝に吐蕃の連雲堡で合流することになった。

連雲堡には千人ほどの兵が入り、その南方の山上にも八千から九千の吐蕃兵が布陣していた。
さらに城下を流れる婆勒川は増水しており、軍の将兵は渡河を困難と考えた。

高仙芝は三牲を捧げて川を祭り、兵士に三日分の食糧を持たせて渡河を命じた。
軍が無事に川を渡って隊列を整えると、高仙芝は辺令誠に、
渡河の途中で敵に襲われていれば敗れていたが、すでに渡り終えて布陣できた以上、
天がこの敵を自分たちに与えたのだという趣旨の言葉を語った。

軍は山上の吐蕃軍を攻撃し、連雲堡の戦いに勝利した。
『旧唐書』は五千人を殺し、千人を捕らえ、馬千余匹と大量の軍需物資を得たと記している。

辺令誠は、高仙芝の小勃律遠征における重要な局面を直接目撃していたことになる。

↓↓西域で活躍した高仙芝についての個別記事は、こちら

【唐】高仙芝|パミールを越えた名将・タラスの敗戦から潼関での処刑まで
高仙芝(こうせんし)は唐玄宗に仕え、西域遠征で数々の勝利を収めた名将。小勃律戦の奇跡的な渡河や中央アジア制圧で唐の版図を最大に広げた。一方で宦官・辺令誠の讒言により冤罪で処刑され、安史の乱悪化の一因ともなった悲劇の英雄として知られる。

険しい山道への進軍を拒む

連雲堡を破った高仙芝は、さらに小勃律へ向かおうとした。

しかし、その先には険しい山岳地帯が続いていた。
『旧唐書』によれば、辺令誠は高仙芝に対して「私はここから先へは行けない」と述べ、
進軍を拒んだ。
高仙芝は辺令誠と病弱な兵三千人余りを連雲堡に残し、自ら主力を率いて先へ進んだ。

高仙芝は坦駒嶺を越え、阿弩越城を経て小勃律へ進み、小勃律王と吐蕃出身の王妃を降伏させた。
さらに吐蕃との連絡路となっていた娑夷河の藤橋を切断し、
救援に来た吐蕃軍が渡河できない状態を作った。

高仙芝は小勃律王と王妃を連れて帰還し、連雲堡で待っていた辺令誠と合流した。

夫蒙霊詧と高仙芝の対立を玄宗へ報告する

小勃律攻略後、高仙芝は戦勝を朝廷へ報告した。

ところが上官の安西四鎮節度使・夫蒙霊詧は、
高仙芝が自分を通さずに戦勝報告を送ったことに激怒した。


夫蒙霊詧は高仙芝を「高麗奴」と罵り、自分がこれまで于闐使、焉耆鎮守使、安西副都護、
四鎮都知兵馬使へと引き立ててきたにもかかわらず、命令を待たずに朝廷へ報告したことを責めた。

さらに夫蒙霊詧は、本来なら斬るべきだが大功を立てたばかりなので処刑しない、
というところまで高仙芝を追い詰めた。

この場面を見ていた辺令誠は、夫蒙霊詧の対応を玄宗へ報告した。
『旧唐書』によれば、辺令誠は
高仙芝が大功を立てながら憂いのうちに死ぬようなことになれば、
 今後誰が朝廷のために働くだろうか」という趣旨で訴えた。

玄宗はこの報告を受け、高仙芝を鴻臚卿・御史中丞とし、夫蒙霊詧に代えて安西四鎮節度使に任じた。

後に高仙芝を処刑へ追い込む辺令誠は、この時点では反対に高仙芝を擁護し、
その昇進を後押ししていた。

『資治通鑑』の胡三省注も、後年の処刑について
高仙芝は辺令誠によって節度使となり、また辺令誠によって命を失った」という趣旨で評している。

安史の乱と高仙芝軍の監軍

再び高仙芝と行動をともにする

天宝14載(755)11月、安禄山が范陽で反乱を起こした。

玄宗は栄王李琬を討賊元帥とし、高仙芝を副元帥に任命した。
高仙芝には飛騎・彍騎や各地から集まる兵を率いさせ、さらに長安で兵を募集して東へ向かわせた。
このとき玄宗は、すでに監門将軍となっていた辺令誠を監軍として高仙芝軍に派遣した。

辺令誠は小勃律遠征以来、再び高仙芝の軍事行動を皇帝側から監督することになった。

先に洛陽へ向かった封常清は、短期間で募集した未訓練兵を率いて安禄山の精鋭軍と戦ったが、
洛陽を守り切れなかった。
残兵を率いて陝郡へ退いた封常清高仙芝と合流し、
反乱軍の勢いを考えれば陝郡を守ることは困難であり、潼関へ退いて防備を固めるべきだと進言した。

高仙芝はこれを受け入れ、軍を潼関へ撤退させた。
追撃によって軍は混乱したものの、潼関へ入ると防備を修復し、到着した反乱軍を退けた。


↓↓封常清についての個別記事は、こちら

【唐】封常清|西域を支えた名将と冤罪の最期
封常清(ほうじょうせい)は唐玄宗期に高仙芝の右腕として西域遠征を支えた名将。知略と軍政に優れ、小勃律・大勃律討伐で大きな功績を挙げた。一方で宦官・辺令誠の讒言により冤罪で処刑され、安史の乱悪化の一因となった悲劇の武将として知られる。

高仙芝への要求を拒まれる

高仙芝と辺令誠の関係は、小勃律遠征の頃とは変化していた。

『旧唐書』封常清伝は、辺令誠が軍中で「毎事干之」、すなわちたびたび軍務に口を出したが、
高仙芝はその多くに従わなかったと記す。
『資治通鑑』も「数以事干之、仙芝多不従」としており、
両者の間に対立が生じていたことは確かである。

『新唐書』はさらに「令誠数私於仙芝、仙芝不応」と記している。
「私於仙芝」は辺令誠が高仙芝に私的な要求を繰り返したことを意味するが、
具体的に何を要求したのかまでは記されていない。

そのため、後世にしばしば見られる「辺令誠が高仙芝に賄賂を要求し、拒否されたため報復した」
という説明は、そのまま史実として断定するべきではない。

正史から確認できるのは、
辺令誠が高仙芝へ繰り返し何らかの要求を行い、高仙芝が多くを受け入れなかったことまでである。

高仙芝・封常清の告発と処刑

玄宗へ二人の敗戦を訴える

辺令誠は軍を離れて玄宗のもとへ戻ると、高仙芝封常清の行動を報告した。

『資治通鑑』によれば、辺令誠は封常清について、
反乱軍の強大さを説くことで人々を動揺させたと訴えた。
一方、高仙芝については陝郡から数百里もの土地を放棄したうえ、
兵士へ支給する糧食や恩賞を横領したと告発した。

ここで注意が必要なのは、横領の告発は高仙芝に対するものであり、
封常清が軍糧を横領したとされたわけではないことである。

玄宗は辺令誠の報告を聞いて激怒した。

封常清はすでに敗戦後、三度にわたって使者を送り、安禄山軍の実情を上奏していた。
しかし玄宗はその報告を取り上げず、
封常清の官爵を剥奪して高仙芝軍で一兵卒として働くよう命じていた。

辺令誠の奏上を受けた玄宗は、高仙芝封常清の二人を軍中で処刑することを決め、
その勅命を辺令誠自身に持たせて潼関へ向かわせた。

封常清の遺表を預かる

潼関へ戻った辺令誠は、まず封常清を呼び出して玄宗の勅命を示した。

封常清は、自分が洛陽で敗れた際に死ななかったのは、
国家の旗を汚して反乱軍の手にかかることを避けたかったからであり、
討伐に功を挙げられなかった以上、ここで死ぬことには甘んじるという趣旨の言葉を残した。

封常清は処刑に先立って玄宗への遺表を作成しており、それを辺令誠へ渡した。

遺表では、自分が率いたのは市井から急募した未訓練兵であり、
安禄山軍は長年辺境で戦ってきた精鋭だったことを説明した。
そして自分の死後も安禄山を軽視せず、「臣の言を忘れることなかれ」と玄宗へ訴えた。

辺令誠は勅命を執行し、封常清を処刑した。

百人余りの陌刀兵を従えて高仙芝に勅命を告げる

続いて辺令誠は高仙芝を処刑した。

このとき辺令誠は、陌刀を持つ兵士百人余りを従えて高仙芝の前に現れた。
『資治通鑑』では、高仙芝が戻ってくると、辺令誠が「大夫にも恩命がある」と告げ、
高仙芝を下馬させて勅命を読み上げたとされる。

高仙芝は、敵を前にして退却したことを罪とされるなら死を受け入れると答えた。
しかし、兵糧や恩賞を横領したという告発については明確に否定した。

『新唐書』では、高仙芝は辺令誠に対し、天も地も三軍の将兵も見ているのだから、
自分が横領していないことを辺令誠自身も知っているはずだと訴えている。

さらに高仙芝は周囲の兵士たちへ、自分が本当に軍糧や恩賞を横領したのであればそう言えばよい、
事実でないなら「冤罪だ」と言ってほしいと呼びかけた。

将兵は一斉に「冤罪だ」と叫んだ。その声は地を震わせるほどだったと史書は伝えている。
それでも辺令誠は処刑を中止しなかった。

高仙芝はすでに処刑されていた封常清の遺体を見て、
自分が封常清を低い身分から取り立てて判官とし、やがて自分に代わって節度使となったが、
最後には同じ日に死ぬことになったという趣旨の言葉を残した。

辺令誠はそのまま高仙芝を処刑し、軍の指揮は李承光が暫定的に引き継いだ。
高仙芝封常清が処刑されたのは天宝14載12月、現在の暦では756年1月にあたる。

潼関陥落後の長安と安禄山への投降

崔光遠とともに混乱する長安を鎮める

高仙芝封常清の処刑後、玄宗は哥舒翰を起用して潼関を守らせた。
しかし天宝15載(756)6月、玄宗の出撃命令を受けた哥舒翰軍は霊宝付近で大敗し、
潼関が陥落した。

玄宗は長安を離れて蜀へ向かった。
このとき辺令誠は長安に残っていた。

玄宗が出発すると、長安では混乱が起こり、人々が宮中へ入り込んで左蔵や大盈庫の財物を奪った。
さらに宮殿にも火が放たれ、紫宸殿や興慶宮へ驢馬に乗って入り込む者まで現れた。

『旧唐書』崔光遠伝によれば、
西京留守となっていた崔光遠と「中官将軍」辺令誠は人々に命じて消火に当たらせ、
臨時に府県の官吏を募集して各所を守らせた。十数人を殺してようやく混乱を鎮めたという。

辺令誠には高仙芝封常清処刑の印象が強いが、
長安放棄直後には宮城と市街の秩序維持にも関わっていたことが史書から確認できる。

玄宗に背いて安禄山側へ投じる

その後、辺令誠は安禄山側へ投降した。

この点は『旧唐書』粛宗本紀が明確に「内官辺令誠、上皇に背きて賊に投ず」と記している。
上皇とは玄宗、賊とは安禄山勢力を指す。

崔光遠も一度は安禄山へ帰順し、息子を洛陽の安禄山のもとへ派遣しているが、
後に長安を脱出して粛宗へ帰順し、再びの将軍として活動した。

一方、辺令誠については、安禄山政権のもとでどのような官職を与えられ、
どのような活動をしたのかを正史は詳しく記していない。

後世の記述には「宮門の鍵を安禄山軍へ渡した」「城門を開いて叛軍を迎え入れた」
などの話も見られるが、少なくとも『旧唐書』粛宗本紀と崔光遠伝から確実に確認できるのは、
玄宗が長安を離れた後も辺令誠が崔光遠とともに市中の混乱を鎮め、
その後に玄宗へ背いて安禄山側へ投降したことまでである。

叛軍から脱出して粛宗に処刑される

唐へ戻ったものの赦されなかった

玄宗が蜀へ向かう一方、皇太子李亨は北へ進み、至徳元載(756)7月に霊武で即位した。粛宗である。

辺令誠は安禄山側にとどまり続けたわけではなく、その後、叛軍の支配地域から脱出してへ戻った。
『資治通鑑』はこの出来事を非常に簡潔に、
「内侍辺令誠、また賊中より逃げ帰る。上、これを斬る」と記している。

『旧唐書』粛宗本紀ではもう少し事情が示されており、
至徳元載9月、粛宗が霊武から彭原へ移った頃、辺令誠が再び朝廷へ姿を現した。
粛宗は、辺令誠が玄宗に背いて賊へ投じたことを理由として、その場で処刑を命じた。

辺令誠がなぜ安禄山側から逃亡したのか、へ戻れば赦されると考えていたのか、
誰かを頼って帰順したのかは史書に記録されていない。
生年が分からないため、享年も不明である。

辺令誠の死後、その家族が連座したという記録や、
官爵の追奪、墓葬、追贈などに関する記録も、主要史料には見えない。

辺令誠と唐の宦官監軍

辺令誠の経歴で重要なのは、高仙芝封常清を処刑へ追い込んだという一事件だけではなく、
玄宗期に宦官が皇帝の使者として軍隊へ入り、
現地の将軍を監督していた実態を具体的に示している点にある。

天宝6載(747)の小勃律遠征では、高仙芝とともに連雲堡まで進み、その軍事行動を直接見届けた。
夫蒙霊詧が高仙芝を厳しく責めた際には、その状況を玄宗へ報告し、
結果として高仙芝の安西四鎮節度使就任を後押ししている。

安史の乱では、同じ監軍として高仙芝軍に入りながら両者の関係は悪化した。
高仙芝が辺令誠の要求をたびたび拒否すると、辺令誠は玄宗へ帰って高仙芝封常清の敗戦を報告し、
高仙芝については軍糧や恩賞の横領まで告発した。
その奏上を受けた玄宗は二人の処刑を決め、辺令誠自身が勅命を持って潼関へ戻って執行した。

ただし、玄宗期の辺令誠を、後ので神策軍を掌握した
魚朝恩仇士良らと同じ意味での「軍権を握った宦官」とするのは適切ではない。
辺令誠自身が独自の大軍を保有していたわけではなく、皇帝から派遣された監軍として将軍を監視し、その状況を皇帝へ直接報告できることが権力の源泉だった。

高仙芝の昇進にも失脚にも辺令誠の奏上が関係した事実は、監軍宦官が皇帝と前線の将軍を結ぶ一方、その報告次第では将軍の地位や生命にまで影響を及ぼし得たことを示している。

↓↓神策軍を掌握した魚朝恩仇士良についての個別記事は、こちら

【唐】魚朝恩|禁軍・神策軍を掌握した唐代の軍事宦官
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まとめ

辺令誠は、玄宗の使者として西域遠征と安史の乱の双方で高仙芝軍に派遣された宦官だった。
小勃律遠征では高仙芝の功績を玄宗へ伝えて昇進を助けたが、
安史の乱では対立した高仙芝封常清を告発し、二人を処刑する勅命まで執行した。

しかし潼関陥落後には自ら玄宗に背いて安禄山側へ投降し、
再びへ戻ったところを粛宗に処刑された。

辺令誠の生涯は、玄宗期の宦官監軍が皇帝と前線軍の間で持っていた影響力と、
その立場が政局の変化によって容易に失われる性格の双方を示している。

史書・参考文献

・『旧唐書』巻10「粛宗本紀」
・『旧唐書』巻104「高仙芝伝・封常清伝」
・『旧唐書』巻111「崔光遠伝」
・『旧唐書』巻184「宦官伝」
・『新唐書』巻135「高仙芝伝・封常清伝」
・司馬光『資治通鑑』巻216~218

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