裴行倹は唐代中期に西域経営と対外戦争で大きな功績を挙げた武将であり、
同時に官僚としても高い能力を発揮した人物である。
西突厥討伐や東突厥遠征で知られる一方、吏部侍郎としては人材登用にも手腕を示し、
さらに書道にも優れた文化人として後世に名を残した。しばしば「儒将」と呼ばれる。
名門河東裴氏の一員として生まれながら、武則天冊立問題では左遷を受け、
西域へ赴任してから実力によって地位を築き上げ、
唐帝国の対外戦争を支える中心人物となっていったのである。
また、西域遠征では軍事だけではなく外交・懐柔・情報戦にも長けていたことで知られ、
唐代史料では「智将」として扱われることも多い。
本記事では、裴行倹の家系、武則天との対立、西域経営、西突厥・東突厥遠征、
ペルシア王族送還問題、人物評価、そして後世の伝説までを史実を基に詳しく解説する。
名門・河東裴氏の出身
裴行倹は619年、河東郡聞喜県の名門裴氏に生まれた。字は守約。
本貫の河東裴氏は、中国中古貴族社会を代表する名門の一つとして知られ、
魏晋南北朝以来、多くの高官・文化人を輩出していた。
父の裴仁基は隋末の武将として知られ、もとは隋に仕えた人物である。
隋末混乱期には李密の勢力へ加わり、その後に王世充政権下へ入ったが、
最終的には王世充によって殺害された。兄の裴行儼も勇将として知られている。
つまり裴行倹は、単なる文官貴族ではなく、武人家系的背景も持つ人物だったのである。
また、唐初期の政治社会では、こうした名門関隴貴族層が極めて大きな影響力を持っていた。
裴氏一門もその中核を成しており、裴行倹自身も若い頃から
高い教養と政治的素養を身につけていたと考えられる。
五姓七望の名門
河東裴氏は唐代の名門貴族として知られ、
いわゆる 五姓七望 の一つに数えられる家系である。
五姓七望とは、南北朝から唐代にかけて名門とされた有力貴族を指す言葉で、
代表的な家系として
・清河崔氏
・博陵崔氏
・范陽盧氏
・隴西李氏
・趙郡李氏
・太原王氏
・河東裴氏
などが挙げられる。
これらの家系は長く官僚を輩出し、唐代の政治や社会に大きな影響力を持っていた。
裴行倹もまた、この名門 河東裴氏 の出身であり、
貴族社会の中でも高い家格を持つ家に生まれていた。
若き日の裴行倹
蘇定方に認められる
裴行倹は若い頃、唐の貴族子弟や高級官僚候補が学ぶ教育機関である弘文館で学び、
儒学や経書を修めた。
弘文館は単なる学問所ではなく、将来の国家中枢を担う人材育成機関として重視されており、
ここで培われた教養は後年の裴行倹にも強い影響を与えたと考えられている。
また、裴行倹は後に唐の名将として知られる蘇定方に才能を見出された。
蘇定方は西突厥討伐などで大功を挙げた唐軍屈指の宿将であり、
異民族戦や長距離遠征に優れた指揮官として名高い人物だった。
裴行倹はその蘇定方から軍事面で深い薫陶を受け、
軍の運用、行軍、戦術、用兵術などを学んだとされる。
後年、裴行倹が西域経営や突厥遠征で巧みな戦略を見せ、
「智将」と評されるようになった背景には、
蘇定方の影響も大きかったと考えられている。
科挙及第と官界入り
裴行倹は若い頃に明経科へ及第した。
明経科は儒教経典理解を重視する科挙であり、文章能力や経学知識が求められた。
当時の唐では進士科ほど後世的名声は高くなかったが、それでも中央官界へ進出する重要経路だった。
その後、裴行倹は官僚として昇進を重ね、655年には長安県令となる。
長安県令は唐都長安を管轄する重要職であり、単なる地方官ではなかった。
首都行政を担うため、実務能力が強く求められる職務だったのである。
この頃の唐朝廷では、高宗 李治と武昭儀(後の武則天)との関係が急速に深まりつつあった。
そして、やがて唐朝を大きく揺るがす政治問題が発生する。
武則天問題と左遷
655年、高宗は王皇后を廃し、武昭儀(後の武則天)を皇后に冊立しようとした。
しかし、この決定には激しい反対が起きた。
長孫無忌・褚遂良ら関隴貴族層の重臣たちは、武氏の台頭を危険視していたのである。
裴行倹もまた、この武則天冊立に反対した人物の一人だった。
結果として、武則天が皇后に立てられると、裴行倹は西州都督府長史へ左遷される。
これは事実上の中央追放だった。
もっとも、この左遷が結果的には裴行倹の人生を大きく変えることになる。
当時の西域は、唐帝国にとって最重要軍事地域の一つだったからである。
↓↓武則天についての個別記事は、こちら

西域経営と裴行倹
7世紀後半、唐は西域支配強化を進めていた。
しかし、その支配は決して安定していなかった。
西突厥諸部族、吐蕃、ソグド系諸国、さらに旧サーサーン朝系勢力など、
多数の勢力が複雑に入り乱れていたのである。
裴行倹は西州赴任後、こうした西域情勢へ深く関わるようになる。
彼は単純な武力制圧だけではなく、現地諸勢力との交渉や懐柔にも高い能力を示した。
後世史料では、彼が異民族統治に長けていたことを評価する記述も多い。
665年には安西大都護へ任ぜられる。
安西大都護府は、唐の西域支配拠点であり、
その長官である安西大都護は極めて重要な軍政職だった。
この頃、吐蕃の勢力も急速に拡大していた。
吐蕃は青海・タリム方面へ圧力を強め、唐と西域覇権を争う段階へ入っていたのである。
裴行倹は、こうした複雑な国際情勢の中で唐側政策を支える中心人物となっていった。
吏部侍郎としての手腕
669年、裴行倹は中央へ戻り、吏部侍郎へ任命された。
吏部は官僚人事を司る重要官庁であり、その侍郎は実質的な人材選抜責任者でもあった。
裴行倹はここでも高く評価される。
『旧唐書』『新唐書』には、彼が人物鑑定に優れていたという記述が見える。
後世には、「裴行倹は若い頃の婁師徳を見て将来を予見した」という逸話も伝わっている。
婁師徳は後に武則天政権下で宰相となる人物であり、狄仁傑を推薦したことで知られる。
裴行倹は婁師徳について、「見かけは鈍重だが、深い度量を持つ」と評したという。
また、後に名臣となる蘇味道とも縁があり、娘は蘇味道へ嫁いでいる。
こうした逸話は、裴行倹が単なる軍人ではなく、
人を見る目に優れていた人物として後世認識されていたことを示している。
吐蕃遠征
676年、裴行倹は洮州道左二軍総管として吐蕃遠征へ参加した。
この頃、吐蕃は唐西方領域へ激しい圧力を加えていた。
特に青海・河西方面では軍事衝突が続いており、唐側も防衛強化を迫られていた。
裴行倹は遠征で成果を挙げ、その軍事能力を改めて示している。
もっとも、この時代の唐と吐蕃の戦いは、一度の勝敗で決着するものではなかった。
両国は以後も長期にわたって抗争を続けることになる。
ペルシア王族送還と西突厥討伐
678年、裴行倹は極めて有名な西域遠征を行う。
表向きの名目は、「サーサーン朝王族卑路斯を西方へ送還する」というものだった。
卑路斯、すなわちペーローズ3世は、
651年に滅亡したサーサーン朝最後の王ヤズデギルド3世の子である。
サーサーン朝滅亡後、その一族は唐へ亡命していた。
唐朝は彼らを厚遇していたが、西域政治上、
「ペルシア王族保護」は一定の外交的意味を持っていた。
裴行倹はこの送還事業を口実に、西突厥勢力への軍事行動を実施する。
彼の最大の標的となったのが、阿史那都支ら西突厥系勢力だった。
裴行倹は巧妙な情報戦と外交戦術を用い、正面決戦だけに頼らず敵を誘導した。
そして最終的に阿史那都支らを捕縛することに成功する。
この遠征では、彼の「智将」としての側面が特に高く評価されている。
また、裴行倹は碎葉城へ紀功碑を建てた。
碎葉城は後に李白出生地伝説とも結び付けられる西域重要都市である。
翌679年、裴行倹は凱旋した。
この勝利によって、彼の名声は唐全土へ広まることになる。
東突厥遠征
680年、裴行倹は定襄道行軍大総管として突厥討伐を命じられた。
当時、東突厥系勢力は再び離反の動きを強めており、
阿史那伏念・阿史徳温傅らが反乱を起こしていた。
史料では、この遠征軍は30万余に達したとされるが、
中国史書には兵数誇張も多いため、実数については慎重に見る必要がある。
しかし裴行倹は、大軍同士の正面決戦によって制圧しようとはせず、
敵内部へ疑心暗鬼を生じさせる反間計を用いた。
離間策によって両者の関係は次第に崩壊し、
やがて阿史那伏念は阿史徳温傅を殺して唐へ降伏した。
こうして反乱軍は大規模会戦を経ずして瓦解することとなり、
この一件は後世、裴行倹の知略を示す代表例として語られるようになる。
もっとも、その後に朝廷は降伏した阿史那伏念を処刑してしまった。
裴行倹は事前に命の安全を約束していたため、
この処置を深く恥じたと『旧唐書』などは伝えている。
↓↓「反間計」を含む兵法三十六計についての個別記事は、こちら

裴行倹の人物像
裴行倹は唐代の将軍の中でも、文才と軍略を兼ね備えた人物として知られる。
「学者」「官僚」「軍人」という三つの能力を兼ね備えた人物だったため、
後世では、儒将と呼ばれる。
軍事理論家としての裴行倹
裴行倹は実戦で功績を挙げた将軍であると同時に、
兵法を体系的に論じた人物としても知られている。
後世の記録によれば、彼は軍営の布陣、部隊編成、勝敗の見極め、
将兵の器量判断などについて論じた「四十六訣」を著したとされる。
これは単なる戦場経験の覚書ではなく、
裴行倹が西域や突厥との戦いで重視した情報判断、用兵、
人物鑑識を含む軍事理論だったと考えられる。
ただし、この書は現存していない。
伝承では、武則天が武承嗣を裴行倹の邸へ遣わしてこれを取らせ、
その後は伝わらなくなったという。
そのため現在では内容を詳しく知ることはできないが、
裴行倹が単なる武勇の将ではなく、戦場を分析し、
軍を動かす理論を持った智将として記憶されていたことを示す逸話である。
人材を見抜く力
史書では、特にその知略と人材を見る目が高く評価されている。
彼は若い武将の中から将来有望な人物を見抜き、積極的に登用した。
彼が見出した人物には、王方翼、程務挺、黒歯常之などがおり、
これらの人物は後に唐軍の名将として活躍した。
このため裴行倹は当時、「知人の名手」とも評された。
初唐四傑の評価
裴行倹は文学者についても評価を残している。
楊炯、王勃、盧照鄰、駱賓王といった 初唐四傑 を見て、
「楊炯には才能があるが、他の者は華やかなだけで長くは続かない」
と評したと伝えられている。
実際、王勃は二十代で早逝し、盧照鄰は晩年に自殺、
駱賓王は反乱に加わって行方不明となった。
このため裴行倹の人物鑑識眼は鋭かったと後世に語られている。
書道家としての裴行倹
裴行倹は軍人・官僚としてだけではなく、文化人としても知られていた。
特に草書に優れていたとされる。
唐代は書道芸術が大きく発展した時代であり、王羲之以来の書法が強く重視されていた。
裴行倹もその流れの中で高く評価されていた人物である。
また、文集二十巻や『選譜』などの著作を残したと記録されている。
ただし、現在はいずれも失われている。
唐代名臣には文武両道型人物が少なくないが、裴行倹もその代表例の一人だった。
晩年と裴行倹の家族
682年、突厥で再び反乱が起きると、裴行倹は再度討伐軍指揮官へ任命された。
しかし出征前に病へ倒れ、そのまま長安延寿里の邸宅で死去した。享年64。
死後には幽州都督を追贈され、「献」の諡号を与えられている。
後世史料では太尉追贈を記すものもある。
裴行倹には陸氏・厙狄氏らの妻があり、厙狄氏は鮮卑系貴族出身とされる。
また、後世には突厥系女性との関係を伝える話も残されているが、
史料によって記述には差異があり、詳細には不明な部分も多い。
子の裴光庭は後に唐の宰相となり、玄宗朝で活躍し、官僚制度改革でも名を残している。
また娘たちは蘇味道や王勮へ嫁いでおり、
裴氏一門が唐代貴族社会の中で広範な婚姻関係を築いていたこともうかがえる。
裴行倹の歴史的評価
裴行倹は唐初名将として非常に評価が高い。
しかし、その特徴は単なる「強い将軍」ではない。
彼の本質は、外交、情報戦、異民族懐柔、長期統治、人材鑑定を総合的に扱える点にあった。
特に西域経営では、軍事だけでなく現地諸勢力との関係調整能力が重要だった。
また、武則天冊立問題で左遷されながら、その後に実力で中央へ返り咲いた経歴も特徴的である。
さらに後世には、「人物を見る目」に優れた名臣としての逸話も多く残されるようになった。
一方で、彼が活躍した時代は、唐帝国が最大規模へ拡大する一方、
吐蕃や突厥との対立も激化していく時代だった。
裴行倹の功績は、まさにその「拡大する唐帝国」を支えたことにあったと言える。
まとめ
裴行倹は619年に河東裴氏の名門へ生まれ、
唐初を代表する武将・官僚として活躍した人物である。
武則天冊立に反対したことで西域へ左遷されたが、
その後は西域経営で頭角を現し、安西大都護として唐の西方支配を支えた。
さらに西突厥討伐では阿史那都支らを捕縛し、
東突厥遠征でも大勝を収めるなど、数々の武勲を挙げている。
一方で、外交や異民族懐柔にも優れ、
単なる武勇型将軍とは異なる「智将」として高く評価された。
また、吏部侍郎としては人材登用にも手腕を示し、
書道家・文化人としても知られている。
裴行倹は、唐帝国拡大期を支えた文武両道の名臣であり、
その生涯は初唐国家形成そのものと深く結びついていたのである。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻84
・『旧唐書』巻198
・『新唐書』巻108
・『資治通鑑』
・裴行倹神道碑
・唐代西域史研究
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