趙飛燕(ちょうひえん)と趙合徳(ちょうごうとく)は、前漢後期の成帝に寵愛された姉妹である。
姉の趙飛燕は歌舞を得意とし、低い身分から成帝の皇后へ上りつめた。
妹は皇后に次ぐ高位の昭儀となり、姉以上ともいえる寵愛を受けた。
後世には「漢の二趙」として知られ、中国史を代表する美女姉妹の一組となっている。
しかし、現在知られる二人の姿には、
『漢書』に記された史実と、後世に成立した『飛燕外伝』などの伝説が混在している。
とくに妹の「趙合徳」という名や、姉妹の容貌、房中術、美容薬などの逸話は、
正史の記録とは区別する必要がある。
実際の趙氏姉妹はどのように成帝の後宮へ入り、なぜ皇后と昭儀にまで上ったのか。
そして皇子殺害事件や成帝の急死と、どこまで関係していたのか。
正史『漢書』の記録を中心に、
後世に形成された「傾国の美女」伝説と分けながら、その生涯を見ていく。
趙飛燕・趙合徳の出自と成帝の後宮入り
捨てられた赤子から歌舞の女性へ
趙飛燕の生年は分かっていない。
『漢書』「外戚伝」によれば、彼女は長安の宮人の家に生まれたが、
誕生すると父母から養育を放棄されたという。
ところが三日経っても生きていたため、父母は改めて引き取って育てた。
成長した飛燕は陽阿主の家に属し、そこで歌舞を学んだ。
「飛燕」という呼び名もこの時代から使われていたことが『漢書』に記されている。
現在では「趙飛燕の本名は宜主」と紹介されることがある。
しかし「宜主」という名は正史『漢書』には見えず、後世の『飛燕外伝』に登場する名前である。
そのため、史実上確認できる名としては「飛燕」とするのが適切である。
また、後世の伝説では複雑な出生譚が作られ、
別の父母から生まれた姉妹が趙姓を名乗るようになったとも語られる。
しかし、これも『漢書』とは別系統の伝承である。
成帝に見初められた趙飛燕
成帝は宮廷の外へ微行することがあり、その際に陽阿主の邸を訪れた。
そこで歌舞が催され、成帝は飛燕を目にして気に入った。
飛燕は宮中へ召され、強い寵愛を受けるようになる。
さらに成帝は飛燕の妹も宮中へ召した。
『漢書』では姉妹ともに婕妤となり、「貴、後宮を傾く」と記されるほど勢力を得た。
この時点で姉妹は、成帝の後宮における中心的存在となった。
「趙合徳」という名前は正史には見えない
現在、趙飛燕の妹は一般に「趙合徳」と呼ばれている。
しかし、『漢書』は妹を「合徳」とは記していない。
正史では「女弟」、つまり飛燕の妹、あるいは後に与えられた称号によって「趙昭儀」と記される。
「合徳」という名は、後世に成立した『飛燕外伝』などに見える。
そのため、本記事では便宜上広く知られた「趙合徳」の名を使用するが、
史実上確認できる名前ではないことには注意が必要である。
姉の「宜主」、妹の「合徳」という姉妹の本名が揃って語られるようになったのは、
二人の生涯が文学や説話の題材として発展した結果である。
趙飛燕の皇后冊立と趙合徳への寵愛
許皇后の失脚と趙飛燕
趙氏姉妹が寵愛を受けるようになると、
それまで成帝に仕えていた許皇后や班婕妤は次第に遠ざけられた。
鴻嘉三年(紀元前18年)、
趙飛燕は許皇后と班婕妤が媚道を用い、後宮や皇帝を呪詛していると訴えた。
この事件によって許皇后は廃された。
班婕妤も取り調べを受けたが、自ら潔白を主張し、成帝もその言葉を認めたため処罰を免れた。
その後、班婕妤は趙氏姉妹から危害を受けることを恐れ、
皇太后に仕えることを願い出て後宮の中心から離れている。
したがって趙飛燕が皇后となった背景には、単に成帝の寵愛だけでなく、
許皇后の廃位をめぐる後宮内の激しい対立も存在していた。
↓↓成帝に仕えた班婕妤についての個別記事は、こちら

低い出自を理由に皇太后が難色を示す
許皇后が廃された後、成帝は趙飛燕を新たな皇后にしようとした。
しかし、成帝の母である王皇太后は、飛燕の出自があまりにも低いことを理由として難色を示した。
そこで皇太后の甥にあたる淳于長が成帝と皇太后の間を取り持った。
やがて飛燕の父・趙臨が成陽侯に封じられ、その約一か月後の永始元年(紀元前16年)、
趙飛燕は正式に皇后となった。
歌舞を学んでいた女性が皇帝の寵愛を受け、ついには前漢の皇后にまで上りつめたのである。
皇后となった飛燕と昭儀となった妹
ところが『漢書』によれば、趙飛燕が皇后になると、成帝からの寵愛は次第に妹へ移っていった。
妹は「昭儀」に昇進した。
昭儀は元帝の時代に設けられた高位の妃嬪で、婕妤より上に位置した。
『漢書』ではその待遇について、位は丞相に相当し、爵は諸侯王に比せられたと説明されている。
つまり、趙飛燕が皇后として後宮最高の身分を占める一方、
妹も皇后に次ぐほどの高い地位を得たことになる。
姉妹は十年以上にわたって成帝の後宮で寵愛を受けたが、二人とも子を産むことはなかった。
豪華を極めた昭陽舎
趙昭儀は昭陽舎に住んだ。
『漢書』はその内部を異例なほど詳しく記録している。
中庭は朱色に塗られ、殿内には漆が施され、
黄金や白玉、藍田の璧、真珠、翠羽などが装飾に用いられた。
それまでの後宮でも例がなかったほど豪華だったとされる。
趙飛燕は皇后という地位を得たものの、成帝の寵愛という点では妹の方が強かった。
後世に「姉は皇后、妹は最愛の寵妃」と対照的に語られるのは、この『漢書』の記録が背景にある。
皇子殺害事件と成帝の後継者問題
子を持たなかった趙氏姉妹
成帝には長く皇位を継ぐ男子がいなかった。
趙飛燕と趙昭儀も子を産まなかったため、成帝の晩年には後継者問題が深刻になっていく。
その一方で、『漢書』には成帝との間に子を産んだ女性が存在し、
その子どもたちが生き残れなかったことを示す重大な記録が残されている。
この問題が明るみに出たのは成帝の死後、哀帝が即位してからだった。
曹宮が産んだ皇子
哀帝即位後、司隷校尉の解光は、
許美人と中宮史であった曹宮がそれぞれ成帝の子を産んだにもかかわらず、
その子どもが姿を消しているとして調査結果を上奏した。
曹宮は成帝の子を身ごもり、掖庭で出産した。
解光の上奏に収められた証言によれば、
出産後に曹宮と侍女たちは獄へ入れられ、皇子を殺すよう命令が出された。
最終的に生まれた子は殺害され、曹宮自身も死に追いやられたとされる。
この事件では成帝自身の命令と趙昭儀の意向が強く関係したものとして報告されている。
許美人の皇子と趙昭儀
もう一つは許美人が産んだ皇子をめぐる事件である。
解光の上奏によれば、許美人が男子を出産したことを知った趙昭儀は激しく反応した。
成帝は趙昭儀をなだめようとし、最終的には生まれた皇子を殺したとする証言が記録されている。
現在の記事などで語られる「趙合徳が怒り、成帝が彼女を慰めるために自ら皇子を殺した」
という話は、単なる後世の小説だけを出典とするものではない。
少なくとも、哀帝の時代に行われた調査と解光の上奏が『漢書』に収録されている。
ただし、『漢書』に収録されていることと、
調査で述べられたすべての証言を無条件に事実とみなすことは同じではない。
成帝の死後、後宮の責任を追及する政治状況のなかで作成された上奏であることも
考慮する必要がある。
それでも、皇子殺害事件そのものを「後世の創作」として処理することはできない。
「燕啄皇孫」の童謡
『漢書』には、趙飛燕に結びつけられた童謡も記録されている。
その中では燕が飛来して「皇孫を啄む」と歌われ、
後世には趙氏姉妹が成帝の子孫を絶ったことを予言した歌として解釈された。
いわゆる「燕啄皇孫」である。
もちろん、こうした童謡は正史の編纂に際して事件の前兆として配置されたものであり、
本当に事件以前から予言として流布していたかは別問題である。
しかし、この童謡が『漢書』に収録されたことで、
趙飛燕は後世、「皇統を断った悪女」というイメージを強く背負うことになった。
哀帝擁立と趙氏姉妹の結末
定陶王劉欣を皇太子にする
成帝に男子がいなかったため、皇位継承者を皇族の中から選ぶ必要が生じた。
候補の一人となったのが定陶王劉欣、後の哀帝である。
『漢書』によれば、劉欣の祖母である傅太后は趙皇后や趙昭儀らに贈り物をし、
孫を皇位継承者にするため働きかけた。
趙氏側も、成帝に実子がない以上、次の皇帝となる人物とあらかじめ関係を築いておく必要があった。最終的に劉欣は皇太子となる。
この働きかけは、後に趙飛燕が成帝の死後も皇太后として生き残る重要な要因となった。
成帝の突然死と趙昭儀の自殺
綏和二年(紀元前7年)、成帝は突然死した。
『漢書』によれば、成帝にはそれまで大きな病気がなく、前夜も普段どおりだった。
しかし翌朝、起きようとした際に突然異変が起こり、言葉を発することができなくなり、
その日のうちに崩御した。
あまりにも突然だったため、民間では趙昭儀に疑いが向けられた。
成帝の母である王皇太后は、皇帝の急死について詳しく調べるよう命じた。
趙昭儀はその後、自殺した。
正史が確認できるのは、成帝が突然崩御したこと、世間で趙昭儀に疑いが向けられたこと、
皇太后が調査を命じたこと、そして趙昭儀が自殺したことまでである。
趙昭儀が成帝を直接死なせたと断定する史料ではない。
房中術や精力剤で成帝を死なせたという伝説
後世になると、成帝の突然死と趙合徳の官能的な美女像が結びつけられ、
さらに刺激的な物語が作られていった。
趙合徳が房中術によって成帝を虜にし、精力を消耗させた、
あるいは薬を服用させた結果として成帝が死んだという説もその一つである。
また、自殺を前にした合徳が、皇帝を意のままにしたのだから女として思い残すことはない、
という趣旨の言葉を残したとする逸話も伝えられている。
こうした話は『漢書』の記録とは区別すべきである。
正史にある突然死と自殺を土台として、
後世に「皇帝を快楽によって死へ導いた妖婦」という趙合徳像が形成されていったのである。
趙飛燕は皇太后となる
妹が自殺した一方、姉の趙飛燕は成帝の死と同時に失脚したわけではなかった。
皇太子だった劉欣が哀帝として即位すると、先帝成帝の皇后だった趙飛燕は皇太后に尊ばれた。
趙氏一族からも侯に封じられる者が出た。
哀帝自身が皇太子となる過程で趙氏の助力を受けていたため、
皇子殺害事件の調査が行われても、趙飛燕本人への追及は最後まで徹底されなかった。
したがって、趙氏姉妹の栄華が「成帝の死とともに一瞬ですべて崩壊した」
とする説明は正確ではない。
妹の趙昭儀は成帝の死後すぐに自殺したが、姉の趙飛燕はその後も皇太后として地位を保っていた。
哀帝の死と王莽による失脚
元寿二年(紀元前1年)、哀帝が死去すると趙飛燕を取り巻く状況は一変した。
政治の主導権を握ったのは、成帝の母・王政君の一族である王氏と王莽だった。
『漢書』によれば、王莽は趙飛燕と趙昭儀が成帝の後宮で皇子を害し、皇統を危うくしたと非難した。
趙飛燕はまず皇太后の尊号を奪われて「孝成皇后」へ戻され、北宮へ移された。
その約一か月後、さらに庶人へ落とされる。そして、その日のうちに自殺した。
歌舞を学ぶ低い身分の女性から皇后となり、
さらに皇太后にまで上った趙飛燕の生涯は、ここで終わった。
後世に作られた趙飛燕・趙合徳の美女伝説
趙飛燕は「燕のように軽い美女」だったのか
趙飛燕といえば、非常に細身で、燕のように軽やかに舞う美女というイメージが定着している。
『漢書』が確実に記しているのは、
彼女が陽阿主の家で歌舞を学び、「飛燕」と呼ばれていたことまでである。
後世の文学ではここからイメージが拡大され、
風に吹かれれば飛んでしまいそうなほど身体が軽い女性、
掌の上でも舞えるほど華奢な美女などとして語られるようになった。
細身で軽やかな女性美を趙飛燕になぞらえる表現も広まり、後世の美人像に大きな影響を与えた。
ただし、「燕のように細く軽い身体」という細部までを『漢書』の記録として扱うべきではない。
趙合徳は豊満で官能的な美女だったのか
後世の物語では、姉妹は対照的な美人として描かれる。
趙飛燕が細身で軽やかな舞姫であるのに対し、
趙合徳は肌が滑らかで、柔らかな身体を持つ官能的な美女とされた。
この対比は非常に有名だが、正史『漢書』が二人の体形をこのように比較しているわけではない。
『飛燕外伝』などの文学的な叙述によって、
姉は「軽やかな美」、妹は「濃密な美」という二つの美女像が作り上げられていった。
現在広く知られる趙氏姉妹の外見は、史実上の肖像というより、
長い時間をかけて形成された文学上の人物像なのである。
「温柔郷」と趙合徳
趙合徳は後世、「温柔郷」という言葉とも結びつけられた。
温柔郷とは、美しい女性の柔らかな身体や、
そこから離れたくなくなるような快楽の世界を表す言葉として用いられる。
成帝が合徳の魅力に溺れたという物語から、
彼女は皇帝を現実の政治から遠ざける官能的な美女の象徴となった。
ただし、このイメージも正史に記された政治的な称号や行動とは別の、
後世の文学的な合徳像として見る必要がある。
「息肌丸」と不妊伝説
趙氏姉妹には「息肌丸」と呼ばれる美容薬を使用していたという有名な伝説もある。
身体から芳香を放ち、肌を美しく保つ薬だったとされる一方、
長く使用したために妊娠できなくなったという話へ発展した。
姉妹が成帝から長期間寵愛されながら子を産まなかった事実と、
美貌を保つための秘薬という伝説が結びついたものと考えられる。
しかし、姉妹が息肌丸を使用したことや、それが不妊の原因だったことを裏付ける正史の記録はない。
歴史上の趙氏姉妹を説明する材料ではなく、後世の美容・美女伝説として扱うべき逸話である。
「紅顔禍水」とされた姉妹
趙飛燕と趙合徳は、後世には「紅顔禍水」、
すなわち美しい女性が災いを招くという思想を体現する存在として語られるようになった。
確かに『漢書』にも、飛燕による許皇后への告発、姉妹の長期にわたる寵愛、皇子殺害事件、
成帝の後継者問題など、批判的に読まれうる記録が残されている。
しかし、前漢末期の政治的混乱や王朝の衰退を趙氏姉妹だけの責任とすることはできない。
成帝の時代には外戚王氏がすでに朝廷で強大な権力を握り、
成帝自身の政治姿勢や後継者不在など複数の問題が存在していた。
その後、哀帝を経て平帝の時代になると王莽が権力を集中させ、最終的には前漢そのものが滅亡する。
趙氏姉妹は前漢を直接滅ぼした女性ではない。
一方で、皇帝の寵愛によって低い身分から後宮の頂点へ上り、皇位継承問題にも関係し、
最後にはともに自殺するという生涯は、後世の人々にとって極めて物語化しやすいものだった。
こうして史実上の趙皇后と趙昭儀は、
時代を経るにつれて「傾国の美女姉妹」へと姿を変えていったのである。
趙飛燕・趙合徳の人物評
趙飛燕と趙合徳について考える際には、
『漢書』が記す人物と、後世の伝説の中で完成した美女像を分ける必要がある。
史実上の趙飛燕は、陽阿主の家で歌舞を学んでいた身分の低い女性から成帝の寵愛を受け、
皇后、さらに皇太后にまで上った人物だった。
妹もまた姉とともに後宮へ入り、昭儀として異例の寵愛を受けた。
その一方で、皇子殺害をめぐっては単純な伝説では済まされない記録が『漢書』に残されている。
とくに趙昭儀については、解光の調査報告の中で成帝の皇子が殺害された事件との
深い関係が語られている。
ただし、その責任を姉妹だけに負わせることも適切ではない。
皇子殺害の命令には成帝自身が関与したとされ、後継者を残せなかった責任も、
本来は皇帝を含む宮廷政治全体の問題である。
ところが後世の物語では、皇帝よりも美女の方が強く非難されるようになった。
飛燕は細身で燕のように舞う美女、
合徳は皇帝を「温柔郷」に溺れさせる官能的な美女として描かれ、
二人は「紅顔禍水」の代表へと変化していった。
史実だけを見れば、趙氏姉妹は単なる「傾国の美女」ではない。
皇帝の私的な寵愛が後宮の序列、皇位継承、
外戚政治と直接結びついていた前漢後期という時代を象徴する女性たちだった
と位置づける方が実態に近い。
まとめ
趙飛燕と趙合徳は、前漢の成帝に寵愛された実在の姉妹である。
姉の趙飛燕は陽阿主の家で歌舞を学び、成帝に見初められて後宮へ入り、紀元前16年に皇后となった。妹も婕妤から昭儀へ上り、昭陽舎に住み、成帝から強い寵愛を受けた。
しかし、二人には子がなく、成帝の後宮では皇子をめぐる重大な事件が起きた。
哀帝即位後に行われた調査では、許美人と曹宮が産んだ皇子の殺害について、
成帝と趙昭儀の関与を示す証言がまとめられている。
成帝が紀元前7年に突然死すると趙昭儀は自殺した。
一方の趙飛燕はすぐには失脚せず、哀帝の即位によって皇太后となった。
しかし紀元前1年に哀帝が死去すると王莽によって地位を奪われ、庶人へ落とされた日に自殺した。
後世になると、趙飛燕は燕のように軽やかに舞う美女、
趙合徳は官能的な魅力で皇帝を虜にした美女として物語化された。
「温柔郷」や美容薬「息肌丸」などの逸話も加わり、
二人は「紅顔禍水」「傾国の美女」の代表として知られるようになった。
だが、こうした伝説と史実は同じものではない。
正史に残る趙氏姉妹の生涯は、美貌そのものが国を滅ぼした物語というより、
皇帝の寵愛、後宮、皇位継承、外戚政治が密接に結びついていた
前漢末期の宮廷を映し出す歴史である。
史書・参考文献
・『漢書』巻97下「外戚伝下・孝成趙皇后」
・『漢書』「成帝紀」「哀帝紀」
・『資治通鑑』
・『飛燕外伝』(後世の伝説・逸話)
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