董仲舒(とうちゅうじょ、前2世紀頃―前2世紀末頃)は、
前漢の景帝・武帝期に活動した儒学者・政治思想家で、『春秋』公羊学を代表する人物である。
広川国の出身で、景帝の時代に博士となり、武帝の即位後には賢良対策に応じて政治理念を論じた。
その対策文は『漢書』董仲舒伝に詳しく収められ、後世「天人三策」と呼ばれる。
董仲舒は儒学を単なる学問として扱ったのではなく、皇帝による統治、人材登用、教育、刑罰、
天と人間社会の関係までを一つの政治思想として構成した。
諸子百家の学説を並立させるのではなく、孔子の教えを国家統治の基準に据えることを求めた主張は、
後世「罷黜百家、独尊儒術」と総括されている。
ただし、董仲舒自身がこの八文字を述べたわけではなく、
武帝が董仲舒一人の提言によって直ちに他の思想を全面禁止したわけでもない。
前漢における儒学の伸長は複数の政策と人物によって進んだものであり、
董仲舒はその思想的な方向を明確に示した代表的人物として位置づける必要がある。
『史記』『漢書』には、三年間庭を見なかったという学問への没頭、江都国での雨乞い、
公孫弘との確執、災異を論じた草稿を主父偃に盗まれて死罪に問われた事件、
膠西王の相となった経緯など、その生涯を伝える具体的な逸話も残されている。
広川に生まれ『春秋』を学ぶ
董仲舒は広川国の出身である。
生年を直接記した同時代史料はなく、前176年頃とする説などがあるものの確定できない。
若い頃から『春秋』を学び、とりわけ『春秋公羊伝』にもとづく公羊学を修めた。
『史記』は漢の建国から五代ほどの間で、『春秋』に明るい人物として特に董仲舒の名を挙げ、
その学問が公羊氏の伝を継ぐものだったと記している。
景帝の時代には博士となった。博士は経書などの学問を専門とし、
皇帝の諮問にも応じる朝廷の学官である。
三年間庭を見なかった
董仲舒の学問への没頭を示す逸話として、
『史記』『漢書』には「三年不窺園」と呼ばれる話が残されている。
董仲舒は帳を垂らしてその内側で講義と研究を続け、
弟子たちは入門した順に兄弟子から教えを受けた。
そのため、董仲舒の弟子でありながら本人の顔を見たことさえない者がいたという。
さらに三年間にわたって庭を見ることさえなかったと記されている。
文字どおり三年間一度も庭を見なかったかを確認することはできないが、
『史記』『漢書』がともに伝える逸話であり、董仲舒の学問への専心を象徴する記事となっている。
日常の立ち居振る舞いについても、礼に反することを行わなかったとされ、
多くの学者から師として尊敬された。
武帝即位と賢良対策|「天人三策」で何を説いたのか
武帝が即位すると、賢良方正で直言極諫できる人物を求める政策が行われ、董仲舒も推挙された。
『漢書』董仲舒伝には、武帝による策問と董仲舒の回答が三度にわたって収録されている。
後世に「天人三策」と総称されるもので、
董仲舒の政治思想を知るうえで最も重要な史料の一つである。
皇帝の政治と天を結びつける
董仲舒が重視したのは、皇帝の政治を天の秩序と切り離さないことであった。
天は万物を生み育てる存在であり、
人間世界を統治する君主も天に倣って仁政を行わなければならない。
政治が正しく行われれば社会は調和し、反対に君主が道を外れれば災害や異常現象が起こり、
それでも改めなければさらに重大な異変が現れると考えた。
この考えが後に「天人感応」「災異思想」と呼ばれる。
皇帝は天命を受ける特別な存在である一方、その政治は天によって監視されていることになる。
したがって天人感応説は皇帝権力を神聖化する理論であると同時に、
災異を根拠として皇帝に政治の修正を求める論理にもなった。
「罷黜百家、独尊儒術」の実際
董仲舒は第三策で、孔子の道と六芸の科に属さない諸学説について、
その道を並び進ませるべきではないと論じた。
思想の基準が統一されなければ制度や政治方針も定まらず、
臣下や民衆も何に従えばよいのか分からなくなると考えたためである。
後世、この主張は「罷黜百家、独尊儒術」と表現されるようになった。
ただし、この八文字そのものは董仲舒の対策文にはない。
董仲舒が実際に述べたのは、孔子の術と六芸を政治・教育の中心的基準に据え、
それと異なる道を国家が同等に採用しないよう求める内容だった。
武帝期には法家的な統治手法や陰陽思想なども引き続き用いられており、
董仲舒の対策によって他の思想が一挙に消滅したわけではない。
人材登用と教育制度を改革する
董仲舒は、優れた人材は自然に現れるのを待つだけでは十分ではなく、
国家が教育によって育成する必要があると説いた。
各地から優秀な人物を選び、教育を施し、
その能力と徳によって官僚として登用する仕組みを整えることを求めた。
また諸侯・郡守・二千石級の官僚に対し、毎年優秀な人物を推薦させる制度も提案している。
武帝期には五経博士が整備され、
元朔5年(前124年)には公孫弘らの建議によって博士弟子員が置かれ、太学の制度が本格化した。
したがって「董仲舒が太学を創設した」とするのは正確ではない。
董仲舒は国家による儒学教育と人材育成を強く提唱し、
その方向と武帝期に実際に整備された太学・博士弟子制度が結びついて、
後世の儒学官僚養成制度へ発展していったと見るべきである。
江都相時代|諸侯王に仕えた董仲舒
武帝の即位後、董仲舒は江都国の相となり、武帝の兄である江都易王劉非に仕えた。
劉非は呉楚七国の乱で軍功を挙げた人物で、力を好む性格だったとされる。
中央朝廷の学者だった董仲舒は、ここで実際に諸侯国の行政を担うことになった。
『漢書』は、董仲舒が諸侯国の相となるたびに驕慢な王に仕えながら、
自らの行いを正して部下の模範となり、たびたび上疏して王を諫め、国内に教令を出したため、
赴任した国が治まったと記している。
『春秋』と陰陽による雨乞い
江都国での逸話として特に有名なのが、陰陽思想を利用した雨乞いと止雨である。
董仲舒は『春秋』に記された災異の変化から陰陽の働きを推し量り、
雨を求める際には陽に属するものを閉ざして陰を開き、雨を止める際には逆の方法を用いたという。
『史記』は、この方法を一国で実施すると望んだ結果を得られなかったことがなかったと記す。
現代的な意味で気象を操作したという史実として扱うことはできないが、
董仲舒が天人感応や陰陽の理論を政治思想だけでなく、
実際の統治儀礼にも適用していたことを示す史料記事である。
董仲舒はその後、江都相を離れて中大夫となった。
災異の草稿を盗まれ死罪に問われる
董仲舒の災異思想は、やがて自身を危険な立場へ追い込んだ。
遼東の高廟と長陵の高園殿で火災が起きると、
董仲舒は自宅でその意味を推論し、災異が何を示しているのかを書き始めた。
しかし、その草稿はまだ朝廷へ提出されていなかった。
董仲舒のもとを訪れた主父偃が私的に草稿を目にし、
董仲舒を嫉んでこれを盗み、武帝へ提出したと『漢書』は記している。
武帝は儒者たちを召し、その文章について意見を求めた。
その場には董仲舒の弟子・呂歩舒もいたが、文章を書いたのが自分の師であることを知らなかった。
呂歩舒は内容を読んで「大愚」、非常に愚かな説であると評した。
ところが作者は董仲舒だった。
董仲舒は官吏に引き渡され、死罪に相当すると判定されたが、武帝の詔によって赦免された。
『史記』『漢書』は、この事件以後、
董仲舒が二度と災異について公然と語ろうとしなくなったと記している。
災異は君主に政治上の過失を警告するものだという董仲舒自身の理論が、
現実の皇帝政治のもとでは本人を死刑寸前まで追い込む危険を伴っていたことになる。
公孫弘との確執と膠西国への赴任
董仲舒と同時代の儒者に公孫弘がいた。
公孫弘も『春秋』を学び、武帝に登用されて御史大夫、さらに丞相へと昇進した人物である。
『史記』『漢書』は、学問、とりわけ『春秋』の理解では公孫弘は董仲舒に及ばなかったとする。
一方、公孫弘は時勢に合わせて武帝に用いられ、最終的には公卿の地位にまで上った。
董仲舒は公孫弘を「従諛」、すなわち君主に迎合して追従する人物とみなした。
公孫弘も董仲舒を憎んだ。
危険な膠西王の相に推薦される
公孫弘は武帝に対し、膠西王の相を務められるのは董仲舒だけだという趣旨の推薦を行った。
一見すると董仲舒を評価した推薦だが、膠西王劉端は武帝の兄で、
史書では放縦な人物として描かれ、二千石級の高官をたびたび害していた。
そのような王の相に董仲舒を推薦したのである。
『史記』『漢書』は公孫弘が董仲舒を憎んでいたことに続けてこの推薦を記しており、
単なる好意による人事ではなかったことを示している。
ただし、膠西王は董仲舒が名高い大儒であることを知っていたため、董仲舒を厚遇した。
董仲舒自身は、長く仕えていればいずれ罪を得ることになるのではないかと恐れ、
病気を理由に官職を辞して帰郷した。
致仕後も朝廷から意見を求められる
官職を退いた董仲舒は、その後、家で学問と著述に専念した。
『漢書』は董仲舒を「廉直」、清廉で正直な人物だったと評している。
官職を離れてから死ぬまで家の財産を増やすことには関心を持たず、
学問を修め、書物を著すことを仕事とした。
しかし、政界から完全に切り離されたわけではなかった。
朝廷で重大な議論が起こると、使者や廷尉の張湯が董仲舒の家まで派遣され、意見を求めた。
董仲舒の回答には明確な法則と根拠があったと『漢書』は記している。
董仲舒は高位の中央官僚として政治を動かす立場からは退いたものの、
武帝朝における学問的権威としてはなお重視されていた。
『春秋』を裁判に応用する
董仲舒の『春秋』研究は、刑事裁判にも応用された。
『漢書』芸文志には『公羊董仲舒治獄十六篇』が記録されている。
また後世の史料では、
董仲舒が『春秋』の義によって裁判を判断した多数の事例があったと伝えられる。
これは後に「春秋決獄」と呼ばれた。
法律の条文だけを機械的に適用するのではなく、
行為者の動機や親族関係などを『春秋』の理念に照らして判断する方法である。
董仲舒の弟子である呂歩舒も、元狩元年(前122年)に淮南王劉安の謀反事件を処理する際、
使者として派遣され、『春秋』の義によって判断した。
『史記』は、呂歩舒がいちいち武帝へ伺いを立てずに諸侯に対して判断を下したが、
その判断を武帝がすべて正しいと認めたと伝えている。
著作と思想|『春秋繁露』だけではない董仲舒の仕事
『漢書』芸文志は、儒家の著作として「董仲舒百二十三篇」を記録している。
『漢書』董仲舒伝には、董仲舒が朝廷へ提出した文章として
『士不遇賦』『如玉杯』『蕃露』『清明』『竹林』などがあったことも記されている。
現在、その大部分は散逸している。
『春秋繁露』
董仲舒の名と最も強く結びついている著作が『春秋繁露』である。
現在伝わる『春秋繁露』には、『春秋』の解釈だけでなく、
天、陰陽、五行、君臣、仁義、王道、災異、祭祀など広範な思想が収められている。
ただし、現行本の全篇を董仲舒本人が現在の形で著したと断定することはできない。
伝承の過程で失われた篇があり、後世の編集を経た可能性も指摘されているため、
董仲舒思想を知る重要史料ではあるものの、各篇の成立については個別に検討する必要がある。
天人感応と災異
董仲舒の思想では、天と人間は切り離された存在ではない。
天には秩序と意志があり、君主の政治が正しければ天もそれに応じ、
政治が乱れれば災異によって警告すると考えた。
これは君主を天命の受領者として位置づける一方、君主にも天の秩序に従う義務を課す考えだった。
災異は単なる自然現象ではなく、政治を反省する契機となる。
そのため後世の中国王朝では、地震・日食・旱魃・洪水などが起きた際、
官僚が皇帝へ政治の修正を求める論拠として災異思想が用いられるようになった。
儒学と陰陽思想の結合
董仲舒は孔子の思想だけをそのまま継承したわけではない。
『春秋』公羊学を基礎としながら、陰陽や五行など当時広く行われていた宇宙論を取り込み、
政治・倫理・自然界を一つの秩序として説明しようとした。
春夏秋冬の循環、陰陽の消長、人間の徳、君主の賞罰などを相互に対応させ、
国家統治そのものを宇宙の秩序の一部として理解した点に、董仲舒思想の大きな特徴がある。
晩年と死|学問を子孫と多くの弟子へ伝える
董仲舒の没年も同時代史料から確定することはできず、前104年頃など諸説がある。
『史記』『漢書』が明確に記しているのは、膠西相を退いた後、
董仲舒が家産を営むことなく学問と著述を続け、そのまま生涯を終えたことである。
董仲舒の学問は本人の死によって途絶えなかった。
『史記』は有力な弟子として蘭陵の褚大、広川の殷忠、温の呂歩舒を挙げている。
褚大は梁国の相となり、呂歩舒は長史まで昇進した。
そのほかにも董仲舒の学問に通じた弟子は大夫となり、
郎・謁者・掌故となった者は百人を数えたという。
さらに董仲舒の子や孫も学問によって高官となったと『史記』は伝える。
司馬遷との関係
司馬遷も『史記』太史公自序で、『春秋』について董仲舒から聞いた言葉を記している。
このことから司馬遷が董仲舒の学説に接していたことは確認できる。
ただし、後世にいう師弟関係がどの程度正式なものだったのかについては慎重に扱う必要がある。
董仲舒が『春秋』を単なる年代記ではなく、
君臣関係や政治の是非を判断する書物として理解したことは、
司馬遷が歴史を人物や政治の評価と結びつけて叙述する際にも無視できない思想的背景となった。
↓↓「史記」を完成させた・司馬遷についての個別記事は、こちら

狸を見破った逸話|後世に生まれた董仲舒伝説
董仲舒には、正史とは別に後世の怪異譚も残されている。
あるとき董仲舒が帳を下ろして講義していると、一人の客が訪れ、雨が降ることを予言した。
董仲舒は、巣にいる鳥は風を知り、穴にいる獣は雨を知るという理屈から、
客に向かって狐や狸、鼠の類ではないかと問いかけた。
すると客が古狸の姿を現したという。
これは『史記』『漢書』に記された出来事ではなく、後世の志怪的な説話として扱うべきものである。
史実として董仲舒の洞察力を証明する逸話ではないが、
天候や陰陽の変化を読み解く学者という董仲舒像が後世に広まり、
やがて怪異まで見抜く知者として物語化された例と見ることができる。
死後の評価と儒学への影響
司馬遷は『史記』儒林列伝で、
漢の建国から五代ほどの間に『春秋』に明るい人物として特に董仲舒の名を挙げている。
董仲舒の直接的な影響は弟子たちを通じても広がった。
褚大、殷忠、呂歩舒をはじめ、多数の門人が官界へ進み、『春秋』の解釈を政治や司法へ持ち込んだ。
一方、前漢で儒学が国家の中心へ進んだ過程を、
董仲舒一人による「儒教国教化」として理解するのは単純化しすぎる。
武帝期には公孫弘らも儒学制度の整備に関わり、政治の実務では法家的な統治方法も広く用いられた。五経博士や太学の発展も複数の人物と政策によって進んでいる。
董仲舒の重要性は、武帝に一つの制度を採用させたことだけにあるのではない。
皇帝・天・儒学・教育・官僚登用・災異・刑罰を相互に結びつけ、
儒学を帝国統治そのものを説明できる思想体系へ拡張した点にある。
その後の中国では、儒学が官僚の基本教養となり、
経書にもとづいて政治を論じ、災異を君主への諫言に利用する政治文化が発達した。
後世の儒学は董仲舒の思想をそのまま継承したわけではなく、
宋代以降の朱子学などとは思想体系も大きく異なるが、
漢代に儒学と国家統治を強く結びつけた人物として、董仲舒は中国思想史の重要な位置を占め続けた。
まとめ
董仲舒は広川に生まれ、若くして『春秋』公羊学を修め、景帝期には博士となった。
三年間庭を見なかったという逸話が残るほど学問に専念し、多数の弟子を育てた。
武帝の時代には賢良対策に応じ、後世「天人三策」と呼ばれる政治論を提出した。
そこでは孔子と六芸を国家統治の基準に据えること、人材を教育して登用すること、
君主の政治と天の秩序を結びつけることなどを論じた。
江都相としては諸侯国の政治に携わり、『春秋』と陰陽思想を用いた雨乞いの逸話も残る。
一方、災異について記した草稿を主父偃に盗まれて武帝へ提出され、
死罪と判定された後に赦免されるという危機も経験した。
公孫弘との確執から危険な膠西王の相に推薦されたが、膠西王からは大儒として厚遇された。
それでも長く仕えれば罪を得ることを恐れ、病を理由に官職を退いた。
致仕後は家産を顧みず学問と著述に専念したが、
朝廷は重大な問題が起きると張湯らを董仲舒の家へ派遣して意見を求めた。
弟子たちも多数官界へ進み、『春秋』の思想は政治や司法へ広がっていった。
董仲舒を「儒教を一人で国教にした人物」とするだけでは、その実像を十分に捉えられない。
『春秋』公羊学を基礎に、天・自然・君主・政治・教育・法律を一つの秩序のなかで説明し、
儒学を帝国統治を論じる思想へ発展させたことが、董仲舒の歴史的な役割だった。
史書・参考文献
・『史記』巻121「儒林列伝」
・『史記』巻130「太史公自序」
・『漢書』巻56「董仲舒伝」
・『漢書』巻30「芸文志」
・『漢書』巻27「五行志」
・『資治通鑑』巻17~20
・『春秋繁露』
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