李陵(りりょう 生年不詳-紀元前74年)は、前漢の武帝時代に活躍した将軍である。
わずか五千の歩兵を率いて匈奴の大軍に挑み、
絶望的な状況の中で壮絶な戦いを繰り広げたことで知られる。
しかし李陵の名が中国史に深く刻まれた理由は、その勇戦だけではない。
彼の降伏は武帝の激怒を招き、一族の滅亡を引き起こしただけでなく、
『史記』の著者である司馬遷が宮刑に処される直接の原因となった。
また、帰国を許されないまま匈奴の地で生涯を終えたことで、
忠臣と見るべきか、それとも降将と見るべきかという議論が後世まで続くことになった。
さらに漢への忠節を貫いた蘇武との交流は、中国史上屈指の悲劇として語り継がれている。
李広の孫として生まれた李陵
李陵は名将として知られた李広の孫にあたる。
祖父の李広は「飛将軍」と呼ばれ、前漢を代表する名将として匈奴から恐れられた人物であった。
文帝・景帝・武帝の三代に仕えながら数々の武功を挙げたものの、
運に恵まれず侯爵に封じられることはなく、晩年には失意のうちに自害している。
そのため李広は後世において「悲運の名将」の象徴として語られるようになった。
李陵の父は李当戸(りとうこ)である。
李当戸もまた勇猛な武人として知られ、
武帝の寵臣であった韓嫣を殴打した逸話が『漢書』に記されている。
韓嫣は武帝の寵愛を受けて権勢を振るっていたが、
李当戸は相手が誰であろうと不正や横暴を許さない性格だったという。
しかし李当戸は若くして死去し、李陵は父の死後に生まれた遺腹の子であった。
父の教えを受けることなく育った李陵であったが、李広以来の武門の家風を受け継ぎ、
若くして武勇と統率力を認められるようになる。
武帝は李広を高く評価していたこともあり、その孫である李陵にも目をかけていた。
李陵は侍中や建章監などを歴任し、やがて騎都尉となる。
特に兵士を大切にする人物として知られ、
部下と苦楽を共にしながら厳しい訓練を施したため、多くの兵士から慕われたという。
後に匈奴との死闘を演じることになる五千人の歩兵も、李陵自身が鍛え上げた精鋭部隊であった。
五千の歩兵で匈奴本隊に挑んだ名将
紀元前99年、武帝は大規模な対匈奴遠征を実施した。
主力軍を率いたのは弐師将軍李広利である。
李広利は武帝の寵姫であった李夫人の兄であり、皇帝の信任を背景に大軍を率いていた。
一方の李陵は五千人の歩兵だけを率いて北方へ進軍し、李広利軍を支援する任務を与えられた。
しかし作戦は当初の予定通りには進まなかった。
李陵軍は主力との合流前に匈奴の主力軍と遭遇してしまう。
相手は且鞮侯単于が率いる大軍であり、その兵力は三万とも数万とも伝えられる。
さらに戦闘が続く中で増援が到着し、最終的には数倍から十倍近い兵力差になったともいわれる。
普通であれば即座に壊滅しても不思議ではない状況であったが、李陵軍は驚異的な粘りを見せた。
兵士たちは強弩を用いて接近する匈奴騎兵を次々と撃退し、匈奴軍に大損害を与えた。
『漢書』によれば、匈奴側の死傷者は一万人以上に達したとされる。
しかも李陵軍は孤立無援であり、援軍も補給も期待できない状況だった。
それでも兵士たちは指揮官を信頼し、戦い続けた。
戦闘は八日間に及んだ。李陵は途中で部下の陳歩楽を派遣して朝廷に戦況を報告させた。
武帝はその報告を聞いて当初は喜び、李陵の勇戦を賞賛したとも伝えられる。
しかし時間の経過とともに状況は悪化した。矢は尽き、食糧も不足し、負傷者は増え続ける。
匈奴軍は捕虜から漢軍の状況を聞き出し、李陵軍が限界に近づいていることを知ると包囲を強化した。
最後には矢もなくなり、兵士たちは刀剣や石を用いて抵抗したという。
多くの将兵が戦死し、生き残った者も満身創痍であった。
李陵自身も脱出を試みたが失敗し、もはや戦闘継続は不可能となる。
こうして李陵は残存兵を救うため降伏を選択した。

降伏が招いた司馬遷の悲劇
李陵降伏の報は長安に衝撃を与えた。
武帝は当初こそ李陵の奮戦を評価していたが、降伏を知ると激怒する。
戦況報告のため帰還していた陳歩楽は厳しく責任を追及され、自決したと伝えられる。
朝廷では群臣が競うように李陵を非難した。
皇帝の怒りを察した官僚たちは、李陵を裏切り者として断罪すべきだと主張したのである。
しかし、その中でただ一人、李陵を弁護した人物がいた。太史令の司馬遷であった。
司馬遷は李陵が少数兵力で死力を尽くして戦ったことを指摘し、
降伏もやむを得ない状況であったと訴えた。
また李陵は漢を裏切るような人物ではなく、
機会があれば必ず功績を立てて罪を償おうと考えているはずだとも述べた。
しかし武帝はこれを李広利への批判と受け取り激怒する。
結果として司馬遷は投獄され、巨額の贖金を払うこともできず宮刑に処された。
司馬遷は後に『報任少卿書』の中で、
この屈辱に耐えた理由を『史記』完成のためであったと語っている。
つまり李陵事件は中国史上最高の歴史書の一つである『史記』完成の背景にもなったのである。
↓↓『史記』を完成させた司馬遷についての個別記事は、こちら

李緒事件と一族の滅亡
一方、匈奴へ降った李陵は単于から厚遇された。
且鞮侯単于は李陵の才能と人格を高く評価し、何度も配下になるよう勧めたが、
当初の李陵はこれを断っていたという。
しかし長安では事態がさらに悪化する。
武帝はやがて李陵を失ったことを後悔し、公孫敖に命じて李陵を連れ戻そうとした。
ところが公孫敖は匈奴の捕虜から「李将軍が匈奴に漢軍の軍略を教えている」という話を聞く。
この「李将軍」とは本来、李陵より以前に匈奴へ降っていた李緒という人物であった。
しかし公孫敖はその事実を確認しないまま報告した。
武帝は激怒した。
李陵が匈奴に軍事機密を教えていると信じた武帝は、
李陵の母、妻、子、兄、その一族を謀反人として処刑した。
この事件は李陵の人生を決定的に変えた。
後に漢の使者から一族処刑の事実を知らされた李陵は激しく悲しみ、
自分に濡れ衣を着せる原因となった李緒を自ら殺害したと伝えられる。
しかしその結果、匈奴の大閼氏は激怒し、李陵の命を狙うようになった。
且鞮侯単于は李陵を守るため、一時的に北方へ避難させたという。
匈奴の王となった李陵
大閼氏の死後、李陵は再び匈奴社会の中枢へ戻ることができた。
且鞮侯単于は李陵を信頼し、自らの娘を妻として与えた。
李陵は匈奴王族の一員となり、その間に子どもも生まれている。
やがて李陵は右校王に任じられた。
右校王は匈奴において高い地位を持つ有力王であり、
単なる客将ではなく王族に準じる待遇であったことが分かる。
李陵はその後も匈奴のために戦い、軍事面で功績を挙げたと伝えられている。
ただし彼が漢への敵意を持っていたわけではない。
むしろ一族が滅ぼされたことで帰国の道が完全に閉ざされ、
匈奴で生きる以外の選択肢を失ったというのが実情に近い。
蘇武との交流
李陵を語る上で欠かせない人物が蘇武である。
蘇武は武帝の命を受けて匈奴へ派遣された使節であったが、現地で抑留されることになった。
匈奴側は何度も降伏を勧めたが、蘇武はこれを拒否し続ける。
羊飼いとして極寒の地へ追放されてもなお漢への忠節を曲げなかった。
匈奴側は蘇武を説得するため、同じ漢人である李陵を派遣した。
李陵は蘇武に対し、一族が滅ぼされた自分の境遇を語り、現実を受け入れるよう勧めた。
しかし蘇武は首を縦に振らなかった。
それでも李陵は蘇武を憎まなかった。
むしろその忠義に深く感服し、陰ながら支援したと伝えられる。
『漢書』には、李陵が蘇武の生活を援助したことや、匈奴側との仲介役を務めたことが記されている。二人は対照的な人生を歩んだが、互いの立場を理解し合う複雑な関係にあった。
李陵の子孫とその最期
李陵は匈奴の王女との間に子をもうけた。
彼の死後、その子孫は匈奴社会に定着したが、
後に呼韓邪単于の時代になると李陵の子孫の一部は別の単于擁立に関与したと伝えられる。
この反乱は失敗に終わり、李陵の血を引く者たちは呼韓邪単于によって処刑された。
こうして李広以来続いた名門李氏の系統は、漢でも匈奴でも悲劇的な結末を迎えることになった。
後世における李陵の評価
李陵に対する評価は古くから分かれている。
儒教的価値観を重視する立場からは、敵国へ降伏した人物として批判されることが多かった。
一方で、圧倒的兵力差の中で最後まで戦い抜いた勇将として同情する声も少なくない。
司馬遷は明確に李陵を擁護している。
また唐代の詩人たちも李陵と蘇武の物語を好んで取り上げた。
特に故郷へ帰れなかった悲劇の将軍として描かれることが多く、
中国文学においても重要な題材となっている。
現代の歴史研究では、李陵を単純な裏切り者と見る見方は少ない。
五千人で数万の敵に挑んだ戦歴そのものが極めて優秀であり、
一族処刑によって帰国の道を絶たれたことを考えれば、
その後の行動も理解できるという評価が主流になっている。
まとめ
李陵は前漢の名将李広の孫として生まれ、武帝時代に匈奴との戦いで名を上げた将軍である。
紀元前99年には五千の歩兵だけを率いて匈奴主力軍と激突し、
八日間に及ぶ死闘を繰り広げた末に降伏した。
その結果、司馬遷は李陵を弁護したことで宮刑に処され、一族は李緒事件による誤解から処刑された。帰国の道を失った李陵は匈奴で右校王となり、王女を妻として迎えながら生涯を送った。
また蘇武との交流は、中国史上屈指の悲劇として語り継がれている。
李陵は裏切り者として断罪されるだけの人物ではなく、
時代と運命に翻弄された悲劇の名将として後世に記憶され続けているのである。
史書・参考文献
・『史記』巻百九 李将軍列伝
・『史記』巻百九 李将軍列伝附李陵伝
・『漢書』巻五十四 李広蘇建伝
・『漢書』巻六十二 司馬遷伝
・『資治通鑑』巻二十二~二十四
・班固『漢書』
・司馬遷『史記』
・宮崎市定『中国史』
・吉川幸次郎『漢代史研究』
・渡邉義浩『漢帝国の興亡』
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