【前漢】解憂公主| 西域50年を生きた前漢の和親公主とシルクロード外交

前漢の皇女・解憂公主 03.公主

前漢の武帝から宣帝の時代、は匈奴に対抗するため、西域諸国との関係を強めていった。
そのなかでも重要な同盟国となったのが、天山山脈の北方に勢力を持っていた烏孫うそんである。

この烏孫うそんへ公主として嫁ぎ、
四十年以上にわたって王家の一員として暮らした女性が解憂公主(かいゆうこうしゅ)である。

解憂公主は単に政略結婚によって異国へ送られた女性ではなかった。
烏孫うそん王との間に王位継承者となる子をもうけ、匈奴の侵攻に際してはへ援軍を要請し、
さらに烏孫うそん王の暗殺計画にも関与した。
晩年には、彼女に仕えた馮嫽ふうりょうの使者として烏孫うそん内部の政争を調停している。

解憂公主が烏孫うそんで過ごした時代は、が西域への進出を本格化させ、
西域都護の設置へと向かっていった時代でもあった。

解憂公主の出自

解憂公主は前漢の宗室出身で、『漢書』は「楚王戊之孫解憂」と記している。
すなわち楚王劉戊の孫娘にあたる。

劉戊は景帝の時代に楚王であったが、
紀元前154年に呉王劉濞らが起こした「呉楚七国の乱」に加わり、敗北して自害した人物である。

したがって解憂は皇帝の実の娘ではない。
前漢の和親政策では、皇族の女性を「公主」として異民族の君主に嫁がせることがあり、
解憂もその一人だった。

生年や父母について史書には明確な記録がなく、烏孫うそんへ嫁ぐ以前の経歴もほとんど分かっていない。

漢と烏孫

烏孫うそんからはるか西方に位置した遊牧国家である。

『漢書』西域伝によれば、大昆彌だいこんびの本拠である赤谷城は長安から八千九百里離れ、
十二万戸、人口六十三万、兵力十八万八千八百人を擁したという。
東には匈奴、西北には康居、西には大宛があり、西域でも有力な勢力だった。

烏孫うそんはもともと匈奴との関係が深かったが、
武帝の時代に張騫ちょうけんが西域へ派遣されると、
烏孫うそんを匈奴に対抗する同盟国として取り込もうとした。

張騫が構想したのは、烏孫うそんを厚遇して側へ引き寄せ、
の公主を嫁がせて婚姻関係を結び、匈奴を牽制するという政策だった。

烏孫うそんにとっても、との同盟には意味があった。
匈奴は烏孫うそんと通じることを警戒しており、
烏孫うそんと匈奴という二大勢力の間で生き残る必要があったからである。

解憂公主より先に嫁いだ細君公主

解憂公主以前に、から烏孫うそんへ嫁いだ女性がいた。江都王劉建の娘・劉細君である。
武帝は元封年間、細君を公主として烏孫うそん王の昆莫こんばく猟驕靡りょうきびに嫁がせた。
烏孫うそん側は彼女を右夫人とし、匈奴から嫁いできた女性を左夫人とした。

しかし細君にとって、烏孫うそんでの生活は容易ではなかった。
『漢書』によれば、彼女は自分の宮殿を設けて暮らし、
夫である烏孫うそん王・昆莫こんばくと会うのは一年に一、二度ほどだった。
昆莫こんばくはすでに高齢で、言葉も通じなかったという。
細君が故郷への思いを詠んだとされる「悲愁歌」も『漢書』に残されている。

やがて昆莫こんばくは、孫の岑陬しんすうに細君を嫁がせようとした。
細君はこれを嫌ってへ訴えたが、
武帝は烏孫うそんとともに匈奴を滅ぼすためとして、現地の習俗に従うよう命じた。
細君は岑陬しんすうと再婚し、その間に少夫という娘をもうけたが、まもなく死去した。

烏孫うそんの婚姻関係を維持するため、その後任として選ばれたのが解憂だった

解憂公主、烏孫へ嫁ぐ

細君公主の死後、武帝は楚王劉戊の孫娘である解憂を公主として烏孫うそんへ送り、岑陬しんすうに嫁がせた。
『漢書』には結婚の詳しい時期が記されていないが、
細君の死後、武帝の治世末期のことであったと考えられる。

解憂が嫁いだ岑陬しんすうは個人名ではなく称号で、本名を軍須靡ぐんしゅびという。
軍須靡ぐんしゅびには匈奴系の女性との間に泥靡でいびという息子がいた。


しかし軍須靡ぐんしゅびが死去した時、泥靡でいびはまだ幼かった。
そこで軍須靡ぐんしゅびは王位を翁帰靡おうきびに譲り、泥靡でいびが成長した後には王位を返すよう遺言した。

この取り決めが、後に烏孫うそんの王位継承をめぐる大きな問題となる。

翁帰靡との結婚と五人の子女

軍須靡ぐんしゅびの死後、王位を継いだのは翁帰靡おうきびだった。
翁帰靡おうきびは「肥王」と号し、解憂公主も再び烏孫うそん王の妻となった。

解憂と翁帰靡おうきびの間には三男二女が生まれている。

長男は元貴靡げんきびで、後に烏孫うそん大昆彌だいこんびとなった。
次男の万年ばんねん莎車王さしゃおうとなり、三男の大楽だいらく烏孫うそんの左大将となった。
長女の弟史ていし亀茲王きじおう 絳賓こうひんに嫁ぎ、次女の素光そこう若呼翕侯じゃくこきゅうこうの妻となった。

この五人の子女の存在は、解憂公主の立場を大きく変えた。
から送られた公主であるだけでなく、
その子供たちが烏孫うそんや周辺諸国の王族・有力者と結びついたためである。

特に元貴靡げんきび皇室の血を引く「の外孫」として、後の王位継承問題で重要な存在となった。
長女の弟史ていしも、亀茲王きじおう 絳賓こうひんとの婚姻を通じて亀茲きじの関係を強めている。
解憂公主の婚姻から生まれた血縁関係は、烏孫うそんだけにとどまらず、西域諸国へ広がっていった。

匈奴の侵攻と漢への救援要請

昭帝の時代、匈奴は車師と連携して烏孫うそんへの圧力を強めた。
これに対して解憂公主は漢へ上書し、匈奴と車師が共同して烏孫うそんを攻撃しているとして救援を求めた。

昭帝の死後、宣帝が即位すると情勢はさらに悪化する。
匈奴は大軍を繰り返し送り込み、烏孫うそんの領土を奪い、住民を連れ去った。
さらに烏孫うそんに対して解憂公主を引き渡すよう要求したという。

これは単なる人質要求ではない。
解憂公主が烏孫うそんの婚姻同盟を象徴する存在だったため、
彼女を奪えば両国の関係を断つことができると匈奴側が考えていたことを示している。

解憂公主と翁帰靡おうきびへ救援を求め、烏孫うそん側も精鋭五万騎を出して匈奴と戦うことを申し出た。

宣帝はこれに応じ、本始三年(紀元前71年)、
五人の将軍に合計十五万騎を率いさせて匈奴へ出撃させた。
さらに常恵が烏孫うそん軍の監督に派遣され、翁帰靡おうきびも五万騎を率いて西方から匈奴領へ侵入した。
烏孫うそん軍は多数の捕虜と家畜を獲得し、匈奴に大きな損害を与えた。

この戦いは烏孫うそんの軍事協力が大規模な形で実現した例であり、
解憂公主自身の上書が史書に記録されている点でも重要である。

元貴靡をめぐる王位継承問題

匈奴との戦いの後、翁帰靡おうきびは長男の元貴靡げんきびを自らの後継者とすることを望んだ。

元貴靡げんきびは解憂公主の子であるため、皇室の血を引いている。
翁帰靡おうきび元貴靡げんきびを後継者としたうえで、さらにから新たな公主を迎え、
との婚姻関係を継続したいと申し出た。

ではこの要求を受け入れるか議論が行われた。

大鴻臚の蕭望之は、遠方にある烏孫うそんは情勢が変わりやすく、
婚姻関係を重ねるべきではないと反対した。
しかし宣帝は、烏孫うそんが匈奴との戦いで功績を挙げたことを評価し、最終的に要求を受け入れた。

そこで解憂公主の一族にあたる相夫という女性が新たに公主とされ、烏孫うそんへ向かうことになった。
相夫には百人余りの官属や侍従が付けられ、出発前には上林苑で烏孫うそんの言葉を学ばせている。

ところが相夫が敦煌まで到着したところで、翁帰靡おうきびが死去した。

烏孫うそんの有力者たちは元貴靡げんきびを王とせず、
かつて軍須靡ぐんしゅびが残した約束に従い、その子の泥靡でいびを王に立てた。
泥靡でいびは「狂王」と呼ばれることになる。

は相夫を烏孫うそんへ送ることを中止し、彼女を長安へ呼び戻した。

三度目の結婚――狂王・泥靡

泥靡でいびが王位につくと、解憂公主は再び烏孫うそん王の妻となった。解憂にとって三人目の夫である。

泥靡でいびとの間には鴟靡しびという男子が生まれたが、
『漢書』は泥靡でいびについて「公主と和せず、また暴悪にして衆を失う」と記している。
夫婦関係が悪かっただけでなく、泥靡でいび自身が烏孫うそん国内で支持を失っていたことが分かる。

この状況で解憂公主は、外交官という範囲を越える行動に出た。

から衛司馬の魏和意と副侯の任昌が烏孫うそんへ来た際、
解憂は泥靡でいび烏孫うそんの人々を苦しめており、殺害することは容易だと伝えた。

こうしての使者と解憂公主による泥靡でいび暗殺計画が進められた

泥靡暗殺未遂と赤谷城包囲

解憂公主との使者による泥靡でいび暗殺計画では、宴席が利用された。
宴が終わる頃、計画に加わった兵士が剣を抜いて泥靡でいびを襲撃したが、
致命傷を与えることはできなかった。
負傷した泥靡でいびは馬に乗ってその場から逃れ、暗殺計画は失敗に終わった。

これに対し、泥靡でいびの子・細沈瘦さいちんそうは兵を集め、
の使者である魏和意・任昌と解憂公主が立てこもる赤谷城を包囲した。
包囲は数か月に及んだが、最終的には西域都護の鄭吉が諸国の兵を動員して救援に駆けつけ、
解憂公主らは危機を脱した。

事件後、朝は泥靡でいび暗殺に関与した者を一方的に擁護したわけではなかった。
中郎将の張遵を烏孫うそんへ派遣し、負傷した泥靡でいびを治療させるとともに、
金や絹を与えて関係の修復を図っている。
その一方、暗殺を実行した魏和意と任昌は逮捕され、檻車に載せて長安へ送られたのち、処刑された。

さらに朝は、車騎将軍長史の張翁を派遣し、事件に関与した解憂公主を取り調べさせた。
ところが解憂が罪を認めなかったため、張翁は彼女の頭をつかんで罵倒したという。
解憂はこの扱いを朝へ訴え、
帰国した張翁は、公主に対する無礼な振る舞いを罪に問われて死刑となった。

一連の処分を見ると、
朝が泥靡でいび暗殺を正式な政策として承認していたわけではなかったことが分かる。

解憂公主と現地に派遣されていたの使者が暗殺計画に深く関与した一方、
計画が失敗すると朝は泥靡でいびを治療して慰撫し、実行に関与した使者を処刑することで、
烏孫うそんとの外交関係を立て直そうとしたのである。

烏就屠の挙兵と泥靡の死

泥靡でいびが負傷したころ、烏孫うそん国内では別の勢力が台頭した。
翁帰靡おうきびと匈奴系の女性との間に生まれた烏就屠うしゅうとである。
烏就屠うしゅうとは北山へ移り、自らの母方にあたる匈奴の軍勢が来援すると宣伝したため、
多くの人々がそのもとへ集まった。

やがて烏就屠うしゅうと泥靡でいびを襲って殺し、自ら烏孫うそん王を称した。

これに対しては破羌将軍の辛武賢に一万五千の兵を与え、敦煌方面へ進出させた。
しかし、この危機を実際に交渉によって処理した人物がいた。
解憂公主の侍女として烏孫うそんへ渡っていた馮嫽ふうりょうである。

↓↓西域外交を担った馮嫽についての個別記事は、こちら

【前漢】馮嫽|解憂公主に仕え、西域外交を担った「馮夫人」
馮嫽(ふうりょう)は解憂公主に仕えて烏孫へ渡り、「馮夫人」と呼ばれた前漢の女性である。西域諸国への使節、烏就屠との交渉、宣帝による派遣など、『漢書』や懸泉漢簡に残る生涯と功績を解説する。

馮嫽――解憂公主を支えた女性使節

馮嫽ふうりょうは『漢書』に「能史書、習事」と記され、文書に通じ、実務にも習熟した女性だった。
彼女は解憂公主に仕えながら烏孫うそんの右大将と結婚し、現地社会に深い人脈を築いていた。
また、の使節として節を持ち、西域の諸国を巡って賞賜を行ったこともある。
西域諸国から信頼され、「馮夫人」と呼ばれていた。

烏就屠うしゅうとが王を称した際、西域都護の鄭吉はこの人脈を利用した。

馮嫽ふうりょう烏就屠うしゅうとのもとへ赴き、軍が出動すれば滅ぼされることになるとして降伏を勧めた。
烏就屠うしゅうとは説得を受け入れ、自分にも王号を残してほしいと要求した。

宣帝は馮嫽ふうりょうを長安へ呼び戻し、現地の事情を直接尋ねたうえで、再び彼女を使者として烏孫うそんへ送った。馮嫽ふうりょうは錦車に乗り、の使者として節を持って烏孫うそんへ戻った。

当時の女性が皇帝の命を受けた正式な使節として国際交渉を担った極めて珍しい事例である。

烏孫を「大昆彌」と「小昆彌」に分割

馮嫽ふうりょうの交渉によって、烏孫うそんの王位問題には妥協案が採用された。

解憂公主と翁帰靡おうきびの長男・元貴靡げんきびを「大昆彌だいこんび」、
烏就屠うしゅうとを「小昆彌しょうこんび」とし、双方にから印綬を与えたのである。


さらに烏孫うそんの人口と領域を分け、大昆彌だいこんび側を六万戸余り、小昆彌しょうこんび側を四万戸余りとした。
ただし『漢書』は、人々の心は小昆彌しょうこんびである烏就屠うしゅうとの側に傾いていたとも記している。

形式上は解憂公主の息子・元貴靡げんきびが上位に置かれたものの、
烏孫うそんを完全に掌握したわけではなかった。

烏孫うそんは以後、大昆彌だいこんび小昆彌しょうこんびという二つの王統に分かれ、両者の対立は長く続くことになる。

子女を通じて広がった西域との関係

解憂公主の影響は、烏孫うそん王家だけに限られていない。
次男の万年は莎車王となり、三男の大楽は烏孫うそんの左大将となった。
長女の弟史は亀茲王絳賓に嫁いだ。

絳賓はへ上書し、
自分は「の外孫」を妻としているため皇室と兄弟の関係にあると述べ、
妻とともに長安へ入朝した。
漢は夫妻を厚遇し、弟史には公主としての待遇を与えた。

絳賓はの衣服や制度を好み、
帰国後には宮殿や道路、警備、鐘鼓などにもの制度を取り入れたと『漢書』は伝えている。

解憂公主から始まった婚姻関係は、次世代を通じて亀茲などにも広がっていたのである。

老境に入り、漢への帰国を願う

元貴靡げんきび鴟靡しびが相次いで病死すると、長く烏孫うそんで暮らしてきた解憂公主も老境に入っていた。

そこで彼女はへ上書した。
『漢書』によれば、解憂は「年老土思、願得帰骸骨、葬漢地」と訴えている。
年老いて故郷を思い、自分の亡骸をの地に葬りたいという願いだった。

宣帝はこれを聞き入れた。

甘露三年(紀元前51年)、解憂公主は烏孫うそんの男女三人を伴って長安へ帰還した。
このとき彼女は七十歳近かったという。

細君公主が烏孫うそんで故郷を思いながら死去したのに対し、
解憂公主は数十年を経ての地へ戻ることができた。

長安への帰還と最期

帰国した解憂公主に対し、宣帝は公主として田宅と奴婢を与え、手厚く扶養した。
朝廷へ参内する際の儀礼についても、公主と同等の待遇が認められている。

解憂は帰国から二年後に死去した。紀元前49年頃のことである。
烏孫うそんから同行した三人の孫はそのままに残り、解憂公主の墓を守ったという。
烏孫うそんへ送られてから四十年以上を経て、解憂公主の生涯はの地で終わった。

解憂公主は「和親公主」だったのか

解憂公主の婚姻は、一般に「和親」の一例として扱われる。
ただし、匈奴へ嫁いだ王昭君などとまったく同じ性格の婚姻と考えると、
その政治的役割を捉えにくい。

烏孫うそんとの婚姻を進めた目的は、
強大な匈奴に対抗するため、西方の烏孫うそんを同盟陣営へ引き入れることにあった。
そのため解憂公主には、婚姻そのものによって友好関係を示すだけでなく、
烏孫うそん王家の内部にとの血縁を形成する役割があった。

実際、解憂の子である元貴靡げんきびは「の外孫」であることを根拠の一つとして王位継承者に推され、
娘の弟史と結婚した亀茲王もとの血縁関係を外交上利用している。

一方で、の思惑だけですべてが進んだわけではない。

翁帰靡おうきびの死後にはが支持した元貴靡げんきびではなく泥靡でいびが即位し、後には烏就屠うしゅうとも独自に勢力を伸ばした。最終的に烏孫うそん大昆彌だいこんび小昆彌しょうこんびに分割して妥協せざるを得なかった。

解憂公主の生涯は、の西域政策が婚姻、軍事援助、使節、
現地王族との血縁関係を組み合わせて進められていたことを具体的に示している。

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まとめ

解憂公主は前漢の宗室に生まれ、武帝の時代に烏孫うそんへ公主として嫁いだ。

最初の夫は軍須靡ぐんしゅび、次いで翁帰靡おうきび、さらに泥靡でいびと結婚し、烏孫うそん王家のなかで四十年以上を過ごした。

特に翁帰靡おうきびとの間には三男二女をもうけ、
長男の元貴靡げんきび大昆彌だいこんびとなったほか、長女の弟史は亀茲王に嫁いだ。
解憂の子女は烏孫うそんと周辺諸国に広がり、と西域諸国を結ぶ血縁関係の一部となった。

解憂自身も匈奴の侵攻に際してへ援軍を求め、泥靡でいびの時代にはの使者と暗殺を企てるなど、
烏孫うそんの政治に直接関与している。

さらに彼女に仕えた馮嫽ふうりょうは、の正式な使者として烏就屠うしゅうととの交渉を行い
元貴靡げんきび大昆彌だいこんび烏就屠うしゅうと小昆彌しょうこんびとする政治的妥協を成立させた。

甘露三年(紀元前51年)、七十歳近くなった解憂公主は長安へ帰還し、その二年後に死去した。

から遠く離れた烏孫うそんへ嫁いだ一人の公主の生涯には、
武帝から宣帝にかけて進展したの西域進出と、
匈奴・烏孫うそん・西域諸国をめぐる国際関係が凝縮されている。

【中国ドラマ】「解憂(かいゆう)〜西域に嫁いだ姫君〜」史実との違いを解説
中国ドラマ『解憂〜西域に嫁いだ姫君〜』のあらすじや作品情報を紹介。実在した解憂公主(かいゆうこうしゅ)や馮嫽(ふうりょう)などの人物、漢・烏孫・匈奴をめぐる歴史、ドラマと史実の違いをわかりやすく解説する。

史書・参考文献

・『漢書』巻九十六下「西域伝第六十六下」
・『漢書』巻七十「傅常鄭甘陳段伝」
・『漢書』巻九十四「匈奴伝」
・『資治通鑑』漢紀

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