【前漢】馮嫽|解憂公主に仕え、西域外交を担った「馮夫人」

馮嫽(前漢・外交官) 05.才女

馮嫽(ふうりょう)は、前漢の武帝から元帝の時代にかけて、西域の烏孫で活動した女性である。

もとは解憂公主の侍者だったが、烏孫に渡ったのち、解憂公主の使者として西域諸国を巡り、
現地では「馮夫人」と呼ばれるようになった。
さらに烏孫の右大将の妻となり、西域都護・鄭吉の命を受けて王位を奪った烏就屠を説得すると、
宣帝から正式な使者として送り出され、烏孫の王位問題の処理にあたった。

晩年については不明な点が多いものの、
解憂公主が帰国した後にも、烏孫の情勢を案じて自ら再派遣を願い出ている。

『漢書』に残された記録は決して長くない。
しかし、侍者として西域へ渡った女性が、現地諸国から信頼を得て外交使節となり、
皇帝に直接情勢を報告し、の節を持って再び烏孫へ向かうまでの経歴が記されている。
さらに敦煌の懸泉置から出土した漢簡には「馮夫人」のために馬や飼料を準備した記録も残り、
その活動を同時代の行政文書から確認することができる。

出自と生年

馮嫽の生年や出生地、父母、家系については記録がなく、その出自はほとんど分かっていない。

『漢書』に初めて登場する時には、すでに解憂公主の侍者として仕えていた。
解憂公主は楚王劉戊の孫にあたり、と烏孫の関係を維持するため、西域へ嫁いだ女性である。

『漢書』はこの時の馮嫽について、「能史書、習事」と記している。
「能史書」は文字や文書を扱う能力を備えていたこと、
「習事」は実務に通じていたことを意味すると考えられる。

後に解憂公主の使者として西域諸国を巡り、さらに朝の使節として外交交渉を担ったことからも、
早くから文書実務や物事の処理に長けた女性だったことがうかがえる。

また、代に『漢書』へ注を付した顔師古は、
「嫽」という名について「慧い」という意味を持つ字だと説明している。
ただし、馮嫽の命名の経緯そのものが史料に残されているわけではない。

↓↓烏孫に嫁いだ解憂公主についての個別記事は、こちら

【前漢】解憂公主| 西域50年を生きた前漢の和親公主とシルクロード外交
解憂公主(かいゆうこうしゅ/劉解憂)は前漢の和親公主として西域の烏孫に嫁ぎ、約50年にわたり外交と政治の中心で活躍した女性である。匈奴との対立、烏孫王との結婚、宮廷内乱など、シルクロード史に大きな影響を与えたその生涯をわかりやすく解説する。

解憂公主に仕え、烏孫へ

解憂公主が烏孫へ嫁いだのは、先に烏孫へ送られていた江都公主劉細君の死後だった。
一般には太初四年(前101)頃とされる。

馮嫽は解憂公主の侍者であり、のちに烏孫で活動しているため、
解憂公主に従って漢から西域へ渡ったと考えられている。
ただし、『漢書』には「馮嫽が前101年に解憂公主とともに出発した」と明記した記事はない。

そのため、馮嫽の烏孫入りについては、
解憂公主への随行によるものと考えるのが自然ではあるものの、出発年まで確定することはできない。

解憂公主は長期間にわたって烏孫にとどまり、
軍須靡、翁帰靡、泥靡ら烏孫の昆弥と婚姻関係を結んだ。
と匈奴が西域の諸勢力をめぐって争うなか、烏孫は漢にとって重要な同盟国となっていた。

馮嫽もまた、この環境の中で長く生活することになる。

公主の使者として西域諸国を巡る

馮嫽は、単に解憂公主の身辺に仕える侍者にとどまらなかった。

『漢書』によれば、馮嫽は漢の節を持ち、解憂公主の使者として「城郭諸国」を巡って賞賜を行った。城郭諸国とは、西域に点在するオアシス都市国家を指す。
『漢書』は馮嫽が具体的にどの国を訪れたのかを記していないが、
から与えられた物品を解憂公主に代わって各国へ届け、外交関係を処理していたことが分かる。
この活動によって諸国は馮嫽を「敬信」し、「馮夫人」と呼んだ

「夫人」はここでは朝から授けられた正式な官爵として記されているわけではない。
西域諸国から信頼を受け、そのように尊称されたというのが『漢書』の記述である。

現代では馮嫽を「中国最初の女性外交官」と紹介することがある。
しかし「外交官」は近代的な概念であり、代にそのような官職が存在したわけではない。
史料から確認できるのは、馮嫽が漢節を持った解憂公主の使者として西域諸国を巡り、
賞賜を行ったという事実である。

烏孫右大将の妻となる

馮嫽は烏孫で右大将の妻となった。

夫の姓名や出自、婚姻した時期は記録されていない。
右大将は烏孫政権の有力者であり、のちに王位を奪う烏就屠と親しい関係にあった。
『漢書』は、『右大将与烏就屠相愛』と記している。
ここでいう「相愛」は男女間の恋愛という意味ではなく、両者が親密な関係にあったことを指す。

馮嫽自身が烏就屠と以前からどの程度面識を持っていたのかは分からない。
しかし、夫と烏就屠との人脈は、後に烏孫の王位争いが起きた際、
馮嫽が交渉役として選ばれる重要な要因となった。

右大将との間に子がいたかどうかも史料には残されていない。

烏孫の王位をめぐる混乱

馮嫽が外交交渉の中心に登場する背景には、烏孫内部の深刻な王位争いがあった。

解憂公主の夫である翁帰靡は、自らの死後、解憂との間に生まれた元貴靡を後継者とし、
との婚姻関係を維持しようとしていた。
ところが翁帰靡が死ぬと、烏孫の貴族たちは約束に従わず、軍須靡の子である泥靡を昆弥に立てた。


泥靡は「狂王」と呼ばれる。
狂王は解憂公主と婚姻したものの、両者の関係は悪かった。
『漢書』は狂王について「暴悪にして衆を失う」と記す。

やがて解憂公主と漢の使者 魏和意、任昌らは狂王の殺害を計画した。
宴席の後に兵士が剣で狂王を襲ったものの、傷を負わせただけで殺害には失敗した。

狂王の子・細沈痩は兵を集め、解憂公主と漢使を赤谷城に包囲した。
包囲は数か月に及び、西域都護鄭吉が西域諸国の兵を動員して救援したことでようやく解除された。

朝は狂王暗殺未遂について調査し、関係した漢使を処罰した。

烏就屠が狂王を殺して自立

この混乱のなかで別の勢力が台頭する。それが烏就屠だった。
烏就屠は翁帰靡と胡婦との間に生まれた子である。
母方が匈奴系だったため、解憂公主の子ではない。

狂王が暗殺未遂事件で負傷すると、烏就屠は恐れて諸翕侯とともに北山へ逃れた。
そこで「母方の匈奴から軍勢が来る」と言い広めたため、人々が烏就屠のもとへ集まったという。
その後、烏就屠は狂王を襲って殺し、自ら昆弥を称した。

にとってこれは認められない王位簒奪だった。
解憂公主と翁帰靡の子である元貴靡を後継者とする方針を維持していたため、
宣帝は破羌将軍辛武賢に一万五千の兵を率いさせ、敦煌まで進ませた。

さらに使者を派遣して井戸や水路を調査させ、
運河を通じて食糧を輸送し、居廬倉へ蓄積する準備を進めた。
烏就屠を討つための軍事行動が現実に開始されつつあった。

鄭吉の命を受け、烏就屠を説得

烏就屠の討伐に向けて軍が動き始めるなか、
西域都護の鄭吉は、まず馮嫽を使者としてそのもとへ送り、降伏を促した。

馮嫽が選ばれた背景には、烏孫で築いてきた人脈があった。
夫である右大将は烏就屠と親しい間柄にあり、馮嫽自身も長年にわたって西域諸国を往来し、
「馮夫人」と呼ばれるほど現地の人々から信頼を得ていた。

馮嫽は烏就屠に対し、すでに軍が出動しており、
このまま抵抗を続ければ滅ぼされるため、降伏した方がよいと説いた。
実際に破羌将軍辛武賢率いる一万五千の兵が敦煌まで進んでおり、
その言葉には現実の軍事的圧力が伴っていた。

これを恐れた烏就屠は降伏を受け入れる一方、
王としての地位をすべて失うことには抵抗し、自分にも下位の王号を認めてほしいと申し出た。

この要求が、のちに元貴靡を「大昆弥」、烏就屠を「小昆弥」とする形で
烏孫の王権を二分する解決につながることになる。

宣帝に直接、西域情勢を報告

烏就屠が条件付きで服従の意思を示すと、その報告は朝へ届けられた。

宣帝は馮嫽を長安へ召還した。
『漢書』には、「宣帝徴馮夫人、自問状。」とあり、宣帝自身が馮嫽に事情を尋ねたことが分かる。

馮嫽は烏就屠と直接交渉した人物であり、烏孫の政情にも通じていた。
宣帝は伝聞だけで判断するのではなく、本人を長安まで呼び寄せ、
烏就屠の意向や現地情勢を確認したことになる。

この召還は甘露二年(前52)頃の出来事と考えられる。
敦煌の懸泉置から出土した漢簡にも、
この時期に「馮夫人」の移動を支えるための準備が行われていたことが記されている。

「錦車持節」――漢の正式な使者として再び烏孫へ

馮嫽から烏孫の情勢と烏就屠の意向を直接聞いた宣帝は、
その要求を受け入れ、王位をめぐる争いを収束させることにした。

そこで馮嫽を再び烏孫へ派遣し、謁者の竺次と期門の甘延寿を副使として同行させた。
この時、『漢書』は馮嫽が「錦車」に乗り、「節」を持って烏孫へ向かったと記している。

「錦車」とは、錦で飾られた車のことである。
また「節」は、皇帝の命を受けた使者であることを示す標識だった。
かつて解憂公主の使者として西域諸国を巡っていた馮嫽は、
ここでは漢王朝を代表し、烏孫の王位問題を処理する使者として送り出されたのである。

しかも『漢書』では、竺次と甘延寿は馮嫽に同行する「副使」とされている。
馮嫽が中心となって烏孫との交渉にあたる使節団だったことが分かる。

元貴靡を大昆弥、烏就屠を小昆弥とする

烏孫へ戻った馮嫽は宣帝の意向を伝え、烏就屠を長羅侯常恵がいる赤谷城へ出頭させた。

解憂公主と翁帰靡の子・元貴靡を「大昆弥」、烏就屠を「小昆弥」とし、
それぞれに印綬を与えた。
烏就屠の王位を完全に否定するのではなく、
元貴靡より下位の王として認めることで、両者を共存させようとしたのである。

これによって烏孫では、一人の昆弥が国を治める従来の体制に代わり、
大昆弥と小昆弥という二人の王が並び立つことになった。

この決着を受け、敦煌まで進んでいた破羌将軍辛武賢の軍も撤退した。

と烏就屠との全面的な軍事衝突は回避されたが、それは馮嫽の交渉だけによるものではない。
背後では一万五千の漢軍が出動し、補給の準備まで進められていた。
こうした軍事的圧力を背景として、鄭吉や常恵らとともに馮嫽が外交面を担った結果だった。

大小昆弥体制の成立と残された問題

烏就屠が小昆弥となっても、烏孫内部の対立は解消しなかった。
烏就屠は自らに従う諸侯や民衆をすべて大昆弥側へ引き渡そうとせず、
両勢力の間にはなお緊張が残っていた。

は常恵に兵を率いさせて赤谷城に駐屯させ、烏孫の領域と民衆を両者に分けた。
その結果、大昆弥の元貴靡には六万余戸、小昆弥の烏就屠には四万余戸が属することになった。

戸数では元貴靡が上回ったものの、
『漢書』によれば、民衆の支持はむしろ烏就屠に集まっていたという。
漢が大昆弥を上位に置いても、烏孫内部の勢力関係まで思いどおりに変えることはできなかった。

こうして成立した大小昆弥の並立は、その場での内戦を避ける一方、
烏孫を二つの王統に分裂させる結果にもなった。
以後も両者の争いは続き、は長期にわたって烏孫の安定に介入することになる。

なお、この領域や民衆の分割に馮嫽がどこまで関与したのかは記録されていない。

解憂公主の帰国

その後、大昆弥となった元貴靡と、その弟の鴟靡が相次いで病死した。

長年にわたって烏孫で暮らしてきた解憂公主も、すでに七十歳近い高齢となっていた。
故郷への思いを募らせた公主は、死後はの地に葬られたいと宣帝に願い出た。

宣帝はこれを許し、甘露三年(前51)、解憂公主は烏孫の孫三人を伴って長安へ帰還した。
帰国後は田宅や奴婢を与えられ、漢の公主に準じた待遇を受けたが、二年後に死去した。
同行した孫たちはそのままに残り、公主の墓を守ったという。

馮嫽がこの時に解憂公主とともに帰国したかどうかは、はっきりしない。
後世に編纂された『全漢文』では公主に従って京師へ帰ったとされるが、
『漢書』本文には馮嫽の同行を明記した記述がない。

ただし、その後の馮嫽はから烏孫への再派遣を自ら願い出ているため、
遅くともその時までにはへ戻っていたと考えられる。

星靡の即位と馮嫽の上書

元貴靡の死後、大昆弥の地位はその子・星靡に引き継がれた。
しかし星靡はまだ若く、烏孫を安定して統治できる状況にはなかった。

この時、馮嫽は朝廷に上書し、自ら烏孫へ赴いて星靡を支えたいと申し出た。

馮嫽は長年烏孫で生活し、公主の使者として西域諸国を巡っただけでなく、
烏孫の有力者とも深い関係を築いていた。
烏就屠との交渉を成功させた経験もあり、烏孫の政治事情をよく知る人物だった。

注目されるのは、この派遣が朝廷から命じられたものではなく、
馮嫽自身の申し出によるものだったことである。
解憂公主がすでに烏孫を離れた後も、馮嫽と烏孫との関わりは続いていた。

百人の兵を伴い、再び烏孫へ

漢朝は馮嫽の申し出を認め、彼女を再び烏孫へ派遣した。
その際には百人の兵士が護衛として付けられた。

しかし、この派遣後に馮嫽が星靡をどのように補佐したのか、
具体的な活動は『漢書』に記されていない。

当時のは、馮嫽の派遣とは別に烏孫の統治体制を立て直そうとしていた。
西域都護の韓宣は、
大昆弥を補佐する有力者に金印紫綬を与えて権威を高めるよう朝廷に提案し、認められている。
さらに星靡を廃して叔父の大楽を昆弥に立てる案も出したが、こちらは採用されなかった。

その後も烏孫では混乱が続き、
西域都護の段会宗が離反した者たちを呼び戻すなど、による介入が続いた。
ただし、これらの政策に馮嫽が関わったことを示す記録はない。

史料から姿を消す馮嫽

星靡を支えるために烏孫へ派遣された記事を最後に、馮嫽の消息は分からなくなる。

そのまま烏孫に残ったのか、再びへ帰国したのかは不明で、没年や死去した場所も伝わっていない。墓所や死後の顕彰についての記録もなく、烏孫右大将との間に子がいたかどうかも分からない。

馮嫽について史料から確認できる最後の姿は、
解憂公主がすでに帰国した後も烏孫の情勢に関わり、
自ら再派遣を願い出て西域へ向かった時のものである。

懸泉漢簡に残った「馮夫人」

馮嫽の活動を伝える史料は『漢書』だけではない。
敦煌と酒泉を結ぶ交通路に置かれていた代の駅伝施設・懸泉置から、
「馮夫人」の名を記した木簡が発見されている。

甘露二年(前52)二月の文書には、馮夫人の一行を迎えるため、
伝馬十匹のほか、穀物や馬の飼料を準備するよう指示した記録が残る。
この時期は、烏就屠との交渉を終えた馮嫽が宣帝に召され、
と烏孫の間を往来していた時期と重なる。

同年四月の別の文書にも「使者馮夫人」の名があり、破羌将軍や穿渠校尉らとともに記されている。
一行の移動は急を要したらしく、昼夜を通して進んだため馬が疲弊し、
途中で放棄されたり行方が分からなくなったりした馬も出た。
そのため、周辺の官署には失われた馬を捜索するよう命令が出されている。

『漢書』では、馮嫽が宣帝に召され、再び烏孫へ派遣された経緯が簡潔に記されるだけである。
懸泉漢簡からは、その往来のために駅伝施設が馬や食糧を用意し、
各地の官吏が一行の移動を支えていたことまで確認できる。

馮嫽と同じ時代に作成された行政文書に「馮夫人」の名が残っていることは、
『漢書』に描かれた彼女の使者としての活動を具体的に裏づける史料として重要である。

馮嫽の人物像と評価

馮嫽には独立した列伝がなく、
その生涯は『漢書』「西域伝」の烏孫に関する記事の中に断片的に残されている。
それでも、当時の女性としては異例ともいえる活動が記録されている

特に注目されるのは、と烏孫の双方に通じた実務経験である。
解憂公主の使者として西域諸国を巡った経験に加え、
烏孫の右大将との婚姻を通じて現地の有力者とも関係を築いていた。
烏就屠との交渉に起用されたのも、こうした長年の経験と人脈があったためだった。

また、宣帝が馮嫽を長安へ召して自ら事情を聞き、
その後は漢の正式な使者として再び烏孫へ送っていることからも、
朝廷が彼女の現地知識と交渉能力を重視していたことが分かる。
解憂公主が帰国した後には、自ら烏孫への再派遣を願い出ており、
その役割は公主の侍者という立場を大きく越えていた。

馮嫽は現代に「中国最初の女性外交官」と呼ばれることがあるが、「外交官」は代の官職ではない。ただし、西域諸国への使節、烏孫との交渉、皇帝への情勢報告、
詔命の伝達という実際の活動を見る限り、
漢の西域外交を担った重要な実務者の一人と評価することはできる。

まとめ

馮嫽は解憂公主の侍者として烏孫へ渡り、
公主の使者として西域諸国を巡るなかで信頼を築き、「馮夫人」と呼ばれるようになった。

その経験と人脈を買われ、烏孫の王位を奪った烏就屠の説得を任されると、
のちには宣帝の命を受けた正式な使者として王位問題の解決に関わった。
解憂公主の帰国後も自ら烏孫への再派遣を願い出ており、
長年にわたって漢の西域外交を支えた人物だったことが分かる。

一方、出生や家族、晩年についてはほとんど記録がなく、
最後の烏孫派遣以後の消息や没年も不明である。

それでも『漢書』には、侍者から使者へと活動の場を広げた馮嫽の足跡が明確に残されている。
さらに懸泉漢簡からも、彼女の移動のために伝馬や食糧が手配されていたことが確認されており、
前漢の西域外交で実際に活動したことを同時代の行政記録からもたどることができる。

【中国ドラマ】「解憂(かいゆう)〜西域に嫁いだ姫君〜」史実との違いを解説
中国ドラマ『解憂〜西域に嫁いだ姫君〜』のあらすじや作品情報を紹介。実在した解憂公主(かいゆうこうしゅ)や馮嫽(ふうりょう)などの人物、漢・烏孫・匈奴をめぐる歴史、ドラマと史実の違いをわかりやすく解説する。

史書・参考文献

・班固『漢書』巻96下「西域伝下」
・顔師古『漢書注』
・司馬光『資治通鑑』「漢紀」
・厳可均輯『全上古三代秦漢三国六朝文』所収『全漢文』
・胡平生・張徳芳編『敦煌懸泉漢簡釈粋』

関連リンク

中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国