【魏】曹丕|曹操の後継者から魏の初代皇帝へ

031.皇帝

曹丕(そうひ)、字は子桓。
後漢末の群雄曹操の子として生まれ、父が築いた魏国を継承したのち、
後漢の献帝から禅譲を受けて魏の初代皇帝となった人物である。

曹操、曹植とともに「三曹」に数えられる文学者でもあり、
『典論』では文学を「経国の大業、不朽の盛事」と位置づけた。
詩文だけでなく騎射や撃剣にも通じ、自ら武芸の修行について書き残している。

一方、曹操の後継者となるまでには弟曹植らとの競争があり、
即位後には曹植派の丁儀兄弟を処刑したほか、
功臣の曹洪を死刑寸前まで追い込み、降将于禁には曹操陵の壁画を使って屈辱を与えた。

鮑勛ら直諫の臣に対する処遇も厳しく、
陳寿は曹丕の才能を認めながら、その度量と公平さには不足があったと評している。

曹丕の生涯は、曹操の子として戦乱の中で成長した時代、曹植らと後継者の座を争った時代、
漢魏革命を完成させて皇帝となった時代に大きく分かれる。

その一方で、生涯を通して文学、武芸、書物、刀剣といった
文化的・個人的関心を失わなかった人物でもあった。

  1. 曹操と卞氏の子として誕生
  2. 八歳で文章を作り、騎射と撃剣を好む
  3. 宛城の敗戦と軍旅の中での成長
  4. 鄴城陥落と甄氏
  5. 建安文学と曹丕
  6. 曹沖の死と後継者問題
  7. 五官中郎将となる
  8. 曹植との後継者争い
    1. 呉質を車に隠した逸話
    2. 涙で曹操を見送った話
    3. 崔琰と賈詡の進言
    4. 曹植の失点
  9. 魏王太子となる
  10. 『典論』と文学論
  11. 「燕歌行」と詩人曹丕
  12. 曹操の死と魏王継承
    1. 曹操の喪中に開いた宴
  13. 魏王として行った政策
  14. 漢から魏への禅譲
  15. 魏の国家制度を整える
  16. 即位後の一族・旧臣への処遇
    1. 丁儀・丁廙兄弟の処刑
    2. 曹植を殺さず、厳しく統制する
    3. 曹洪を死刑寸前まで追い込む
    4. 曹彰の死
  17. 甄氏との不和と死
  18. 郭女王を皇后に立てる
  19. 外戚と宦官を抑える
  20. 孫権の臣従
    1. 于禁への壁画
  21. 劉備の夷陵での敗北を予測する
  22. 孫権との決裂と対呉戦争
  23. 北方と西方の統治
  24. 災害と民政
  25. 臣下との関係と処遇
    1. 孟達を厚遇する
    2. 陳羣・司馬懿らを重用する
    3. 呉質との宴席
    4. 鮑勛との対立
  26. 南征を繰り返す
    1. 橋玄を祭る
  27. 学問と『典論』の普及
  28. 曹丕の趣味と嗜好
    1. 葡萄を好む
    2. 刀剣への関心
  29. 曹叡との関係
  30. 皇太子決定は死の直前
  31. 薄葬を命じる
  32. 四十歳で死去
  33. 死後の影響と後世の曹丕像
    1. 曹丕の死後と『典論』
    2. 曹丕死後の魏と宗室政策
    3. 「七歩詩」と曹彰毒殺説が作った後世の曹丕像
  34. 曹丕の人物評・評価
    1. 文学者としての曹丕
    2. 武芸と軍事
    3. 感情の細やかさと怨恨
    4. 陳寿が評した曹丕
    5. 孫盛・裴松之・司馬光の批判
  35. 曹丕の家族
  36. 魏の初代皇帝として
  37. 史書・参考文献

曹操と卞氏の子として誕生

曹丕は中平四年(187)の冬、沛国譙県に生まれた。
父は後に魏王となる曹操、母は卞氏である。
卞氏との間には曹丕のほか、曹彰曹植、曹熊が生まれている。

曹丕は曹操の長男ではなかった。
曹操には正室丁夫人に養育された曹昂という年長の男子がおり、
建安二年(197)の宛城の戦いで曹昂が戦死するまでは、
曹丕が当然に後継者とみなされる立場ではなかった。

その後も曹沖曹植など曹操から特に愛された弟がおり、
曹丕が後継者に決まるまでには長い時間を要することになる。

裴松之が『三国志』文帝紀の注に引く『魏書』には、曹丕の誕生時に瑞兆が現れたという話がある。
曹丕の上に青色で車蓋のように丸い雲気が一日中漂い、
望気者が「これは人臣の気ではなく、至貴の徴である」と判断したという。

皇帝となった人物の出生に付された典型的な瑞祥記事であり、
後世に整えられた王朝的な伝承として見る必要がある。

↓↓母の卞氏、異母兄・曹昂についての個別記事は、こちら

【魏】卞夫人(武宣皇后)|曹操を支え続けた魏の国母
卞夫人(べんふじん/武宣皇后)は、曹操の妻であり、曹丕・曹植らの母として魏建国を支えた女性である。歌妓時代、丁夫人との関係、質素倹約の逸話、曹洪助命事件、人物像まで史実ベースで詳しく解説する。
【魏】曹昂|窮地に陥った父へ馬を譲り戦場に散った曹操の長男
曹昂(そうこう)は曹操の長男であり、字は子脩。生母劉夫人の早世後は丁夫人に育てられ、弱冠で孝廉に推挙された。建安2年の宛城の戦いでは父曹操に馬を譲って脱出させ、自らは張繡軍に討たれた。正史『三国志』をもとに、その生涯と死後の追封まで詳しく解説する。

八歳で文章を作り、騎射と撃剣を好む

『三国志』文帝紀は、曹丕について八歳で文章を作ることができ、
「逸才」があり、古今の経伝から諸子百家まで広く読んだと記している。
同時に「善騎射、好撃剣」とあり、騎射に巧みで剣術を好んだことも特記されている。

文学者として知られる曹丕だが、少年期から文武双方への関心を持っていたことになる。

曹丕自身も『典論・自叙』で武芸について詳しく述べており、
自ら「戎旅の間に生長した」という趣旨を記している。
幼少から弓を学び、騎射だけでなく馬上から左右へ射る技術にも親しみ、
剣術についても複数の人物から教えを受けたという。

その中でもよく知られるのが、奮威将軍鄧展との撃剣の逸話である。
鄧展は剣術に通じ、素手で白刃を取ることさえできると自負していた。
曹丕はその剣術論に同意せず、宴席で甘蔗を武器に見立てて技を試すことになった。

曹丕自身の記述によれば、何度か打ち合ううちに鄧展の腕を打ち、
さらにその額を突いて勝ったという。

自伝的文章であるため、そのまま客観的な試合記録とみなすことはできないが、
曹丕自身が武芸を自らの重要な特技として認識していたことは分かる。

後年には刀剣そのものにも強い関心を示し、
百錬の刀剣を作らせて名称を与え、それについて文章まで残している。

宛城の敗戦と軍旅の中での成長

建安二年(197)、曹操は張繡を降伏させて宛城に入ったが、
張繡が再び反旗を翻し、曹操軍を急襲した。
この戦いでは曹操の長男曹昂、甥の曹安民、護衛の典韋らが死亡している。

当時十歳ほどだった曹丕も軍中にいたとする記録があり、自ら馬に乗って脱出したと伝えられる。
少年曹丕がどの程度戦闘に関与していたかは不明だが、
曹操の子供たちは安定した宮廷の中で育った皇族ではなく、
父の軍事行動と戦乱を身近に見ながら成長した。

曹丕が後に自らを軍旅の中で育った人物として語ったのも、こうした環境によるものだった。

鄴城陥落と甄氏

建安九年(204)、曹操は袁尚の本拠であった鄴を攻略した。
このとき曹丕は後に妻となる甄氏と出会った。

甄氏は中山国無極県の出身で、もとは袁紹の次男袁煕の妻だった。
袁煕が幽州に赴任した後も鄴に残り、姑である袁紹の妻劉氏に仕えていた。

『三国志』后妃伝は、冀州平定後に曹丕が甄氏を鄴で迎え、寵愛し、
甄氏が後の明帝曹叡と東郷公主を生んだと記している。
裴松之注所引『魏略』では、曹丕が袁氏の邸宅に入り、甄氏のそばにいた甄氏を見て、
その容貌を称賛したのち曹操が曹丕のために迎えたとする。
『世語』には、鄴城が落ちた際に曹丕が先に袁尚の邸へ入り、髪を乱して汚れた顔の甄氏を見つけ、
甄氏が髪と顔を整えるとその美貌が現れたという、さらに劇的な形の話が収められている。

この婚姻をめぐっては孔融の皮肉も伝わる。
曹操が鄴を攻略して甄氏を曹丕に与えたことを知った孔融は、
「武王が紂を討った後、妲己を周公に与えた」と曹操に書き送った。

曹操がその典拠を尋ねると、
孔融は「今のことから推して、昔もそうだったのだろうと思った」と答えたという。
古典の故事を装いながら、曹氏による袁氏女性の獲得を揶揄したものであった。

↓↓悲劇の美女・甄氏についての個別記事は、こちら

【魏】甄宓|曹丕に嫁いだ三国志の悲劇の美女
甄宓(しんふく)とは三国志時代、魏の曹丕に嫁いだ美女で、悲劇的な最期を遂げた女性として知られる。曹植との関係や洛神賦との関わり、生涯や逸話をわかりやすく解説。

建安文学と曹丕

曹操が勢力を拡大すると、その幕府や鄴には多くの文人が集まった。
王粲、陳琳、徐幹、阮瑀、応瑒、劉楨ら、
後に孔融と合わせて「建安七子」と呼ばれる文人たち
である。

曹丕は弟曹植とともに彼らと交わり、詩賦を作り、宴席を開き、文学を論じた。
後世の皇帝としての曹丕だけを見れば君臣関係が前面に出るが、
若い曹丕にとって王粲らは同時代の創作者であり、文学上の仲間でもあった。

建安二十二年(217)頃には大規模な疫病が流行し、
陳琳、徐幹、応瑒、劉楨ら多くの文人が相次いで死亡した。

曹丕は呉質への書簡で彼らとの過去を振り返り、酒宴や文章を論じた日々を懐かしんでいる。

王粲に対する評価は特に高かった。
後世の『世説新語』には、王粲が驢馬の鳴き声を好んだため、
葬儀に参列した曹丕が「王粲は驢馬の鳴き声を好んでいた。皆で一声ずつ鳴いて送ろう」と言い、
一同が驢馬の鳴き真似をしたという逸話も伝わる。
これは正史本文の記事ではないが、曹丕と文人たちの親密さを示す逸話として広く知られている。

劉楨をめぐっては、甄氏と関係する話も残る。
曹丕の宴席で甄氏が客たちに姿を見せた際、他の者が恐縮して顔を伏せる中、
劉楨だけが正面から見たため不敬を問われたという。
劉楨は死刑にはならなかったものの処罰され、労役に服したと伝えられる。

↓↓天才詩人である同母弟・曹植についての個別記事は、こちら

【魏】曹植|父曹操の寵愛を受け兄曹丕と後継者の座を争った天才詩人
曹植(そうしょく)は曹操の子として生まれ、卓越した文才によって父の寵愛を受けた魏の皇子・文学者である。曹丕との後継者争い、楊修らとの関係、政治参加への執念、『白馬篇』『洛神賦』などの代表作、七歩詩の真偽、才高八斗と称された後世の評価までを史実に基づいて詳しく解説する。

曹沖の死と後継者問題

曹丕が曹操の最有力後継者となるまでには、複数の弟が候補になり得た。

その一人が曹沖である。
曹沖は幼い頃から並外れた知恵を示し、曹操から深く愛された。
曹操は曹沖を後継者とする意思を周囲に示していた
ともいい、
建安十三年(208)に曹沖が十三歳で病死すると大いに悲しんだ。

曹丕が慰めに来た際、
曹操は「これは私の不幸だが、お前たちにとっては幸いだ」という趣旨を語ったと伝わる。
後年、曹丕自身も曹沖について「倉舒が生きていれば、私は天下を得ることができなかった」
という趣旨を語ったとされる。

したがって、曹操の後継者争いは最初から曹丕と曹植だけによって行われていたわけではない。
曹昂の死、曹沖の早世などを経て、最終的に曹丕と曹植が有力候補として残った。

↓↓象の重さを量った話で有名な神童・曹沖についての個別記事は、こちら

【魏】曹沖|曹操が愛した神童の生涯と逸話
曹沖(そうちゅう)は曹操の子として生まれた神童である。象の重さを量った逸話をはじめ、罪人を救った話や曹操が後継者に望んだ記録、十三歳での早世、死後の追贈まで、正史『三国志』をもとに詳しく解説。

五官中郎将となる

曹丕は茂才に推挙されたが任官せず、建安十五年(210)には司徒趙温から辟召された。
ところが曹操は、趙温が実際の人物評価ではなく「自分の子だから」という理由で曹丕を選んだ
と判断し、選挙が実をもって行われていないとして趙温を免官させている。

曹操が息子への推薦を喜ぶどころか、官吏選抜の私物化として問題視した例である。

建安十六年(211)、曹丕は五官中郎将となり、副丞相を兼ねた。
曹操が丞相であるため、その副として政治的地位を高め、曹操不在時には鄴を預かるようになる。

この頃には司馬懿、陳羣、呉質ら、後の曹丕政権を支える人物たちとの関係も形成されていった。

↓↓三国時代の終焉を決定づけた司馬懿についての個別記事は、こちら

【魏】司馬懿|三国志最強の策士が魏を奪うまで
司馬懿(しばい)とは三国時代の魏に仕えた軍師・政治家で、諸葛亮との対峙や高平陵の変を経て実権を掌握した人物です。孟達討伐や公孫淵征討などの戦いと逸話をもとに、その生涯と戦略をわかりやすく解説します。

曹植との後継者争い

曹丕にとって最大の競争相手となったのが、同母弟曹植である。

曹植は幼い頃から詩文の才能で知られ、曹操の前で即興的に文章を作ることができた。
銅雀台が完成した際にも、曹操が諸子に賦を作らせると曹植はすぐに書き上げ、曹操を驚かせた。
曹操は曹植を特に愛し、一時は後継者にしようかと迷ったと『三国志』曹植伝は明記している。

曹植の周囲には丁儀、丁廙、楊修らが集まった。
一方の曹丕には司馬懿、陳羣、呉質らが近侍し、後継者争いは両者の側近を巻き込んで進んだ。

『三国志』曹植伝は両者の違いをかなり率直に記している。
曹植は才能によって愛されたものの、自分を律することが少なく、酒を節制しなかった。

これに対し曹丕は「術をもってこれを御し、情を矯めて自ら飾った」とされ、
宮中の人々も曹丕のために言葉を添えた結果、後継者に決まったという。

これは曹丕が自然体の人物だったという意味ではなく、
曹操からどう見られるかを強く意識して行動していたことを示す記述である。

呉質を車に隠した逸話

後継争いの水面下で行われた駆け引きを伝えるのが、『世語』に見える呉質の逸話である。

曹丕は朝歌県長だった呉質を密かに呼び寄せ、相談相手としていた。
しかし公然と出入りさせることができなかったため、
廃れた竹籠を車に載せ、その中に呉質を隠して邸内へ入れたという。

楊修がこのことを曹操に報告すると、曹丕は動揺した。
呉質は、翌日もう一度同じように車を出し、今度は中に絹を入れておけばよいと助言した。
楊修は再び密告したが、調べても人は見つからず、曹操はかえって楊修を疑うようになったとされる。

逸話史料であるため細部まで事実と断定することはできないが、後継争いが文章力の比較だけでなく、側近の情報収集や曹操への印象操作を伴っていたことを象徴する話となっている。

涙で曹操を見送った話

曹植との違いを示す逸話として、曹操の出征時の話も伝わる。

曹操が出征するとき、曹植は華麗な文章を作り、父の功徳を称えた。
文学では曹植に及ばないと考えた曹丕が呉質に相談すると、
呉質は文章で競わず、別れ際にただ涙を流すよう助言したという。

曹丕がその通り涙を流したため、曹操や周囲の者は曹丕を情愛の深い人物だと感じ、
華麗な文章で称賛した曹植の方がかえって形式的に見えたとされる。

これも後継争いの逸話として伝えられた話であり、
曹丕が曹操の感情や周囲の評価を読むことに長けていたという後世の人物像を形成した。

崔琰と賈詡の進言

曹操の重臣の中にも、曹丕を後継者とすべきだと考える者がいた。
崔琰は嫡長を重視する立場から曹丕を支持した。

さらに有名なのが賈詡の逸話である。
曹操が後継者について相談したにもかかわらず、賈詡はすぐに答えなかった。
曹操が「何を考えているのか」と問うと、
賈詡は袁本初、すなわち袁紹と、劉景升、すなわち劉表のことを考えていたと答えた。

袁紹は長男袁譚ではなく袁尚を愛し、
劉表も長男劉琦ではなく劉琮を後継者としたため、
死後に兄弟間の争いを招いた。

賈詡はこの二家の失敗を直接曹操に言い聞かせるのではなく、
名前を挙げるだけで意味を悟らせたことになる。

曹植の失点

一方の曹植は、後継争いが進むにつれて曹操の信頼を失う行動を重ねた。

曹植はかつて車で皇帝専用の馳道を走り、司馬門を勝手に開けて外へ出た。
曹操は激怒し、門を管理していた公車令を死罪とし、諸侯に対する規制をさらに厳しくした。
曹操自身も、この事件以後「この子を見る目が変わった」という趣旨を語っている。

建安二十四年(219)、関羽に包囲された曹仁を救援させるため、
曹操は曹植を南中郎将・行征虜将軍として派遣しようとした。
しかし曹植は酒に酔い、曹操の命令を受けることすらできなかったため、派遣は中止された。

裴松之注所引『魏氏春秋』には、
出発前に曹丕が曹植へ酒を飲ませ、意図的に酔わせたという異説もあるが、
『三国志』本文は単に曹植が酔っていたと記している。

魏王太子となる

建安二十二年(217)、曹丕は正式に魏王太子へ立てられた。

後継者決定が遅れたため、曹丕自身も不安を抱いていたらしい。
『魏略』によると、曹丕は人相を見る高元呂に将来を尋ねたことがある。

高元呂は曹丕の身分について「その貴さは言葉にできない」と答え、
寿命については「四十歳のときに小さな苦難があるが、それを越えれば憂いはない」と語ったという。
曹丕は実際に数え年四十で死去したため、後世には予言が的中した話として記録された。

太子となったことで曹植との後継争いは事実上決着した。
楊修は建安二十四年(219)に処刑され、その約百日後に曹操が死去している。

『典論』と文学論

太子期の曹丕を語るうえで欠かせないのが『典論』である。
『典論』は政治、人物、学問、文学などについて論じた著作で、
現在は大部分が失われているが、「論文」「自叙」などが残る。

「論文」で曹丕は「文人相軽、自古而然」、
すなわち文人が互いを軽く見るのは昔からそうであると述べ、同時代の作家たちを具体的に論評した。

また「文以気為主」として、
文章には作者固有の「気」が現れ、それを無理に習得することはできないと考えた。

さらに文章について「経国之大業、不朽之盛事」と述べる。
文章は国家を治める大事業であり、後世に残る不朽の仕事だという意味である。

文章を単なる余技としてではなく、
人間が死後に名を残す手段として高く位置づけた点に
曹丕の文学観の特徴がある。

建安七子についても一括して論じ、
王粲や徐幹を高く評価する一方、それぞれの長所と短所を具体的に挙げている。
文学史上、作者個人の性質と文体を結びつけて論じた早い例として位置づけられている。

「燕歌行」と詩人曹丕

曹丕は曹操、曹植と並び「三曹」と呼ばれる。

代表作の一つが「燕歌行」である。
秋風、落葉、霜、南へ帰る雁という秋の景物から始まり、遠く旅に出た男性を思う女性の孤独を描く。
現存作品の中では、七言を一貫して用いた早い時期の七言詩として文学史上重要な位置を占める。

曹操の詩には政治や戦乱を背景とした力強い作品が多く、曹植は華麗な表現と高い抒情性で知られる。
曹丕にも軍事や政治に関する作品はあるが、
「燕歌行」に代表されるように、別離や寂寥を細やかに描く詩も多い。

曹操の死と魏王継承

建安二十五年(220)正月、曹操が洛陽で死去した。

曹丕は曹操の後を継いで丞相・魏王となり、冀州牧も継承した。
卞氏は王太后となり、同年は建安二十五年から延康元年へ改元された。

曹操の死直後には軍中が必ずしも平静だったわけではない。
青州兵の一部が勝手に帰郷しようとするなどの動きがあり、賈逵らが秩序の維持に努めた。

また、北方で軍功を挙げていた弟曹彰も洛陽へ向かった。
曹彰については、曹操の璽綬の所在を尋ねたとする史料や、
臨菑侯曹植に「先王が私を呼んだのは、お前を立てようとしたからだ」と語ったとする
『魏略』の記事がある。
曹植はこれに対して袁紹の一族の争いを挙げ、応じなかったとされる。

曹丕が魏王となると、曹彰を含む諸侯はそれぞれの封国へ戻された。

↓↓武勇に秀でた同母弟・曹彰についての個別記事は、こちら

【魏】曹彰|猛獣を素手で倒し、異民族を屈服させた曹操の「黄鬚児」
曹彰(そうしょう)は、後漢末から三国時代初頭にかけて生きた曹操の子で、字を子文という。幼いころから弓術や馬術を得意とし、常人を超える腕力を持っていたと伝えられる。学問よりも武芸を好み、前漢の名将・衛青や霍去病のように軍勢を率いて異民族を討ち…

曹操の喪中に開いた宴

曹操の死後、曹丕は故郷の譙へ赴き、父老を集めて宴を開き、音楽や百戯を催した。
また譙の租税を免除し、曹操の陵を祭っている。

この行動は後世の史家孫盛から批判された。
父の喪中にあって音楽や宴を行うのは礼に反するとされたためである。

曹丕自身には父曹操を悼む詩も残り、必ずしも父の死を悲しまなかったという話ではない。
孫盛の批判は、儒教的な喪礼の基準から皇帝の行動を評価したものである。

魏王として行った政策

魏王となった曹丕は、皇帝即位以前からいくつかの政策を実施した。

関所や渡津で徴収されていた負担を軽くし、池苑に設けられていた禁令を緩和したほか、
地方官の統治を調査する使者を派遣した。
戦乱で死亡した兵士の遺体を収容し、棺を支給して故郷へ戻して祭らせる措置も命じている。

また、曹操に仕えながらすでに死亡していた
毛玠、王脩、涼茂、袁渙、徐奕、国淵らの子孫を取り立てた。
父の政権を支えた人物の遺族を顕彰し、新政権へ取り込む意味を持つ措置だった。

後漢末の政治を意識した制度としては、
宦官の官位を諸署令までに制限し、宦官を高位に登らせない方針を定めたことが重要である。
さらに后妃の家が政治に介入することを警戒し、後宮や外戚の権力を抑える方針も示した。

曹丕は後漢末に外戚と宦官の政治介入が繰り返された過程を実際に見ており、
新王朝では同じ状態を避けようとしていた。

漢から魏への禅譲

延康元年(220)、漢から魏への政権移行が進められた。
献帝は曹丕に帝位を譲る意思を示し、群臣も受禅を勧めた。

曹丕は儀礼上、繰り返し辞退した後、十月に受禅を受け入れ、
繁陽に設けられた壇で皇帝に即位した。国号は魏、元号は黄初となった。

後漢最後の皇帝献帝は殺害されず、山陽公に封じられた。
皇帝の儀礼を一部保持することを許され、曹丕は献帝に対して臣下として扱わない待遇を定めた。

曹操は生前、魏王まで上ったものの皇帝にはならなかった。
その父の死からわずか十か月ほどで、曹丕は漢王朝を終わらせて魏王朝を成立させたことになる。

後代には、禅譲を終えた曹丕が「堯舜のことが分かった」
という趣旨を語ったという逸話も伝えられた。
自分が実際に禅譲を受けてみて、古代の堯から舜への禅譲も、
理想的な権力移譲だけではなかったのだろうと悟った、という皮肉な意味に解される話である。

ただし『三国志』本文の記事ではなく、後代の史料に現れる逸話として区別する必要がある。

魏の国家制度を整える

皇帝となった曹丕の重要な仕事は、
曹操の軍事政権を王朝国家の制度へ組み替えることだった。

陳羣の提案によって採用された九品官人法はその代表例である。
各地に中正を置き、人物を九段階に評価して官吏登用の基準とする制度で、
後の魏晋南北朝時代を通じて大きな影響を与えた。

官制や礼制も整理され、曹操の丞相府を中心とする体制から、
皇帝を頂点とする国家機構への移行が進められた。

一方、宗室に対しては強い軍事力や独自の政治基盤を持たせなかった。
曹氏の諸王は封国を与えられたものの、しばしば転封され、国政への参与も制限された

後世、司馬氏が魏の実権を握った際に曹氏宗室が十分な対抗勢力になれなかったため、
この宗室政策を魏滅亡の遠因と見る評価もある。

ただし曹丕が将来の司馬氏台頭を予測していたわけではなく、
本人にとっては曹植らとの後継争いを経験した直後でもあり、
皇族が独自の軍事・政治勢力となることを抑える意味を持つ政策だった。

即位後の一族・旧臣への処遇

丁儀・丁廙兄弟の処刑

魏王を継承した曹丕は、かつて曹植を後継者に推していた丁儀と丁廙を処刑した。
『三国志』曹植伝は「文帝王位に即き、丁儀・丁廙及びその男口を誅す」と記す。
丁儀兄弟だけでなく男子も処刑されたことになる。

丁儀は以前、曹操から娘を与えられる可能性があった人物だった。
ところが曹丕が、丁儀は目に障害があり、
公主が喜ばないだろうとして反対したため婚姻は成立しなかった。
後に曹操が丁儀本人と会うと、その才能を高く評価し、曹丕の意見に従ったことを後悔したという。

丁儀自身も曹丕に反感を抱き、曹植を強く支持するようになった。
曹丕が後継者になると、丁儀は処罰を恐れて夏侯尚に助命を求めたが救われなかった。

曹植を殺さず、厳しく統制する

曹植自身は処刑されなかった。

黄初二年(221)、監国謁者灌均が曹植について、
酒に酔って傲慢な態度を取り、使者を脅迫したと奏上した。
有司は処罰を求めたが、曹丕は母卞太后の存在を考慮し、爵位を下げるにとどめた。
曹植は安郷侯、ついで鄄城侯となり、黄初三年(222)には鄄城王となっている。

その後も曹植は封地を移され、自由な政治活動を許されなかった。
曹植自身は繰り返し上表し、国家のために働きたいと願ったが、
曹丕が弟を中央政治の中枢へ戻すことはなかった。

ただし、曹丕が曹植を殺したという正史の記事もない。

後世に最も有名になったのが「七歩詩」である。
曹丕が曹植に七歩歩く間に詩を作るよう命じ、作れなければ罪にすると迫ったところ、
曹植が豆を煮る故事を使って兄弟相争うことを嘆く詩を即興で作ったという話である。

しかし『三国志』曹植伝には七歩詩の記事自体がない。
後代の『世説新語』に見える逸話であり、
さらに現在広く知られる「本是同根生、相煎何太急」という形は後世に整えられたものとされるため、
曹丕の実際の行動として扱うことはできない。

曹洪を死刑寸前まで追い込む

曹丕の私怨を伝える記事として、曹洪の事件は正史にも明確に記録されている。

曹洪は曹操の従弟で、曹操挙兵以来の功臣だった。
董卓討伐時に曹操が敗れて馬を失った際には自分の馬を譲り、
「天下に曹洪がいなくてもよいが、あなたがいなくてはならない」と語った人物でもある。

ところが曹洪は裕福である一方、吝嗇な性格だった。
若い曹丕が曹洪に財物を借りようとしたところ、十分に応じてもらえなかったため、
曹丕はこれを長く恨んでいたと『三国志』は記す。

曹丕が皇帝となった後、曹洪の食客が罪を犯すと、曹洪自身も獄に下され死刑にされかけた。
群臣が助命を求めても曹丕は聞き入れなかった。

そこで母卞太后郭皇后に対し、
「今日曹洪を死なせるなら、私は明日皇帝に命じて皇后を廃させる」と迫った。
郭皇后が曹丕に繰り返し助命を願った結果、曹洪は死刑を免れたものの、官爵と封邑を失った。
曹丕はさらに財産も没収しようとしたが、卞太后に叱責されて返還している。

曹洪は明帝曹叡の即位後に再び官爵を与えられた。

↓↓曹丕に寵愛された郭皇后についての個別記事は、こちら

【魏】郭女王|曹丕を支えた魏初代皇后と甄夫人との確執
郭女王(かく じょおう)は、魏初代皇帝・曹丕の皇后。没落から皇后へ上りつめた生涯、甄夫人との確執、曹叡との関係、悪女説と正史の違いなどを史実ベースで詳しく解説する。

曹彰の死

同母弟曹彰は武勇に優れた人物で、曹操から「黄鬚児」と呼ばれていた。

曹丕が王位を継いだ後、曹彰は封国へ戻された。
黄初二年(221)に公、黄初三年(222)には任城王となる。
黄初四年(223)、曹彰は洛陽へ朝見したが、そのまま邸宅で病死した。

『三国志』本文は「疾みて邸に薨ず」と記すだけで、曹丕が殺害したとはしていない。
裴松之注所引『魏氏春秋』には、以前璽綬について尋ねたことから異志を疑われ、
すぐに曹丕へ会えなかった曹彰が憤って急死したという異説がある。

さらに後代になると、曹丕が毒を仕込んだ棗を曹彰に食べさせて殺害したという話も現れる。
しかしこれは正史より成立の遅い逸話であり、曹彰の死因として確定できるものではない。

同母弟のうち曹熊についても、『三国志』には早く死去したことが記されるだけで、
『三国志演義』に描かれるような曹丕を恐れて自殺したという展開を史実として扱うことはできない。


↓↓武勇に優れた同母弟曹彰についての個別記事は、こちら

【魏】曹彰|猛獣を素手で倒し、異民族を屈服させた曹操の「黄鬚児」
曹彰(そうしょう)は、後漢末から三国時代初頭にかけて生きた曹操の子で、字を子文という。幼いころから弓術や馬術を得意とし、常人を超える腕力を持っていたと伝えられる。学問よりも武芸を好み、前漢の名将・衛青や霍去病のように軍勢を率いて異民族を討ち…

甄氏との不和と死

曹丕が皇帝となった後、長く妻であった甄氏との関係は悪化した。

『三国志』后妃伝によれば、
曹丕が即位すると山陽公、すなわち献帝から二人の娘を後宮に迎えたほか、
郭氏、李氏、陰氏らが寵愛を受けるようになった。

甄氏は次第に失意を抱き、怨みの言葉を述べたため、
黄初二年(221)六月、曹丕は使者を送って死を賜った。甄氏は鄴に葬られた。

一方、『魏書』には甄氏を非常に賢明で慎み深い女性として描く記事が多く、
曹丕に他の女性を大切にするよう勧めたことや、卞氏に孝行したことも記されている。

甄氏の死については異説も多い。
裴松之注所引史料には、郭氏の讒言によって甄氏が死に、
髪で顔を覆い、口に糠を詰めて葬られたという話もある。

後に曹叡が母の死の事情を知り、郭氏との間に緊張が生じたとする伝承にもつながった。

ただし后妃伝に引用された諸史料は互いに一致せず、
郭氏が直接甄氏を陥れた経緯については慎重に見る必要がある。

郭女王を皇后に立てる

郭氏は安平国広宗県の出身で、字を女王といった。
父郭永が幼い娘を見て「これは我が家の女中王である」と語ったため、この字が付けられたとされる。

戦乱の中で家族を失い、後に曹丕の東宮へ入った。
『三国志』は郭氏について「智数」があり、曹丕が後継者に定まる際にも策を献じたと記している。

曹丕が皇帝となると郭氏は貴嬪となり、黄初三年(222)に皇后へ立てられた。

中郎棧潜は、皇后には由緒ある家の賢明な女性を選ぶべきであり、
寵愛によって側室を皇后にすべきではないと反対したが、曹丕は聞き入れなかった。

『魏書』は郭皇后について、曹丕の寵愛を受けても慎みを失わず、
他の後宮女性を庇い、質素で音楽を好まなかったと好意的に記している。


実子はなく、曹叡との関係については史料によって記述が異なる。

外戚と宦官を抑える

曹丕は自らの后妃については強い寵愛を示した一方、
その親族に政治権力を集中させることには慎重だった。

後漢では皇帝が幼少で即位した場合、
皇太后の一族である外戚と宦官が権力を争う構図が何度も現れた。

曹丕はこれを教訓とし、皇后の家が輔政を担うことを避け、宦官にも高位を与えない方針を示した。
この規定は石室に収めて後世に伝えるほど重視されたという。

孫権の臣従

黄初二年(221)、蜀漢の劉備が関羽を失ったことを受けて孫権への大規模な攻撃を開始した。

孫権は魏と蜀の双方を敵に回すことを避けるため、曹丕に臣従を申し出た。
于禁ら魏の捕虜を送り返し、低姿勢の上表を行ったため、魏の朝廷ではこれを歓迎する声が多かった。

しかし劉曄だけは孫権の意図を見抜いた。
孫権は劉備の攻撃を恐れ、魏から攻撃されないために一時的に臣従しただけであり、
今こそ魏も呉を攻めれば孫権を滅ぼせると主張した。

曹丕は、臣従してきた者を直ちに攻撃すれば、
今後魏へ帰順しようとする者が疑うようになるとして反対し、孫権の降伏を受け入れた。

孫権を呉王に封じ、大将軍の号などを与えている。

曹丕は孫権の子孫登を人質として洛陽へ送るよう求めたが、
孫権は理由を付けて引き延ばし、結局送らなかった。

于禁への壁画

孫権から魏へ返された人物の中に于禁がいた。
于禁は曹操の古参将軍で、長年にわたり張遼、楽進、張郃、徐晃らと並ぶ名将として扱われていた。
しかし建安二十四年(219)、樊城救援中に洪水に遭い、関羽に降伏した。
龐徳が降伏を拒んで処刑されたのとは対照的だった。

魏へ戻った于禁は白髪となり、ひどく憔悴していた。
曹丕の前で涙を流して叩頭すると、曹丕は古代の敗将の故事を挙げて慰め、安遠将軍に任命した。

ところがその後、曹丕は于禁に鄴の曹操の高陵を参拝させた。
その陵屋にはあらかじめ、関羽が勝利し、龐徳が怒って屈せず、
于禁が降伏している場面が描かれていた。
于禁はそれを見て恥じ、怒り、そのまま病を発して死んだ。

司馬光は『資治通鑑』でこの件を取り上げ、
于禁が降伏した以上、曹丕が彼を罷免する、あるいは死刑にすることには理屈があるとしても、
陵屋に絵を描いて辱めるのは君主としての行為ではないという趣旨で厳しく批判している。

劉備の夷陵での敗北を予測する

劉備と孫権の戦いでは、曹丕は劉備軍の布陣を見て敗北を予測したと伝わる。

劉備は長江沿岸から夷陵方面にかけて長大な陣営を築いた。
曹丕は報告を見て、敵と対峙しながら七百里にもわたって柵や陣営を連ねるのは
兵法を知らない者の配置であるという趣旨を語った。

その後、呉の陸遜が火攻めを行い、劉備軍は夷陵で大敗した。

曹丕自身の対呉戦争は後に成功しなかったが、
他者の軍事配置について的確な判断を下したとする逸話であり、
幼少から軍旅に身を置いた曹丕の一面を示している。

孫権との決裂と対呉戦争

劉備軍を撃退した孫権は、魏に対して従属を続ける必要が薄くなった。
曹丕が孫登を人質として送るよう繰り返し要求しても孫権は応じず、両者の関係は悪化した。
黄初三年(222)、曹丕は呉への大規模攻撃を開始する。

魏軍は複数方面から長江へ進んだ。
曹休らは洞口方面、曹仁は濡須方面、曹真・夏侯尚・張郃らは江陵方面へ進撃した。
江陵では朱然が守備し、魏軍は長期間包囲した。

魏軍は中洲を確保するなど戦果を挙げたものの、
城を落とすことはできず、疫病などもあって撤退した。

曹仁軍は濡須を攻撃したが、朱桓に敗れた。
常雕が戦死し、王双が捕虜となるなど損害を受けている。

この戦争によって魏が呉を屈服させることはできず、
孫権は独立した君主としての立場を固めていった。

北方と西方の統治

曹丕の治世は対呉戦争だけで占められていたわけではない。

北方では鮮卑の軻比能らが勢力を持ち、田豫らが対応した。

西方でも涼州・河西地方で反乱が発生し、張掖の張進、酒泉の黄華らが動いたが、
蘇則らによって平定された。

また、鄭甘、王照ら反乱勢力の帰順について、
曹丕は武力で討伐するより戦わずに降伏させる方が功績は大きいという趣旨を述べたとされる。

濊、貊、夫余など東北方面の諸勢力や、西域の焉耆、于闐などからも使者が訪れ、
後漢以来の対外秩序を魏が引き継ぐ動きが見られた。

災害と民政

黄初年間には水害、旱魃、蝗害なども発生した。

曹丕は地域によって租税を軽減し、穀物を貸し与え、地方へ使者を派遣して困窮状況を調査させた。
反乱に関与した者についても、脅迫されて従ったにすぎない者を赦す措置を取ることがあった。

軍事面では呉への遠征を繰り返した一方、
国内では曹操死後の政権を安定させる必要があり、
赦免、減税、旧臣の遺族の登用などを組み合わせて統治を行っている。

臣下との関係と処遇

孟達を厚遇する

孟達は劉備配下にいたが、関羽敗死をめぐる事情などから魏へ降伏した。
曹丕は孟達の才能や人物を気に入り、新城太守に任命して厚遇した。

劉曄らには孟達の忠誠を疑う意見もあったが、曹丕の存命中に孟達が反乱することはなかった。

曹丕の死後、明帝曹叡の時代になると孟達は蜀の諸葛亮と通じて魏から離反しようとし、
司馬懿に急襲されて殺されている。

陳羣・司馬懿らを重用する

曹丕の政権には、曹操時代からの重臣と曹丕自身の側近が併存した。

華歆、王朗、賈詡ら曹操時代からの高官に加え、陳羣、司馬懿らが重要な位置を占めた。
軍事面では曹真、曹休、夏侯尚ら曹氏・夏侯氏一族の将軍を用いている。

賈詡を太尉とした人事については、後世の裴松之が批判している。
賈詡は過去に李傕・郭汜らの長安侵攻につながる策を献じた人物でもあり、
そのような人物を三公の一つである太尉にしたことへの批判だった。

一方で曹丕にとって賈詡は後継争いの時代から自らを支持した重臣でもあり、
現実的な政治判断を高く評価していたと考えられる。

呉質との宴席

呉質は太子時代から曹丕に近く、皇帝即位後も重用された。

曹丕の側近たちの宴席を伝える逸話として、曹真の肥満をからかった事件がある。
呉質が宴席で俳優を使い、肥った曹真と痩せた朱鑠をからかう趣向を行わせたところ、
曹真が激怒した。

その場では呉質や朱鑠らとの間で激しい言葉の応酬となった。

国家政治とは直接関係しない話だが、
曹丕の周囲に太子時代から私的な交友を持つ一群が存在し、
皇帝即位後も宴席をともにしていたことを示す。

↓↓曹操のもとで育てられ、若くして虎豹騎を率いた曹真についての個別記事は、こちら

【魏】曹真|曹操に養育され、曹魏三代の軍事を支えた大司馬
曹真(そうしん)は曹操に養育され、曹丕・曹叡に重用された魏の武将である。虎豹騎を率いた若き日から、諸葛亮の北伐と陳倉防衛、蜀漢遠征、大司馬への昇進、曹爽ら子供たちのその後まで、正史『三国志』をもとに生涯と人物像を紹介する。

鮑勛との対立

曹丕の治世末期に起きた重要な事件が鮑勛の処刑である。

鮑勛は曹操挙兵初期から仕えた鮑信の子で、剛直な人物として知られた。
曹丕が太子だった頃、郭氏の弟が法を犯した際にも、
鮑勛は曹丕の意向に迎合せず処罰したため、曹丕との関係が悪化したとされる。

曹丕の即位後も鮑勛はたびたび直諫し、対呉遠征にも反対した。
曹丕は次第に鮑勛を憎み、最終的に罪を問うて死刑にした。

鍾繇、華歆、陳羣ら重臣が助命を求めたものの聞き入れられず、
鮑勛は曹丕自身の死の直前に処刑された。

曹丕は群臣に諫言を求める詔を出す一方、
激しい直諫を行う臣とは衝突することがあり、鮑勛の事件はその代表例
となった。

南征を繰り返す

孫権との決裂後も、曹丕は呉への攻撃を諦めなかった。

黄初五年(224)には再び南征して広陵方面へ進んだ。
呉の徐盛が長江沿岸に城壁や楼閣を築き、
実際より大規模な防衛線に見せかけたため曹丕が撤退した、という話が呉側史料に伝わる。

黄初六年(225)にも曹丕は大軍を率いて南下した。
譙を経て渦水、淮水を進み、船団を率いて広陵まで到達したが、
厳しい寒さによって水路が凍結し、長江を渡る条件を得られなかった。

曹丕は長江を前に「誰か江水広しと云う、一葦もって航すべし」という趣旨の詩句を残している。
しかし実際には魏軍は渡江せず、軍を返した。

曹丕は皇帝在位中、何度も大規模な対呉軍事行動を実施したが、
長江以南へ恒久的な支配地域を広げることはできなかった。

橋玄を祭る

黄初六年(225)の南征から帰還する途中、曹丕は梁国を通過し、
使者を派遣して太牢の礼で橋玄を祭らせた。

橋玄は後漢の名臣で、若い曹操を高く評価した人物として知られている。
曹丕自身が橋玄と深い関係を持っていたわけではなく、

父曹操が受けた恩義を、子の代でも忘れず祭った例である。

学問と『典論』の普及

曹丕は皇帝となってからも自著を重視した。

『魏書』によれば、『典論』完成後には儒者を集め、その大義について議論したという。
また『呉歴』には、曹丕が『典論』や自らの詩賦を書写して孫権へ贈り、
張昭にも一部を贈ったとする記事がある。
敵対することになる呉の君臣にまで自著を送っていたことになる。

曹丕は文章を「不朽」の手段と考えており、自らの著作を後世へ残そうとする意識が強かった。

学問そのものについても重視しており、皇子曹叡にも儒者を付けて教育させた。
生涯の早い時期から経伝、諸子百家を読んだとする記録と合わせ、
読書と著述は曹丕の人物像を構成する重要な要素である。

曹丕の趣味と嗜好

葡萄を好む

曹丕の文章には、政治や文学だけでなく日常の嗜好も残されている。

その中でもよく知られるのが葡萄についての文章である。
曹丕は西方産の葡萄を高く評価し、
その甘味や酸味の釣り合い、酒を飲んだ後にも食べられることなどを具体的に語っている。

果物の味について皇帝自身が細かく論じた文章が残っている点は、曹丕の好奇心の広さを示している。

刀剣への関心

少年期から撃剣を好んだ曹丕は、刀剣そのものにも強い関心を持ち続けた。

良質な鉄を集め、百錬の刀や剣を作らせ、「飛景」などの名を与えたとされる。
武器の製作について自ら文章を書き、性能や外観を論じている。

文学、騎射、撃剣、刀剣製作はそれぞれ別々の趣味ではなく、
曹丕が自らの才能や知識を文章化して残そうとした点で共通している。

曹叡との関係

曹丕と甄氏の間に生まれた曹叡は、後に魏の二代皇帝明帝となる。

甄氏が死を賜ったため、曹叡の立場は複雑だった。
曹丕は長い間曹叡を皇太子に立てず、他の皇子を後継者とする可能性も残していた。

『魏略』には、曹丕と曹叡が狩猟に出曹叡た際の逸話がある。

狩りの途中で母鹿と子鹿が現れ、曹丕は母鹿を射た。
そのうえで曹叡に子鹿を射るよう命じると、曹叡は涙を流し、
「陛下はすでにその母を殺されました。臣はその子まで殺すに忍びません」という趣旨を答えた。

曹丕はその言葉を聞いて弓を置き、曹叡を高く評価したという。

曹叡自身が母甄氏を失っていたことを考えると印象的な逸話だが、
『魏略』の逸話であり、実際の会話をそのまま再現したものかは判断できない。

↓↓魏の第二代皇帝・曹叡についての個別記事は、こちら

【魏】曹叡|軍略に秀でながら奢侈と後継問題を残した魏の明帝
曹叡(そうえい)は曹丕の子で、魏の第2代皇帝・明帝である。諸葛亮の北伐や孫権、公孫淵への対応、司馬懿との関係、宮殿造営、後継者問題など、正史に残る逸話とともにその生涯と人物像を詳しく解説する。

皇太子決定は死の直前

曹丕は多数の男子を持ったが、早世した皇子も多かった。

曹叡は有力な後継候補でありながら、長く皇太子には立てられなかった。
最終的に皇太子となったのは黄初七年(226)で、曹丕自身の病が重くなった時期である。

曹丕は曹真、曹休、陳羣、司馬懿らを呼び、曹叡を補佐するよう命じた。

曹真と曹休は曹氏政権の軍事を担う宗族、
陳羣と司馬懿は文官として政権中枢にいた人物であり、
軍事と政治双方の重臣を後継者の周囲に配置した形となった。

薄葬を命じる

曹丕は自らの陵墓について、華美な葬儀を避けるよう命じた。
山そのものを陵とし、大きな墳丘を築かず、金銀珠玉を副葬しないという方針を示した。
古代以来、豪華な陵墓が盗掘され、遺体まで辱められる例があることを理由に挙げている。

これは父曹操が示した薄葬の方針とも共通する。

皇帝となった曹丕は宮廷儀礼や王朝制度を整備する一方、
自らの死後については大規模な陵墓建設を求めなかった。

四十歳で死去

黄初七年(226)五月、曹丕は病に倒れた。
病状が重くなると曹叡を皇太子に立て、曹真、陳羣、司馬懿、曹休らに後事を託した。

五月十七日、曹丕は嘉福殿で死去した。中平四年(187)生まれで、数え年四十だった。
『魏略』が伝える高元呂の「四十歳に小さな苦難がある」という予言と一致したため、
その記事も後世に残されている。

諡号は文皇帝。首陽陵に葬られた。

皇太子曹叡が即位し、魏の二代皇帝明帝となった。

死後の影響と後世の曹丕像

曹丕の死後と『典論』

曹叡は父の著作を国家的に顕彰した。

太和四年(230)、曹叡は『典論』を石に刻ませ、廟門の外や太学に建立した。
六碑に刻まれたとされ、単なる皇帝の私的著作ではなく、
国家が保存すべき文章として扱われたことになる。

『典論』そのものは後世に散逸したが、
「論文」は『文選』などによって伝わり、中国文学批評史の重要な文章として残った。

曹丕が生前に説いた「文章によって不朽となる」という考えは、
自身の著作が死後も顕彰されたという点では、ある程度実現したことになる。

曹丕死後の魏と宗室政策

曹叡の即位後、曹丕が後事を託した曹真、曹休、陳羣、司馬懿らが政権を支えた。

曹真と曹休の死後、司馬懿は次第に軍事・政治両面で重い位置を占めるようになり、
曹叡死後の曹芳時代には、司馬氏と曹爽が政権を分け合うことになる。

正始十年(249)、司馬懿は高平陵の変によって曹爽一派を排除し、
その後は司馬氏が魏の実権を握っていった。

この過程について、曹丕が宗室諸王の兵権や政治参加を制限したため、
司馬氏に対抗できる曹氏宗族が育たなかったという批判が後世にある。

ただしこれは数十年後の結果から逆算した評価でもある。
曹丕の時代には袁紹の子らによる内紛や、自らと曹植との後継争いが記憶に新しく、
皇族が強大な独立勢力となることを避けようとする理由も存在した。

「七歩詩」と曹彰毒殺説が作った後世の曹丕像

曹丕の死後、正史にはない逸話が次第に加えられていった。

代表的なものが、曹植に七歩以内で詩を作らせたという「七歩詩」である。
兄が弟の才能を妬み、殺そうとしたが、
曹植が「同じ根から生まれた豆」を使った詩によって兄を恥じ入らせたという物語は、
兄弟対立を象徴する逸話となった。

曹彰についても、曹丕が毒入りの棗を食べさせて殺したという後代の話が作られた。

曹熊についても『三国志演義』では曹丕を恐れて自殺する展開となる。

これらを正史の記事と合わせて読むと、
曹丕が次々と兄弟を害したような印象になるが、史料の成立時期は異なる。
曹植は曹丕の治世を生き延び、曹彰の正史上の死因は病であり、
曹熊についても曹丕による死の強要は確認できない。

一方で、丁儀兄弟の処刑、曹洪への厳しい処分、于禁への陵屋の壁画、
甄氏への賜死などは正史または早い史料に記録されている。


そのため後代の冷酷な曹丕像が完全に無から作られたわけでもなく、
実際の行動に後世の逸話が積み重なって人物像が形成されたと見るのが適切である。

曹丕の人物評・評価

文学者としての曹丕

政治史上の曹丕は魏の初代皇帝だが、
中国文学史では皇帝という肩書きを外しても名前が残る。

曹操・曹植とともに三曹の一人となり、建安文学の中心にいた。

『典論・論文』では同時代の文人を批評し、「文人相軽」「文以気為主」といった文学論を示した。
文章を国家に関わる大事業であり、人間が死後にも名を残す方法だと考えた点も重要である。

詩では「燕歌行」が残り、書簡には王粲ら亡き友人を追憶する文章がある。
文学は曹丕にとって皇太子時代の余暇ではなく、生涯を通して自らの価値を置いた活動だった。

武芸と軍事

曹丕は自ら騎射と撃剣を得意とし、軍事知識にも自信を持っていた。
劉備の夷陵での布陣を見て敗北を予測した話は、その軍事的観察眼を伝える。

しかし皇帝として指揮した対呉戦争では決定的な成功を得られなかった。
洞口、濡須、江陵への攻撃はいずれも呉を屈服させられず、
自ら広陵まで進んだ遠征も渡江には至らなかった。

個人としての武芸や兵法知識と、
大規模な国家戦争を成功させる能力とは分けて考える必要がある。

感情の細やかさと怨恨

曹丕の史料を通覧すると、人に対する感情が強く現れる場面が多い。

若い時代には王粲ら文人との交友を大切にし、彼らの死後も書簡の中で追憶した。
戦死者の遺体を故郷へ戻すよう命じ、曹操に仕えた故臣の子孫を登用した。
父が恩義を受けた橋玄も死後に祭っている。

その一方、一度受けた恨みも長く覚えていたとされる。
曹洪が若い頃に財物を貸してくれなかったことを後まで恨み、
罪を得た際に死刑にしようとしたという記事はその典型である。

曹植の支持者だった丁儀兄弟への処分も厳しく、鮑勛のような直諫の臣とも対立した。
于禁には一度慰めの言葉をかけながら、父の陵で降伏の場面を見せている。

曹丕を単純に情の薄い人物とすることも、反対に繊細な文化人としてのみ描くことも、
史料上の人物像とは一致しない。

陳寿が評した曹丕

『三国志』の著者陳寿は、文帝紀の末尾で曹丕を評価している。

陳寿は曹丕について、
文才があり、博聞強識で、才芸を兼ね、広い知識を持っていたことを認めている。

その一方で、さらに「曠大の度」を備え、「公平の誠」を励み、
「邁志存道」、すなわちより高い志をもって道義を求めていたなら、
古代の賢君に近づくことも難しくなかっただろうという趣旨を記した。

裏返せば、曹丕には才能がありながら、度量の広さと公平さに不足があったという評価である。

曹洪を過去の貸借への恨みから死刑寸前まで追い込んだ記事や、
于禁を陵屋の壁画で辱めた記事、後継争いの敵だった丁儀一族の処刑などを考えると、
陳寿が「公平」や「度量」をあえて評価文に置いた意味は小さくない。

孫盛・裴松之・司馬光の批判

曹丕への批判は陳寿だけではない。

孫盛は曹操の喪中に宴楽を行ったことなどを礼制の面から批判した。

裴松之は曹丕が賈詡を太尉に任じたことについて、
賈詡の過去を考えれば三公に置くのは適切ではないとして批判している。

最も強い言葉を使った一人が『資治通鑑』の司馬光である。
于禁を陵屋の壁画で辱めた事件について、
罷免するか処刑するならまだしも、絵を描いて辱めるのは「不君」、
すなわち君主としてふさわしくない行為であると断じた。

曹丕は能力そのものを否定された皇帝ではない。
むしろ政治、文学、学問に能力があったからこそ、
人格や人の扱い方に対する批判が並行して残った人物
である。

曹丕の家族

曹丕の父は曹操、母は卞氏である。
同母弟には曹彰曹植、曹熊がおり、異母兄には宛城で死んだ曹昂
異母弟には曹沖をはじめ多数の男子がいた。

后妃では甄氏郭女王が特に知られる。
甄氏との間には曹叡と東郷公主が生まれた。郭女王には実子がなかった。

曹丕には曹叡のほか、
曹協、曹蕤、曹鑑、曹霖、曹礼、曹邕、曹貢、曹儼ら複数の男子がいたが、
早世した者も多かった。

最終的に曹丕の帝位を継いだのは甄氏の子曹叡だった。

魏の初代皇帝として

曹丕は父曹操ほど長期間にわたって戦場を駆け回った人物ではなく、
曹植ほど後世に「天才詩人」として理想化された人物でもない。

しかし曹操が構築した勢力を大きな内乱なく継承し、
後漢から魏への王朝交代を実現したのは曹丕である。

九品官人法をはじめ新王朝の制度を整え、外戚や宦官の政治介入を抑え、
父の旧臣と自らの側近を組み合わせて政権を成立させた。

孫権と劉備がそれぞれ独自の政権を形成する中、
魏が三国のうち最大の国家として存続する基礎も、この時期に固められた。

その一方、呉を軍事的に屈服させることはできず、宗室に対する厳しい制限は後世に批判された。
人事や人物の処遇では私的な好悪が現れたとされ、
陳寿が指摘した「度量」と「公平」の問題は、曹丕を評価するうえで避けることができない。

政治家、皇帝、詩人、文学批評家、読書人、騎射と撃剣を好む武芸者という複数の側面を持ちながら、
黄初七年(226)、四十歳で生涯を終えた。

父曹操が作った「魏」を王朝へ変えたこと、
そして自ら文章を「不朽の盛事」と呼び、
その言葉どおり著作によって二千年近く後まで名を残したことが、
曹丕の生涯における二つの大きな足跡となっている。

史書・参考文献

  • 陳寿『三国志』魏書「文帝紀」
  • 陳寿『三国志』魏書「武宣卞皇后伝」「文昭甄皇后伝」「文徳郭皇后伝」
  • 陳寿『三国志』魏書「任城陳蕭王伝」
  • 陳寿『三国志』魏書「諸夏侯曹伝」
  • 陳寿『三国志』魏書「張楽于張徐伝」
  • 陳寿『三国志』魏書「荀彧荀攸賈詡伝」
  • 陳寿『三国志』魏書「桓二陳徐衛盧伝」
  • 裴松之『三国志注』
  • 裴松之注所引『魏書』
  • 裴松之注所引『魏略』
  • 裴松之注所引『世語』
  • 裴松之注所引『魏氏春秋』
  • 曹丕『典論』
  • 『文選』
  • 劉義慶『世説新語』
  • 司馬光『資治通鑑』
  • 房玄齢等『晋書』