班婕妤(はんしょうよ)は、前漢の成帝に仕えた后妃であり、
漢代を代表する才女の一人として知られる女性である。
「婕妤」は後宮における称号で、本名は伝わっていない。
後漢の歴史家・班彪の姑にあたり、
『漢書』を編纂した班固や、西域で活躍した班超、女性史家の班昭につながる班氏の一族に属した。
成帝の寵愛を受けながら、皇帝と同じ輦に乗ることを辞退して皇太后から称賛され、
後宮の女性を自ら推薦するなど、寵愛を独占しようとはしなかった。
やがて趙飛燕らが台頭すると成帝から遠ざけられ、呪詛の嫌疑までかけられたが、
理を尽くして自ら弁明した後、皇太后の住む長信宮へ移ることを願い出た。
そこで自らの境遇を『自悼賦』に残し、成帝の死後はその陵園に仕えたと伝えられる。
後世には、夏には愛用されながら秋になると捨てられる団扇に失寵した女性を重ねた
『怨歌行』の作者としても名高い。
ただし、この詩を班婕妤本人の作とすることには古くから異説があり、
『漢書』が全文を収録する『自悼賦』とは史料上の位置づけが異なる。
班婕妤の出自と成帝の後宮入り
楼煩の班氏に生まれる
班婕妤は雁門郡楼煩の班氏に生まれた。
父の班況は左曹・越騎校尉を務めた人物で、
班氏は後に班彪、班固、班超、班昭らを輩出することになる。
班婕妤の生年は史料に明記されておらず、紀元前48年ごろとする説もあるが確定できない。
幼少期についても具体的な記録は残っていない。
ただし『漢書』「外戚伝」によれば、班婕妤は後宮に入ってから『詩』を学び、
「窈窕」「徳象」「女師」など、女性の徳や振る舞いを説く書物を規範としていた。
後に成帝を諫めた際にも古代の君主や后妃の故事を引いており、
宮廷生活の中で経書や歴史に基づいて自らの行動を律するだけの教養を備えていたことが分かる。
↓↓宮廷で皇后・皇族に教育を施した・班昭についての個別記事は、こちら

成帝の後宮に入り、男子をもうける
建始元年(前32年)に成帝が即位すると、班氏は選ばれて後宮に入り、はじめ少使となった。
やがて成帝の寵愛を受けて婕妤に進み、増成舎に居住した。
『漢書』は、班婕妤が「再び館に就き、男子があったが、数か月で失った」と記している。
「就館」は后妃が出産のため所定の場所へ移ることを指すため、
班婕妤が成帝との間に男子をもうけたことは確認できる。
しかし、その子は生後数か月で死亡し、成長することはなかった。
後に班婕妤自身が作った『自悼賦』でも、陽禄・柘館と出産にかかわる場所に触れながら、
幼い子を失った悲しみを詠んでいる。
成帝の後宮では皇子を産むことが女性の地位にも直結したが、
班婕妤は子を得ながら後継を残すことができなかった。
成帝の寵愛と賢妃としての姿
成帝との同輦を断る
班婕妤が成帝の寵愛を受けていた時期の逸話として、
『漢書』が詳しく記しているのが「辞輦」の故事である。
あるとき成帝が後宮を遊覧する際、
自分の乗る輦に班婕妤を同乗させようとしたが、彼女はこれを辞退した。
班婕妤は、古代の絵を見ると、聖賢とされた君主の傍らには名臣がいるのに対し、
夏の桀王、殷の紂王、周の幽王のような末代の君主の傍らには寵愛された女性がいるとして、
自分が皇帝と同じ輦に乗れば、そのような君主たちと同じ姿になってしまうのではないかと述べた。
成帝はこの言葉を受け入れ、同乗させることをやめた。
この話を聞いた成帝の母・王政君は、
「古には樊姫がいたが、今には班婕妤がいる」と称賛したという。
樊姫は春秋時代の楚荘王を諫めた賢妃として知られる女性であり、
班婕妤もまた、皇帝の寵愛を受けるだけでなく、その行動を正す后妃として評価されたことになる。
『漢書』はこの逸話に続けて、班婕妤が『詩』や女性の戒めを説く書物を学び、
成帝へ意見を述べる際にも古礼を引いたことを記している。
同輦を断った行動も一時の機転ではなく、
古代の后妃を自らの規範とする姿勢の中から出たものだった。
侍女の李平を成帝に推薦する
班婕妤は成帝から寵愛されていたが、その寵愛を自分だけのものにしようとはしなかった。
鴻嘉年間(前20~前17年)ごろ、班婕妤は自分に仕えていた李平を成帝に推薦している。
李平は成帝に気に入られ、やがて班婕妤と同じ婕妤に昇った。
成帝は、武帝の皇后となった衛子夫が低い身分から皇后にまで昇った故事にちなみ、
李平に「衛」の姓を与えたため、以後は衛婕妤と呼ばれた。
後世の『列女伝』はこの行動を班婕妤の徳の一つとして取り上げている。
後宮では皇帝の寵愛が女性たちの地位を左右したが、
班婕妤は自分に仕えていた女性を成帝に推薦し、同じ婕妤にまで進むことを妨げなかった。
↓↓前漢・武帝に寵愛された賢后・衛子夫についての個別記事は、こちら

趙飛燕の台頭と長信宮への退去
趙飛燕の登場で成帝の寵愛を失う
班婕妤の立場を大きく変えたのが、趙飛燕とその妹の登場だった。
成帝が趙飛燕を寵愛し、さらにその妹も後宮へ入ると、趙氏姉妹に寵愛が集中し、
それまで後宮で地位を占めていた許皇后と班婕妤は次第に成帝から遠ざけられた。
班婕妤にはすでに男子を失った過去があり、
皇子の母として後宮内に独立した立場を築くこともできなかった。
趙氏姉妹の勢力が強まるにつれて成帝と接する機会も少なくなり、
かつて皇太后から賢妃として称賛されたことも、その立場を守る決定的な力にはならなかった。
鴻嘉三年(前18年)には、後宮内の対立がさらに深刻な事件へ発展した。
趙飛燕が、許皇后と班婕妤が「媚道」と呼ばれる呪術を行い、
後宮の女性だけでなく成帝まで呪っていると告発したのである。
許皇后はこの事件によって廃位され、班婕妤も取り調べを受けた。
↓↓絶世の美女姉妹・二趙についての個別記事は、こちら

呪詛の嫌疑に自ら弁明する
取り調べを受けた班婕妤は、呪詛そのものの意味を否定することで自らの無実を主張した。
まず『論語』の「死生には命があり、富貴は天にある」という言葉を引き、
正しい道を歩んでも幸福を得られないことがあるのに、邪悪な行為によって何を望めるのかと述べた。
さらに班婕妤は、もし鬼神に知覚があるのなら、君主に背くような呪詛を受け入れるはずがなく、
逆に鬼神に知覚がないのなら、呪っても何の意味もないと論じた。
どちらにしても呪詛を行う理由はなく、自分はそのような行為をしないという弁明だった。
成帝はこの返答を評価し、班婕妤を処罰しなかった。
それどころか彼女を憐れみ、黄金百斤を与えている。
許皇后が廃位されたのに対して班婕妤が処分を免れたことからも、
少なくとも成帝が彼女の弁明を受け入れたことは明らかである。
しかし、嫌疑が晴れたからといって、
班婕妤が以前のように後宮で暮らせる状況に戻ったわけではなかった。
『漢書』は趙氏姉妹について「驕妬」、すなわち驕慢で嫉妬深かったと記しており、
班婕妤はその間にとどまること自体を危険と判断した。
自ら後宮を離れて長信宮へ移る
班婕妤は成帝に願い出て、皇太后・王政君に仕えるため長信宮へ移ることを求めた。
成帝はこれを許したため、班婕妤は寵愛をめぐる争いの続く後宮から離れ、
かつて自分を「今の樊姫」と称賛した王政君のもとで暮らすことになった。
この移動は処罰による追放ではない。
呪詛事件では嫌疑を退けており、その後に班婕妤自身が長信宮への移住を願い出ている。
趙氏姉妹との対立を続けて再び事件に巻き込まれるより、
皇太后のもとへ身を移すことを選んだのである。
長信宮で班婕妤は皇太后の身の回りに仕え、帷幄を整え、宮中での務めを続けた。
成帝の寵姫として過ごした生活からは離れたが、宮廷そのものを去ったわけではなかった。
『自悼賦』と「団扇の詩」
長信宮で『自悼賦』を作る
長信宮へ移った班婕妤は、自らの半生を振り返る『自悼賦』を作った。
この作品は『漢書』「外戚伝」に全文が収録されており、
班婕妤本人の作品として史料上もっとも確実なものの一つである。
『自悼賦』では、
班氏の家に生まれ、成帝の後宮へ入り、増成舎で厚い寵愛を受けた過去を振り返る一方、
それを自分には過分な幸運と考え、常に恐れ慎んでいたことが語られる。
また、虞舜の妃である娥皇・女英や、周王朝の祖先を支えた太任・太姒らを理想とし、
古代の女性を描いた図や女史の教えを自らの規範としてきたことも記している。
その一方で、子を産みながら幼くして失った悲しみも語られる。
班婕妤にとって、趙飛燕の登場による失寵だけが人生の大きな喪失だったわけではなく、
成帝との間に生まれた男子を成長させることができなかった経験も、
『自悼賦』の中に明確に残されている。
後半では、かつて華やかだった宮殿に塵が積もり、
玉の階には苔が生え、中庭には草が茂る情景が描かれる。
皇帝が訪れなくなった場所で、衣服や装飾を整えても意味がなく、
成帝を思って涙を流しながら、ときには酒によって憂いを紛らわせる。
しかし作品は成帝や趙氏姉妹への激しい非難には向かわず、
自分はすでに十分な恩恵を受けたとして、残された生を受け入れようとする言葉へと収束している。
班婕妤はその中で、長信宮で皇太后に仕えながら生涯を終え、
自分の骨を山のふもとへ帰し、松柏のそばで眠ることを願っている。
後世の『列女伝』が彼女について、悲しみながらも節度を失わず、
運命に帰して怨まなかったと評価した背景には、この『自悼賦』があった。
「団扇の詩」は班婕妤が作ったのか
班婕妤の名を後世の文学史でさらに有名にしたのが、『怨歌行』あるいは『怨詩』と呼ばれる五言詩である。白い絹を裁って作られた丸い団扇を女性にたとえ、暑い夏には主人の懐や袖に置かれて大切にされるものの、秋が訪れて涼しくなれば箱の中へ捨て置かれるという内容で、寵愛を失った女性の境遇を簡潔な比喩によって表している。
趙飛燕の登場によって成帝の寵愛を失った班婕妤の生涯とよく重なるため、この詩は古くから班婕妤の作とされ、「班女の扇」「秋扇」といった表現とともに広く知られるようになった。『文選』『玉台新詠』『楽府詩集』などにも班婕妤の作品として収められ、少なくとも六朝期には彼女と団扇を結びつける理解が定着していた。
ただし、『怨歌行』を班婕妤本人の作品と断定することはできない。班婕妤と同族の班固が編纂した『漢書』は『自悼賦』を全文掲載しているにもかかわらず、『怨歌行』には触れていない。また『文選』李善注が引用する『歌録』には作者不詳の「古辞」とする記録があり、五言詩の発達時期をめぐる文学史上の問題もある。
そのため、『怨歌行』は「班婕妤の作と伝えられる詩」として扱うのが妥当であり、本人の作品として確実性の高い『自悼賦』とは分けて考える必要がある。
晩年と後世の班婕妤像
成帝の死後は陵園に仕える
綏和二年(前7年)、成帝が死去した。
『漢書』の班婕妤本伝は『自悼賦』を掲載したところで終わっているため、
その後の生涯について詳しいことは分からないが、
『列女伝』系統の記録によれば、班婕妤は成帝の死後、その園陵に仕える役目に移ったという。
これは成帝の陵墓と祭祀を守りながら余生を送ったことを意味する。
長信宮へ移った時点ですでに成帝の後宮から距離を置いていたものの、
その死後には再び亡き成帝に仕える立場となった。
班婕妤の没年については紀元前2年ごろとする説などがあるが、
『漢書』には記録されておらず確定できない。
『列女伝』は、成帝の園陵に仕えた後、その地で死去し、陵園内に葬られたと伝えている。
死後、「班女の扇」が失寵の象徴となる
班婕妤の死後、その名は歴史上の后妃としてだけでなく、文学上の象徴として長く残った。
とくに『怨歌行』が彼女の作品として流布したことで、
夏には手放されない団扇が秋には捨てられるという情景が、
君主や男性の寵愛を失った女性を表す典型的な比喩となった。
六朝以降の詩文では、
「班姫」「班女」「秋扇」「団扇」といった言葉だけで班婕妤の故事を想起させる表現が用いられ、
団扇そのものが寵愛の移ろいや女性の孤独を象徴するようになった。
『怨歌行』が実際に班婕妤の作であったかどうかとは別に、
後世の文学において班婕妤と団扇が不可分の存在となったことは確かである。
一方、儒教的な女性の模範としても班婕妤は記憶された。
『列女伝』では、成帝との同輦を辞退したこと、
李平を自分と同じ婕妤へ進めたこと、呪詛の嫌疑に理をもって答えたこと、
趙氏姉妹との争いを避けて長信宮へ移ったことなどが評価されている。
後世の絵画でも「辞輦」の故事が取り上げられ、皇帝の寵愛より礼を優先した賢妃として描かれた。
班婕妤の人物像
班婕妤は「趙飛燕に寵愛を奪われた才女」として語られることが多いが、
『漢書』に残る行動を見ると、失寵以前から一貫して皇帝の寵愛と一定の距離を取っていた。
もっとも寵愛されていた時期に成帝との同輦を断り、
自分に仕えていた李平を皇帝に推薦していることからも、
後宮での地位を守るため寵愛を独占しようとする姿勢は見られない。
呪詛事件では、鬼神が存在する場合と存在しない場合の双方から呪詛の無意味さを説き、
成帝に弁明を認めさせた。
その後も趙氏姉妹との対立を続けるのではなく、自ら長信宮へ移って王政君に仕えており、
礼を守るだけでなく、後宮内の情勢を見て危険から身を遠ざける判断力も持っていたことが分かる。
また、本人の言葉を知るうえでは、
後世に有名になった『怨歌行』より『漢書』所収の『自悼賦』が重要である。
そこには成帝への思いだけでなく、幼い子を失った悲しみ、
過去の栄華への回想、古代の賢女を規範として生きようとした姿勢が残されている。
班婕妤は後世に「秋扇」の女性として象徴化されたが、
史料から見える実像は、成帝の寵愛を受けながら礼を重んじ、
後宮の争いが激しくなると自らそこから退く道を選んだ女性だった。
まとめ
班婕妤は、成帝の寵愛を受けながら、それを後宮での権勢に結びつけようとはしなかった。
同輦を辞退した故事から、呪詛事件での弁明、長信宮への移住まで、
その行動には古礼を規範としながら自分の置かれた状況を判断する姿勢が見える。
後世には『怨歌行』によって失寵した女性の象徴となったが、
本人の作品として確実性が高いのは『漢書』に全文が残る『自悼賦』である。
「団扇の才女」という後世像だけでなく、寵愛の最中に自らを律し、
危険が迫ると争いから身を引いた人物として見る方が、史料に残る班婕妤の姿に近い。
史書・参考文献
・『漢書』巻97下「外戚伝下・孝成班婕妤」
・『列女伝』「続列女伝・班婕妤」
・『文選』「怨歌行」李善注
・『玉台新詠』巻1「怨詩」
・『楽府詩集』巻42「怨歌行」
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