李夫人(りふじん、生没年不詳)は、
前漢の武帝・劉徹に寵愛された女性で、昌邑哀王・劉髆の母である。
中山の出身で、兄には音楽に優れた李延年、大宛遠征を指揮した李広利がいた。
『漢書』によれば、李夫人は容貌が美しいだけでなく舞にも優れていた。
兄の李延年が武帝の前で「北方有佳人」と歌ったことをきっかけに召し出され、
武帝の寵愛を受けるようになった。
李夫人について特によく知られているのが、
重病となった際、見舞いに来た武帝に最後まで顔を見せなかった逸話である。
李夫人は、衰えた容貌を見せれば武帝の寵愛が失われ、
息子や兄弟への恩恵まで絶えることを恐れたという。
李夫人は若くして亡くなったが、武帝は皇后に準じる礼で葬り、その姿を甘泉宮に描かせた。
さらに方士・少翁によって亡き李夫人の姿を見ようとしたという話も『漢書』に残されている。
生前に皇后となったことはなかったが、
武帝の死後、大将軍・霍光によって武帝の祭祀に配食され、「孝武皇后」と追尊された。
李夫人の出自
李夫人の生年や本名は史書に記されていない。
『漢書』巻97上「外戚伝上」は、李夫人について「本以倡進」と記している。
「倡」は歌舞などを生業とする芸人を指す言葉であり、
李夫人は有力な家の娘として婚姻によって後宮へ入った女性ではなかった。
兄の李延年についても、『漢書』巻93「佞幸伝」は中山の人で、
本人だけでなく父母兄弟ももともと倡だったと記している。
李延年は音楽に優れ、歌や舞を得意としていた。
新しい曲を作るたびに聞く者を感動させたといい、武帝から重用されるようになった。
李夫人の一族には李延年のほか、後に大宛遠征を指揮して貳師将軍となる李広利、李季らがいた。
「北方有佳人」と李夫人
李延年が武帝の前で歌う
李夫人が武帝に知られるきっかけとなったのが、兄・李延年の歌だった。
『漢書』によれば、李延年は武帝に仕えていた際、舞いながら次のような歌を披露した。
「北方に佳人あり、世に並ぶ者なく独り立つ。一度振り返れば人の城を傾け、もう一度振り返れば人の国を傾ける。城や国が傾くことを知らないわけではないが、このような佳人は二度と得られない」
「一顧傾人城、再顧傾人国」という句から、
後に絶世の美女を表す「傾城」「傾国」という言葉と結びつけて語られるようになった。
歌を聞いた武帝は、そのような女性が本当に世の中にいるのかと感嘆した。
平陽公主の取りなしで召し出される
このとき、武帝の姉である平陽公主が、李延年には妹がいると武帝に伝えた。
そこで武帝が李夫人を召し出したところ、
『漢書』はその姿について「実に妙麗にして善く舞う」と記している。
李夫人は美貌だけでなく舞にも優れていたのである。
武帝は李夫人を寵愛するようになり、二人の間には一人の男子が生まれた。
後の昌邑哀王・劉髆である。
李延年の歌が李夫人を武帝に紹介する契機となったことは確かだが、
実際に李夫人の存在を武帝へ伝えたのは平陽公主だった。
李夫人の入宮には、李延年と平陽公主の双方が関係している。
武帝の寵愛と昌邑王・劉髆
李夫人が武帝の寵愛を受けた時期について、正確な年代は分かっていない。
当時、武帝の皇后だった衛子夫はすでに長期間皇后の地位にあったが、
『漢書』は衛子夫について、容色が衰えると趙の王夫人、中山の李夫人が寵愛を受け、
二人とも早く亡くなったと記している。
李夫人は武帝との間に劉髆を産んだ。
劉髆は天漢四年(前97)に昌邑王に封じられ、後元元年(前88)に死去した。
諡は「哀」で、『漢書』では昌邑哀王と呼ばれている。
李夫人は若くして亡くなっているため、劉髆が昌邑王として活動した時期を見ることはなかった。
↓↓武帝の皇后・衛子夫についての個別記事は、こちら

病に倒れた李夫人
武帝との面会を拒む
李夫人について最も詳しく記録されている逸話が、その病床での出来事である。
李夫人が重病になると、武帝は自ら見舞いに訪れた。
しかし李夫人は布団で顔を覆い、長く病床にあったため容貌が衰えており、
皇帝に会うことはできないと答えた。
そのうえで、息子である劉髆と兄弟の将来を武帝に託した。
武帝は、病状が重くもう回復できないかもしれないのだから、
一度顔を見せたうえで息子と兄弟を託してはどうかと求めた。
さらに、顔を見せれば千金を与え、兄弟を高い官職につけようとも言った。
それでも李夫人は応じなかった。
武帝がなおも顔を見ようとすると、李夫人は壁の方を向いてすすり泣き、それ以上答えなかった。
武帝は不満を抱いてその場を去った。
なぜ最後まで顔を見せなかったのか
武帝が去った後、李夫人の姉妹は、息子や兄弟を皇帝に託したいのであれば、
なぜ最後に一度くらい顔を見せなかったのかと李夫人を責めた。
これに対する李夫人の言葉が、『漢書』に詳しく残されている。
李夫人は、自分が低い身分から武帝の寵愛を得たのは容貌が美しかったからだと考えていた。
そして、容貌によって人に仕える者は、容色が衰えれば愛情も薄れ、
愛情がなくなれば恩恵も絶えると語った。
武帝が今も自分を気にかけているのは、かつての容貌を記憶しているからであり、
病によって衰えた現在の姿を見れば嫌悪されるかもしれない。
そうなれば、自分の死後に息子や兄弟を気にかけてもらうこともできなくなると考えたのである。
したがって、李夫人が顔を見せなかった理由を、
単に「美しい姿のまま武帝の記憶に残りたかった」とするだけでは十分ではない。
『漢書』が伝える李夫人自身の説明では、
自分への寵愛が息子や兄弟への待遇につながっていることを理解し、
その関係を死後まで維持しようとした行動だった。
李夫人の死と武帝の追慕
皇后に準じる礼で葬られる
李夫人は病から回復することなく、若くして亡くなった。
『漢書』は、李夫人の死後、武帝が「后礼」をもって葬ったと記している。
李夫人は生前に皇后となったわけではないが、葬礼では皇后に準じる特別な待遇を受けた。
さらに武帝は李夫人の死を憐れみ、その姿を甘泉宮に描かせた。
これは李夫人の死後に武帝がその姿を残そうとしたことを示す、正史に明記された記録である。
少翁に李夫人の姿を求める
李夫人が亡くなった後も、武帝は彼女を思い続けた。
『漢書』によれば、斉の方士・少翁が、李夫人の神を招くことができると申し出た。
少翁は夜になると灯火をともし、帷帳を張って酒や肉を供え、武帝を別の帳に座らせた。
武帝が遠くから眺めると、李夫人に似た美しい女性が帳の中に現れ、
座ったり歩いたりしているように見えた。
しかし近くへ行って見ることはできなかったという。
武帝はこのときの思いをもとに、「是邪、非邪」と始まる歌を作らせた。
さらに『漢書』には、武帝自身が李夫人を悼む賦を作ったことも記されている。
『史記』では王夫人とされる
ただし、少翁の招魂については史料によって記述が異なる。
『漢書』「外戚伝」は李夫人の死後の出来事としているが、
『史記』では少翁が姿を現したとされる女性を王夫人としている。
したがって、「少翁が李夫人の霊を呼び出した」という話を、
そのまま疑いのない事実として扱うことはできない。
後世にはさらに、反魂香を焚いて李夫人の姿を現した、
李夫人の姿を人形や影として再現したといった話も広まった。
しかし『漢書』が李夫人について直接記しているのは、
少翁が灯火・帷帳・酒肉を用意し、武帝が遠くから李夫人に似た女性を見たという内容である。
反魂香や木偶については、正史の記述とは分けて考える必要がある。
李夫人の兄弟と李氏一族
李延年は協律都尉となる
李夫人の兄・李延年は、音楽の才能によって武帝から寵愛を受けた人物だった。
李夫人が武帝の寵愛を受けるようになると李延年の地位も上がり、協律都尉となった。
『漢書』「佞幸伝」によれば、二千石の印綬を帯び、武帝から非常に親しく扱われたという。
李延年は宮廷音楽に深く関わり、
司馬相如らが作った詩に新しい曲をつけるなど、武帝期の音楽政策にも関係した。
しかし李夫人の死後、李氏一族をめぐる状況は変化していく。
李延年の弟・李季が後宮の者と淫乱の罪を犯し、
李延年ら兄弟・宗族も処罰されたと『漢書』「佞幸伝」は記している。
↓↓宮廷文人官僚・司馬相如についての個別記事は、こちら

李広利は貳師将軍となる
もう一人の兄である李広利は、太初元年(前104)に貳師将軍となり、大宛遠征を指揮した。
最初の遠征は失敗したが、武帝は大軍を再び送り、大宛を屈服させた。
帰還した李広利は海西侯に封じられた。
その後も李広利は匈奴との戦争に出征したが、武帝晩年の征和三年(前90)、
丞相・劉屈氂と李広利が昌邑王・劉髆を皇太子に立てようとしていたことが発覚した。
劉屈氂は処刑され、李広利の妻子も拘束された。
匈奴と戦っていた李広利は帰国できないと判断し、匈奴へ降伏した。
李広利もその後、匈奴で殺害されている。
李夫人は病床で、武帝からの寵愛が失われれば兄弟への恩恵も絶えることを恐れていた。
実際に李夫人の死後、李氏一族は李延年・李季の事件や李広利の失脚によって
大きく衰退することになった。
息子・劉髆と孫・劉賀
昌邑哀王となった劉髆
李夫人の一人息子・劉髆は、天漢四年(前97)に昌邑王となった。
征和三年(前90)には、
母方の伯父である李広利と丞相・劉屈氂が劉髆を皇太子に立てようとしたことが問題となった。
しかし劉髆自身がこの計画に関与していたことを示す記録はなく、劉髆が処罰されることもなかった。
劉髆は後元元年(前88)に死去し、「哀」と諡された。その後、息子の劉賀が昌邑王を継いだ。
孫・劉賀は一時皇帝となる
元平元年(前74)、武帝の末子である昭帝が後継者を残さずに死去すると、
大将軍・霍光らは昌邑王・劉賀を長安へ迎えた。
劉賀は皇帝として即位したものの、まもなく霍光らによって廃位された。
その後に皇帝へ迎えられたのが、戾太子・劉拠の孫にあたる宣帝である。
李夫人自身は武帝より先に亡くなり、皇位継承に関与することはなかった。
しかし、その一人息子が昌邑王となり、さらに孫の劉賀が一時とはいえ皇帝に即位したため、
李夫人の血統は武帝死後の皇位継承にも関係することになった。
武帝の死後「孝武皇后」と追尊される
李夫人は生前には皇后ではなかった。
武帝の皇后となった女性は、最初の陳皇后と、その後に皇后となった衛子夫である。
李夫人の死後も衛子夫は皇后の地位にあり、李夫人が生前に皇后へ昇格したという記録はない。
しかし武帝晩年の征和二年(前91)、巫蠱の禍によって衛子夫が自殺し、皇后の位は空位となった。
武帝はその四年後の後元二年(前87)に死去した。
その後、大将軍・霍光は武帝が生前から李夫人を特に思っていたことを理由として、
李夫人を武帝の祭祀に配食し、「孝武皇后」の尊号を追贈した。
したがって、李夫人を「武帝の皇后」と説明する場合には注意が必要である。
李夫人は武帝存命中に皇后となった女性ではなく、
武帝の死後に霍光によって「孝武皇后」と追尊された女性である。
文学の題材となった李夫人
李夫人は後世の詩文でも繰り返し取り上げられた。
とりわけ「北方有佳人」の歌、病床で顔を見せなかった逸話、武帝が死後も李夫人を追慕した話は、
絶世の美人とその死を扱う文学的題材として受け継がれた。
唐代の白居易は「李夫人」と題する詩を作り、李夫人と武帝の関係を題材としている。
李賀や李商隠らの詩にも李夫人や武帝の追慕を踏まえた作品が見られる。
また、武帝が亡くなった女性を求めた物語は、後世の皇帝と寵妃を描く文学にも影響を与えた。
白居易『長恨歌』に描かれる唐玄宗と楊貴妃の物語についても、
漢武帝と李夫人をめぐる文学的伝統との関連が指摘されている。
ただし、後世の文学作品に描かれた李夫人像を、そのまま前漢時代の史実とみなすことはできない。
↓↓中国四大美女・楊貴妃についての個別記事は、こちら

李夫人の人物像
李夫人について、『漢書』が伝える本人の言葉や行動は多くない。
確認できるのは、歌舞に関係する家の出身で、美貌と舞によって武帝の寵愛を受け、
劉髆を産んだこと、そして病床で武帝に顔を見せることを最後まで拒んだことなどである。
その中でも病床での発言は、李夫人自身の立場を考えるうえで重要である。
李夫人は、自分が武帝から寵愛された理由を容貌に求めており、
容貌が衰えれば愛情も恩恵も失われると考えていた。
その恩恵には自分だけでなく、息子や兄弟の将来も含まれていた。
後世には、この行動から李夫人を
「見せないことで武帝の愛を永遠にした女性」と評価することもある。
しかし、それは史料に残された行動をもとにした後世の解釈である。
史料から確認できるのは、李夫人が自分の容貌と武帝の寵愛、
一族への恩恵の関係を明確に認識していたということである。
また、李夫人自身が政治に関与したことを示す記録はほとんどない。
兄の李広利や息子の劉髆は武帝朝の政治・軍事に関係したが、
それらを李夫人本人の政治的活動と同一視することはできない。
まとめ
李夫人は、武帝の後宮で寵愛を受けた女性の一人であり、生前に皇后となった人物ではない。
しかし死後は皇后に準じる礼で葬られ、さらに武帝の死後には「孝武皇后」と追尊された。
正史に残る記録は決して多くない一方、
李延年の「北方有佳人」、病床で武帝に顔を見せなかった逸話、
少翁による招魂などが後世まで語り継がれた。
史実と後世の伝承を分けて見ることで、前漢の一人の夫人が、
のちに「絶世の美女」として語られていった過程も見えてくる。
史書・参考文献
・『史記』巻49「外戚世家」
・『史記』巻125「佞幸列伝」
・『漢書』巻6「武帝紀」
・『漢書』巻63「武五子伝・昌邑哀王劉髆」
・『漢書』巻93「佞幸伝・李延年」
・『漢書』巻97上「外戚伝上・孝武李夫人」
・『資治通鑑』巻20~22
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