衛青(えいせい、?―紀元前106年)は、
前漢の武帝に仕え、匈奴との戦争で大きな功績を挙げた将軍である。字は仲卿。
平陽侯家に仕える身分から武帝の側近となり、車騎将軍、大将軍、大司馬へと昇進した。
元光6年(前129年)の初出征では、
同時に出撃した李広や公孫敖らが敗北または無功に終わるなかで戦果を挙げ、
その後も河南の地の奪取、右賢王への奇襲、定襄遠征、漠北での単于本隊との戦いなど、
武帝による対匈奴戦争の中核を担った。
一方で、衛青は皇后となった衛子夫の弟であり、霍去病の叔父でもあった。
外戚として急速に地位を高めた人物であることも事実であり、
『史記』『漢書』には、そうした立場を自覚していたとみられる言動も記録されている。
華々しい戦功だけでなく、幼少期の境遇、館陶大長公主による殺害未遂、
部将蘇建の処分をめぐる判断、三人の息子への封爵を辞退しようとした逸話、
李広の死に至る漠北遠征、李敢による襲撃、霍去病の台頭による立場の変化など、
衛青の生涯には前漢武帝期の政治と軍事が色濃く反映されている。
出自と少年時代|父の家でも兄弟として扱われなかった衛青
衛青は河東郡平陽県の出身で、字を仲卿という。
父の鄭季は平陽県の役人で、平陽侯曹寿の家に出入りしていた際、
侯家に仕えていた衛媼と関係を持ち、衛青が生まれた。
『漢書』の顔師古注では「衛」は衛媼自身の姓ではなく夫家の姓とされており、
衛青は本来鄭氏でありながら衛氏を名乗ったと説明されている。
『史記』『漢書』にも衛青や弟たちについて「冒姓して衛氏となった」と記されている。
衛媼には長男の衛長君、長女の衛君孺、次女の衛少児、衛子夫がおり、
さらに衛子夫の弟として衛歩・衛広がいた。
衛君孺はのちに公孫賀の妻となり、
衛少児は平陽侯家に出入りしていた霍仲孺との間に霍去病を生んだ。
さらに衛少児は、前漢建国の功臣・陳平の曾孫にあたる陳掌とも関係を持っていた。
『史記』には衛少児が以前から陳掌と通じていたため、
衛子夫が武帝の寵愛を受けて衛氏一族が栄えると、武帝が陳掌を召し出して貴顕させたとある。
『漢書』霍去病伝では、衛皇后の地位が確立した後、衛少児は陳掌の妻になったと記されている。
このように衛青の母・衛媼を中心とする一族は、
同じ母から生まれながら父を異にする者を含む複雑な家族だった。
衛青自身も鄭季と衛媼の間に生まれたが、
幼い頃には生父である鄭季の家へ送られ、羊飼いをさせられた。
ところが鄭季の正妻の子供たちは衛青を兄弟として扱わず、奴僕同然に使ったという。
『史記』『漢書』が伝える衛青の少年時代は、
のちの外戚・大将軍としての地位とは大きく隔たったものだった。
若い衛青が人に従って甘泉の居室を訪れた際、鉗徒、すなわち刑徒の一人から人相を見られ、
「貴人となり、官位は封侯に至る」と告げられたという逸話も『史記』『漢書』に残る。
衛青はこれを笑い、自分は人の奴の身に生まれたのだから、
鞭打たれたり罵られたりせずに済めば十分であり、
どうして侯になどなれようかという趣旨の言葉を返した。
成長した衛青は平陽侯家の騎従となり、武帝の姉である平陽公主に仕えた。
↓↓姉・衛子夫、甥・霍去病についての個別記事は、こちら


衛子夫の入宮と殺害未遂|従者から武帝の側近へ
建元2年(前139年)、衛青の姉・衛子夫の境遇が大きく変わった。
衛子夫は平陽公主の家で歌舞を務めていた女性で、
平陽公主邸を訪れた武帝に見初められて宮中へ入った。
いったんは寵愛が薄れたものの、のちに再び武帝の寵愛を受けて身ごもり、
衛氏一族の立場も急速に変化していった。
当時の皇后は陳皇后で、その母は武帝の姑にあたる館陶大長公主であった。
衛子夫が武帝の子を身ごもったことを知った館陶大長公主は衛氏を憎み、
衛青を捕らえさせて殺そうとした。
この頃の衛青は建章宮に勤務していたが、まだ名の知られた人物ではなかった。
捕らえられて殺害されかけたところを、友人の騎郎・公孫敖が壮士を率いて救出したため、
命を取り留めた。
この事件を知った武帝は衛青を召し出し、建章監・侍中に任命した。
衛子夫の兄・衛長君も侍中となり、
衛氏一族には数日のうちに合計千金に達する賞賜が与えられたという。
衛青はさらに太中大夫へ進んだ。
長姉の君孺は公孫賀の妻となり、少児と関係のあった陳掌も取り立てられた。
衛青を救った公孫敖もこの縁によってさらに重用されるようになる。
衛青の出世が衛子夫の寵愛と無関係でなかったことは、『史記』『漢書』自身が明確に記している。
しかし、ここから先の衛青は単に皇后の弟として地位を保ったのではなく、
匈奴との戦争で繰り返し軍功を挙げることによって、軍事面でも独自の地位を築いていくことになる。
↓↓武帝の叔母・館陶大長公主についての個別記事は、こちら

初めての匈奴遠征|龍城攻撃から河南の地の奪取まで
元光6年|四将のうち衛青だけが戦果を挙げる
元光6年(前129年)、武帝は匈奴への本格的な反攻を開始し、衛青を車騎将軍に任命した。
衛青は上谷から、公孫賀は雲中から、公孫敖は代郡から、李広は雁門から、
それぞれ一万騎を率いて匈奴領へ進んだ。
衛青にとっては初めて将軍として大軍を率いる戦いだったが、
匈奴の龍城まで進み、数百人を斬首・捕虜とした。
これに対して公孫賀は戦果を挙げられず、公孫敖は七千騎を失った。
李広も匈奴軍に敗れて捕虜となり、脱出して帰還したものの、
本来なら死罪となるところを金銭で贖って庶人となった。
四軍のうち明確な戦果を挙げたのは衛青だけであり、衛青は関内侯の爵位を与えられた。
元朔元年|雁門から三万騎を率いる
元朔元年(前128年)、衛子夫は武帝の男子・劉拠を産み、皇后に立てられた。
同年秋、衛青は三万騎を率いて雁門から出撃し、匈奴数千人を斬首・捕虜とした。
衛青はすでに一度の成功だけで抜擢された将軍ではなく、
継続して大規模な騎兵軍団を任される存在となっていた。
元朔2年|河南の地を奪取し長平侯となる
前127年、匈奴が遼西や漁陽方面へ侵入すると、
漢は李息を代郡方面へ、衛青を雲中方面へ出撃させた。
衛青は雲中から西進して高闕へ至り、さらに隴西方面まで進軍して楼煩王・白羊王を退けた。
数千人を斬首・捕虜とし、多数の家畜を獲得しながら、
黄河の湾曲部にあたる河南の地を漢の支配下へ入れた。
漢はこの地域に朔方郡を設置し、蘇建に朔方城を築かせた。
河南の地は長安の北方を守るうえで重要な地域であり、
ここを漢が直接支配するようになったことは、武帝期の対匈奴戦争における大きな転換点となった。
衛青はこの功績によって長平侯に封じられた。
配下の蘇建も平陵侯、張次公も岸頭侯となっている。
武帝の詔によれば、衛青軍は高闕から河南方面へ進んで匈奴軍を破り、
多数の捕虜と家畜を得ながら「全甲兵而還」、
すなわち軍を大きく損なわず帰還したと評価されている。
右賢王への奇襲と大将軍就任|三人の息子への封爵を辞退する
元朔5年|夜襲によって右賢王軍を破る
元朔5年(前124年)、衛青は三万騎を率いて高闕から出撃した。
蘇建、公孫賀、李沮、李蔡らの諸将も衛青の指揮下に入り、
李息と張次公も別方面から匈奴を攻撃した。
匈奴の右賢王は、漢軍が遠方まで進出してくることはないと考え、
酒を飲んでいたと『史記』『漢書』は記す。
ところが漢軍は夜間に到着し、右賢王の陣営を包囲した。
右賢王は驚いて包囲を突破し、愛妾一人と数百騎を伴って北へ逃走した。
漢軍は追撃したものの捕らえることはできなかったが、
右賢王配下の王十余人、男女一万五千余人、多数の家畜を獲得した。
衛青が塞まで戻ると、武帝は使者に大将軍の印を持たせ、軍中で衛青を大将軍に任命した。
これ以降、漢の諸将は大将軍衛青の指揮下に置かれることになった。
幼い三人の息子まで侯に封じられる
武帝は衛青自身の食邑を加増しただけでなく、衛青の三人の息子にも爵位を与えた。
長男の衛伉は宜春侯、衛不疑は陰安侯、衛登は発干侯となった。
しかし三人はいずれもまだ幼かった。
衛青はこれに対し、自分が戦勝できたのは諸校尉が力戦したからであり、
自分自身はすでに加封されているのに、何の功績もない幼い息子たちまで侯にするのは、
将士に力戦を奨励することにならないとして辞退した。
武帝は「諸校尉の功績を忘れているわけではない」と答え、
実際に公孫敖、公孫賀、韓説、李蔡、李朔、趙不虞、公孫戎奴らにも封爵・加恩を行った。
三子の封侯そのものは実施されたため、衛青が皇帝の恩賞を拒絶し切ったわけではない。
それでも、自分の幼い子供への恩賞よりも配下の軍功を問題にしたという発言は、
『史記』『漢書』双方に記録される衛青の重要な逸話である。
元朔6年の定襄遠征|蘇建を斬らなかった衛青
元朔6年(前123年)、衛青は大将軍として定襄から再び匈奴へ出撃した。
中将軍公孫敖、左将軍公孫賀、前将軍趙信、右将軍蘇建、後将軍李広、
強弩将軍李沮らがその指揮下に入り、最初の出撃では数千人を斬首・捕虜とした。
一月ほど後、衛青軍は再び定襄から出撃し、さらに一万余を斬首・捕虜とした。
しかし、この二度目の出撃では漢軍側にも大きな損害が出た。
蘇建と趙信が率いる三千余騎が単于の率いる数万の軍と遭遇し、一日余りにわたって戦った。
漢軍はほぼ壊滅し、もともと匈奴出身で漢へ降伏していた趙信は、
残兵約八百騎を連れて匈奴へ再降伏した。
蘇建は軍をすべて失ったものの、単身で脱出して衛青のもとへ戻った。
ここで衛青は、蘇建をどう処分するべきか軍吏に意見を求めている。
議郎の周霸は、大将軍となって以来、衛青は部将を一人も斬っていないのだから、
軍を失った蘇建を斬って威厳を示すべきだと主張した。
これに対して軍正の閎と長史の安は、蘇建は数千の兵で単于の数万騎と一日余り戦い続け、
兵が尽きても匈奴へ降伏せず戻ってきたのであり、
その者を斬れば「帰ってきても殺される」と示すことになるとして反対した。
衛青自身も処刑には同意しなかった。
衛青は、自分は皇帝の近親として重用されているため威厳を示す必要などなく、
たとえ将軍を処刑できる職権があったとしても、
自分ほど皇帝の寵遇を受けた者が国境の外で勝手に将軍を誅殺するべきではないと述べた。
そこで蘇建を拘束したまま武帝のもとへ送り、最終判断を皇帝に委ねた。
蘇建は結局処刑されず、贖罪して庶人となった。
この一件は、衛青が単に温厚だったというだけではなく、
自らが皇帝の外戚であり大将軍でもあるという強大な立場を認識し、
その権限をどこまで行使するかに慎重だったことを示している。
霍去病が衛青の軍から頭角を現す
この元朔6年の遠征では、衛青の甥・霍去病も歴史の表舞台へ出た。
十八歳ほどだった霍去病は侍中として武帝に仕え、騎射を得意としていた。
衛青に二度従軍した後、票姚校尉として軽勇の騎兵八百を与えられると、
本隊から数百里離れて敵中へ突入し、二千余を斬首・捕虜として冠軍侯に封じられた。
この時点から、武帝の対匈奴戦争には衛青と霍去病という二人の有力な将軍が並び立つようになる。
同年、衛青は武帝から千金を賜った。
すると寧乗という人物が、現在は王夫人が武帝の寵愛を受けているが、
その一族はまだ富貴ではないため、賜った金を王夫人の親族への祝いとして贈るよう衛青に勧めた。
衛青はその助言を受け、五百金を王夫人の親族へ贈った。
武帝が事情を尋ねると、衛青は寧乗から助言されたことをそのまま答えた。
武帝は寧乗を東海都尉に任じている。
この逸話からは、武帝の寵愛が後宮の女性とその一族の政治的地位を左右する宮廷において、
衛青が自らの立場を慎重に保とうとしていた様子もうかがえる。
平陽公主との婚姻と霍去病の台頭
衛青はのちに、かつて自分が仕えていた平陽公主と結婚した。
平陽公主は武帝の姉であり、もとは平陽侯曹寿の妻だった。
『漢書』によれば、曹寿が病を得て領国へ退いた後、
平陽公主が再婚相手としてふさわしい列侯を尋ねると、周囲の者たちは大将軍衛青を推した。
平陽公主は、「衛青はもともと私の家から出た者で、かつて私の騎従をしていたではないか」
という趣旨の反応をした。
これに対して周囲は、今や衛青ほど尊貴な者はいないと答えた。
平陽公主から衛皇后を通じて話が武帝へ伝えられ、武帝の命によって衛青は平陽公主を娶ったという。
平陽公主の家に仕えていた騎従が、その主人だった皇帝の姉の夫となったのである。
ただし、『漢書』衛青伝はこの婚姻記事を衛青の死の記事の後に回想として置いており、
婚姻の正確な年次までは明記していない。
一方、軍事面では霍去病の存在が急速に大きくなった。
元狩2年(前121年)、驃騎将軍となった霍去病は隴西から匈奴領へ深く侵入し、
同年夏には祁連山方面まで遠征して大戦果を挙げた。
さらに渾邪王らの降伏を受け入れ、河西方面で漢の勢力を大きく拡大した。
『漢書』は、従来の諸将より霍去病に与えられた兵馬の質がよく、
霍去病自身も果敢に敵地深く進んだとする一方、しばしば幸運にも恵まれていたと評している。
こうして霍去病は「日々親貴となり、大将軍に比す」と記されるほどの存在となった。
漠北の戦い|単于本隊との決戦と李広の死
元狩4年|衛青と霍去病に各五万騎
元狩4年(前119年)、武帝は匈奴に対して空前の規模の遠征を実施した。
大将軍衛青と驃騎将軍霍去病には、それぞれ騎兵五万が与えられ、
その後方には数十万規模の歩兵・輸送部隊が続いた。
当初、霍去病が定襄から進んで単于本隊と戦う予定だったが、
捕虜から単于が東方にいるとの情報を得たため配置が変更され、
霍去病は代郡から、衛青は定襄から出撃することになった。
衛青軍には前将軍李広、左将軍公孫賀、右将軍趙食其、後将軍曹襄らが属した。
衛青が塞外へ千余里進むと、匈奴の単于が精鋭を集めて待ち構えていた。
衛青は武剛車を環状に並べて陣地を構築し、その防御陣から五千騎を出して匈奴軍に当たらせた。
匈奴側も約一万騎を繰り出した。
夕刻になると強風が起こり、砂礫が顔に打ちつけて両軍が互いを見ることさえ難しくなった。
衛青はこの状況で左右の部隊を進め、単于軍を包囲する態勢を取った。
単于は漢軍の兵力が多く、なお士馬も強健であることを見て、
数百の精鋭騎兵を伴って包囲を突破し、北西へ逃走した。
夜になって単于が逃げたことを捕虜から知った漢軍は軽騎兵を出して追撃し、
衛青本隊もその後を追った。
約二百里追ったものの単于を捕らえることはできず、衛青軍は趙信城まで進んだ。
そこに蓄えられていた匈奴の食糧を軍糧として利用し、
一日滞在した後、残った食糧と城を焼いて帰還した。
この遠征で衛青軍は一万九千級を斬首・捕虜としたと『漢書』は記す。
李広を東道へ移した判断
この漠北遠征は、老将李広の最期とも深く関わっている。
李広は前将軍として衛青軍に属していたが、衛青は李広を右将軍趙食其とともに東道へ回した。
『史記』李将軍列伝によれば、武帝は李広が高齢で「数奇」、すなわち運に恵まれないとして、
単于本隊と直接戦わせないよう衛青に密かに命じていた。
また衛青自身も、いったん侯位を失っていた公孫敖に
単于との戦いで功績を立てさせたい意図があったと『史記』は記している。
李広は、若い頃から匈奴と戦い続け、
今ようやく単于と直接戦う機会を得たのだから先鋒を務めたいと強く求めたが、衛青は認めなかった。
李広と趙食其の軍は東道へ回ったものの、道に迷い、単于との戦いに間に合わなかった。
帰路、衛青は戦闘経過を武帝へ報告するため、長史を通じて李広らに失道の事情を確認しようとした。
李広は、自分は六十歳を越え、
これ以上「刀筆の吏」の取り調べを受けることはできないとして自刃した。
李広の部下たちは皆泣き、死を知った人々も悲しんだと『史記』は記している。
衛青が李広を東道へ回したこと自体は事実だが、
それを単純に衛青個人の嫉妬や李広排斥とみなすことはできない。
史料上は武帝から李広を単于に当てないよう命じられていた事情と、
公孫敖を起用しようとした衛青自身の判断の双方が記録されている。
大司馬となるが、霍去病と同格になる
漠北遠征では霍去病も大戦果を挙げ、七万余を斬首・捕虜として狼居胥山まで進んだ。
帰還後、武帝は大司馬という地位を設け、大将軍衛青と驃騎将軍霍去病をともに大司馬とした。
さらに霍去病の秩禄を大将軍と同等と定めた。
衛青が失脚したわけではないが、
『漢書』はこれ以後、「青は日々衰え、去病は日々ますます貴くなった」と記している。
衛青の旧知や門下の多くも霍去病のもとへ移り、そこで官爵を得た。
任安だけは衛青のもとを離れなかったという。
衛青と霍去病が常に同じ立場で並立していたわけではなく、
元狩4年の漠北遠征以降、武帝の寵遇と軍事的な重心は明らかに霍去病へ移っていた。
衛青の人物像|権力を握りながら専断を避けた大将軍
『漢書』は衛青について、「仁にして士を喜び、退譲し、和柔をもって上に媚ぶ」と評している。
少なくとも衛青が強権的に振る舞う人物として描かれていないことは確かである。
蘇建の処分に際しても、部将を斬って自らの威厳を示すことを拒み、
皇帝の寵臣である自分が国境外で独断によって処刑することを避けた。
三人の息子が功績もないまま侯に封じられた際には、
配下の軍功を評価しなければ将兵を励ますことにならないとして辞退を申し出た。
一方で、衛青は武帝の政治から距離を置いた独立した軍人だったわけでもない。
王夫人が寵愛されると、その親族に五百金を贈った逸話が示すように、
宮廷における自分の立場には敏感だった。
さらに『史記』には、
蘇建が衛青に対し、天下の賢人を招いて名将のように人材を集めるべきだと勧めたという逸話もある。
衛青はこれに対し、魏其侯竇嬰や武安侯田蚡が多くの賓客を集めたことで武帝から嫌われた例を挙げ、
人材を登用したり退けたりすることは皇帝の権限であり、
臣下は法を守り職務を果たせばよいと答えた。
これは衛青の政治姿勢を考えるうえで重要な記録である。
大将軍として巨大な軍事力を預かり、皇后の弟として宮廷でも強い立場にありながら、
衛青は独自の政治勢力を作ろうとはしなかった。
それを純粋な謙譲とみることもできる一方、
武帝の猜疑を招くほど独自の門閥や賓客集団を形成しないという、
極めて慎重な権力感覚を持っていたとみることもできる。
司馬遷も衛青と霍去病について、
臣下は職分を守るべきだという姿勢を共有していた人物として記している。
↓↓「史記」を完成させた司馬遷についての個別記事は、こちら

李敢に傷つけられても公にしなかった
李広の死後、その子の李敢は父の死を衛青の責任と考え、衛青を襲撃して負傷させた。
しかし衛青は、この事件を公にせず隠した。
衛青の甥である霍去病は李敢が衛青を傷つけたことを恨み、
のちに甘泉宮で武帝に従って狩猟をしていた李敢を射殺した。
当時の霍去病は武帝から強く寵愛されていたため、
武帝は李敢が鹿に角で突かれて死んだことにして事件を隠したと『史記』は伝える。
ここでも衛青自身は李敢に報復していない。
衛青がなぜ事件を隠したのかについて史書は理由を説明していないため、
「李広への負い目から許した」とまでは断定できない。
しかし、自分を負傷させた相手に対して衛青自身が処罰を求めた記録はなく、
甥の霍去病が代わって李敢を殺害したというのが史料上確認できる経緯である。
晩年と死|烈侯と諡され、平陽公主と合葬される
漠北遠征以後、衛青が再び匈奴遠征を指揮することはなかった。
『漢書』によれば、衛青が単于と戦った元狩4年から死去までの十四年間、
衛青自身が再び匈奴を攻撃することはなかった。
これは衛青が失脚したためではなく、大規模遠征によって漢の馬が著しく減少したことに加え、
その後の武帝が南越・東越、朝鮮、羌、西南夷など各方面への戦争を進めたためだ
と『漢書』は説明している。
漠北遠征では出塞時に官有・私有を合わせて十四万匹の馬が動員されたが、
帰還した馬は三万匹にも満たなかったという。
大規模な対匈奴戦争を継続できる状況ではなかった。
元狩6年(前117年)には霍去病が二十四歳ほどで死去した。
衛青は甥の死後も大司馬大将軍として存命し、元封5年(前106年)に薨去した。
生年は史書に記されておらず、死因についても『史記』『漢書』衛青伝は説明していない。
したがって、衛青の死亡年齢や病死だったかどうかを確定することはできない。
死後、「烈侯」と諡され、長男の衛伉が長平侯を継いだ。
『漢書』によれば、衛青は平陽公主と合葬され、その墓は廬山をかたどって築かれたという。
衛青の三子と衛氏一族のその後
衛青の生前から、三人の息子の侯位はすでに揺らいでいた。
長男の衛伉は法に触れて一度侯位を失い、
その後、衛不疑と衛登も酎金事件によって侯位を失った。
衛青が死去すると衛伉が改めて長平侯を継いだが、
六年後に再び法に触れて免ぜられたと『漢書』は記す。
『史記』は、衛氏が興隆して衛青が最初に侯となってから、
衛氏一族から五人の侯が出たものの、二十四年のうちにすべて侯位を失ったと総括している。
さらに武帝晩年の征和2年(前91年)には巫蠱の禍が起こり、
衛子夫と皇太子劉拠が死に追い込まれ、衛氏一族も大きな打撃を受けた。
『漢書』外戚伝はこの事件の結末を「衛氏悉く滅ぶ」と記している。
ただし、これは衛青の死から十五年後の出来事であり、衛青自身が巫蠱の禍を経験したわけではない。
衛青の評価|七度の遠征で漢の対匈奴戦争を転換した将軍
『漢書』は衛青の軍歴を、七度にわたって匈奴へ出撃し、
合計五万余を斬首・捕虜としたと総括している。
その戦果は単なる敵兵の殺傷数にとどまらない。
元朔2年には河南の地を漢の支配下へ入れて朔方郡設置につなげ、
元朔5年には右賢王軍を破って大将軍となり、
元狩4年には漠北で単于本隊と直接戦ってその軍を退却させた。
漢が匈奴に対して防御するだけでなく、大規模な騎兵軍団を塞外深く送り込み、
敵の中枢へ攻撃を加える時代を作った中心人物の一人が衛青だった。
一方で、衛青の出世を軍才だけで説明することもできない。
衛子夫の弟であったことによって武帝の側近へ抜擢され、
大将軍となった後には幼い三人の息子まで侯に封じられている。
『史記』にも、衛青が一万戸を超える食邑を持ち、
三子まで侯になった背景には皇后の存在があるという同時代的な見方が記録されている。
それでも、衛青は与えられた機会を実際の軍功によって確かな地位へ変えた。
初陣で他の三将が敗北・無功に終わるなか唯一戦果を挙げ、
その後も河南攻略、右賢王奇襲、定襄遠征、漠北決戦と十年以上にわたって漢軍の主力を率いている。
同時に、衛青は大将軍・大司馬という巨大な軍事的権限を持ちながら、
蘇建を独断で処刑せず、功績のない自分の息子への封爵に異議を唱え、
賢人を集めて独自の勢力を築くことも避けた。
司馬遷は衛青を無条件に称賛してはいない。
『漢書』も「天下には称するものがなかった」と厳しい一文を残している。
しかし、衛青の生涯を史料に沿って見ると、
その特徴は「奴僕から大将軍へ」という劇的な出世だけにあるのではない。
皇帝の外戚として急激に権力の中枢へ入りながら、軍事的には繰り返し成果を残し、
政治的には皇帝の権限を侵さない姿勢を保ち続けた点に、衛青という人物の実像がある。
武帝期の対匈奴戦争を大きく前進させた軍事指揮官であると同時に、
強大な権力を持つ臣下が武帝のもとでどのように生きたのかを示す人物でもあった。
まとめ
衛青は、平陽侯家に仕える低い身分から前漢の大将軍・大司馬にまで上りつめた。
その出世の出発点には姉・衛子夫が武帝の寵愛を受けたことがあったが、
衛青自身も七度にわたる匈奴遠征で軍功を積み重ね、河南の地の奪取、右賢王軍の撃破、
漠北での単于本隊との戦いなど、武帝前半期の対匈奴戦争を主導した。
衛青の史料には、戦場での勝敗だけではなく、自分の幼い息子への封爵を辞退しようとしたこと、
敗軍の将・蘇建を独断で斬らなかったこと、皇帝の権限を侵すような独自の人材登用を避けたこと、
李敢に襲撃されても事件を公にしなかったことなど、
権力との距離の取り方を示す記事が多く残されている。
甥の霍去病が急速に台頭すると軍事的な重心は次第に霍去病へ移ったが、
衛青自身が粛清されることはなく、大司馬大将軍のまま元封5年(前106年)に生涯を終えた。
武帝の外戚であることと、匈奴戦争で実績を残した将軍であることは、
どちらか一方だけを切り離して理解することはできない。
衛青は、その双方を背負いながら前漢の軍事・宮廷政治の中心に立った人物だった。

史書・参考文献
・『史記』巻111「衛将軍驃騎列伝」
・『史記』巻109「李将軍列伝」
・『漢書』巻55「衛青霍去病伝」
・『漢書』巻97上「外戚伝上」
・『資治通鑑』巻17~20
関連リンク
中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国

