衛子夫(えいしふ、生年不詳-紀元前91年)は、
前漢の武帝・劉徹の皇后であり、戾太子・劉拠の母である。
もとは武帝の姉である平陽公主の家で歌を担当していた女性だったが、
武帝に見出されて後宮へ入り、元朔元年(前128)に劉拠を産むと皇后に立てられた。
衛子夫の一族からは、匈奴との戦争で大きな功績を挙げた大将軍・衛青や、
その甥である驃騎将軍・霍去病が出た。
姉の君孺は公孫賀に嫁ぎ、姉の少児からは霍去病が生まれるなど、
武帝の治世中期には衛氏とその姻族から多くの高官・列侯が出ている。
一方、武帝の治世後半になると、衛子夫への寵愛は衰え、衛青や霍去病も相次いで死去した。
征和二年(前91)に巫蠱の禍が起こると、江充に追い詰められた皇太子・劉拠は兵を起こし、
衛子夫も太子側の行動を認めた。
劉拠が敗れると、武帝は衛子夫の皇后の璽綬を没収させ、衛子夫は自殺した。
その後、武帝は劉拠が反乱を企てていたのではなかったことを知り、江充一族を処刑した。
さらに劉拠の孫である宣帝が即位すると、衛子夫は改葬され、「思后」と諡されている。
平陽公主の家に仕えた衛子夫
衛子夫の出自
衛子夫の生年は分かっていない。
『漢書』巻97上「外戚伝上」は「孝武衛皇后、字子夫、生微也」と記しており、
その出自が低かったことを伝えている。
衛子夫の一族は河東郡平陽県に関係を持ち、「衛氏」と呼ばれていた。
母は衛媼と呼ばれる女性で、平陽侯家に仕えていた。
『漢書』巻55「衛青霍去病伝」によれば、
衛媼の長女は君孺、次女は少児、その次が子夫であり、ほかに衛長君、歩広らがいた。
衛青も衛媼の子だったが、父は平陽県の役人である鄭季で、衛子夫とは同母異父の姉弟だった。
長姉の君孺は後に公孫賀の妻となり、少児は平陽侯家に仕えていた霍仲孺との間に霍去病を産んだ。
したがって衛青は衛子夫の弟、霍去病は衛子夫の甥にあたる。
衛子夫自身は武帝の姉である平陽公主の家に仕え、「謳者」となっていた。
「謳者」は歌を歌うことを職務とした女性であり、『漢書』は衛子夫を良家の娘としてではなく、
平陽公主家に属して歌を担当していた女性として記している。
↓↓弟・衛青、甥・霍去病についての個別記事は、こちら


平陽公主の宴席で武帝に見出される
武帝は即位して数年が経過しても男子に恵まれていなかった。
このため平陽公主は良家の女性十数人を自邸に集め、武帝に気に入られる女性を探していた。
あるとき武帝が灞上で祓禊を行った帰途、平陽公主の邸宅へ立ち寄った。
公主は用意していた女性たちを武帝に見せたが、武帝は誰にも関心を示さなかった。
その後の酒宴で歌を担当する女性たちが進み出ると、武帝はその中にいた衛子夫を気に入った。
『漢書』によれば、武帝が着替える際に衛子夫が衣服の世話をし、その場で寵愛を受けたという。
武帝は席に戻ると喜び、平陽公主へ金千斤を与えた。
平陽公主は衛子夫を武帝に献じることを申し出て、衛子夫は宮中へ入ることになった。
衛子夫が車に乗る際、平陽公主はその背を撫で、身体を大切にして励むように言い、
もし高い身分になっても自分を忘れないようにと声をかけたと『漢書』は伝えている。
後宮入りと陳皇后の廃位
一年以上武帝に顧みられなかった
衛子夫は武帝に見出されて後宮へ入ったものの、すぐに継続して寵愛されたわけではなかった。
『漢書』によれば、入宮後一年余りにわたって武帝から召されることがなかった。
その後、武帝が宮女を整理し、不要な者を宮外へ出すことになった際、
衛子夫も武帝に会う機会を得た。
衛子夫は涙を流して宮中から出してほしいと願った。
武帝はこれを憐れみ、再び衛子夫を寵愛した。
その結果、衛子夫は懐妊し、武帝から重く扱われるようになった。
この時点で衛子夫はまだ皇后ではなく、後に「夫人」となっている。
陳皇后が衛子夫を敵視する
当時の皇后は、武帝の姑である館陶長公主・劉嫖の娘だった陳皇后である。
陳皇后は武帝が皇太子となる以前からその妻であり、武帝即位後に皇后となった。
しかし長期間にわたって皇子を産むことができなかった。
衛子夫が武帝の寵愛を受けて懐妊すると、陳皇后とその母である館陶長公主は衛氏を敵視した。
とりわけ危険な立場に置かれたのが衛青だった。
当時の衛青はまだ有力な将軍ではなく、平陽公主家に仕える身分だった。
『漢書』によれば、館陶長公主は衛子夫が懐妊したことを知ると衛青を捕らえ、殺そうとした。
衛青の友人だった公孫敖が壮士を率いて救出したため、衛青は助かった。
この事件を知った武帝は衛青を建章監・侍中に取り立て、衛子夫を夫人とした。
衛氏の兄弟姉妹にも多額の賞賜が与えられ、衛氏一族は武帝の宮廷へ進出するようになった。
↓↓武帝の姑・館陶長公主についての個別記事は、こちら

陳皇后が廃される
元光五年(前130)、陳皇后は巫術を用いて呪詛を行ったとして罪に問われた。
『漢書』によれば、楚服という女性らが皇后のために巫蠱や祭祀を行ったことが問題となり、
関係者三百人余りが処刑された。陳皇后自身も皇后の璽綬を返上させられ、長門宮へ退けられた。
ただし、陳皇后が廃された直後に衛子夫が皇后となったわけではない。
衛子夫が皇后に立てられるのは、その後に男子を産んでからである。
劉拠を産み皇后となる
三女一男を産む
『史記』巻49「外戚世家」および『漢書』「外戚伝」によれば、
衛子夫は武帝との間に三女一男を産んだ。
三人の娘について、同時代の本文では全員の封号が明確に示されていない。
後世の『史記索隠』は諸邑公主・石邑公主・衛長公主を衛子夫の三女としている。
一方、『漢書』顔師古注には諸邑公主と陽石公主を衛皇后の娘とする記述があり、
史料間で整理に違いがある。
そのため、衛子夫の三女をすべて確定的に特定する場合には注意が必要である。
ただし、衛長公主が衛子夫の娘であることは他の史料からも確認できる。
衛子夫が最後に産んだ男子が劉拠である。
元朔元年に劉拠を出産する
元朔元年(前128)、衛子夫は劉拠を産んだ。
武帝にとって初めての皇子だった。
武帝はこのとき二十九歳であり、長く男子に恵まれていなかったことから、劉拠の誕生を喜んだ。
劉拠の誕生を受けて、衛子夫は皇后に立てられた。
衛子夫が武帝に見出されたのは建元二年(前139)頃とされるため、
入宮から皇后冊立までには約十年が経過していたことになる。
劉拠が皇太子となる
衛子夫が皇后となって七年後、元狩元年(前122)、劉拠は皇太子に立てられた。
『漢書』によれば、このとき劉拠は七歳だった。
武帝は二十九歳になってようやく得た男子であったため、
その誕生を非常に喜び、禖神を祀らせ、東方朔や枚皋に祝文を作らせた。
成長した劉拠には『公羊春秋』や『穀梁春秋』を学ばせ、
成人後には博望苑を設け、賓客と自由に交流できる環境を与えている。
衛子夫は皇后、その子劉拠は皇太子となり、
母子は前漢皇室の正統な皇后・皇太子として長く地位を保つことになった。
衛青・霍去病と衛氏一族
衛青が匈奴との戦争で功績を挙げる
衛子夫が武帝の寵愛を受けたことを契機として、弟の衛青も宮廷へ登用された。
しかし衛青が後に大将軍へ昇進したのは、皇后の弟だったという理由だけではない。
元光六年(前129)、衛青は車騎将軍として匈奴討伐に出征した。
この遠征では四人の将軍がそれぞれ一万騎を率いたが、衛青だけが龍城まで進んで戦果を挙げた。
その後も衛青は匈奴との戦争で戦功を重ね、元朔五年(前124)には大将軍となった。
衛青の三人の息子も幼いうちに列侯へ封じられた。
霍去病も列侯となる
衛子夫の姉・少児の子である霍去病も、武帝のもとで将軍となった。
霍去病は若くして匈奴との戦争に参加し、元朔六年(前123)の戦功によって冠軍侯に封じられ、
その後は驃騎将軍、大司馬へ昇進した。
衛青と霍去病はいずれも軍功によって列侯となっており、
『史記』は衛氏の親族のうち軍功によって侯となった者が五人に及んだことを記している。
衛子夫の長姉・君孺の夫である公孫賀も後に丞相となり、
衛氏とその姻族は武帝朝の政治・軍事に広く関係するようになった。
「生男無喜、生女無怒」の俗謡
衛氏一族が隆盛すると、その状況を表す歌が世間で歌われた。
『史記』「外戚世家」には、
「男児が生まれても喜ぶな、女児が生まれても怒るな、
衛子夫が天下に勢力を持ったのを見なかったか」という趣旨の俗謡が記されている。
これは衛子夫自身が皇后となっただけでなく、弟の衛青が大将軍・長平侯となり、
その子らも列侯となった衛氏一族の隆盛を背景としたものである。
現在の記事ではこれを
「衛子夫個人の人気というより、衛氏一族が国家権力の中心にあったことを象徴している」
としているが、この点は大筋で問題ない。
ただし「衛子夫が天下を握った」という歌詞を、
そのまま衛子夫本人が政治権力を行使した証拠とみることはできない。
皇后として三十八年を過ごす武帝の寵愛は他の女性へ移る
衛子夫は長期間にわたって皇后の地位を保ったが、
武帝の寵愛が最後まで衛子夫だけに向けられていたわけではない。
『漢書』は「皇后立七年而男立為太子。後色衰」と記している。
衛子夫が皇后となって七年後に劉拠が皇太子となり、
その後、容色が衰えると武帝は別の女性を寵愛するようになった。
王夫人、李夫人、尹婕妤、鉤弋夫人などがその代表である。
王夫人は劉閎、李夫人は劉髆、鉤弋夫人は後の昭帝・劉弗陵を産んだ。
しかし武帝の寵愛が他の女性へ移った後も、衛子夫が直ちに廃后されたわけではない。
衛子夫は征和二年(前91)まで皇后の地位を維持しており、
『漢書』は在位期間を三十八年としている。
↓↓武帝に愛され、若くして亡くなったた・李夫人についての個別記事は、こちら

衛青・霍去病の死と衛氏一族
霍去病は元狩六年(前117)に死去した。衛青も元封五年(前106)に死去した。
衛子夫にとって、甥の霍去病と弟の衛青はいずれも自分より先に世を去ったことになる。
ただし、衛青・霍去病の死をもって衛氏一族がただちに政治的影響力を失ったわけではない。
衛青の長男・衛伉は長平侯を継ぎ、
衛子夫の姉・君孺の夫である公孫賀は太僕を経て丞相となっている。
衛氏とその姻族に大きな打撃を与えたのは、武帝治世末期に相次いだ巫蠱事件だった。
巫蠱事件と衛氏一族への打撃
公孫賀父子が獄死する
征和年間、武帝の周辺では巫蠱、すなわち呪術によって皇帝を害そうとしたという疑いが相次いだ。
征和二年(前91)に先立って、
丞相の公孫賀とその子・公孫敬声が巫蠱に関係したとして逮捕され、獄中で死亡した。
公孫賀は衛子夫の姉・君孺の夫であり、公孫敬声は衛子夫の甥にあたる。
さらに陽石公主、諸邑公主、衛青の長男で長平侯を継いでいた衛伉らも巫蠱事件によって処刑された。
この段階で衛子夫の近親者と姻族には大きな打撃が加えられていた。
江充が皇太子・劉拠を追及する
武帝は晩年になると巫蠱への疑念を強め、江充にその取り調べを命じた。
江充は以前から皇太子・劉拠および衛氏と対立しており、
武帝の死後に劉拠が即位すれば自分が処刑されることを恐れていたと『漢書』は記している。
江充は巫者を伴って宮中を掘り返し、呪詛に使われた木偶を探した。
捜索はやがて皇后宮、さらに皇太子宮へ及び、床を置く場所もなくなるほど地面が掘られた。
江充は皇太子宮から多数の木偶と不穏な内容を記した帛書が見つかったとして、
武帝へ報告しようとした。
このとき武帝は甘泉宮に滞在しており、皇后や皇太子側からの問い合わせにも返答が届かなかった。
劉拠は、自分が直接武帝に弁明することが困難な状況に置かれた。
劉拠の挙兵と衛子夫
劉拠が江充を殺害する
劉拠は少傅・石徳に対応を相談した。
石徳は、すでに丞相父子や公主、衛氏一族が巫蠱によって処刑されていることを挙げ、
江充らを逮捕して取り調べるよう勧めた。
劉拠は当初、勝手に使者を殺すことをためらい、武帝のもとへ行って謝罪することも考えた。
しかし江充の追及が迫ったため、最終的に石徳の策を採用した。
征和二年(前91)七月、劉拠は使者を偽装して江充らを逮捕し、江充を斬った。
衛子夫に事情を知らせる
劉拠は舎人の無且に節を持たせ、夜に未央宮の長秋門へ入らせた。
無且は長御の倚華を通じて、事件の経緯を衛子夫へ報告した。
その後、劉拠は中厩の車を出し、射士を乗せ、武庫から武器を取り出し、長楽宮の衛兵を動員した。
この行動から、衛子夫が劉拠の江充討伐と兵力動員を認めたことが分かる。
少なくとも巫蠱の禍の最終局面では、衛子夫は皇太子の行動と無関係ではなかった。
ただし、衛子夫自身が武帝に対する反乱を計画したことを示す史料はない。
劉拠の行動も、江充による追及から逃れるために始まったものであり、
後に武帝自身も劉拠に反逆の意図がなかったことを知ることになる。
劉拠軍が敗れる
劉拠は江充が反乱を起こしたと百官に告げて兵を集めた。
しかし武帝のもとへ逃れた者から事件を知らされた武帝は、劉拠が兵を起こしたと判断した。
丞相・劉屈氂らが劉拠の軍と戦い、長安では数日間にわたる戦闘となった。
「皇太子が反乱した」という情報が広がったため、劉拠に従う者は増えず、太子軍は敗北した。
劉拠は長安を脱出した。
衛子夫の自殺
皇后の璽綬を没収される
劉拠の敗北後、武帝は衛子夫に対する処分を行った。
『漢書』「外戚伝」によれば、武帝は宗正・劉長楽と執金吾・劉敢に策書を持たせ、
衛子夫から皇后の璽綬を没収させた。
衛子夫はその後、自殺した。
皇后として三十八年を過ごした衛子夫の地位は、巫蠱の禍によって失われた。
桐柏に葬られる
衛子夫の遺体は、黄門の蘇文と姚定漢によって小さな棺に納められ、長安城南の桐柏に埋葬された。
皇后としての正式な葬礼ではなかった。
『漢書』はこの後に「衛氏悉滅」と記しており、
巫蠱の禍によって衛氏一族が大きな打撃を受けたことを伝えている。
一方、劉拠は長安を脱出して湖県の泉鳩里に身を隠したが、
所在が発覚して官吏に包囲されると自殺した。劉拠に同行していた皇孫二人も殺害された。
武帝が劉拠の冤罪を知る
劉拠の死後、巫蠱事件について疑わしい点が次第に明らかになった。
壺関三老の令狐茂は武帝に上書し、劉拠は父である武帝に反逆しようとしたのではなく、
江充に追い詰められて父の兵を借りて自らを救おうとしたにすぎないと訴えた。
さらに田千秋も劉拠の冤罪を訴えた。
武帝はやがて劉拠に反逆の意図がなかったことを知り、
江充一族を誅殺し、劉拠を攻撃した者たちにも処罰を加えた。
また劉拠を悼み、「思子宮」を建て、湖県には「帰来望思之台」を築いた。
ただし、武帝が衛子夫を生前に復位させることはなく、
衛子夫の正式な名誉回復は宣帝の時代を待つことになる。
宣帝による改葬と「思后」の諡
劉拠の一族のうち、生き残ったのが孫の劉病已である。
劉病已は後に劉詢と改名し、元平元年(前74)に皇帝へ迎えられた。
前漢の宣帝である。衛子夫から見ると曾孫にあたる。
宣帝は即位すると、衛子夫を改葬し、「思后」という諡を贈った。
さらに墓を守るため園邑三百家を置き、長・丞を設けて墓園を管理させた。
衛子夫は武帝と合葬されたわけではないが、宣帝によって皇后としての祭祀と墓園が整備された。
衛子夫の人物像
衛子夫について、後世には慎ましく穏やかな皇后、
あるいは武帝の後宮を長く支えた賢后として描かれることがある。
しかし『史記』『漢書』に残る衛子夫本人についての記録は、それほど多くない。
『漢書』「外戚伝」が詳しく記しているのは、平陽公主家の謳者だったこと、
武帝に見出されて入宮したこと、一度は顧みられなくなったこと、劉拠を産んで皇后となったこと、
三十八年間皇后であったこと、そして巫蠱の禍で璽綬を没収されて自殺したことである。
「嫉妬しなかった」「後宮をよく治めた」「争わないことで皇后の地位を守った」といった人物評は、
『漢書』衛皇后伝の記述ではない。
一方で、衛子夫が武帝の寵愛を失った後も長期間皇后の地位を維持したことは確認できる。
また巫蠱の禍では、江充に追い詰められた劉拠から報告を受け、その後の兵力動員を認めている。
史料に現れる衛子夫は、単純に政治と距離を置いた女性とも言い切れない。
衛子夫の生涯を考えるうえでは、本人の性格を後世の理想的な皇后像に当てはめるより、
皇后となった経緯、衛氏一族の台頭、皇太子劉拠との関係、
そして武帝晩年の巫蠱政治の中でどのような立場に置かれたのかを見る方が、史料に即している。
まとめ
衛子夫は平陽公主家で歌を担当していた女性で、
武帝が公主の邸宅を訪れた際に見出され、後宮へ入った。
入宮後は一年余り武帝に顧みられなかったが、宮女を宮外へ出す際に出宮を願い、
そのとき再び武帝の寵愛を受けて懐妊した。
元朔元年(前128)に武帝最初の皇子・劉拠を産むと皇后となり、
元狩元年(前122)には劉拠が皇太子に立てられた。
衛子夫は三女一男を産み、皇后の地位に三十八年間あった。
衛子夫の入宮を契機として弟の衛青も武帝に登用されたが、
衛青は匈奴との戦争で戦功を重ね、大将軍・長平侯となった。
姉・少児の子である霍去病も匈奴との戦争で功績を挙げて驃騎将軍となり、
衛氏とその姻族からは多くの高官や列侯が出た。
武帝の治世後半には衛子夫への寵愛が衰え、
王夫人、李夫人、尹婕妤、鉤弋夫人らが寵愛を受けるようになった。
それでも衛子夫は皇后の地位を維持したが、征和年間に巫蠱事件が拡大すると、
公孫賀父子、諸邑公主ら、衛伉など衛氏とその姻族にも処刑者が出た。
征和二年(前91)、江充による捜索が皇太子宮に及ぶと、劉拠は江充を逮捕して殺害した。
劉拠は衛子夫に事情を知らせたうえで兵を動員したが、武帝側との戦闘に敗れて逃亡した。
武帝は衛子夫から皇后の璽綬を没収させ、衛子夫は自殺した。
その遺体は長安城南の桐柏に小さな棺で埋葬された。劉拠も逃亡先で自殺した。
その後、武帝は劉拠に反逆の意図がなかったことを知り、江充一族を処刑して劉拠を悼んだ。
さらに劉拠の孫で衛子夫の曾孫にあたる宣帝が即位すると、衛子夫は改葬され、「思后」と諡された。
衛子夫は低い身分から皇后となり、
前漢武帝期の皇位継承と衛氏一族の形成に深く関係した人物である。
その最期は、武帝晩年に拡大した巫蠱の禍と、
皇帝と皇太子の間の情報経路が断たれたことで生じた政治的混乱の中に位置づける必要がある。

史書・参考文献
・『史記』巻49「外戚世家」
・『史記』巻111「衛将軍驃騎列伝」
・『漢書』巻55「衛青霍去病伝」
・『漢書』巻63「武五子伝・戾太子劉拠」
・『漢書』巻97上「外戚伝上・孝武衛皇后」
・『資治通鑑』巻17~22
関連リンク
中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国

