【魏】曹叡|軍略に秀でながら奢侈と後継問題を残した魏の明帝

曹叡(魏・皇帝) 031.皇帝

曹叡は魏の初代皇帝曹丕の子で、曹操の孫にあたる。
字は元仲。曹丕の死後に魏の第二代皇帝となり、諡号を明皇帝、廟号を烈祖という。

曹操・曹丕・曹叡と三代続いた曹魏政権のうち、曹叡の治世は十三年ほどにすぎない。
しかし、その間には諸葛亮による相次ぐ北伐、孫権の合肥侵攻、鮮卑への対応、
公孫淵の反乱などが続き、魏は建国後もっとも激しい軍事的圧力にさらされた。

曹叡はこれらに対して、曹真・張郃・司馬懿・満寵らを使い分け、
自ら長安や東方へ赴くこともあった。
敵の意図や戦場の条件を読む能力については正史でも高く評価されており、
諸葛亮や孫権を相手とする判断には的確なものが多い。

政治面でも、刑罰や裁判に強い関心を持ち、官僚の考課制度や儒学・礼制の整備を進めた。
臣下の厳しい諫言を受けても処刑することは少なく、
楊阜、高堂隆、孫礼、盧毓らの直言を容認している。

その一方、治世後半には洛陽で大規模な宮殿造営を行い、
後宮を拡張し、各地から資材や女性を集めた。
民力の消耗を訴える諫言が相次いでも工事を完全には中止せず、
毛皇后を死に追いやった事件など、苛烈な一面も記録されている。

さらに実子を次々に失ったため、幼い曹芳を後継者としなければならなかった。
臨終直前には補政を任せる人物を何度も変更し、最終的に曹爽と司馬懿へ曹芳を託す。
この人事は曹叡の死から十年後、高平陵の変によって曹爽一族が滅ぼされ、
司馬氏が魏の実権を握る結果につながった。

曹叡は、在世中には強い皇帝権力を維持しながら、
その死後に曹魏政権が急速に弱体化していくという、魏の歴史の転換点に位置する皇帝である。

  1. 曹丕と甄氏の子として生まれる
  2. 曹操から特に可愛がられた少年時代
  3. 生母甄氏の死と郭皇后
  4. 子鹿を射ることを拒んだ逸話
  5. 群臣にも人物を知られていなかった新皇帝
  6. 生母甄氏を文昭皇后として追尊する
  7. 孫権の江夏攻撃を読み切る
  8. 皇子の早世と毛皇后
  9. 孟達の反乱と司馬懿
  10. 諸葛亮の第一次北伐
  11. 「曹叡が死んだ」という流言
  12. 石亭の敗戦と蔣済の警告
  13. 陳倉を守った郝昭
  14. 蜀への積極攻勢を止めた孫資
  15. 曹真の蜀征伐を撤回する
  16. 五丈原で司馬懿の出撃を抑える
  17. 孫権の合肥新城攻撃
  18. 献帝の死と漢王朝への礼
  19. 重臣・陳矯への信頼と疑念
    1. 尚書台へ入ろうとして陳矯に止められる
    2. 劉曄の讒言を信じ、陳矯を疑う
    3. 「司馬懿は社稷の臣か」
  20. 楊阜の諫言
    1. 服装を咎められる
    2. 狩猟への諫言
  21. 宗室を遠ざけすぎているとの批判
  22. 刑罰と裁判を重視する
  23. 儒学を振興し、経学の継承者を育てる
  24. 「名声は地面に描いた餅」
  25. 「自分の知らない人物を挙げよ」
  26. 秦朗を「阿蘇」と呼ぶ
  27. 高堂隆への怒りを盧毓に諫められる
  28. 劉曄を試す
  29. 鮮卑への対応
  30. 曹叡の奢侈と土木事業
    1. 洛陽宮の大造営
    2. 漢の銅人や承露盤を洛陽へ移す
    3. 芳林園と水上の仕掛け
  31. 宮廷整備
    1. 後宮の拡張と「女尚書」
    2. 既婚女性まで徴発したとの記録
    3. 楊阜が後宮の人数を調べる
  32. 孫礼が独断で工事を止める
  33. 高堂隆の諫言
    1. 崇華殿の火災と高堂隆
    2. 彗星を見ても造営を止めない
    3. 「高堂隆の上奏を見ると朕を恐れさせる」
  34. 封禅と礼制
  35. 愛娘曹淑の死
  36. 毛皇后に死を賜る
  37. 成人した実子を残せなかった
  38. 公孫淵の反乱
  39. 卑弥呼を「親魏倭王」とする
  40. 曹叡の人物像
    1. 容貌、口吃、寡黙
    2. 驚異的な記憶力
    3. 諫言を聞くが、必ずしも従わない皇帝
  41. 重病と後継体制
  42. 劉放・孫資が人事を覆す
  43. 曹叡の手を取って詔を書かせる
  44. 司馬懿を呼び戻す
  45. 「あなたを待つために死をこらえていた」
  46. 三十代半ばで死去
  47. 幼帝曹芳と曹爽・司馬懿
  48. 高堂隆の警告
  49. 郭皇后のその後
  50. 人物像・評価
    1. 『魏書』が伝える曹叡の人物像
    2. 孫盛の評価
    3. 陳寿の評価
  51. まとめ
  52. 史書・参考文献

曹丕と甄氏の子として生まれる

曹叡は曹丕甄氏の間に生まれた。

母の甄氏は中山郡無極県の出身で、もとは袁紹の次男袁熙の妻だった。
建安九年(204)、曹操が袁氏の本拠であった鄴を攻略すると、
曹丕甄氏を妻とし、その間に曹叡と東郷公主が生まれている。

ただし、曹叡の生年には史料上の問題がある。

『三国志』明帝紀は、景初三年(239)に曹叡が死去した際、「年三十六」と記している。
これに従えば建安九年(204)ごろの出生となるが、同じ『三国志』によれば、
曹丕甄氏を妻としたのは建安九年八月に鄴が陥落して以後であるため、年代が合わない。
裴松之もこの矛盾に気づいており、注の中で明帝紀の享年には誤りがあるはずだと指摘している。

この年代上の問題から、後世には曹叡が袁熙の子だったのではないかという説まで生まれた。
しかし、『三国志』をはじめ魏晋期の史料は曹叡を一貫して曹丕の子として扱っており、
袁熙の実子であったことを示す同時代史料はない。

したがって、曹叡の生年については正確な年を確定できないものの、
曹丕甄氏の子として育てられたこと自体は史料上疑う必要がない。

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曹操から特に可愛がられた少年時代

曹叡は幼少のころから祖父曹操に愛された。
裴松之が引用する『魏書』によれば、
曹叡は数歳ですでに聡明さを示し、曹操は常に自分の左右に置いていたという。
曹操は孫である曹叡に対し、
「我が基業は汝に至って三世となる」という趣旨の言葉を語ったとも伝えられる。

曹操が自ら築いた政権が曹丕を経て曹叡へ継承されることを意識していたことになるが、
これは曹叡が幼少のころから曹氏の次世代を代表する存在と見られていたことを示す逸話でもある。

曹叡は学問を好み、博識で、とりわけ法律や刑罰について関心を持ったとされる。
これは単なる幼少期の人物評にとどまらず、
皇帝となった後に裁判や刑罰制度へ強い関心を示したこととも一致している。

延康元年(220)、曹叡は十五歳で武徳侯に封じられたとされ、
曹丕が魏皇帝となった後の黄初二年(221)には斉公、翌黄初三年には平原王となった。

しかし、曹丕の長子であり有力な後継者でありながら、曹叡は長期間皇太子に立てられなかった。
その背景には、生母甄氏の死があった。

生母甄氏の死と郭皇后

曹丕が皇帝となった後、甄氏は次第に寵愛を失い、
黄初二年(221)、甄氏曹丕の命によって死を賜った。
『三国志』明帝紀は、この事件によって曹叡も父から十分な寵愛を受けられず、
長く皇太子に立てられなかったとしている。

曹丕皇后となった郭氏には実子がなかったため、曹叡は郭皇后のもとで養育された。
裴松之注所引『魏略』によれば、生母が不本意な死を遂げたことから、
曹叡は当初、郭氏を快く思っていなかったという。

しかし曹叡はやがて態度を改め、朝夕に郭氏のもとを訪れ、その起居を気遣うようになった。
郭氏も実子がいなかったことから曹叡を慈しんだとされる。

曹丕は曹叡の態度を問題視し、一時は別の皇子である京兆王曹礼を後継者とすることも考えたという。曹叡が最終的に皇太子となるまで、後継者の地位は必ずしも安定していなかった。

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子鹿を射ることを拒んだ逸話

曹叡の皇太子冊立に関係するものとして、『魏末伝』には狩猟の逸話が残されている。

曹丕が曹叡を伴って狩猟に出た際、母鹿と子鹿が現れた。
曹丕は母鹿を射殺し、曹叡に子鹿を射るよう命じた。

曹叡は弓を取らず、涙を流しながら、
すでに父帝が母を殺した以上、その子まで殺すことは忍びないという趣旨を述べた。

曹丕はこれを聞いて弓を置き、曹叡を高く評価したという。

この逸話をそのまま史実として受け取るには慎重さが必要だが、
魏晋期に曹叡が仁愛や感受性を備えた少年として語られていたことは分かる。

黄初七年(226)五月、曹丕が病に倒れると、曹叡はようやく皇太子に立てられた。
曹丕
曹真・曹休・陳羣・司馬懿らに後事を託し、間もなく死去し、
曹叡は魏の第二代皇帝として即位した。


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群臣にも人物を知られていなかった新皇帝

即位した曹叡はまだ若かった。
しかも皇太子時代には朝廷の臣下と広く交際しておらず、読書を中心とした生活を送っていたため、
多くの朝臣は曹叡がどの程度の人物なのか把握していなかったという。

そこで侍中劉曄が曹叡と長時間にわたって話をした。
裴松之注所引『世語』では、退出した劉曄が曹叡について、
秦始皇や漢武帝に近い器量を持ち、才能がわずかに及ばない程度だと評したとされる。

即位直後、服喪期間中にもかかわらず宴会を行う案が出たこともあった。
これに反対したのが、曹叡が平原王だったころ傅を務めた高堂隆だった。
父帝を失った直後に宴楽を行うことは礼に反すると諫め、曹叡はその意見を受け入れた。

高堂隆は以後、宮殿造営や礼制、宗室政策などをめぐって曹叡に繰り返し直言することになる。

生母甄氏を文昭皇后として追尊する

皇帝となった曹叡は、生母甄氏を文昭皇后と追諡した。
その後も甄氏の陵墓を整備し、廟を立てるなど追尊を続けている。
甄氏を死に追いやった曹丕の判断を公然と否定したわけではないが、
曹叡が即位後に母の名誉回復を進めたことは明らかだった。

一方、甄氏の死後に自分を養育した郭氏についても皇太后として尊重した。

生母への追慕と、養母となった郭氏への礼遇を両立させながら、
曹叡は皇帝としての地位を固めていった。

孫権の江夏攻撃を読み切る

曹叡の軍事判断力は即位した年から現れている。

黄初七年(226)、呉の孫権が江夏を攻撃した。
朝廷では援軍を送るべきだという意見が出たが、
曹叡は、孫権は水戦を得意とする一方、
陸上で堅城を長期間攻め続けることには向いていないと判断した。

江夏を守る文聘が堅守していれば、孫権は長く留まれないと見て、
大規模な救援軍を急派する必要はないと考えた。

実際、孫権は城を攻略できず撤退した。

まだ即位直後でありながら、曹叡は敵将の特性と戦場条件から情勢を判断していた。

皇子の早世と毛皇后

曹叡は即位後、皇子曹冏を清河王に封じたが、曹冏はほどなく死去した。
曹叡にはこの後も男子が生まれたものの、いずれも成人する前に亡くなっている。

太和元年(227)には毛氏を皇后に立てた。
毛氏は曹叡が平原王だったころから仕えていた女性で、当初は強い寵愛を受けていた。
しかし、曹叡には成人した実子が残らず、皇后との関係も後に大きく変化することになる。

孟達の反乱と司馬懿

太和元年から二年にかけ、魏の新城太守孟達が蜀漢と通じて反乱を企てた。

孟達はもともと劉備に仕えていたが、後に魏へ降伏した人物である。
劉曄は曹丕の時代から、孟達について才能はあるが忠節に欠け、
いずれ問題を起こす可能性があると見ていた。

司馬懿は孟達の動きを知ると、朝廷から正式な命令が届くのを待たず、急速に軍を進めた。
孟達は司馬懿の到着まで一か月ほどかかると考えていたとされるが、
司馬懿は短期間で新城へ到達し、反乱を鎮圧した。

この事件は司馬懿の軍事能力を示すと同時に、
曹叡治世で司馬懿が軍事の中枢へ進んでいく一段階となった。

諸葛亮の第一次北伐

太和二年(228)、蜀漢の丞相諸葛亮が大規模な北伐を開始した。

諸葛亮は祁山方面へ進み、南安・天水・安定の三郡が動揺した。
魏の西方支配が一時的に大きく揺らぎ、朝廷にも危機感が広がった。

しかし曹叡は、諸葛亮が山岳地帯から平地へ出てきたことを、むしろ撃破の機会と考えた。
魏には関中で戦える兵力があり、諸葛亮が険阻な地域に籠もっている間より、
外へ出たところで正面から迎撃する方が有利だと判断したのである。

曹真らに西方の防衛を任せる一方、曹叡は張郃を諸葛亮軍の迎撃に向かわせた。
張郃は街亭で馬謖を破り、蜀軍の進路を遮断したため、
諸葛亮は祁山方面での作戦を継続できなくなり、軍を蜀へ引き揚げた。
曹叡自身もこの間に長安へ赴き、関中の軍政を直接統轄して西方の動揺を抑えている。

北伐を退けた後には蜀へ向けた布告を出し、
劉備政権の正統性や諸葛亮の軍事行動を批判するとともに、
魏こそが漢から天下を受け継いだ王朝であることを主張した。

「曹叡が死んだ」という流言

曹叡が長安へ赴いていた時期、洛陽では皇帝が死去したという流言が広がった。
さらに曹植が擁立されたという噂まで流れ、卞太皇太后らを不安にさせたという。

曹叡が無事に帰還すると、卞太皇太后は流言の発信者を調査しようとした。
しかし曹叡は、天下中で語られていたような噂を今さら追及して誰を処罰するのかという趣旨を述べ、
調査を行わせなかった。

曹叡には苛烈な処罰を行った記録もあるが、
このように政治的な流言を問題にせず済ませた例も存在する。

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石亭の敗戦と蔣済の警告

太和二年(228)、東方では大司馬曹休が呉への進攻を開始した。

呉の周魴が偽って魏への帰順を申し出たため、曹休はこれを信じて敵地へ深く進んだが、
蔣済は早い段階から深入りの危険を懸念していた。

さらに呉軍が別方面へ動きを見せると、蔣済はこれを単純な進攻ではなく、
曹休を攻撃するための陽動である可能性が高いと判断し、救援を急ぐよう進言した。

実際、曹休は石亭で陸遜らの攻撃を受けて大敗しており、
諸葛亮や孫権への対応で的確な判断を重ねた曹叡の治世にも、こうした大きな軍事的失敗が存在した。

陳倉を守った郝昭

同年末、諸葛亮は再び北上し、陳倉を攻撃した。
陳倉を守っていた郝昭の兵力は多くなかったが、
城壁や攻城兵器を利用して粘り強く抵抗し、蜀軍のさまざまな攻撃を退けた。
諸葛亮は短期間で城を落とせず、兵糧の問題から撤退した。

曹叡は郝昭の防衛を高く評価した。
郝昭を引見し、その能力があれば西方を憂える必要はないという趣旨の言葉を述べ、
さらに重用しようとしたが、郝昭は間もなく病死している。

蜀への積極攻勢を止めた孫資

蜀との戦争で魏が常に守勢に徹していたわけではなく、
諸葛亮が漢中に駐屯していた時期には、魏から大軍を送り込んで蜀を攻める構想も持ち上がった。

曹叡も積極的な攻勢を検討したが、
中書令孫資は、漢中周辺は地勢が険しく、
大軍を進めれば兵糧や物資の輸送だけでも大きな負担となるうえ、
西方へ兵力を集中させれば東方の孫権に備える兵力が手薄になるとして反対した。

孫資はさらに、かつて曹操が漢中へ進出した際にも、
その険阻な地勢と補給の困難に苦しんだことを引き合いに出し、蜀へ深入りするより、
諸葛亮が攻めてきた際に要地を固守して遠征軍の兵糧を消耗させる方が有利だと論じた。

曹叡はこの意見を採用し、蜀への大規模な出兵を見送った。

呉で彭綺が反乱を起こした際にも、魏ではその混乱に乗じて孫権を攻撃する案が浮上したが、
孫資は反乱の規模から見て孫権の支配を揺るがすほどのものではなく、
これを好機とみなして軍を動かすべきではないと判断した。

曹叡はこの時も孫資の意見に従って大規模な出兵を行わず、
実際に彭綺の反乱はほどなく鎮圧されている。

曹真の蜀征伐を撤回する

太和四年(230)、魏はそれまでの守勢から転じ、
大司馬曹真らに複数の経路から漢中へ進軍させ、大規模な蜀征伐を開始した。


しかし折からの長雨によって道路が寸断され、
軍の前進だけでなく兵糧や物資の輸送も困難となり、
作戦を継続すれば多大な損耗を招く状況となった。

これに対して楊阜は、
軍事には進むべき時に進むだけでなく、困難と判断した時には退くことも必要であり、
悪条件のなかで遠征を続ければ兵士を疲弊させ、国家の負担を増すだけだとして撤兵を求めた。

曹叡は楊阜の進言を受け入れて蜀征伐の中止を決断し、曹真らに軍を引き揚げさせた。

五丈原で司馬懿の出撃を抑える

青龍二年(234)、諸葛亮は第五次北伐を開始し、
渭水南岸の五丈原に布陣して司馬懿率いる魏軍と対峙した。


蜀軍は長期滞陣を見込み、現地で屯田を行って兵糧を確保しながら、魏軍を決戦へ引き出そうとした。
これに対して魏軍は守備を固めたが、対陣が長引くにつれて軍中では出撃を求める声が強まり、
司馬懿も曹叡に戦闘の許可を求めた。

曹叡はこれを認めず、遠征してきた蜀軍と無理に決戦する必要はないとして、司馬懿に堅守を命じた
さらに司馬懿が再び出撃しようとすると、衛尉辛毗に皇帝の節を持たせて軍中へ派遣し、
命令に反して戦端を開かないよう直接抑えさせている。

辛毗が節を持って陣門に立つと、諸将が出撃を求めても司馬懿は軍を動かさなかった。
諸葛亮は魏軍を誘い出すことができないまま五丈原に留まり続け、
同年八月、陣中で病死したため、蜀軍は撤退した。

孫権の合肥新城攻撃

同じ青龍二年、孫権も大軍を率いて合肥新城を攻撃した。

魏側では、城の位置が水辺から離れており救援しにくいため、一時的に放棄する案も論じられた。
しかし曹叡はこれを認めなかった。
合肥・襄陽・祁山は魏と呉・蜀が必ず争う要地であり、
一度放棄すれば敵に心理的な優位を与えると判断したのである。

曹叡は自ら東方へ向かった。
孫権が大軍を率いていても、自分が到着するころには撤退しているだろうと予測したとされる。

実際、孫権は曹叡が到着する前に退却した。
群臣の中には、そのまま長安へ向かって諸葛亮にも備えるべきだという意見があったが、
曹叡は西方については司馬懿に任せればよいと判断した。

魏の東西で呉と蜀が同時に軍事行動を行ったにもかかわらず、
曹叡は両戦線で大きな崩壊を起こさなかった。

献帝の死と漢王朝への礼

青龍二年、後漢最後の皇帝であった山陽公劉協が死去した。
曹叡は素服を着て哀悼し、群臣を率いて哭礼を行わせた。
劉協には「孝献皇帝」の諡号が贈られ、漢の天子としての礼をもって葬られた。

魏は漢から禅譲を受けて成立した王朝であり、献帝を粗略に扱うことは自らの正統性にも関わる。
曹叡による葬礼は、故人への礼であると同時に、
魏が漢の正統な後継王朝であることを示す政治的意味を持っていた。

重臣・陳矯への信頼と疑念

尚書台へ入ろうとして陳矯に止められる

曹叡は政務への関心が強く、自ら細部を確認しようとすることがあった。

ある時、曹叡は突然尚書台へ赴き、尚書が処理する文書を自分で見ようとしたところ、
尚書令陳矯はこれを止めた。

尚書台の文書処理は臣下である自分の職務であり、
もし自分が任務を果たせないのであれば罷免すればよい。
皇帝自身が入り込んで処理するべきではないというのである。

曹叡は恥じて引き返したという。

皇帝が行政の細部まで直接掌握しようとしたことと、
それを臣下から制止されれば受け入れたことの双方が見える逸話である。

劉曄の讒言を信じ、陳矯を疑う

陳矯をめぐっては、裴松之注所引『世語』に別の逸話もある。

劉曄が曹叡に対して、陳矯が専権していると訴えたという。
曹叡は陳矯の動きを密かに調べたが、結局、疑うべき事実は見つからなかった。

そこで曹叡は陳矯本人に事情を説明し、
劉曄の言葉によって疑ったものの、現在では疑念が晴れたという趣旨を告げた。
さらに金を与え、自分が陳矯を信頼していることを家族にも知らせるようにしたという。

曹叡には臣下を疑う面があったが、
疑いが誤りと分かれば、本人に説明して関係を修復することもあった。

「司馬懿は社稷の臣か」

陳矯との会話には、後世から見るときわめて意味深いものがある。

曹叡が司馬懿について、「司馬公は忠正である。社稷の臣と言えるだろうか」という趣旨を尋ねた。
陳矯は、「朝廷の望ではありますが、社稷の臣であるかどうかは分かりません」と答えたという。

司馬懿はこの時点では魏を支える重臣であり、蜀や遼東への軍事行動でも重要な役割を果たしていた。しかし曹叡死後、司馬氏が魏の実権を握ることになるため、
この問答は後世から見れば象徴的なものとなった。

楊阜の諫言

服装を咎められる

曹叡は楊阜の直言を重んじていたが、
その厳格さを示す逸話の一つに、皇帝の服装をめぐる問答がある。

ある時、曹叡が礼制に定められたものではない服装で楊阜に会うと、
楊阜はそれが何という服なのかと問いただした。
礼制に根拠を持たない装いであったため、曹叡は答えることができず、黙り込んだという。

これ以後、曹叡は楊阜に会う際には礼に外れた服装をしなくなったと伝えられる。

狩猟への諫言

曹叡は狩猟を好み、たびたび外へ出ていたため、
楊阜は天下がまだ統一されておらず、呉・蜀との戦いも続いているなかで、
皇帝が頻繁に狩猟へ出るべきではないと諫めた。

楊阜はこのほかにも宮殿造営や後宮の拡張などをめぐって繰り返し諫言しており、
曹叡にとって決して耳当たりのよい臣下ではなかったが、
その直言を理由に遠ざけることはなく、かえって楊阜を敬い、その厳正さを憚ったという。

曹叡の狩猟については、孫礼の伝にも逸話が残されている。

大石山で狩猟を行った際、虎が突然現れて曹叡の乗輿に迫ると、
同行していた孫礼は馬から飛び降り、剣を抜いて虎に斬りかかろうとした。
これを見た曹叡は孫礼に馬へ戻るよう命じたという。

皇帝を守ろうとした孫礼の忠勇を示す逸話として伝えられているが、
同時に、楊阜から諫められた後も曹叡が狩猟そのものをやめたわけではなかったことが分かる。

宗室を遠ざけすぎているとの批判

曹丕の時代以来、魏では皇族諸王への統制が厳しく、
曹植をはじめとする諸王は封国を転々とさせられ、
中央の政治や軍事に関与する機会も大きく制限されていた。

曹叡も基本的にはこの方針を引き継いだが、
その一方で、長く会っていなかった宗室諸王を朝見させるなど、
曹丕の時代より関係を緩和する動きも見せている。

しかし、宗室を政治や軍事から遠ざける制度そのものには、臣下から繰り返し異論が出た。
楊阜や棧潜らは、皇族を弱い立場に置き続ければ、
いざという時に皇室を支える者がいなくなるとして宗室政策の見直しを求めた。

高堂隆も同様の立場から、諸王に一定の兵力を持たせ、
皇室を外から支える藩屏として機能させるべきだと主張している。

刑罰と裁判を重視する

幼少時から法律に関心を持っていたとされる曹叡は、即位後も刑獄を重要な政務の一つと考え、
人命に関わる裁判は慎重に扱うべきだとして、自ら訴訟を聴くこともあった。
平望観を「聴訟観」と改称したことも、その関心を示すものとして伝えられている。

刑罰制度についても見直しを進め、
鞭杖によって罪人が死亡する事例を問題として規定を軽減したほか、
死刑の適用範囲を狭めようとした。

謀反や故意の殺人などの重大犯罪を除き、
死刑に相当する者にも減刑の余地を設けようとする詔を出しており、
司法官には法律に通じた高柔を長く用いている。

ただし、曹叡の刑政が一貫して寛大だったわけではない。
『魏略』には、人の細かな過失を取り上げることを好み、
軽微な問題を端緒として死刑にまで至ることがあったとも記されている。

儒学を振興し、経学の継承者を育てる

曹叡は儒学や礼制の整備にも力を入れ、
高柔らの進言を受けて博士をはじめとする儒学官の選任を重視し、経学に通じた人物を登用した。

当時、蘇林や秦静ら経学に通じた老儒が相次いで高齢となっていたことから、
その学問が後世へ十分に継承されないことも問題となっていた。

そこで曹叡は、郎吏の中から才能のある者三十人ほどを選び、高堂隆らについて経書や礼を学ばせた。
また、父曹丕の著作である『典論』を石に刻ませたほか、
崇文観を設けて文学に優れた者を集めるなど、経学だけでなく文教全般の振興を進めている。

「名声は地面に描いた餅」

人材登用において、曹叡は名声だけを頼りに人物を選ぶことを警戒していた。
当時の名士の間では互いに人物を評価して名声を高め合う風潮があり、
曹叡は諸葛誕や鄧颺らをはじめとする一群を「浮華」として退け、
そのような交際を禁じたこともあった。

吏部尚書の盧毓に人材の推薦を命じた際にも、
曹叡は名声のある者ではなく実際に能力を備えた者を選ぶよう求め、
名声とは地面に描いた餅のようなもので、描かれた餅を食べることができないのと同様、
それだけでは実用にならないという趣旨の言葉を述べた。
後世の「画餅」の語で知られる問答である。

これに対して盧毓は、名声だけで人物を決めるべきではないという点には同意しながらも、
名声そのものを無意味とすることには反対した。

特別に優れた人物を名声だけで見抜くことは難しくても、
一般的な人材を判断する際には一定の手掛かりとなるため、
問題なのは名声の有無ではなく、
官吏の実際の働きを正しく評価する仕組みが整っていないことだと論じた。

曹叡はこの意見を受け入れ、
後には劉劭らに官僚の能力や勤務実績を評価する考課制度を研究させ、
七十二条からなる「都官考課」が作成されたが、本格的な施行を見る前に曹叡が死去した。

「自分の知らない人物を挙げよ」

盧毓を吏部尚書に任命する際には、その後任となる人物についても曹叡自ら推薦を求めている。
盧毓が鄭沖を挙げると、曹叡は鄭沖なら自分も知っているとして、
自分の知らない人物を推薦するよう求めた。

そこで盧毓が改めて阮武と孫邕を挙げると、曹叡はその中から孫邕を採用した。

すでに皇帝の耳にまで名声が届いている人物ではなく、
自分がまだ知らない者の中から候補を挙げさせたという逸話である。

秦朗を「阿蘇」と呼ぶ

曹叡が特に寵愛した人物の一人が秦朗だった。
秦朗は母杜氏が曹操の側室となったため、幼少から曹氏のもとで育てられた人物である。

曹叡は秦朗を驍騎将軍などに任じ、常に側近として置いた。
小字の「阿蘇」で呼ぶほど親しく、大きな邸宅を建て、多額の賞賜を与えたという。

一方、『魏略』は秦朗を厳しく批判している。
曹叡が処罰を重くすることがあっても秦朗は諫めず、優れた人物を推薦することもなかったという。

曹叡は実力や実績を重視する皇帝として描かれる反面、このような個人的な寵臣も抱えていた。

↓↓寵臣・秦朗についての個別記事は、こちら

【魏】秦朗|曹操の連れ子から明帝の側近となった驍騎将軍
秦朗(しんろう)、字は元明、小字は阿穌。并州新興郡の人で、後漢末から三国時代の魏に仕えた人物である。実父は呂布の配下だった秦宜禄、母は杜氏。幼少期に曹操が杜氏を側室としたため、秦朗も母に伴われて曹操の家に入り、そのもとで養育された。曹操は秦…

高堂隆への怒りを盧毓に諫められる

高堂隆は曹叡に対してたびたび厳しい諫言を行い
とりわけ大規模な宮殿造営が始まると、
天変や国家財政、民衆に課される労役などを理由として工事の中止を繰り返し求めた。

曹叡もその直言を常に平静に聞いていたわけではなく、次第に高堂隆への不満を強めたことがあった。

この時、盧毓は曹叡に対し、高堂隆がこれほど遠慮なく意見を述べることができるのは、
曹叡が諫言を受け入れる皇帝だからであり、そのような臣下を怒って遠ざけるべきではないと諫めた。
曹叡は盧毓の言葉を受け、高堂隆を退けることはなかった。

劉曄を試す

即位直後には曹叡の器量を高く評価した劉曄だったが、
後には曹叡からその言動を疑われるようになった。

『傅子』などによれば、蜀への出兵が議論された際、
劉曄は曹叡に対しては攻撃が可能であるとの意見を述べながら、
外では蜀を攻めるべきではないと語っていたという。

このことを聞いた曹叡が真意を問いただすと、
劉曄は、軍事は国家の重大な機密であり、皇帝と相談した内容を外部へ漏らすことはできないため、
あえて異なる発言をしたのだと説明した。

曹叡もいったんはその説明を認めたが、
その後、劉曄は皇帝の顔色を見ながら意見を変えているとの話を聞き、真偽を確かめようとした。

そこで曹叡は劉曄と話す際、あえて自分の本心とは反対の考えを示して反応を見たところ、
劉曄は曹叡が示した意向に沿うように自説を変えたという。
これを見た曹叡は、それまでの劉曄に対する信頼を次第に失っていった。

鮮卑への対応

北方では鮮卑諸部への対応も続いていた。

青龍元年(233)、并州刺史畢軌は鮮卑の歩度根らに対して軍事行動を起こそうとしたが、
曹叡は、歩度根が魏に服属してから長く異変を起こしていない以上、
軽率に攻撃すればかえって鮮卑諸部を結束させる恐れがあるとして慎重な対応を命じた。

ところが曹叡の命令が届く前に畢軌は軍を進めており
配下の蘇尚・董弼らは軻比能の子が率いる鮮卑軍と遭遇して敗死した。
これを機に歩度根は軻比能と接近し、両者が連携する事態となった

その後、魏は鮮卑勢力の分断を進め、幽州刺史王雄のもとで軻比能への工作も行われた。
青龍三年(235)には王雄の配下である韓龍が軻比能を刺殺し、
有力な指導者を失った鮮卑諸部は再び分裂していった。

曹叡の奢侈と土木事業

洛陽宮の大造営

青龍三年(235)ごろから、曹叡は洛陽で大規模な宮殿造営を進め、
昭陽殿、太極殿、総章観などを建設した。

工事には多数の人夫が徴発され、農作業に人手を必要とする時期にも労役が続いたため、
農業への影響や国力の消耗が問題となった。
当時の魏は蜀・呉との戦争を続けており、軍事費にも多額の支出を必要としていた。

このため楊阜、高堂隆、張茂、董尋、孫礼らは、
天下がまだ安定していない時期に大規模な土木事業を続けるべきではないとして相次いで諫言したが、
曹叡は一部で工事の縮小や人夫の帰農を認めながらも、宮殿造営そのものを中止することはなかった。

漢の銅人や承露盤を洛陽へ移す

宮殿造営に伴い、曹叡は長安に残されていた漢代の鐘や銅人、承露盤などを洛陽へ移そうとした。
これらはいずれも巨大な器物であり、
とりわけ銅人は重量のため運搬が困難となって途中で移送を断念したものがあり、
承露盤も運搬中に折損したと伝えられる。

この事業に対して高堂隆は、巨大な鐘を鋳造して批判を受けた周の景王の故事などを挙げ、
実用に乏しい巨大な器物のために人力と財力を費やすべきではないと諫めた。

曹叡は卞蘭に高堂隆と議論させたが、
高堂隆が古典や故事を引いて反論すると、その議論については評価したという。

しかし長安からの器物移送や洛陽の造営計画が、
それによって全面的に取りやめられることはなかった。

芳林園と水上の仕掛け

曹叡は宮殿だけでなく庭園の整備も進め、
芳林園には池を築いて舟を浮かべ、遊覧できるようにした。
九龍殿の前にも水を引き、玉井や欄干を設けたほか、
蟾蜍や神龍などをかたどった装置から水を流す仕掛けが設けられたと伝えられている。

この時期には機械技術に優れた馬鈞も活動しており、曹叡の命によって指南車を復元したほか、
水力を利用して人形などを動かす「水転百戯」を製作したという。


水車の力によって木製の人形が太鼓を打ち、笛を吹き、踊るなど、
さまざまな動作を行う仕掛けだったと伝えられる。

宮廷整備

後宮の拡張と「女尚書」

宮殿や庭園の整備と並行して、後宮の規模も拡大し、宮城北側などに多数の女性を置いた。

『魏略』はその人数が非常に多かったと伝えており、
才人・貴人・夫人などの女性が宮中に置かれたほか、
読み書きに優れた者の中から六人を選び、
「女尚書」として文書や奏事に関係する仕事を担当させたという。

後宮の拡大には臣下から批判があり、
曹叡に男子が生まれても相次いで夭折していたことから、
多数の女性を集めることによって後嗣を求めるのではなく、
政治を正して徳を積むべきだという趣旨の諫言も行われた。

既婚女性まで徴発したとの記録

後宮への女性の徴発について、
『魏略』はさらに、すでに婚姻していた女性にまで対象が及んだと伝えている。

兵士に妻を与えることなどを名目として女性を集めた際、官吏や民間人の妻も徴発され、
財力のある者の中には奴婢を購入して自分の妻の代わりに差し出す者がいたという。
また、集められた女性のうち容姿の優れた者は後宮へ入れられたとされる。

張茂はこうした女性の徴発を宮殿造営や過大な賞賜とあわせて批判し、
天下がまだ統一されず、軍事にも多額の費用を要する状況で、
漢武帝のように奢侈へ傾くべきではないと諫めた。

曹叡はこの上奏を喜ばなかったものの、張茂を罪に問うことはなかった。

楊阜が後宮の人数を調べる

楊阜も後宮の規模を問題視し、その縮小を求めていた。
後宮に実際どれほどの女性がいるのかを確かめるため御府の役人に人数を尋ねたところ、
役人は宮中の秘密に属するため答えられないとして回答を拒んだ。

これに対して楊阜は、九卿である自分にも知らせることのできない国家の秘密を、
なぜ一介の小吏が知っているのかと怒り、その役人を杖で百回打ったという。

楊阜の行為は激しいものだったが、曹叡はこれを理由に処罰せず、
楊阜の剛直さをいっそう敬い憚ったと伝えられる。

孫礼が独断で工事を止める

宮殿工事が続くなか、天候不順などによって穀物事情が悪化すると、
孫礼は工事に動員されている民衆を農業へ戻すよう求めた。

曹叡もこれを認め、人夫を帰農させる命令を出したが、
工事を担当する側は完成まであとわずかであるとして、さらに一か月だけ工事を続ける許可を求めた。

孫礼はこの申し出について改めて曹叡の判断を仰ぐことなく、自ら工事現場へ赴き、
すでに出されていた帰農の詔を示して作業を停止させた。

皇帝の新たな許可を待たずに工事を止めたことになるが、曹叡は孫礼の処置を罪に問わなかった。

高堂隆の諫言

崇華殿の火災と高堂隆

崇華殿で火災が起こると、曹叡は高堂隆を呼び、
この火災が何を意味する災異なのか、祈祷などによって災いを除くことができるのかと尋ねた。


高堂隆は祈祷によって解決するという考えを退け、
華美な宮殿を造営して民衆を疲弊させていること自体を改め、
皇帝が徳を修めることこそ災異への対応になると答えた。

曹叡が、漢武帝は柏梁台が焼失した後に建章宮を造営したではないかと反論すると、高堂隆は、
火災の後にさらに大規模な宮殿を建てた故事を正しい政治の先例とすることはできないと諫めた。

曹叡はこの意見に従って造営を中止することはなく、
その後、各地から「九龍」が現れたとの報告があったことにちなみ、九龍殿を整備している。

彗星を見ても造営を止めない

宮殿造営が続いていた時期に彗星が現れると、高堂隆はこれを受けて長文の上疏を行い、
宗廟や郊祀など王朝の根本に関わる礼制の整備よりも、
皇帝自身の宮殿を優先していることを批判した。

蜀・呉との戦争によって軍事費が必要とされるなか、
宮廷のための支出と労役まで増大させていることを問題とし、
こうした政治のあり方が天変となって現れていると論じたのである。

造営には徴発された人夫だけでなく、公卿や学生まで動員されたとされ、
曹叡自身も土を手に取って工事に関わったという。

高堂隆はこれについても、
天子から公卿に至るまで土木作業に従事するような状態は礼制にかなわないとして改めるよう求めた。

「高堂隆の上奏を見ると朕を恐れさせる」

高堂隆の諫言は宮殿造営にとどまらず、
国家財政や官吏の俸禄、民衆の疲弊、宗室政策などにも及んだ。

曹叡は中書監・中書令らに対し、
高堂隆の上奏を見ると「朕をして懼れしむ」といった趣旨の言葉を漏らしたとされるが、
その直言を理由に高堂隆を罰することはなかった。

高堂隆が病に倒れると、曹叡は詔を送り、治療と養生に努めるよう命じた。
死期を悟った高堂隆は最後の上疏を行い、
桀・紂・秦始皇・漢武帝らが奢侈によって国を損なった例を挙げて曹叡を戒めるとともに、
宗室諸王に一定の兵力を持たせ、皇室を守る藩屏とするよう改めて求めた。
朝廷に強大な「鷹揚の臣」が現れた場合、
皇帝が幼く宗室にも力がなければ、これを抑えることができなくなるとの警告も記されている。

高堂隆が死去すると、曹叡はその死を惜しんだ。
高堂隆には封禅をはじめとする礼制の研究も命じていたため、
その訃報を受けた曹叡は、自分が行おうとしている大礼を天は完成させるつもりがないのか、
「高堂生は朕を捨てて死んでしまった」という趣旨の言葉を述べて嘆いたと伝えられている。

封禅と礼制

蔣済から封禅を行うよう勧められた際、
曹叡は、その話を聞いただけで汗が足まで流れるという趣旨の言葉を返し、
すぐに実行しようとはしなかった。

しかし治世後半になると、曹魏独自の礼制を整えることには積極的になり、
高堂隆らに制度の研究を命じている。

景初元年(237)には暦や正朔の大幅な改定を行い、
魏を五行思想に基づく「地統」に位置づけて建丑の月を正月とし、
それに合わせて服色などの制度も変更した。

また宗廟制度にも手を加え、曹操を太祖、曹丕を高祖としたうえで、
自らについても烈祖として、三祖の廟を永く廃さないことを定めた。

皇帝が存命中に自らの廟号と宗廟における位置を事実上定めたことについては、
後世の史家から批判を受けている。

愛娘曹淑の死

曹叡は子女を相次いで失っており、その中でも特に寵愛していた娘が曹淑だった。
曹淑が幼くして亡くなると、曹叡は平原懿公主と追封して廟を立て、自ら葬送に参加しようとした。

これに対して楊阜は、
曹操や卞太后の葬儀でさえ皇帝自身が通常を超えて随行したわけではないのに、
幼くして亡くなった公主のために天子が特別な礼を行うのは適切ではないと諫めた。

しかし曹叡はこの時には楊阜の意見を受け入れず、曹淑に対して厚い葬礼を行った。

毛皇后に死を賜る

曹叡の後宮では、当初寵愛されていた毛皇后に代わって、次第に郭氏が近侍するようになった。

ある時、曹叡は後宮で宴会を開いたが、
毛皇后を招かず、さらに出席者には宴会のことを毛皇后へ漏らさないよう命じていたという。

ところが翌日、毛皇后が曹叡に対して、
前日の宴会を楽しんだかという趣旨の言葉を口にしたため、
秘密にしたはずの宴会が伝わっていたことが明らかになった。

曹叡はこれに怒り、情報を漏らした者を殺害したうえ、毛皇后にも死を賜った。
毛皇后は景初元年(237)に死去し、悼皇后と諡されて葬られている。

その後、郭氏の地位はさらに高まり、曹叡晩年に皇后へ立てられた。

成人した実子を残せなかった

曹叡には複数の男子が生まれたが、いずれも幼くして亡くなった。
清河王曹冏、繁陽王曹穆が早世し、曹殷も生後間もなく死去して安平哀王と追封されたため、
曹叡には皇位を継がせることのできる実子が残らなかった。

このため宮中では曹芳と曹詢の二人が養育され、曹芳は斉王、曹詢は秦王に封じられた。
『三国志』本文は二人の実父を明記しておらず、
曹氏宗族のどの系統から迎えられたのかについては後世に諸説がある。

曹叡は二人の出自を公にせず宮中で育てていたが、
晩年には曹芳を後継者と定め、幼帝を誰に補佐させるかが最後の大きな政治課題となった。

公孫淵の反乱

魏の東北部に位置する遼東では、公孫氏が曹操の時代から半ば独立した勢力を保っており、
公孫淵も魏と呉の双方に通じながら自立性を維持していた。


やがて公孫淵は魏から離反して燕王を称し、朝廷にとって看過できない存在となったため、
曹叡はまず毌丘倹らを討伐に向かわせたが、
悪天候などに阻まれて十分な成果を挙げることができなかった。

景初二年(238)、曹叡は改めて司馬懿に遼東征討を命じた。
出発に先立って曹叡が公孫淵の動向や討伐に必要な期間を尋ねると、
司馬懿は、逃亡するのが最善、野戦を挑むのが次善、襄平に籠城するのが最も拙い選択であり、
公孫淵は最終的に籠城するだろうと予測した。
また、往路に百日、攻撃に百日、帰還に百日、さらに休養のため六十日を見込み、
一年ほどあれば足りると答えたと伝えられる。

司馬懿は遼東へ進軍すると襄平を包囲し、公孫淵父子を敗走させて討ち取った。
これによって長く半独立状態にあった遼東の公孫氏政権は滅亡し、魏は遼東に対する支配を回復した。

卑弥呼を「親魏倭王」とする

遼東の情勢が大きく動いた曹叡末年には、倭との外交関係も史料に現れる。
『三国志』東夷伝、いわゆる「魏志倭人伝」によれば、
倭の女王卑弥呼は大夫難升米らを帯方郡へ送り、魏の皇帝への朝貢を願い出た。

これを受けた魏朝廷は卑弥呼を「親魏倭王」とし、
金印紫綬を与えるとともに、難升米を率善中郎将、都市牛利を率善校尉に任じた。
さらに絳地交龍錦、絳地縐粟罽、蒨絳、紺青、紺地句文錦、細班華罽、白絹、金、刀、銅鏡百枚、
真珠、鉛丹など多数の品を下賜し、卑弥呼に対して倭人を安撫し魏への忠誠を示すよう求めている。

東夷伝はこの遣使を景初二年(238)六月と記すが、
公孫淵がまだ滅亡していない時期に倭使が遼東方面を通過できたのかという問題があるため、
紀年については景初三年(239)の誤りではないかとする説もある。

いずれにしても、
卑弥呼への冊封は曹叡の治世末期に魏が行った外交の一つとして『三国志』に記録されている。

曹叡の人物像

容貌、口吃、寡黙

裴松之注に引用された史料には、曹叡の外見や話し方についても記述が残っている。

生来容貌が秀でていたとされる一方、口吃があり、言葉数は多くなかったという。
また「立髪垂地」とする特徴的な髪の記述も伝えられている。

性格については沈着で決断力があり、物事を自ら判断することを好んだと評されている。
文学者として雄弁な印象を残す曹丕や曹植とは異なり、
曹叡は多弁さよりも沈着さと決断力によって特徴づけられた。

驚異的な記憶力

『魏書』は曹叡について、とりわけ記憶力の強さを高く評価している。

一度接した官吏について、その人物の官歴や性格だけでなく、
父兄や子弟など家族関係まで記憶しており、
人材を任用する際にもそれぞれの能力や経歴を細かく把握していた
という。

また、官吏や民衆から寄せられる上書にもよく目を通し、
文章の巧拙だけで退けず、内容を最後まで読んだ
とされる。

こうした記憶力と人物観察は人材登用に生かされた一方、
劉曄の言動を試したり、陳矯に専権の疑いを抱いて密かに調べたりした逸話からは、
臣下の行動を細かく見極めようとする姿勢が疑念へ傾く場合もあったことが分かる。

諫言を聞くが、必ずしも従わない皇帝

曹叡の治世には、皇帝本人に対して遠慮なく意見を述べる臣下が少なくなかった。

楊阜は服装や狩猟、後宮、宮殿造営を諫め、
高堂隆は天変、財政、土木工事、宗室政策にまで踏み込んで批判した。
張茂は女性の徴発や奢侈を問題とし、
孫礼は帰農の詔を根拠に皇帝へ再確認することなく工事を停止し、
盧毓も人材登用や高堂隆への対応について曹叡に異論を述べている。

曹叡はこうした直言を不快に思うことはあっても、
それだけを理由として諫臣を処罰することは少なく、
実際に意見を採用して政策を変更した例もあった。


ただし、宮殿造営や後宮の拡張のように自ら強く望んだ事業については、
諫言の内容を理解しながらも全面的には従わず、一部を修正しつつ事業を続ける場合が多かった。

重病と後継体制

景初二年(238)末になると曹叡は重病となり、
幼い曹芳に皇位を継がせた後、誰に補政を任せるかを決めなければならなくなった。

当初は燕王曹宇を大将軍とし、
曹宇、夏侯献、曹肇、曹爽、秦朗らを中心として幼帝を支える体制を構想していた。
これは、それまで中央の軍政から遠ざけられていた曹氏宗室を補政の中核へ戻す人事でもあった。

高堂隆らがかねて主張していた宗室強化とも通じるものだったが、
曹宇は大将軍への就任を繰り返し辞退し、
曹叡の病状が悪化する中で補政の構想そのものも次第に揺れ始めた。

↓↓大将軍への就任を繰り返し辞退した曹宇についての個別記事は、こちら

【魏】曹宇|曹叡に後事を託され、魏最後の皇帝の父となった曹操の子
曹宇(そうう)は曹操と環夫人の子で、曹沖・曹拠の同母弟である。曹叡から厚く信頼され、病床の曹叡から大将軍に任じられて後事を託されたが、輔政から外された。のちに息子の曹奐が魏最後の皇帝となり、自身は西晋まで生きた。曹宇の生涯を正史『三国志』や裴松之注の逸話とともに紹介する。

劉放・孫資が人事を覆す

中書監劉放と中書令孫資は曹宇・曹肇・秦朗らと折り合いが悪く、
彼らが補政の中心となれば自分たちが政権から排除される可能性があった。

曹叡の病状が重くなると、劉放・孫資は病床に入り、
曹宇らでは国家の重任を担うことができないとして、
曹爽を大将軍に任じ、さらに司馬懿を召してともに幼帝を補佐させるよう進言した。

曹叡はいったんこの案を受け入れたが、
曹肇らが涙を流して反対すると、曹宇らを残す方向へ再び考えを変えたとも伝えられる。

しかし劉放・孫資が改めて説得すると、
最終的には曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗らを補政から外し、曹爽と司馬懿に曹芳を託す方針を決定した。

裴松之注に引用された諸史料では、
この人事が曹叡の病床で短期間のうちに何度も揺れ動いた様子が伝えられている。

曹叡の手を取って詔を書かせる

『漢晋春秋』によれば、補政人事が揺れていた時期には曹叡の病状がすでに重く、
自ら詔を書くことも難しい状態だった
という。

劉放は寝台へ上がって曹叡の手を取り、
曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗らを補政から外す詔を書かせたとされ、
その命令を受けた彼らは泣きながら宮中を去った。

この逸話には後世の叙述らしい劇的な描写も含まれるため、
そのまま事実とみなすには慎重さが必要だが、
曹叡の最終的な補政人事が平静な状況で時間をかけて決められたものではなく、
病状が悪化するなかで短期間に変更されたことは他の史料からも確認できる。

司馬懿を呼び戻す

曹宇らを外し、曹爽と司馬懿に幼帝を補佐させる方針が定まると、
曹叡は遼東征討を終えて帰還していた司馬懿を急いで洛陽へ召した。

司馬懿は河内方面にいたとされ、
短期間に相次いで召還の命令が届いたため事情を不審に思いながらも、急いで都へ向かった。

司馬懿が病床に到着すると、曹叡は幼い曹芳と曹詢を引き合わせた。
『魏略』によれば、曹叡は曹芳を示して「これがその子だ。よく見て、間違えるな」
という趣旨の言葉を述べ、曹芳も司馬懿の首に抱きついたと伝えられている。

「あなたを待つために死をこらえていた」

『魏氏春秋』では、曹叡は司馬懿の手を取り、
自分は司馬懿が戻るのを待つために死をこらえていたという趣旨を語り、
曹爽とともに曹芳を補佐するよう託したとされる。


これに対して司馬懿は、かつて曹丕が死去する際、
自分たちに曹叡を託したことを引き合いに出して応じたという。

曹叡は司馬懿を長く軍事の中核に置き、諸葛亮への対応や遼東征討などでその能力を認めていたため、
幼帝の補政を任せること自体はそれまでの関係から見れば不自然ではなかった。

ただし、この人事によって曹爽と司馬懿という二人の重臣に大きな権力が集中することになり、
その均衡は曹叡の死後に崩れていく。

三十代半ばで死去

景初三年(239)正月、曹叡は嘉福殿で死去し、
明皇帝と諡され、廟号を烈祖として高平陵に葬られた。

『三国志』明帝紀は享年三十六とするが、曹丕甄氏を妻とした時期との年代が合わず、
裴松之もこの点を明確に疑問視しているため、実際の年齢については確定できない。

在位は約十三年であり、曹操・曹丕以来続いてきた、
成人した君主自身が軍事と政務の最終判断を握る体制はここで途切れた。

幼帝曹芳と曹爽・司馬懿

曹叡の死後、曹芳が皇帝に即位し、曹爽と司馬懿が補政を担った。

当初は両者が並び立つ形だったが、やがて曹爽が政権の主導権を握り、
司馬懿を名目的な地位へ追いやるようになった。

正始十年(249)、曹芳が曹叡の陵墓である高平陵へ参拝するため洛陽を離れると、
司馬懿はこの機会を利用して洛陽を掌握し、曹爽に軍権を放棄するよう迫った。

曹爽は抵抗せず降伏したものの、その後、一族や側近とともに処刑され、
司馬氏が魏の政治を主導する立場に立った。

高堂隆の警告

高堂隆は曹叡の生前から、宗室諸王を政治や軍事から遠ざけたままでは、
皇室を支える力が失われると警告していた。

諸王に一定の兵力を持たせて藩屏とし、
強大な臣下が現れた場合にも皇室を守れる体制を作るよう求めており、
臨終の上疏でも同じ問題を取り上げている。

曹叡自身も最晩年には曹宇ら宗室を中心とする補政体制を一度構想したが、
最終的にはこれを撤回した。

高平陵の変が起きた時、地方で独自の軍事力を持つ曹氏諸王は存在せず、
司馬懿に対抗できる宗室勢力も形成されていなかった。

習鑿歯ら後世の論者は、この経過を高堂隆の警告と結びつけて論じている。

郭皇后のその後

曹叡の郭皇后は曹芳の即位後に皇太后となり、司馬氏の勢力が拡大した後も魏皇室の中心に位置した。

曹芳が廃され、曹髦が新たに皇帝として迎えられる際にも皇太后の名義が用いられており、
曹叡の死後も皇位継承に関わる重要な存在であり続けた。

人物像・評価

『魏書』が伝える曹叡の人物像

裴松之注に引用された『魏書』は、
曹叡について、容貌に優れ、学問を好み、記憶力が強かったと伝えている。
大臣を礼遇し、一度接した官吏について経歴や家族関係まで覚え、
それぞれの能力に応じて任用したともされ、虚名だけで実力を偽ることは難しかったという。

また、官吏や民衆から寄せられる上書にもよく目を通し、文章の巧拙だけで退けず、
国家の大事に際しては自ら判断を下したと評価している。

魏王朝側の史書による記述であることには留意が必要だが、
少なくとも同時代に近い史料では、曹叡の知性や政務能力そのものは高く評価されていた。

孫盛の評価

東晋の史家孫盛も、曹叡について天資に優れ、口吃で寡黙ではあったものの、
沈着で決断力があったと評している。

曹丕から政権を託された有力臣を必要に応じて地方や軍事に配置し、自ら政務の中心に立ったことや、
臣下から激しい諫言を受けても容易に処刑しなかった点も評価した。

その一方で、宗室を政治や軍事から遠ざけ、
皇室を支える力を十分に育てなかったことを問題視している。

幼帝を残して大権を臣下へ委ねた結果、
曹氏の内部にそれを抑える力がなくなったというのが孫盛の批判だった。

陳寿の評価

『三国志』の著者陳寿は曹叡を「沈毅断識」と評し、
沈着さと決断力、物事を見極める能力を備えた君主であった
ことを認めている。

しかし同時に、天下がなお三国に分裂し、長年の戦争によって民衆が疲弊していた時期に、
秦始皇や漢武帝を思わせる大規模な宮殿造営を行ったことを強く批判した。

曹操・曹丕から受け継いだ事業をさらに安定させる立場にありながら、
国力の回復と並行して大規模な土木工事や宮廷の拡張を進めた点を、
曹叡治世の大きな問題と見ている。

まとめ

曹叡は、曹操・曹丕から受け継いだ魏を十三年にわたって統治した第二代皇帝である。

治世を通じて蜀・呉との戦争が続いたが、
軍事情勢を自ら判断し、有力な将軍を使い分けながら魏の優位を維持した。

政務にも積極的に関与し、人材の能力を見極めることや、
臣下の直言に耳を傾けることのできる君主でもあった。

一方、治世後半には宮殿造営や後宮の拡張に多くの人力と財力を費やし、
相次ぐ諫言にもかかわらず事業を続けた。

陳寿が曹叡を「沈毅断識」と評価しながら、その奢侈を批判したように、
政治・軍事上の能力と、過大な造営を好む性向は、
曹叡を評価するうえで切り離すことのできない二つの側面となっている。

また、成人した実子を残せなかったため、
幼い曹芳に皇位を継がせざるを得ず、臨終間際に決めた補政体制も後に崩壊した。

曹叡の死後、魏では皇帝自身が政治と軍事を掌握する体制が失われ、
やがて司馬氏が実権を握っていく。

曹叡の死は、曹魏の歴史における一つの転換点となった。

史書・参考文献

『三国志』魏書「明帝紀」
『三国志』魏書「后妃伝」
『三国志』魏書「諸夏侯曹伝」
『三国志』魏書「董二袁劉伝」
『三国志』魏書「程郭董劉蔣劉伝」
『三国志』魏書「劉司馬梁張温賈伝」
『三国志』魏書「任蘇杜鄭倉伝」
『三国志』魏書「桓二陳徐衛盧伝」
『三国志』魏書「和常楊杜趙裴伝」
『三国志』魏書「韓崔高孫王伝」
『三国志』魏書「辛毗楊阜高堂隆伝」
『三国志』魏書「方技伝」
『三国志』魏書「東夷伝」
裴松之注所引『魏書』『魏略』『魏末伝』『世語』『傅子』『魏氏春秋』『漢晋春秋』
『資治通鑑』