唐王朝の皇帝家系図と一覧|李淵から哀帝まで

唐王朝皇帝一覧・家系図 皇帝一覧・家系図

唐:略家系図

唐王朝皇帝一覧と家系図(李世民、玄宗、武則天含む)
唐王朝皇帝一覧と家系図

唐(618–907):皇帝一覧

代廟号諡号名前
(諱)
生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
在位期間
① 高祖 ー李淵り・えん566-635
(69歳)
618ー626
(52歳)ー(60歳)
  8年  
②太宗ー李世民り・せいみん598-649
(51歳)
626ー649
(28歳)ー(51歳)
23年
③高宗ー李治り・ち628-683
(55歳)
649ー683
(21歳)ー(55歳)
34年
④中宗ー李顕り・けん656-710
(54歳)
684ー684
(28歳)ー(28歳)
約1年
⑤睿宗ー李旦り・たん662-716
(54歳)
684ー690
(22歳)ー(28歳)
6年
 ー則天順聖皇帝 武曌ぶ・しょう624-705
(81歳)
690ー705
(66歳)ー(81歳)
15年
 中宗ー李顕り・けん656-710
(54歳)
705ー710
(49歳)ー(54歳)
5年
 睿宗ー李旦り・たん662-716
(54歳)
710ー712
(48歳)ー(50歳)
2年
⑥玄宗ー李隆基り・りゅうき685-762
(77歳)
712ー756
(27歳)ー(71歳)
44年
⑦肅宗ー李亨り・こう711-762
(51歳)
756ー762
(45歳)ー(51歳)
6年
⑧代宗ー李豫り・よ727-779
(52歳)
762ー779
(35歳)ー(52歳)
17年
⑨徳宗ー李适り・かつ742-805
(63歳)
779ー805
(37歳)ー(63歳)
26年
⑩順宗ー李誦り・しょう761-806
(45歳)
805ー805
(44歳)ー(44歳)
約半年
⑪憲宗ー李純り・じゅん778-820
(42歳)
805ー820
(27歳)ー(42歳)
15年
⑫穆宗ー李恒り・こう795-824
(29歳)
820ー824
(25歳)ー(29歳)
4年
⑬敬宗ー李湛り・たん809-827
(18歳)
824ー827
(15歳)ー(18歳)
3年
⑭文宗ー李昂り・こう809-840
(31歳)
827ー840
(18歳)ー(31歳)
13年
⑮武宗ー李炎り・えん814-846
(32歳)
840ー846
(26歳)ー(32歳)
6年
⑯宣宗ー李忱り・しん810-859
(49歳)
846ー859
(36歳)ー(49歳)
13年
⑰懿宗ー李漼り・さい833-873
(40歳)
859ー873
(26歳)ー(40歳)
14年
⑱僖宗ー李儇り・けん862-888
(26歳)
873ー888
(11歳)ー(26歳)
15年
⑲昭宗ー李曄り・よう867-904
(37歳)
888ー904
(21歳)ー(37歳)
16年
⑳ー哀帝李柷り・しゅく892-908
(16歳)
904ー907
(12歳)ー(15歳)
3年

※補足(唐の特殊枠)

  • 武則天は唐の皇帝ではなく 「武周(690–705)」の皇帝として扱うのが厳密。
    ただし唐史の流れで必ず並べられる。
  • 中宗・睿宗は 二度即位しているため、表では行を分けている。
  • 哀帝は907年に朱全忠により禅譲させられ、唐は滅亡。

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①高祖(李淵)|隋末の混乱を制して唐を建国した初代皇帝

・李淵は北周以来の有力貴族の家系に生まれ、隋では唐国公の爵位を継承した。
 隋の煬帝の治世末期、各地で反乱が続発すると、太原留守を務めていた李淵は617年に挙兵した。
 挙兵には次男の李世民が深く関与し、娘の平陽公主も独自に兵を集めて唐軍を支援した。
・617年、李淵は長安を占領し、煬帝の孫である楊侑を恭帝として擁立した。
 翌618年、江都で煬帝が殺害されると、恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、唐を建国した。
 ただし、この時点で中国全土を支配していたわけではなく、
 各地には王世充・竇建徳・劉武周などの勢力が割拠していた。
・建国後は李世民らの軍事活動によって各地の勢力を平定し、
 621年には洛陽の王世充と河北の竇建徳を破った。
 さらに622年には劉黒闥の反乱を鎮圧するなど、統一事業を進めた。
 高祖自身も隋の制度を継承しながら律令・官制を整備し、唐王朝の統治基盤を築いた。
・一方、皇太子の李建成と秦王の李世民の対立が激化し、
 626年には李世民が玄武門の変を起こして李建成と李元吉を殺害した。
 高祖は李世民を皇太子に立て、まもなく譲位して太上皇となった。635年に死去した。

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②太宗(李世民)|貞観の治を実現した唐の第二代皇帝

・李世民は唐の建国戦争で中心的な役割を果たし、
 洛陽の王世充や竇建徳を破るなど、王朝統一に大きく貢献した。
 しかし、軍功の大きさから皇太子の李建成との対立が深まり、
 626年の玄武門の変で李建成と弟の李元吉を殺害した。
 その後、高祖から皇位を譲られ、第二代皇帝に即位した。
・即位後は房玄齢・杜如晦・魏徴らを重用し、臣下の諫言を受け入れながら政治を進めた。
 租税・徭役の負担を抑え、均田制・租庸調制・府兵制を基盤とする統治体制を整備した。
 この時代は「貞観の治」と呼ばれ、後世の皇帝が模範とする政治の一つとなった。
・対外政策では630年に東突厥を破り、頡利可汗を捕らえた。
 西域では高昌を滅ぼし、唐の勢力を拡大した。
 周辺諸国からは「天可汗」とも称され、
 唐は東アジア・中央アジアに大きな影響力を持つようになった。
 一方、644年から645年にかけて行った高句麗遠征では、安市城を攻略できず撤退した。
・晩年には皇太子李承乾の失脚と魏王李泰をめぐる後継争いが起こり、最終的に李治を皇太子とした。
 また、不老長寿への関心から丹薬を服用したことも伝えられる。
 649年に死去し、李治が高宗として即位した。

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③高宗(李治)|唐の最大版図を実現し、武則天を皇后に立てた皇帝

・李治は太宗の第九子で、母は長孫皇后。
 皇太子李承乾の失脚後、魏王李泰も後継者から外され、
 長孫無忌らの支持を受けて643年に皇太子となった。
 649年、太宗の死去により即位した。
・即位当初は長孫無忌ら太宗時代の重臣が大きな影響力を持った。
 653年には房遺愛の謀反事件に関連して異母兄の呉王李恪らが処刑され、
 皇族や功臣の間にも緊張が広がった。
 高宗は次第に旧臣の影響力を抑え、自らの権力基盤を固めていった。
・655年には王皇后を廃して武則天を皇后に立てた。
 長孫無忌らはこれに反対したが、659年には長孫無忌が失脚し、武則天の政治的地位が強まった。
 高宗は晩年、頭痛や視力障害などの病に悩まされ、武則天が政務に深く関与するようになった。
 両者は「二聖」とも呼ばれたが、高宗が治世を通じて政治的に無力だったわけではない。
・対外政策では660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅亡させた。
 また、657年には蘇定方が西突厥の阿史那賀魯を破り、唐の勢力は中央アジアにも拡大した。
 ただし、吐蕃や新羅との対立によって一部の地域では支配が後退し、
 広大な版図を安定的に維持できたわけではなかった。
・683年に死去すると、皇太子李顕が中宗として即位した。
 しかし、実権は皇太后となった武則天が掌握し、唐の皇位継承は大きく揺れ動くことになる。

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④中宗(李顕)|二度即位し、韋皇后の台頭を許した皇帝

・李顕は高宗と武則天の子。683年に高宗が死去すると皇帝に即位したが、
 母の武則天が皇太后として実権を握っていた。 
 李顕は韋皇后の父・韋玄貞を宰相に登用しようとして武則天と対立し、
 684年に即位から約2か月で廃位された。廬陵王に降格され、地方へ移された。
・その後、武則天は弟の李旦を睿宗として擁立し、690年には自ら皇帝となって武周を建国した。
 李顕は長く政治の中心から遠ざけられたが、698年に皇太子として復帰した。
・705年、張柬之らが神龍政変を起こして武則天を退位させると、
 李顕は再び皇帝となり、唐王朝を復活させた。
 しかし、復位後は韋皇后や娘の安楽公主、武三思らが朝廷で強い影響力を持ち、政争が続いた。
 皇太子李重俊は707年に武三思らを排除しようとして挙兵したが、失敗して殺害された。
・710年に中宗は急死した。
 『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』には韋皇后と安楽公主による毒殺を伝える記述があるが、
 その経緯を確実な事実として断定することは難しい。
 中宗の死後、韋皇后は権力掌握を図ったものの、李隆基と太平公主らによる政変で排除された。

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⑤睿宗(李旦)|武則天・太平公主・玄宗の権力争いに翻弄された皇帝

・李旦は高宗と武則天の子で、中宗の弟。684年に兄の中宗が廃位されると皇帝に擁立された。
 しかし、政治の実権は皇太后の武則天が握り、李旦は独自に政務を行うことができなかった。
・690年、武則天が皇帝に即位して武周を建国すると、李旦は皇位を退き、皇嗣とされた。
 698年に兄の李顕が皇太子に復帰すると、その地位も譲った。
 705年に中宗が復位した後も、李旦は皇族として政変の続く宮廷に身を置いた。
・710年、中宗の死後に韋皇后が権力を握ろうとすると、
 李旦の子・李隆基と武則天の娘・太平公主らが唐隆政変を起こし、韋皇后と安楽公主らを排除した。

 李旦は再び皇帝に即位したが、今度は皇太子となった李隆基と太平公主の対立が激しくなった。
・712年、李旦は李隆基に譲位して太上皇となった。ただし、譲位後も一部の重要政務に関与した。
 713年に玄宗が太平公主の勢力を排除すると、李旦は政治から退いた。716年に死去した。

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⑥玄宗(李隆基)|開元の治を築き、安史の乱によって退位した皇帝

・李隆基は睿宗の第三子。710年の唐隆政変で韋皇后らを排除し、712年に父から皇位を譲られた。
 翌713年には対立していた太平公主の勢力を排除し、皇帝権力を確立した。
・治世前半は姚崇・宋璟・張九齢らを重用し、官僚制度の整備、財政の立て直し、
 地方行政の改善を進めた。政治と経済が安定したこの時代は「開元の治」と呼ばれる。
 長安は各地から商人・使節・留学生が集まる国際都市として繁栄し、文学・音楽・美術も発展した。

・一方、辺境防衛のために節度使の権限が拡大し、地方軍事力が強まった。
 玄宗は晩年、楊貴妃を寵愛し、宰相李林甫の死後には楊国忠を重用した。
 范陽などの節度使を兼ねる安禄山も強大な軍事力を握り、朝廷との対立を深めた。
・755年、安禄山が反乱を起こし、安史の乱が始まった。
 唐軍は潼関で敗れ、756年に玄宗は長安を脱出して蜀へ向かった。
 途中の馬嵬駅では兵士が楊国忠を殺害し、楊貴妃の死も要求したため、玄宗は彼女に死を命じた。
・その後、息子の李亨が霊武で粛宗として即位し、玄宗は太上皇となった。
 757年に長安へ戻ったが、晩年は宦官・李輔国らによって側近を遠ざけられ、
 政治的影響力を失った。762年に死去した。

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⑦粛宗(李亨)|安史の乱で即位し、長安・洛陽を奪還した皇帝

・李亨は玄宗の第三子で、738年に皇太子となった。
 755年に安史の乱が起こり、翌756年に玄宗が長安から蜀へ逃れると、
 李亨は父と別れて北方へ向かった。
 霊武で群臣らに推戴され、玄宗の正式な譲位を待たずに皇帝に即位した。
・粛宗は郭子儀・李光弼らを用いて反乱軍への反撃を進め、回鶻の援軍も得た。
 757年には長安と洛陽を奪還したが、安史の乱そのものは終結せず、戦争は代宗の時代まで続いた。
 また、回鶻への依存や軍事費の増大は唐の財政に大きな負担を残した。
・粛宗の即位と反乱鎮圧を支えた宦官・李輔国は、軍事・宮廷政治の両面で影響力を強めた。
 魚朝恩らも軍事指揮に関与し、宦官が軍権を掌握していく契機となった。
 晩年には張皇后と李輔国の対立が激化し、宮廷内部で政変が起こった。
・762年、粛宗は病死した。直前には張皇后が排除され、皇太子李豫が代宗として即位した。
 安史の乱を鎮圧しきることはできなかったものの、唐王朝の存続に重要な役割を果たした。

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⑧代宗(李豫・李俶)|安史の乱を終結させ、唐の再建を進めた皇帝

・代宗は粛宗の長子で、初名は李俶、のちに李豫と改名した。
 安史の乱では広平王として軍事活動に参加し、757年の長安・洛陽奪還に関与した。
 758年に皇太子となり、762年に粛宗が死去すると皇帝に即位した。
・即位当初、宦官・李輔国が強大な権力を握っていたが、
 代宗は程元振らを利用してその権限を奪い、 李輔国はまもなく殺害された。
 しかし、その後も程元振や魚朝恩などの宦官が宮廷と軍事に深く関与し、
 皇帝権力の回復は容易ではなかった。
・763年、史朝義が敗死し、約8年間続いた安史の乱は終結した。
 しかし、唐は反乱軍の旧将を河北の節度使として認めざるを得ず、
 地方の藩鎮が半独立的な権限を持つ状況が残った。

 同年には吐蕃軍が長安を一時占領し、代宗は都を脱出した。
 765年には僕固懐恩の反乱に伴い、吐蕃・回鶻の軍勢が唐を脅かした。
・内政では劉晏による塩の専売制度や漕運の整備が進み、
 江南の経済力を中央財政に取り込む仕組みが強化された。
 また、宰相元載の権勢が拡大したが、777年に元載を処刑した。
 779年に死去し、徳宗が即位した。

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⑨徳宗(李適)|両税法を導入し、藩鎮の反乱に直面した皇帝

・李適は代宗の長子で、779年に即位した。
 安史の乱以降に弱体化した中央財政と地方支配の立て直しを目指し、
 780年には宰相楊炎の建議によって両税法を導入した。
 従来の租庸調制に代わり、資産や土地などを基準として夏と秋に税を徴収する制度で、
 唐後期の財政を支える重要な改革となった。
・徳宗は藩鎮の世襲的支配を抑えようとしたが、
 河北などの有力節度使が反発し、781年から反乱が拡大した。

 783年には反乱鎮圧に向かう涇原の兵士が長安で反乱を起こし、徳宗は奉天へ逃亡した。
 朱泚は長安で皇帝を称し、唐王朝は深刻な危機に陥った。
・784年、李晟らの唐軍が長安を奪還し、徳宗は帰還した。
 しかし、藩鎮を武力で全面的に抑える政策は挫折し、
 その後は地方勢力との妥協を重視するようになった。
 なお、郭子儀は781年に死去しているため、784年の長安奪還には参加していない。
・治世後半には財政確保のための増税や献上品の徴収が強まり、
 皇帝直属の神策軍を掌握する宦官の権限も拡大した。
 徳宗は宦官を軍事面で重用し、竇文場・霍仙鳴らが神策軍を統率する体制が形成された。
 805年に死去した。

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⑩順宗(李誦)|永貞の革新を進めた在位約半年の皇帝

・李誦は徳宗の長子で、779年に皇太子となった。
 長い皇太子時代を過ごしたが、805年の即位前に中風を発症し、言語などに障害を抱えた。
 徳宗の死去によって皇帝に即位したものの、
 健康状態は回復せず、政務の遂行に大きな制約があった。
・順宗の即位後、王叔文・王伾らが政治改革を進めた。これが「永貞の革新」である。
 改革派は宦官の軍事的権限や地方行政の弊害を改めようとし、
 宮市などの不当な徴発を是正する政策にも取り組んだ。柳宗元・劉禹錫らも改革に参加した。
・しかし、宦官や反対派官僚との対立が激化し、改革は短期間で行き詰まった。
 宦官らは皇太子李純への譲位を進め、順宗は805年に退位して太上皇となった。
 王叔文らは失脚し、柳宗元・劉禹錫らも地方へ左遷された。
・順宗は806年に死去した。永貞の革新は短命に終わったが、
 唐後期の宦官支配と官僚政治の問題を示す事件となった。

⑪憲宗(李純)|元和中興によって藩鎮への中央支配を回復した皇帝

・李純は順宗の長子で、805年に父の譲位を受けて即位した。
 即位後は安史の乱以来弱体化していた中央の統制力を回復するため、藩鎮への軍事的圧力を強めた。
 その治世は「元和中興」と呼ばれる。
・806年には西川節度使劉闢の反乱を鎮圧し、817年には淮西の呉元済を討伐した。
 淮西攻略では李愬が雪の夜に蔡州へ奇襲をかけ、呉元済を捕らえた。
 この勝利は各地の藩鎮に大きな影響を与え、819年には平盧の李師道も滅ぼされた。
・憲宗は宰相裴度らを重用して軍事・財政政策を進めたが、
 藩鎮の統制を強化する一方で、宦官による軍事指揮にも依存していた。
 治世後半には仏教への傾倒が強まり、819年に仏舎利を宮中へ迎えた際には、
 これを批判した韓愈を潮州へ左遷した。
・晩年は不老長寿を求めて丹薬を服用し、性情が激しくなったと史書に記される。
 820年、宮中で急死した。
 宦官・陳弘志らによる殺害が伝えられるが、事件の詳細には不明な点も残る。

 憲宗の死後、子の穆宗が即位した。

⑫穆宗(李恒)|河北藩鎮の再自立を招いた皇帝

・李恒は憲宗の子で、820年に即位した。
 史書には遊興や宴飲を好み、政務への関心が薄かったと記される。
 憲宗が進めた藩鎮統制の成果を維持できず、中央と地方の関係は再び不安定になった。
・821年には成徳節度使の継承問題をきっかけに河北で反乱が起こり、
 盧龍・成徳などの藩鎮が再び中央政府に反抗した。
 唐軍は十分な成果を上げられず、朝廷は河北藩鎮の実質的な自立を再び認めることになった。
・外交面では821年から822年にかけて吐蕃との会盟が行われ、唐と吐蕃の関係安定が図られた。
 この盟約は長安とラサの碑文にも記録されている。
・穆宗は遊興中の事故や病気によって健康を損ない、824年に死去した。
 憲宗によって一時回復した中央の軍事的権威は、穆宗の治世に再び後退した。

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⑬敬宗(李湛)|遊興を好み、宮中で暗殺された皇帝

・李湛は穆宗の長子で、824年に即位した。
 即位時は15歳前後で、政治経験は乏しかった。
 史書には狩猟・球技・夜間の遊興を好み、政務を十分に顧みなかったと記される。
・敬宗は側近の宦官や近侍に対して厳しい処罰を加えることがあり、宮中で不満が高まった。
 また、朝廷では宦官・王守澄らが軍事・皇位継承に大きな影響力を持っていた。
・826年、敬宗は宮中で宦官・劉克明らによって殺害された。
 劉克明らは別の皇族を擁立しようとしたが、王守澄らがこれを鎮圧し、
 敬宗の弟・李昂を皇帝に立てた。
・敬宗の在位は約2年で、18歳で死去した。
 皇帝の近侍が皇帝を殺害し、別の宦官勢力が次の皇帝を擁立した事件は、
 唐後期の宮廷における宦官の影響力を象徴している。

⑭文宗(李昂)|甘露の変に失敗し、宦官排除を果たせなかった皇帝

・李昂は穆宗の子で、敬宗の弟。826年に敬宗が暗殺されると、
 宦官・王守澄らの支持を受けて即位した。
 文宗は学問を好み、政治の改善に意欲を示したが、
 宮廷では神策軍を掌握する宦官が強い権限を持っていた。
・即位後は官僚の登用や奢侈の抑制に取り組み、宦官勢力の排除も模索した。
 宰相李訓や鄭注らと協力して王守澄を失脚させたが、
 さらに宦官全体の権力を抑えようとしたことで、大規模な政変へと発展した。
・835年、李訓らは宮中に甘露が降ったと偽り、宦官を現場へ誘い出して殺害する計画を立てた。
 しかし、仇士良らが異変を察知して逃れ、神策軍を動員して反撃した。これが「甘露の変」である。
・政変後、李訓らは殺害され、多数の官僚やその一族が処刑された。
 文宗も宦官の監視下に置かれ、政治的自由を大きく制限された。
 史書には、皇帝でありながら家奴に制約されている境遇を嘆いたという逸話が残る。
・840年に病死した。文宗の死後、皇位継承にも仇士良らが介入し、弟の李炎が武宗として即位した。

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⑮武宗(李炎)|会昌の廃仏と藩鎮討伐を進めた皇帝

・李炎は穆宗の子で、文宗の弟。840年、文宗の死後に宦官・仇士良らの支持を受けて即位した。
 即位後は宰相李徳裕を重用し、朝廷の統制力回復と財政の立て直しを進めた。
・軍事面では、回鶻政権の崩壊に伴う北方情勢の変化に対応し、
 843年には昭義節度使劉稹の反乱を討伐した。
 藩鎮に対する中央政府の権威を示した点で、武宗の治世は軍事的にも重要である。
・武宗は道教を信仰し、仏教寺院が保有する土地・財産や僧尼の数を問題視した。
 845年には大規模な仏教弾圧を実施し、寺院の廃止、僧尼の還俗、寺院財産の没収を進めた。
 これが「会昌の廃仏」である。史書には多数の寺院が廃止され、
 約26万人の僧尼が還俗したと記録されている。
 ただし、寺院数や還俗者数は史料上の集計であり、実態には地域差があった。
・弾圧は仏教だけでなく、景教やゾロアスター教などの外来宗教にも及んだ。
 武宗は不老長寿を求めて丹薬を服用し、846年に病死した。
 丹薬の影響が死因に関係したとする記録もある。

⑯宣宗(李忱)|大中の治によって唐後期の安定を実現した皇帝

・李忱は憲宗の子で、穆宗の弟。
 皇族の中では長く政治の中心から遠ざかり、
 周囲から愚鈍であるかのように見られていたという逸話がある。
 846年、武宗の死後に宦官らの支持を受けて即位した。
・即位後は政務に熱心に取り組み、官僚の規律を重視した。
 宰相の人事や地方官の監督にも注意を払い、唐後期としては比較的安定した政治を実現した。
 この治世は「大中の治」と呼ばれ、宣宗は「小太宗」とも称された。

・武宗時代の会昌の廃仏を転換し、仏教寺院の再建を認めた。
 また、吐蕃の内乱によって西北辺境の支配が弱まると、河西・隴右方面の一部地域を回復した。
 敦煌では張議潮が吐蕃勢力を排除して唐への帰属を表明し、帰義軍の成立につながった。
・一方、宦官の軍事的権限や藩鎮の自立といった構造的な問題は解決されなかった。
 宣宗も晩年に丹薬を服用したと伝えられ、859年に死去した。息子の懿宗が即位した。

⑰懿宗(李漼)|財政負担と地方反乱が拡大した皇帝

・李漼は宣宗の長子で、859年に即位した。
 史書には音楽・宴飲・宮廷での遊興を好み、贅沢な生活を送ったと記される。
 宮廷支出の増大に加え、軍事費や地方行政の負担も重なり、唐の財政は厳しい状況に置かれた。
・治世中には浙東の裘甫の乱や、徐州を中心とする龐勛の乱が発生した。
 特に868年に始まった龐勛の乱は広い地域に波及し、唐軍は大規模な鎮圧戦を行った。
 こうした反乱は、地方の兵士や民衆の不満が高まっていたことを示している。
・南方では南詔との戦争が続き、安南方面などで唐の支配が脅かされた。
 戦争に伴う徴兵や財政負担は、地方社会の疲弊をさらに深めた。
・懿宗は仏教を篤く信仰し、873年には仏舎利を宮中へ迎える大規模な儀式を行った。
 多額の費用を要したこの行事は、史書でも批判的に記されている。
 同年に死去し、幼い僖宗が即位した。

⑱僖宗(李儇)|黄巣の乱で長安を失い、各地を流亡した皇帝

・李儇は懿宗の子で、873年に即位した。
 即位時は11歳前後で、宦官・田令孜が強い影響力を持ち、皇帝の側近として政務や軍事に関与した。
 僖宗自身は球技などの遊興を好んだと史書に記される。
・875年には王仙芝らの反乱が起こり、黄巣もこれに加わった。
 黄巣は各地を転戦して勢力を拡大し、880年に長安を占領した。
 僖宗は田令孜らとともに蜀へ逃れ、成都に滞在した。
 黄巣は長安で皇帝を称して斉を建国した。

・唐軍は李克用らの協力を得て883年に長安を奪還し、884年には黄巣の反乱勢力がほぼ壊滅した。
 しかし、反乱鎮圧に参加した節度使や軍閥の勢力は強大化し、
 唐の中央政府は地方を統制する力をさらに失った。
・885年に僖宗は長安へ戻ったが、田令孜と河中節度使王重栄らの対立から再び政情が悪化し、
 翌886年には鳳翔を経て興元へ逃れた。
 888年に長安へ帰還したものの、まもなく死去した。
 黄巣の乱とその後の軍閥抗争によって、唐王朝は事実上の分裂状態に陥った。

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田令孜とは|僖宗を「阿父」と呼ばせた宦官の専横と唐末の権力闘争

⑲昭宗(李曄)|宦官と軍閥の支配から皇帝権力を回復しようとした皇帝

・李曄は懿宗の子で、僖宗の弟。初名は李傑で、李敏を経て李曄と改名した。
 888年、僖宗の死後に即位した。昭宗は皇帝権力の回復を目指したが、
 当時の唐では李克用・朱全忠らの軍閥が各地に割拠し、
 宦官も宮廷軍を通じて大きな影響力を持っていた。

・昭宗は宦官・楊復恭の勢力を排除し、中央軍の再建や藩鎮への軍事行動を試みた。
 しかし、李克用への討伐は失敗し、中央政府の軍事力の弱さが明らかになった。
 895年には軍閥の圧力によって長安を離れるなど、皇帝自身の安全も脅かされた。
・900年には宦官・劉季述らによって廃位・幽閉され、皇太子が擁立された。
 翌901年に宦官内部の政変で復位したが、その後も韓全誨らの宦官勢力と宰相崔胤、
 朱全忠らの対立に巻き込まれた。
・901年末、昭宗は宦官らによって鳳翔へ移され、朱全忠が鳳翔を包囲した。
 903年に長安へ戻った後、朱全忠は宦官勢力を大規模に排除し、朝廷を掌握した。
 904年には昭宗を洛陽へ移し、同年に殺害した。

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楊復恭|昭宗を擁立した唐末の権力宦官と養子軍団の反乱
韓全誨とは|昭宗を鳳翔へ連行した天復の乱と唐末宦官政治の終焉
劉季述|昭宗を廃位し、皇太子を擁立した唐末の宦官

⑳哀帝(李柷)|朱全忠に禅譲を強制された唐最後の皇帝

・李柷は昭宗の子で、初名は李祚。
 904年、父の昭宗が朱全忠の命令によって殺害されると、幼くして皇帝に擁立された。
 この時点で朝廷の実権は朱全忠が掌握しており、哀帝が独自に政治を行う余地はほとんどなかった。
・朱全忠は唐の皇族や重臣を次々に排除し、905年には白馬駅で裴枢ら多数の高官を殺害した。
 これにより、唐王朝を支えてきた官僚層も大きな打撃を受けた。
・907年、朱全忠は哀帝に禅譲を強制し、自ら皇帝に即位して後梁を建国した。
 これによって618年に始まった唐王朝は滅亡し、中国は五代十国時代へ移行した。
・退位した哀帝は済陰王に降格され、翌908年に朱全忠の命令で殺害された。
 享年16歳。唐最後の皇帝は、王朝の滅亡後も生き延びることができなかった。

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王朝らしさ:

「華麗なる世界帝国 → 宮廷クーデターと宦官」

キーワード

空気感

  • 前半:世界帝国の絶頂
  • 中盤:反乱で衰退
  • 後半:宦官政治

物語性

  • 玄武門の変
  • 武則天の即位
  • 楊貴妃
  • 安史の乱

崩壊パターン

「安史の乱 → 藩鎮・宦官の台頭 → 黄巣の乱 → 軍閥による滅亡」

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