中国史に登場する猫たち|皇帝の愛猫から猫鬼の呪いまで

猫 通史・コラム

中国史には、猫を深く愛した皇帝がいる。

明の嘉靖帝は愛猫の死を悲しみ、金の棺を作らせたと伝えられる。同じ明の宮廷には猫を専門に世話する部署があり、猫に役職のような呼び名まで与えていた。

一方、猫を恐れ、呪術と結び付けた人々もいた。唐の武則天は、政敵が残した「猫に生まれ変わって復讐する」という呪いを恐れ、宮中で猫を飼うことを禁じたと史書に記されている。隋では、独孤皇后の異母弟・独孤陀が「猫鬼」と呼ばれる猫の霊を使って皇后を呪った疑いをかけられ、皇帝を巻き込む大事件に発展した。

書物を鼠から守る猫に詩を贈った文人もいれば、猫の姿を絵に残した皇帝もいた。中国史に登場する猫たちは、宮廷で寵愛される一方、呪いや怪異の象徴として恐れられることもあった。愛玩動物としてだけでなく、人々の暮らしや信仰、宮廷の事件にまで関わっていたのである。

1. 愛猫を金の棺に葬った嘉靖帝

明の第12代皇帝・嘉靖帝(朱厚熜、在位1521〜1567年)は、道教に傾倒した皇帝として知られるが、猫を非常にかわいがったことでも有名である。

その愛猫の名は「霜眉(そうび)」。

『日下旧聞考』に伝わる霜眉は、毛色が淡い青みを帯び、両眉の部分だけが雪のように白かったという。名前も、この特徴に由来している。

霜眉は皇帝によく懐いていた。嘉靖帝が歩き出すと先回りして案内するように進み、夜には皇帝のそばで眠ったとされる。単に宮中で飼われていた猫ではなく、皇帝の日常に寄り添う存在だった。

やがて霜眉が死ぬと、嘉靖帝は深く悲しみ、万歳山に葬らせた。墓には「虬龍冢(きゅうりゅうちょう)」という名が付けられたという。

さらに『万暦野獲編』には、嘉靖帝が飼っていた獅子猫の死に際して、金の棺を作らせたという逸話が残されている。

皇帝は猫の葬送に際し、臣下に弔いの文章を作るよう命じた。ところが、相手は人間ではなく猫である。学識豊かな官僚たちにとっても、簡単な仕事ではなかった。

そこで袁煒という官僚が、「化獅作龍」という表現を用いた文章を献じた。獅子猫が龍へと変わるという、皇帝の愛猫を格別に持ち上げた言葉である。

嘉靖帝はこれを喜び、袁煒は厚遇されたと伝えられている。

ただし、霜眉を葬った話と金の棺の話は、それぞれ異なる史料に記されたものである。後世には同じ猫の出来事として語られることが多いが、完全に同一の出来事だったと断定することはできない。

猫の死を国家の高官が悼み、その文章が官僚の出世にまで関わったという逸話は、皇帝の私的な愛情が宮廷政治に影響することもあったと伝えている。

2. 明の宮廷には猫専門の部署「猫児房」があった

嘉靖帝の猫好きは、明の宮廷で育まれた猫の飼育文化とも結び付いている。

明代の宮廷には「猫児房(びょうじぼう)」と呼ばれる、猫を専門に世話する部署があった。猫の飼育や管理を担当する人員が置かれ、多くの猫が宮中で暮らしていた。

猫たちは単に「猫」と呼ばれていたわけではない。性別や状態によって、独特の呼称が用いられていた。

雄猫は「某小廝」、雌猫は「某丫頭」、去勢された雄猫は「某老爺」などと呼ばれ、役職を与えられた猫には「猫管事」といった呼び名もあった。

「管事」は物事を取り仕切る役目を意味する。猫にまで宮廷の人間社会を思わせる呼称が与えられていたのである。

猫には「鉄衣将軍」「丹霞子」といった勇ましい名前も付けられたという。

もともと宮中で猫を飼うことには、鼠を捕らせるという実用的な目的があった。宮殿には木造建築が多く、食料や衣類、書物などを鼠から守る必要があったからである。

しかし、明代には猫を愛玩する文化が発達し、実用的な役割を超えて、皇帝や宮廷の人々にかわいがられる存在となった。

一方で、猫の飼育には費用もかかり、夜間の鳴き声などが問題になったという記録もある。宮廷の猫たちは、かわいがられるだけでなく、時には人々を悩ませる存在でもあった。

猫に専用の部署を設け、名前や呼称まで与えた明の宮廷には、現代の愛猫家にも通じる一面があった。

3. 武則天が宮中で猫を飼うことを禁じた理由

猫をかわいがる皇帝がいた一方で、猫を恐れたと伝えられる権力者もいる。

中国史上唯一の女性皇帝として知られる武則天(624〜705年)である。

武則天がまだ唐の高宗の皇后になる前、後宮には王皇后と蕭淑妃という二人の有力な女性がいた。蕭淑妃は高宗の寵愛を受けていたが、やがて武則天が台頭すると、その地位を脅かされることになった。

655年、王皇后と蕭淑妃は廃され、武則天が新たな皇后となった。二人はその後、命を奪われたと伝えられている。

『旧唐書』巻51「后妃上」には、蕭淑妃が最期に武則天を激しく罵り、次のような呪いを残したと記されている。

願阿武為老鼠、吾作猫児、生生扼其喉

武則天を鼠に、自分を猫に生まれ変わらせ、何度生まれ変わってもその喉を締め上げてやる、という意味である。

この言葉を聞いた武則天は怒り、それ以降、宮中で猫を飼うことを禁じたという。

『新唐書』にも同様の逸話があり、武則天が後宮に猫を飼わせないよう命じたと記されている。

この話では、猫は愛らしい動物ではなく、死者の怨念と復讐を象徴する存在として登場する。

もっとも、『旧唐書』や『新唐書』は後世に編纂された史書であり、武則天には残虐な権力者として描かれた逸話も多い。

したがって、宮中で猫の飼育が禁じられたという記述は史料に確認できるものの、その理由を武則天個人の恐怖心だけに求めることには慎重であるべきだろう。

いずれにしても、蕭淑妃の呪いは、中国史において猫が復讐や怨霊と結び付けられた、よく知られた逸話となった。

↓↓武則天、王皇后についての個別記事は、こちら

【唐】武則天(則天武后)|中国唯一の女帝が皇帝になるまでと治世
武則天(ぶそくてん)は唐太宗の才人から高宗の皇后となり、690年に武周を建国した中国史上唯一の女帝である。王皇后・蕭淑妃との後宮争いを経て政治権力を掌握し、李唐皇族の粛清や酷吏政治を進める一方、科挙を通じて人材を登用。狄仁傑らを重用し、武氏への皇位継承問題、張易之・張昌宗の寵遇、705年の神龍政変と退位まで詳しく解説する。
【唐】王皇后|武則天に敗れた皇后の宮廷悲劇
王皇后(おうこうごう)は唐高宗・李治の正妻から皇后となった女性である。子がないまま蕭淑妃と寵愛を争い、対抗するため武則天を後宮へ迎えたと伝わるが、やがて武則天と対立。皇女死亡事件や厭勝事件、長孫無忌ら元老の反対を経て廃后となり、蕭淑妃とともに殺害された。その生涯と武則天台頭の経緯を史書から詳しく解説する。

4. 猫の霊を操り、皇后を呪った独孤陀

隋の初代皇帝・文帝(楊堅)の皇后、独孤伽羅には、独孤陀という異母弟がいた。

独孤陀は隋の高官として仕えていたが、呪術を好み、「猫鬼」と呼ばれる怪異を使って人を害した疑いをかけられた。

猫鬼とは、猫の霊を使役して他人を呪い殺し、その家の財産を術者のもとへ移すと信じられていた存在である。普通の猫ではなく、猫にまつわる呪術的な怪異だった。

↓↓隋の初代皇帝・文帝(楊堅)とその皇后・独孤伽羅についての個別記事は、こちら

【隋】楊堅|中国を再統一した隋の文帝の生涯と功績
楊堅(ようけん/文帝)は北周の外戚から実権を握り、581年に隋を建国した初代皇帝である。尉遅迥らの反乱を鎮圧し、大興城を造営して官制・律令・税制・軍制を整備。589年には楊広らを南朝陳へ送り、長く続いた南北分裂を終わらせた。開皇の治と突厥政策、独孤伽羅との関係、楊勇を廃して楊広を皇太子とした後継問題まで詳しく解説する。
【隋】独孤伽羅|隋の建国を支え「二聖」と称された文献皇后
独孤伽羅(どっこから/独孤皇后)は北周の重臣・独孤信の娘として生まれ、14歳で楊堅に嫁ぎ、隋建国後に皇后となった女性である。文帝と政治を論じ「二聖」と称された一方、夫に他の女性との子を持たせず、寵愛した尉遅氏をめぐる激しい逸話も残る。皇太子楊勇を嫌い、晋王楊広を支持したことは隋の皇位継承にも影響した。夫婦の誓いから政治参加、楊広が皇太子となるまでを詳しく解説する。

皇后と重臣の妻が相次いで病に倒れる

『隋書』巻79によれば、独孤陀の妻の母親は以前から猫鬼を祀っており、その信仰が独孤陀の家にも伝わっていた。

あるとき、独孤皇后と重臣・楊素の妻である鄭氏が相次いで病に倒れた。医師たちは二人の病を「猫鬼疾」、すなわち猫鬼による病だと診断した。

独孤陀は独孤皇后の異母弟であり、その妻は楊素の異母妹だった。二人の患者と親族関係にある独孤陀を、文帝は疑うようになった。

文帝は独孤陀に事情を尋ねたが、本人は関与を否定した。その後、独孤陀が不満を口にしたため、高熲や蘇威らの高官に命じて事件を調べさせた。

鼠を供え、猫鬼を呼び出す呪術

取り調べで重要な証言をしたのは、独孤陀の家に仕えていた徐阿尼という侍女だった。

徐阿尼は以前から猫鬼を祀り、十二支の「子」に当たる日の夜に、鼠を供えていたという。

彼女の証言によれば、独孤陀は金銭に困った際、楊素の家に猫鬼を向かわせて財産を得ようとした。さらに開皇11年(591年)には、独孤皇后のもとへ猫鬼を送り、多くの財物を手に入れようとしたという。

取り調べでは、徐阿尼に猫鬼を呼び出させることになった。

彼女は夜、香りのある粥を盆に盛り、匙で叩きながら「猫女よ、こちらへ来なさい。宮中にとどまってはいけない」と呼びかけた。

しばらくすると徐阿尼の顔色が青く変わり、何者かに引っ張られるような様子を見せた。そして「猫鬼が来た」と告げたという。

これは『隋書』に記された取り調べの経過であり、実際に猫の霊が現れたことを証明するものではない。

死罪を免れた独孤陀と猫鬼への取り締まり

事件の報告を受けた文帝は激怒し、独孤陀夫妻を死罪にしようとした。

しかし、独孤陀の弟・独孤整が助命を嘆願したため、独孤陀は処刑を免れ、官職を剥奪されて庶民に落とされた。妻の楊氏は出家させられた。

『資治通鑑』には、独孤皇后自身も三日間食事を取らず、弟の命を救うよう文帝に願い出たと記されている。

文帝はそれまで、猫鬼によって家族を殺されたと訴える者を迷信だとして退けていた。ところが、独孤皇后自身が病に倒れたことで態度を変え、猫鬼の呪術を行ったと訴えられた者たちへの取り締まりを命じた。

開皇18年(598年)には、猫鬼や蠱毒などの呪術を行う者を辺境へ追放する詔も出された。

独孤陀の事件は、猫鬼という呪術への信仰が宮廷にまで及び、皇后の病や皇族の処罰、国家による取り締まりに結び付いた事件だった。

5. 愛猫に詩を贈った南宋の詩人・陸游

皇帝や後宮の女性だけが、猫に特別な感情を抱いていたわけではない。

南宋の詩人・陸游(1125〜1210年)は、生涯に数多くの詩を残した人物であり、その作品には猫がたびたび登場する。

陸游は愛国的な詩人として知られ、金に奪われた北方の領土を回復することを願い続けた。しかし、彼の詩には国家や政治への思いだけでなく、田園での暮らしや身近な動物への愛情も描かれている。

その一つが「贈猫」である。

裹塩迎得小狸奴
尽護山房万巻書
慚愧家貧策勲薄
寒無氈坐食無魚

陸游は塩を包んで小さな猫を迎え入れた。その猫は書斎の膨大な蔵書を鼠から守ってくれたが、家が貧しいため、寒い日に敷いてやる毛氈もなく、食べさせる魚もない。それを申し訳なく思う、という内容である。

当時、猫を譲り受ける際に塩を贈る風習があったことも、この詩からうかがえる。
「塩」と「縁」の発音が似ていることに由来するとされている。

詩に登場する「狸奴」は、猫を意味する雅称である。

猫は鼠を捕るために迎えられたものの、陸游はその働きを当然とは考えていなかった。大切な書物を守ってくれる猫に感謝し、十分な待遇を与えられないことを詫びているのである。

陸游が猫を詠んだ詩は二十首余りあるとされ、飼い猫には「雪児」「粉鼻」「小於菟」といった名前も付けていた。

雪児は白い猫、粉鼻は鼻の色、小於菟は小さな虎を連想させる名である。猫の姿や特徴をもとに名付けたことがうかがえる。

皇帝の愛猫とは違い、陸游の猫たちは豪華な宮殿で暮らしていたわけではない。しかし、書斎で鼠を捕り、詩人の日常に寄り添った猫の姿は、詩のなかに生き生きと残されている。

政治的な理想を実現できず、失意を経験した陸游にとって、身近な猫たちとの暮らしは、日常のささやかな喜びでもあったのだろう。

5. 猫の絵を描いた宣徳帝・朱瞻基

明の第5代皇帝・宣徳帝(朱瞻基、在位1425〜1435年)は、政治だけでなく、書画にも優れた才能を示した皇帝だった。

宣徳帝は花鳥画や動物画を好み、猫を題材にした作品も残している。

伝えられる作品には「花下狸奴図」「仿元王淵五狸奴図」「仿宣和筆宮猫図」などがある。

なかでも「仿宣和筆宮猫図」には、七匹の猫が描かれている。

作品には重臣・楊士奇の題詩もあり、猫の絵が皇帝一人の楽しみにとどまらず、臣下との文化的な交流にも用いられていたことがわかる。

宣徳帝の時代は、明の政治が比較的安定していた時期でもある。皇帝は政務を執る一方で、絵画を制作し、臣下に作品を与えることもあった。

猫の絵を描いたという事実だけで、宣徳帝が実際に何匹の猫を飼っていたか、どれほど猫好きだったかまでは判断できない。

しかし、皇帝自身が猫を絵画の題材に選んだことは、猫が宮廷文化のなかで鑑賞に値する存在として扱われていたことを示している。

後の嘉靖帝が愛猫の葬送にまで心を砕いたのに対し、宣徳帝は猫の姿を絵画に残した。二人の皇帝の逸話からは、明の宮廷における猫との関わり方の違いが見えてくる。

↓↓宣徳帝についての個別記事は、こちら

朱瞻基(宣徳帝)|仁宣の治を完成させた明第5代皇帝の生涯と実像
朱瞻基(しゅせんき/宣徳帝)は明の第5代皇帝で、叔父朱高煦の反乱を自ら鎮圧して皇位を守り、三楊と呼ばれる重臣たちを登用して政治の安定を図った。父洪熙帝とともに「仁宣の治」と称される繁栄期を築いた一方、寵愛する孫氏を皇后に立てるため胡善祥を廃し、宦官の政治関与につながる制度も整えた。領土拡張より国内の安定を優先した宣徳帝の功績と、その治世に残された問題をたどる。

長寿の象徴となった猫|明・清代の「耄耋図」

中国では、猫は鼠を捕る動物や愛玩動物としてだけでなく、長寿を願う吉祥の象徴としても親しまれた。

その代表が、猫と蝶を組み合わせた「耄耋図(もうてつず)」である。中国語では「猫」と「耄」、「蝶」と「耋」の発音が近く、「耄耋」は80〜90歳ほどの高齢を意味する。この語呂合わせから、猫と蝶を一緒に描くことで長寿への願いを表した。

こうした図案は清代に始まったものではない。明代の画家・孫克弘は、猫が空を舞う蝶を見上げる姿を描いた『耄耋図』を残している。猫が蝶を捕まえようとする何気ない光景に、長寿を祝う意味が込められていた。

清代にもこの伝統は受け継がれ、猫と蝶を描いた絵画や工芸品が制作された。さらに、富貴を象徴する牡丹を組み合わせ、長寿と豊かさをともに願う図案も見られる。

猫と蝶が戯れる愛らしい姿は、単なる動物画ではなく、長生きしてほしいという願いを伝える縁起のよい題材でもあった。

猫は中国史のなかで、どのように扱われてきたのか

中国で猫が飼われた大きな理由の一つは、鼠を捕る能力にあった。食料や衣類、書物を鼠の被害から守る猫は、人々の暮らしに欠かせない存在だった。

宋代には、猫を迎える際に塩や魚を贈る「聘猫」という風習もあった。南宋の陸游は、塩を包んで迎えた猫が蔵書を守ってくれることを詩に詠み、十分な食事や寝床を与えられないことを申し訳なく思っている。猫は実用的な役割を果たすだけでなく、家族のように親しまれる存在にもなっていた。

一方、猫は呪術や怪異とも結び付けられた。隋では独孤皇后の異母弟・独孤陀が「猫鬼」を使って皇后を呪った疑いをかけられ、国家による呪術の取り締まりにまで発展した。唐の武則天も、猫に生まれ変わって復讐するという蕭淑妃の呪いを恐れ、宮中で猫を飼うことを禁じたと伝えられている。

明代になると、宮廷には猫を専門に世話する「猫児房」が置かれ、宣徳帝は猫を題材とした絵画を残した。嘉靖帝は愛猫の死を深く悲しみ、墓を築かせ、金の棺で葬ったという逸話まで伝わっている。

鼠を捕る働き者として迎えられ、詩人に愛され、皇帝に寵愛される一方で、呪いをもたらす存在として恐れられることもあった。中国史に残る猫の記録には、動物に対する人々の愛情だけでなく、当時の信仰や迷信、宮廷社会の習慣までもが映し出されている。

お薦め商品

【お薦め】中国史がテーマのマンガ・小説・書籍
中国史をテーマにしたおすすめのマンガ・小説・書籍を紹介。『キングダム』や『三国志』だけでなく、歴代王朝の興亡や英雄たちの活躍、宮廷の権力争いを描いた作品など、中国史の魅力を楽しめる一冊を探せる。

関連リンク

中国史の皇族・王族一覧|皇子・親王・諸侯王など歴代王朝の人物を紹介 | 趣味の中国
中国史の軍師・策士一覧|知略で天下を動かした有名な軍師たち | 趣味の中国
中国史の政治家・文官一覧|宰相・名臣・奸臣など歴代王朝の人物 | 趣味の中国
中国史の権臣一覧|皇帝を凌ぐ権力を握った有名な実力者たち | 趣味の中国
中国史の皇后一覧|中国王朝を動かした有名な皇后たち | 趣味の中国
中国史の妃嬪一覧|歴代皇帝の有名な妃・貴妃・皇貴妃を時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の公主一覧|歴史に名を残した王女たちをわかりやすく紹介 | 趣味の中国
中国史の美女一覧|時代別まとめ(四大美女・傾国・亡国・悲劇の美人) | 趣味の中国
中国史の美男一覧|中国四大美男と歴史に残るイケメン人物 | 趣味の中国
中国史の武将一覧|歴史に名を残した猛将・知将・名将たち | 趣味の中国
中国史の女傑一覧|戦場・反乱で活躍した女性たちを時代別に紹介 | 趣味の中国
中国史の文人・学者一覧|有名な詩人・思想家・歴史家・書家 | 趣味の中国
中国史の才女一覧|才や徳で有名な女性たちの生涯と特徴を解説 | 趣味の中国
中国の宦官とは?有名な宦官、王朝ごとの役職・階級、宦官による機関など | 趣味の中国