段韶(だんしょう ?-571年)は、東魏から北斉にかけて活躍した軍人・政治家であり、
高歓政権の創設から北斉最盛期に至るまで数十年にわたって国家を支え続けた名将である。
北斉史では蘭陵王高長恭や斛律光がよく知られているが、
段韶もまた高歓政権の成立期から北斉後期まで軍事・政治の両面で重用された重臣であった。
高歓は晩年に後継者の高澄へ「軍事の大事は段韶と相談せよ」と遺言しており、
その信頼は群臣の中でも特別なものであった。
段韶は若い頃から戦場で武功を重ねただけでなく、
地方統治や中央政治にも優れた能力を発揮し、東魏・北斉の歴代君主から重用された。
さらに西魏・北周との長年にわたる戦争で多くの戦功を挙げ、
北斉を代表する将軍の一人として知られるようになった。
本記事では段韶の生涯をたどりながら、その軍事的才能、政治的役割、人物像、
そして後世の評価について詳しく解説する。
名門段氏の出身と高歓との関係
段韶は武威郡姑臧県を本貫とする段氏の出身である。
父の段栄は北魏末期の有力軍人であり、
母の婁信相は高歓の正妻として知られる婁昭君の姉であった。
そのため段韶は高歓の甥にあたり、若い頃から高歓のもとで活動した。
段韶が生きた時代の北魏は大きな混乱の中にあった。
523年に六鎮の乱が発生すると北魏の統治体制は大きく揺らぎ、
その後も反乱や権力闘争が相次いだ。
528年には爾朱栄が河陰の変を起こして朝廷の実権を掌握し、
北魏は軍事勢力が政治を左右する時代へ入っていく。
高歓もまたこの混乱の中で勢力を伸ばした人物であった。
当初は爾朱氏配下の武将の一人にすぎなかったが、やがて独自の勢力を築き、
後の東魏政権成立へつながる基盤を築いていく。
段韶はこうした高歓の台頭を間近で見ながら成長した。
528年、段韶は親信都督となった。
若くして高歓の側近集団に加わったことが確認できる最初期の記録である。
この時点ではまだ名将として知られる存在ではなかったが、
その後の爾朱氏討伐や東魏建国戦争で軍功を重ね、次第に頭角を現していくことになる。


爾朱氏討伐と東魏建国戦争
531年、高歓は爾朱氏との全面対決へ踏み切った。
爾朱栄が暗殺された後も、その一族は北魏政権に大きな影響力を持っており、
特に爾朱兆は華北有数の軍事勢力を維持していた。
高歓にとって爾朱氏との戦いは、自らの勢力の命運を左右する重要な戦争であった。
段韶はこの戦争に参加し、広阿で爾朱兆軍と戦った。
さらに鄴の劉誕討伐にも従軍して功績を挙げている。
532年に行われた韓陵の戦いは北魏末期最大の決戦として知られる。
高歓軍は爾朱氏連合軍と激突し、兵力では劣勢であったものの勝利を収めた。
段韶は部下を率いて先鋒を務め、敵陣への攻撃で戦功を立てたという。
この勝利によって爾朱氏の勢力は大きく衰退し、高歓は華北最大の実力者となった。
後の東魏成立、さらに北斉建国へつながる流れを考えれば、
韓陵の戦いは北朝史の大きな転換点であった。
533年には高歓に従って晋陽へ進出し、敗走した爾朱兆を赤谼嶺で破った。
この功績によって段韶は下洛県男に封じられている。
爾朱氏討伐戦争を通じて、段韶は高歓軍の有力将軍として知られるようになった。
後年の活躍に比べればまだ若手武将の一人であったが、
この時期に積み重ねた軍功が、その後の昇進と重用の基礎となったのである。
↓↓北魏の権臣爾朱栄についての個別記事は、こちら

東魏と西魏の対立の中で成長する
534年、北魏は東魏と西魏に分裂した。
東魏では高歓が実権を握り、西魏では宇文泰が台頭したため、
以後の北朝世界は両勢力による長期抗争の時代へ入る。
段韶もこの戦争の中で軍人としての経験を積んでいった。
536年には夏州攻撃に参加し、西魏側の有力者である斛抜弥俄突を捕らえて軍功を立てている。
以後、龍驤将軍・諫議大夫・武衛将軍などを歴任し、東魏軍の有力将軍として地位を高めていった。
542年、東魏と西魏は邙山で大規模な戦いを繰り広げた。
戦後、高歓が退却する途中で西魏の賀抜勝による追撃を受けると、
段韶は急行してこれを救援した。
『北斉書』には、段韶が一矢で敵兵を射倒し、
その威勢によって西魏軍が前進をためらったと記されている。
この戦功によって段韶の爵位は公へ進められた。
西魏との長年にわたる戦争の中で、
段韶は高歓配下の有力将軍の一人として知られるようになっていく。
↓↓西魏の実権を掌握した宇文泰についての個別記事は、こちら

玉壁の戦いと高歓の遺命
546年、東魏軍は西魏の要衝である玉壁を攻撃した。
玉壁は名将韋孝寛が守る堅城であり、高歓自ら大軍を率いて攻略にあたった。
しかし韋孝寛の巧みな防衛によって東魏軍は苦戦し、攻略に失敗する。
長期包囲による消耗も大きく、高歓自身も病に倒れたため、東魏軍は撤退を余儀なくされた。
この玉壁の戦いは、高歓の生涯における最後の大遠征となった。
晋陽へ帰還した高歓は病床に伏し、自らの死が近いことを悟ったという。
そして後継者となる高澄に対し、今後の軍事の重大事については段韶と相談して決めるよう命じた。『北斉書』にも記録されるこの遺命は、
段韶が高歓から深く信任されていたことを示す逸話として知られている。
高歓の周囲には斛律金や高岳をはじめ有力な将軍や重臣が数多く存在したが、
その中で段韶の名が挙げられたことは注目される。
若い頃から高歓に従って各地を転戦し、爾朱氏討伐や西魏との戦争で軍功を重ねてきた段韶は、
この頃には東魏軍を代表する将軍の一人となっていた。
547年、高歓は晋陽で死去した。
しかし段韶の役割は終わらなかった。高歓亡き後も高澄・高洋らに仕え、
東魏から北斉への移行期を支える重臣として活動を続けていくことになる。
侯景の乱と北斉建国を支えた重臣
547年に高歓が死去すると、その後継者である高澄は政権の維持という難題に直面した。
高歓の死から間もなく、有力将軍の侯景が反乱を起こしたためである。
侯景はもともと高歓配下の将軍として河南方面を任されていたが、
高澄との対立を深めて反旗を翻した。
やがて南朝梁へ降り、この反乱は東魏と梁の双方を巻き込む大事件へ発展する。
後に建康陥落と梁王朝の衰退につながったことから、
中国史上でも大きな影響を与えた反乱として知られている。
このとき段韶は晋陽の留守を任された。
晋陽は高歓が本拠地とした都市であり、東魏軍事体制の中心でもあった。
高澄が鄴へ戻って反乱鎮圧にあたる一方、段韶は晋陽の守備と後方の安定維持を担当した。
この功績により段韶は長楽郡公に封じられ、真定県男の別封を受けた。
また并州刺史の任を代行し、軍事だけでなく地方行政にも携わるようになる。
549年、高澄が暗殺されると、高歓の次男である高洋が政権を掌握した。
そして550年、高洋は東魏から禅譲を受けて即位し、北斉を建国する。
これにより東魏は滅び、新たに北斉王朝が成立した。
北斉建国後も段韶は重用され、朝陵県・覇城県の別封を受けるとともに特進の位を加えられた。
同年10月には尚書右僕射に任じられ、北斉政権の中枢に列している。
また、この頃の段韶には一族を重んじる逸話も残されている。
彼は継母の梁氏のために安定郡君の封号を求め、さらに覇城県侯の爵位を異母弟の段孝言へ譲った。
こうした行動は『北斉書』にも記録されており、
段韶の人物像をうかがわせる逸話の一つとなっている。
↓↓若き後継者高澄と先代の有力家臣侯景についての個別記事は、こちら


南朝梁との戦争と国境経営
553年末、北斉南部で大規模な騒乱が発生した。
梁の将軍 東方白額が宿預に潜入し、北斉支配下の住民を扇動して長吏を殺害させたのである。
淮水・泗水流域は一気に不穏な情勢となり、梁の諸将もこれに呼応して国境地帯へ圧力を加えた。
554年、段韶はこの事態の鎮圧を命じられた。しかし相手は単なる反乱軍ではなかった。
東方白額の反乱に加え、厳超達の軍が涇州へ迫り、陳霸先率いる梁軍は広陵方面で活動し、
さらに尹思令も盱眙をうかがっていた。
北斉南部では複数の勢力が同時に動いており、
一つの戦場で勝敗を決すれば終わる状況ではなかったのである。
段韶はまず敬顕儁・堯難宗らに宿預の守備を任せ、自らは数千の兵を率いて機動的に行動した。
盱眙へ向かうと、尹思令は段韶の到着を知って退却した。
続いて厳超達と戦い、これを撃破して戦艦や兵器を鹵獲する。
さらに広陵方面へ進出したが、陳霸先はすでに軍を退いていたため、
段韶は楊子柵まで進軍して揚州方面の情勢を確認したのち宿預へ帰還した。
この時に対峙した陳霸先は、後に南朝陳を建国した人物である。
両者の間で決定的な会戦は行われなかったものの、陳の建国者と北斉を代表する名将が、
すでにこの時期に同じ戦場で活動していたことは興味深い。
段韶の対応で特に注目されるのは、東方白額への処置である。
段韶は武力による制圧だけでなく、使者を派遣して東方白額を説得し、
流血を最小限に抑えながら反乱勢力を降伏させた。
東方白額は最終的に開門して降伏したが、反乱の首謀者として処刑された。
これにより長年続いた騒乱は終息し、北斉南部の国境地帯は安定を回復した。
この功績によって段韶は平原郡王に封じられた。
さらに555年には郢州方面へ進出し、魯城を築くとともに新蔡へ郭黙戍を設置して帰還している。
反乱鎮圧と国境防衛を並行して進め、占領地域に城塞や守備拠点を整備していったことは、
この時期の段韶が単なる前線指揮官ではなく、
北斉南方防衛全体を担う存在となっていたことを示している。

北斉最盛期を支えた重臣
558年、段韶は司空に任じられた。
翌559年には司徒へ昇進し、560年には大将軍・太子太師、561年には大司馬となっている。
いずれも北斉における最高級の官職であり、
この頃には段韶が軍事・政治の両面で朝廷を支える重臣となっていたことがうかがえる。
この時期の北斉は最盛期を迎えていた。
文宣帝高洋の治世を経て国力は充実し、西方の北周に対しても優位を保っていた。
しかし一方で、文宣帝高洋の死後には皇位継承をめぐる混乱が続き、
朝廷内部では権力争いも絶えなかった。
そうした中でも段韶は歴代皇帝の信任を受け続けた。
562年、冀州で高帰彦が反乱を起こすと、
段韶は東安王婁叡とともに討伐軍を率いて鎮圧にあたった。
高帰彦は高歓の甥であり、北斉皇室とも近い関係にあったが、
段韶らの出兵によって反乱は短期間で平定された。
この功績により段韶は太傅へ進み、高帰彦の所有していた果樹園千畝を与えられている。
高歓の挙兵から三十年以上が過ぎたこの頃、段韶はすでに北斉を代表する重臣の一人となっていた。

晋陽防衛戦
563年12月、北周の武帝宇文邕は楊忠を派遣し、突厥の木汗可汗と連携して晋陽への攻撃を開始した。
晋陽は高歓以来の本拠地であり、北斉にとって軍事・政治の両面で極めて重要な都市であった。
そのため北周・突厥連合軍の侵攻は、北斉にとって大きな危機となった。
この報を受けた武成帝高湛は鄴から急行し、自ら晋陽救援に向かった。
当時は大雪の直後であり、北周軍は歩兵を先頭に西山を越えて城西近くまで進出していた。
敵軍が目前に迫ったため、北斉軍の諸将の中にはただちに出撃して決戦を挑むべきだ
と主張する者も少なくなかった。
しかし段韶は拙速な出撃を避け、敵の消耗を待ってから反撃すべきだと進言した。
積雪の深い中で無理に攻勢へ出れば自軍も大きく消耗すると考えたのである。
また、遠征軍である周軍と突厥軍はすでに雪中行軍によって疲弊しており、
時間が経てばさらに不利になることも見抜いていた。
やがて北斉軍が反撃に転じると、戦況は一変した。
北周軍の先鋒となっていた歩兵部隊は大きな損害を受け、連合軍は戦線を維持できなくなった。
残余の兵は夜陰に紛れて撤退し、段韶は騎兵を率いて追撃したが、
敵軍はすでに退却を始めていたため捕捉することはできなかった。
この勝利により晋陽は守られ、北周・突厥連合軍の攻勢は失敗に終わった。
段韶はその功績によって懐州武徳郡公の別封を受け、さらに太師へ進んでいる。
晋陽防衛戦は、北周との長い対立の中でも北斉側の代表的な勝利の一つとして知られている。
↓↓北斉の武成帝高湛と北周の武帝宇文邕についての個別記事は、こちら


宇文護との外交問題
晋陽防衛戦の頃、北周との関係をめぐる重要な外交問題が持ち上がった。
北周の実力者・宇文護の母である閻氏は長年北斉に留め置かれていたが、
宇文護は母の生存を知ると返還を求め、あわせて北斉との通交を申し入れた。
武成帝高湛は黄門侍郎の徐世栄を派遣し、
この問題について北辺で突厥への備えにあたっていた段韶に意見を求めた。
段韶は、北周が国力を蓄えている現状を踏まえ、
今回の和約は閻氏の返還を目的とした一時的なものに過ぎないとして慎重論を唱えた。
しかし武成帝高湛はこれを採用せず、閻氏を北周へ送り返した。
宇文護は母との再会を果たし、両国関係は一時的に改善したものの、
その後まもなく北周は尉遅迥らを派遣して洛陽方面へ侵攻する。
北斉は蘭陵王高長恭や斛律光を出撃させて対抗したが、戦局は容易に好転しなかった。
段韶の懸念は結果的に現実のものとなったのである。


洛陽救援と北斉三名将
宇文護との和約が破綻すると、北周軍は再び北斉への攻勢を開始し、洛陽を包囲した。
洛陽は黄河流域を支配するうえで極めて重要な都市であり、西方防衛の要でもあった。
ここを失えば北斉の防衛線は大きく後退し、北周に対する戦略全体が揺らぐ危険があった。
北斉はまず蘭陵王高長恭と斛律光を派遣して救援にあたらせた。
しかし北周軍の包囲は堅く、戦況は容易に動かなかった。
そこで段韶は晋陽から千騎を率いて南下し、救援軍へ加わることとなった。
この戦役が特に知られているのは、北斉を代表する三人の名将が同じ戦場で主力を率いたためである。段韶が左軍、蘭陵王高長恭が中軍、斛律光が右軍を担当し、北周軍との決戦に臨んだ。
戦闘に先立ち、段韶は北周軍に対して宇文護の背信を非難したと伝えられる。
やがて北周軍は歩兵を前面に押し出し、山を登りながら攻勢を開始した。
しかし段韶は拙速な決戦を選ばなかった。
騎兵を率いて後退しながら戦い、敵歩兵の体力が奪われるのを待ったのである。
北周軍は険しい地形を進みながら攻撃を続けたが、そのぶん消耗も激しかった。
十分に機が熟したと判断すると、段韶は反撃へ転じた。
自らも下馬して白兵戦を指揮し、北斉軍は一気に北周軍の戦列へ襲いかかった。
激戦の末に北周軍は総崩れとなり、退却する兵は谷へ追い落とされて多数の死傷者を出したという。
こうして洛陽包囲は解かれた。
邙山から穀水にかけての三十里余りには、
北周軍が遺棄した軍需物資が山のように積み上がったと伝えられている。
戦後、武成帝高湛は自ら洛陽へ赴き、河陰で酒宴を開いて将兵の労をねぎらった。
段韶はこの功績によって太宰に任じられ、霊武県公に封じられている。
段韶にとっては、
若き日に高歓に従って戦場へ出た頃から積み重ねてきた軍歴の集大成ともいえる勝利であり、
その名声はこの頃に頂点へ達したのである。
↓↓北斉三名将の二人、蘭陵王高長恭と斛律光についての個別記事は、こちら


左丞相となり北斉最高位の重臣へ
565年、段韶は太尉を兼ね、節を持って皇帝の璽綬を皇太子高緯のもとへ届ける役目を務めた。
皇位継承に関わる重要な儀礼を任されたことは、
段韶が皇室から厚い信任を受けていたことを示している。
さらに567年には左丞相に任じられた。
高歓の甥として出発した段韶であったが、
この頃には軍事だけでなく政治面でも北斉を支える最高位の重臣となっていた。
もっとも、この時代の北斉は全盛期の頂点を過ぎつつあった。
北周では武帝宇文邕が改革を進めて国力を増強し、両国の差は徐々に縮まりつつあった。
一方の北斉では皇族間の対立や宮廷政治の混乱が目立ちはじめていた。
↓↓蘭陵王高長恭と斛律光を悲劇に導いた後主・高緯についての個別記事は、こちら

柏谷城・姚襄城攻略
571年正月、段韶は晋州道から出陣し、定隴方面へ進軍した。
ここで威敵城と平寇城の二城を築き、防衛線の強化を進めている。
当時の北周は西方国境への圧力を強めており、北斉としては単に敵を撃退するだけではなく、
将来の侵攻に備えた拠点整備も急務となっていた。
段韶は攻勢と防衛を同時に進める必要性を理解しており、
まず国境地帯の基盤固めから着手したのである。
まもなく北周軍が侵攻すると、段韶は右丞相斛律光、太尉蘭陵王高長恭らとともに迎撃に向かった。
西方国境へ到着した際、多くの将軍は敵情を見極めるべきだとして慎重論を唱えた。
しかし段韶は、敵軍の準備が整う前に主導権を握るべきだと判断し、自ら柏谷城への攻撃を主張した。
その結果、柏谷城は陥落し、北周の儀同薛敬礼を捕虜とすることに成功した。
さらに多くの敵兵を討ち取り、華谷に築城して守備兵を配置している。
この戦果は単なる局地的勝利ではなく、西方防衛線を前進させる意味を持っていた。
段韶は続いて姚襄城攻略へ乗り出した。
北周軍は姚襄城南方に新城を築いて交通路を遮断していたが、段韶は正面攻撃だけに頼らなかった。
まず北側から敵拠点を圧迫しながら、
密かに兵を渡河させて姚襄城内部の内応者と連絡を取ったのである。
そして機が熟すと内外から同時に攻撃を加え、姚襄城を陥落させた。
この戦いで若干顕宝ら北周の将校が捕虜となった。
姚襄城攻略は段韶晩年の代表的戦例の一つである。
正面から兵力をぶつけるのではなく、内応工作と軍事行動を組み合わせて勝利を収めた点は、
彼が単なる猛将ではなく、状況に応じて柔軟な戦術を用いる指揮官であったことを示している。
定陽攻略と最期
姚襄城を落とした後、段韶はさらに定陽を包囲した。
城主楊範は徹底抗戦の構えを見せたが、
段韶は周辺地形を調査したうえで攻撃を開始し、まず外城を陥落させる。
楊範らが子城へ立てこもると、
今度は東南方面の包囲を意図的に薄くして脱出路があるように見せかけた。
北周軍は夜間に突破を試みたものの、
あらかじめ配置されていた伏兵の攻撃を受けて壊滅し、楊範も捕らえられた。
こうして定陽は陥落し、北斉軍は大きな戦果を収める。
しかし、この遠征の最中に段韶自身の病状は深刻化していた。
長年にわたり戦場を駆け続けた名将はすでに高齢となっており、
連続する軍事行動は大きな負担となっていた。
それでも段韶は最後まで軍務を放棄せず、定陽攻略の成功を見届けている。
やがて病が重くなったため、段韶は軍より先に帰還した。
功績によって楽陵郡公の別封を受けたものの、571年9月に病没した。
死後には仮黄鉞・使持節・相国・太尉・録尚書事など数多くの官位が追贈され、諡は忠武とされた。
段韶の軍事思想と名将としての特徴
段韶の軍歴を振り返ると、慎重な状況判断と柔軟な用兵が大きな特徴として挙げられる。
敵情や地形、天候を見極めたうえで行動する傾向が強く、
無理な決戦を避けながら勝機を待つことを重視した。
一方で、必要と判断した際には積極攻勢も辞さなかった。
柏谷城攻略や姚襄城攻略では自ら主導して攻撃を行っており、
慎重さと果断さを状況に応じて使い分けていたことがうかがえる。
また、段韶は戦闘そのものだけでなく、防衛拠点の整備や地方統治にも実績を残した。
冀州刺史として善政で知られたほか、各地で築城を行い、国境防衛体制の強化にも取り組んでいる。
高歓の時代から北斉後期まで第一線で活動を続けながら、
大敗によって失脚したり軍歴を傷つけた記録がほとんど見られないことも段韶の特徴である。
こうした安定した戦績と統治能力によって、
段韶は東魏・北斉を代表する名将の一人として評価されている。
蘭陵王・斛律光との比較
後世の北斉史では、段韶は蘭陵王高長恭や斛律光と並ぶ名将として語られることが多い。
しかし三人は同じ名将であっても、その性格や役割には大きな違いがあった。
蘭陵王高長恭は皇族出身の将軍であり、勇敢な戦いぶりによって伝説的な人気を獲得した人物である。特に洛陽救援戦で敵中へ突入した逸話は有名で、後世には美男子の英雄として広く語り継がれた。
一方の斛律光は北斉を代表する野戦指揮官であった。
騎兵運用に優れ、北周からも恐れられた存在であり、
「斛律光がいる限り北斉を滅ぼせない」との言葉が伝えられるほどであった。
実際に北周との戦争では数々の戦功を挙げ、その軍事的才能は当時から高く評価されていた。
これに対して段韶は、優れた将軍であると同時に政権中枢を担う重臣でもあった。
高歓の時代から北斉末期に至るまで重用され、軍事と政治の両面で国家を支えている。
この点は、英雄的武勇で知られる蘭陵王高長恭や、
純粋な軍事指揮官として名高い斛律光とは異なる特徴であった。
三人の最期も対照的である。
蘭陵王高長恭は皇帝の猜疑によって死を命じられ、斛律光は讒言によって誅殺された。
一方の段韶は最後まで皇帝の信任を失うことなく病没し、死後には忠武の諡号を贈られた。
段韶はなぜ失脚しなかったのか
北斉の歴史を振り返ると、有力な功臣や名将ほど非業の最期を遂げた例が少なくない。
高隆之は処刑され、楊愔は政変で殺害された。
蘭陵王高長恭は後主高緯の猜疑によって自害を命じられ、斛律光も讒言によって誅殺されている。
しかし段韶は高歓・高澄・高洋・高演・高湛・高緯という六人の支配者の時代を生き抜いた。
政変と権力闘争が繰り返される中でも、一貫して重用され続けたのである。
その理由を単純に高歓との血縁だけに求めることはできない。
北斉では皇族や外戚であっても政争に敗れれば失脚しており、
血縁関係だけで地位を保てる時代ではなかった。
段韶の特徴は、高氏政権の中枢にありながらも皇位継承争いや政変の当事者とならなかった点にある。軍事と国政を担う重臣でありながら、国家を支える立場に徹し続けたのである。
まとめ
段韶は東魏から北斉にかけて活躍した軍人・政治家であり、
高歓政権の成立期から北斉後期に至るまで四十年以上にわたり国家を支え続けた重臣であった。
韓陵の戦いをはじめ数多くの戦場で功績を挙げただけでなく、
地方統治や中央政治にも関与し、軍事と政治の両面で重要な役割を果たしている。
高歓が晩年に軍事の大事を段韶と相談するよう命じたという逸話は、
彼が深い信任を受けていたことを示すものとして知られる。
『北斉書』や『北史』はいずれも段韶を高く評価しており、
忠誠心と軍事的才能を兼ね備えた名臣として伝えている。
北朝には数多くの名将が存在したが、
東魏建国期から北斉最盛期まで第一線で活躍し続けた段韶の存在は、
北朝史の中でも特に際立っている。
史書・参考文献
『北斉書』巻16「段韶伝」
『北史』巻54「段韶伝」
『周書』巻5・巻11・巻35
『魏書』
『資治通鑑』巻156~171
李延寿『北史』中華書局
李百薬『北斉書』中華書局
司馬光『資治通鑑』中華書局
川本芳昭『魏晋南北朝』講談社学術文庫
岡崎文夫『魏晋南北朝通史』平凡社東洋文庫
氣賀澤保規『中国の歴史06 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社
森安孝夫編『中国史』山川出版社
古松崇志『シリーズ中国の歴史 三国~唐 帝国前夜の群雄と英雄たち』岩波新書
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