【北斉】婁昭君|高歓を支え北斉皇室の母となった武明皇后の生涯

婁昭君(北斉・神武帝高歓の皇后) 01.皇后

婁昭君(ろうしょうくん、501年-562年)は、
北魏末から東魏にかけて実権を握り、北斉建国の基礎を築いた高歓の正妻である。
息子の高洋が北斉を建国すると皇太后となり、孫の高殷が即位すると太皇太后となった。
死後の諡号は武明皇后。

有力豪族の娘でありながら、まだ貧しく無名だった高歓を自ら夫に選び、
自分の財産を渡して結婚を実現した逸話で知られる。
しかし婁昭君は、単に「英雄となる男を見抜いた賢妻」だったわけではない。

『北斉書』は、高歓が天下を狙って英傑たちと交わるようになると、
その「密謀秘策」に婁昭君が常に加わったと記している。
沙苑の敗戦後には侯景へ二万の精鋭騎兵を与える危険を指摘し、
柔然との同盟が必要になると、自ら正妻としての立場を譲って政略結婚を後押しした。

高歓との間には六男二女をもうけ、
長男の高澄は東魏の実権を継ぎ、高洋・高演・高湛の三人は北斉皇帝となった。
二人の娘も北魏と東魏の皇后となり、高氏一門は婁昭君の子供たちを中心に皇室へと変わっていった。

夫と長男を失った後もその影響力は衰えず、
晩年には高氏皇室の最長老として皇位継承そのものを動かす。
孫の高殷を廃して高演を皇帝に立てる一方、高殷の殺害までは認めず、
約束を破った高演を病床で激しく責めた。

無名の高歓を自ら夫に選んだ豪族の娘が、やがて皇帝を廃立するほどの権威を持つに至る。
婁昭君の生涯は、高氏一族が北魏末の一武人の家から東魏の支配者となり、
さらに北斉皇室へ変わっていく過程そのものと重なっている。

婁昭君の出自|北魏北辺の有力豪族に生まれる

婁昭君は501年、代郡平城、現在の山西省大同市周辺に勢力を持った婁氏の家に生まれた。
父は婁内干で、生前には官職に就かなかったが、
後に司徒を追贈され、北斉成立後には太原王に追封された。

婁氏は北魏の北方社会に基盤を持つ有力一族だった。
弟の婁昭の列伝によれば、祖父の匹婁提は勇猛で見識があり、
北魏の太武帝の時代に功績を挙げて真定侯となった人物である。
一族の家には千を数える家僮がおり、牛馬は谷で量るほど多かったと記されている。
婁昭君が生まれた家は、単に名門というだけでなく、大きな経済力を持った北方豪族だった。

『北斉書』は若い婁昭君について「少明悟」と記し、
早くから聡明で物事を理解する力があったとする。

有力な家々から多くの縁談が持ち込まれたが、婁昭君はいずれも受け入れなかった。

その婁昭君が自ら夫に選んだのが、後に東魏の実権を握る高歓だった。

高歓との結婚|名門の娘が無名の男を自ら選ぶ

婁昭君の生涯でもっとも有名なのが、高歓との結婚である。

後に北魏末最大級の実力者となる高歓も、この頃は婁氏の娘と釣り合うような地位にはなかった。
ある時、婁昭君は城上で役務についている高歓を見かけると、
「この人こそ私の夫だ」という意味の言葉を口にしたという。

婁昭君はそこで終わらなかった。
侍女を使って自分の意思を高歓へ伝え、さらに何度も自分の財産を送り、
その金を使って自分を娶るための結納を用意させた。
父母も娘の意思を変えることができず、最終的には二人の結婚を許した。

後世には、まだ何者でもなかった高歓の将来を婁昭君が一目で見抜いた逸話として語られる。
しかし、未来の天下人になることまで予知していたと考える必要はない。

むしろ重要なのは、北魏末の有力豪族の娘だった婁昭君が、家柄の釣り合う縁談を次々と断り、
自分が認めた男性を夫に選び、その結婚を実現するために自分の財産まで動かしたことである。
しかも、この財産は結婚を成立させるためだけに使われたのではなかった。

↓↓東魏・北斉の基礎を築いた高歓についての個別記事は、こちら

【東魏】高歓|北魏を掌握し東魏・北斉へと繋がる基礎を築いた実力者
高歓(こうかん)は、北魏末期の動乱の中で台頭し、東魏の実権を掌握した軍事指導者。六鎮の乱を生き抜き、爾朱栄の配下から六鎮兵を掌握して独立、韓陵の戦いで爾朱氏を打倒した。孝武帝との決裂と東魏成立、宇文泰との沙苑・邙山・玉壁での激戦、侯景の離反を見抜いた最期まで、北斉の基盤を築いたその生涯と実像を解説する。

私財で高歓の活動を支える

結婚後、高歓は次第に大きな志を抱くようになった。
『北斉書』は、高歓が世の中を正そうとする志を持つと、
財産を惜しまず使って各地の英傑と交わったと記している。

若い高歓にとって、経済力を持つ婁氏との婚姻は大きな意味を持った。
婁昭君が結婚以前から自分の財産を高歓へ送っていたことを考えれば、
高歓の人脈形成や活動の基盤にも婁昭君側の資産が関わっていた
ことになる。

やがて高歓は北魏末の混乱の中で勢力を伸ばし、爾朱氏を破って政界の主導権を握る。
534年には孝武帝と決裂し、元善見を孝静帝として擁立して東魏を成立させた。
皇帝は元氏だったが、軍事・政治の実権を握ったのは高歓である。

後に息子の高洋が東魏を終わらせて北斉を建国したことを考えれば、
婁昭君と高歓の結婚は、高氏一族が皇室へ上り詰めていく最初の大きな転機だった。

「密謀秘策」に常に参加した政治的な相談相手

婁昭君の役割を「家を守って夫の出世を支えた妻」だけに限定することはできない。

『北斉書』には、高歓の「密謀秘策」に婁昭君が常に参与したと明記されている。

高歓が渤海王となると婁昭君は渤海王妃となり、家中の事柄をすべて取り仕切った。
家政を担っただけではなく、
夫が天下を争う過程で秘密の計画や重要な方策について意見を求められる存在でもあった。

高歓の成功を「夫が軍事・政治に専念できるよう家庭を支えた内助の功」とだけ説明すると、
この記録を落としてしまう。
婁昭君は高歓の政治活動そのものにも早い時期から関与していたのである。

高歓の正妻としての立場|軍事・外交にも意見する

高歓が北魏末の権力闘争へ深く関わるようになると、
婁昭君にも単なる妻では済まない判断が求められるようになった。

危険な出産の最中にも夫を軍から呼び戻さず、
沙苑の敗戦後には侯景へ大軍を預ける危険を指摘し、
柔然との同盟のためには自ら正妻の座を譲っている。

双子出産|自分の危機より高歓の軍を優先する

高歓が西方へ出征していたある夜、婁昭君は一男一女の双子を出産した。

出産は危険な状態となり、周囲の者たちは高歓へ急報して戻ってもらおうとした。
しかし婁昭君はそれを許さなかった。

高歓は大軍を率いているのであり、自分一人のために軍営を離れさせることはできない。
生死は運命なのだから、戻ってきてもどうにもならないという判断だった。

後に事情を知った高歓は長く感嘆したという。

この判断によって具体的に「戦局が乱れなかった」とまで史料は記していないため、
そこまで広げる必要はない。
ただ、自分と子供の生命が危険な状況でも、
軍を率いる夫を私事で呼び戻さなかった人物として記録されている。

なお、『北斉書』の婁昭君伝はこの双子を「一男一女」とするが、
この一文では二人の名を記していない。
そのため、本文では史料にない人物名を推定して付ける必要はない。

沙苑の大敗後、侯景への二万騎を止める

537年、高歓は宇文泰率いる西魏軍と沙苑で戦い、大敗した。

敗戦後、東魏の有力武将だった侯景は、
精鋭騎兵二万を自分に与えてくれれば宇文泰を討ち取れると繰り返し申し出た。
高歓はこの提案を喜び、婁昭君に話した。

ところが婁昭君は反対した。
侯景の言う通り二万の精鋭を与えれば、たとえ宇文泰を倒すことができても、
強大な兵力を握った侯景自身が戻ってこない可能性がある。
それでは宇文泰を失わせても侯景まで失うことになり、何の利益があるのかというのである。

高歓は婁昭君の意見を受け入れ、侯景への兵力供与を取りやめた。

侯景は高歓の死後、東魏から離反し、梁へ渡った後には大規模な侯景の乱を引き起こすことになる。
だからといって、婁昭君が十年後の侯景の離反まで予知していたと考えるべきではない。

それでも、敗戦直後に武功を求めるだけでなく、
有力武将一人に二万の精鋭騎兵を集中させる政治的危険まで考えていたことは、
この逸話から読み取れる。
高歓がそのような軍事上の重要案件を妻に相談していた点も見逃せない。

↓↓東魏の有力武将・侯景についての個別記事は、こちら

侯景|南朝梁を滅ぼした武将と侯景の乱・宇宙大将軍の意味
侯景(こうけい)とは何者か。南朝梁を崩壊させた武人の生涯を、侯景の乱を中心に解説。「宇宙大将軍」という異例の称号の意味から、軍閥支配の本質までわかりやすく整理する。

柔然との同盟|正妻の座を公主へ譲る

東魏と西魏が争う中、北方の柔然をどちらが味方につけるかは重大な外交問題だった。

高歓は柔然の可汗・阿那瓌の娘を妻に迎え、婚姻によって関係を強化する必要に迫られた。
しかし、すでに婁昭君という正妻がいるため決断をためらった。

そこで婁昭君は、これは「国家の大計」なのだから迷うべきではないという趣旨で結婚を勧めた。
柔然公主が到着すると、婁昭君はさらに自ら正室の居所を避け、公主へ譲った。
高歓はその行動を申し訳なく思い、婁昭君に拝して謝ったという。

高歓の側室を妬まなかったという話と結びつけて「寛容な妻」と説明することもできるが、
柔然公主の場合は単なる家庭内の問題ではない。
東魏と西魏が柔然との関係を競っていた状況で、
自分の正妻としての体面より高氏政権の外交を優先した判断だった。

高氏一門をまとめた母|側室・庶子・親族への姿勢

『北斉書』は婁昭君を「高明厳断」と評し、
聡明で決断力がある一方、倹約を守った女性として描いている。

外出する際にも従者は十人を超えなかったという。
高歓には多くの側室がいたが、婁昭君は彼女たちを妬んで排斥せず、恩情をもって接したとされる。
さらに、高歓が他の女性との間にもうけた子供についても、自分が産んだ子と区別せず慈しんだ。

権力者の一族では、母親の違いが皇子や諸王の対立へつながることが少なくない。
後の北斉も皇族同士の激しい争いに陥るが、高歓存命中の婁昭君は、
自分の実子だけを優遇して他の子供を排除する母としては描かれていない。

自ら機を織り、衣服や軍装を作る

婁昭君は身分が高くなった後も贅沢を避けた。

史書によれば、自ら糸を紡いで機を織り、子供たち一人ひとりに袍と袴を与えた。
さらに軍装まで自分の手で縫い、周囲の者に与えたという。

有力豪族の娘から渤海王妃となった女性としては質素な姿であり、
侍従も十人を超えなかったという記録と合わせ、倹約を重んじる人物として描かれている。

もちろん、嫉妬せず、倹約し、子供を平等に慈しむという記述には、
正史が理想的な后妃を描く際の価値観も反映されている。

しかし『北斉書』が婁昭君を単に温厚な女性とせず、
「高明厳断」という強い判断力と並べて記している点は重要である。

弟・婁昭は自らの功績で出世する

婁昭君の弟・婁昭は、姉が高歓の妻だったというだけの人物ではない。

婁昭は早くから高歓を高く評価し、信都へ進出する際にはその大計に賛成して中軍大都督となった。
その後も爾朱兆との戦いや樊子鵠の討伐などで功績を挙げ、大司馬・司徒などを歴任している。

婁昭君自身も、弟が自らの功績で地位を得たことを重視していた。『北斉書』は、婁昭以外の親族について婁昭君が爵位を求めたことはなく、才能がある者なら用いるべきであり、
私情によって公を乱してはならないという趣旨の言葉を語っていたとする。

皇后・皇太后の一族が外戚として巨大な勢力を形成することは中国史では珍しくないが、
婁昭君は自分の地位を利用して婁氏一族を無条件に昇進させる人物としては記録されていない。

高澄と鄭大車の密通|夫と長男の対立

高氏一門の母としての婁昭君の立場が常に安定していたわけではない。

長男の高澄は早くから高歓の後継者とされていたが、
父の側室である鄭大車と関係を持つという重大な問題を起こした。

激怒した高歓は高澄を杖打ちして幽閉し、婁昭君とも会わなくなった。
一時は高澄を後継者から外すことまで考えたとされる。

婁昭君と高澄は謝罪し、司馬子如らの取りなしもあって、
最終的には高澄の後継者としての地位が回復した。

後に皇帝の廃立にまで関与する婁昭君であっても、
高歓存命中から高氏一門を自由に動かせたわけではない。
夫と長男の関係が破綻しかければ、自身の立場まで危うくなる状況に置かれていた。

↓↓長男の高澄についての個別記事は、こちら

【東魏】高澄|東魏を支配した若き実力者・孝静帝との対立と侯景離反、北斉建国直前の暗殺
高澄(こうちょう)は高歓の長男として若くから東魏の政治に参加し、人事改革や綱紀粛正を進めた実力者である。父の死後に政権を継承すると、侯景の離反を慕容紹宗らによって退け、孝静帝の高氏排除計画を封じて権力を掌握。さらに西魏の王思政が守る潁川を攻略し、北斉建国を目前にしながら29歳で蘭京に暗殺されるまでの生涯を詳しく解説する。

六男二女|北斉皇室を生んだ婁昭君

婁昭君は高歓との間に六男二女をもうけた。

長男の高澄は高歓の後継者として東魏の実権を握り、北斉建国直前の549年に暗殺された。
皇帝にはならなかったものの、北斉成立後に文襄帝と追尊されている。

次男の高洋は高澄の死後に政権を引き継ぎ、
550年に東魏孝静帝から禅譲を受けて北斉を建国し、初代皇帝・文宣帝となった。

高演は後に第三代皇帝・孝昭帝、高湛は第四代皇帝・武成帝となる。
このほかに襄城王高淯と博陵王高済がいた。

二人の娘も皇室へ入った。
一人は北魏孝武帝元修の皇后となり、もう一人は東魏孝静帝元善見の皇后となった。

つまり婁昭君は、東魏の実権を握った高澄、北斉皇帝となった高洋・高演・高湛、
さらに北魏・東魏の皇后二人の母である。

高歓には婁昭君以外の女性との間にも多数の男子がいたが、
高氏政権の中枢を継いだ人物には婁昭君の実子が集中した。
北斉皇室の「国母」という位置づけは、単に初代皇帝の母だったというだけではなく、
高氏皇室そのものを形成した子女の母だったことによる。

高歓と高澄の死|高洋による北斉建国

547年、高歓が死去すると、高氏政権の中心は長男の高澄へ移った。婁昭君は太妃となる。
しかし549年、高澄は蘭京らによって暗殺された。

夫に続いて長男まで失い、高氏政権の実権は次男の高洋へ移った。

高洋は東魏孝静帝から皇位を譲らせ、自ら新王朝の皇帝になろうとする。
ところが、この時の婁昭君は高氏による王朝交代を積極的に後押ししていない。

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蘭京|高澄暗殺と東柏堂事件を史実から解説
蘭京(らんけい)とは、南朝梁の名将・蘭欽の子でありながら東魏の捕虜となり、高澄のもとで使役された人物。父による身請けや帰還の願いを拒まれ、杖罰を受けた末に暗殺を計画し、549年に鄴の東柏堂で北斉建国を目前にした高澄を殺害した。高洋も同時に狙った計画、東柏堂事件の経緯、高洋による鎮圧と北斉建国への影響まで史実から解説する。

高洋の禅譲に強く反対する

『北斉書』は、高洋が東魏から禅譲を受けようとした際、
婁昭君が強く許さなかったため、高洋はいったん計画を中止したと記している。

なぜ婁昭君が反対したのかについて、史書は理由を説明していない。

元氏への忠誠だったのか、王朝交代の時期を危険視したのか、
高洋自身の即位に不安があったのかは断定できない。
後に皇帝の廃立にまで関与する婁昭君が、
高氏の皇帝即位を最初から望んでいたわけではないという事実だけを押さえる必要がある。

最終的には550年、高洋が孝静帝から禅譲を受けて北斉を建国し、文宣帝として即位した。
これによって婁昭君は皇太后となり、その宮は宣訓宮と呼ばれた。

暴走する高洋を叱責する

高洋は即位当初、国家体制を整え、北方諸勢力への軍事行動でも成果を上げた。
しかし治世後半になると酒に溺れ、猜疑と暴虐が激しくなっていく。

皇帝となった高洋を正面から叱ることのできる数少ない人物が母の婁昭君だったが、
その婁昭君に対してさえ、高洋は酒に酔うと乱暴を働いた。

ある時には母に対して暴言を吐き、また婁昭君が座っていた榻を持ち上げたため、
彼女を転落させて負傷させたという。

酔いが覚めて自分の行為を知った高洋は激しく後悔し、火中へ飛び込もうとした。
婁昭君に止められると、自分を杖で打つよう求め、一時は酒を断ったものの長続きしなかった。

婁昭君には皇帝となった息子を叱責できるほどの権威があった。
しかし、その権威をもってしても高洋の暴走そのものを止めることはできなかった。

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【北斉】高洋(文宣帝)|天才と狂気の二面性を持つ北斉初代皇帝
高洋(こうよう/文宣帝)は、東魏の実権を握った高歓の次男で、兄・高澄の暗殺後に政権を掌握し、550年に北斉を建国した初代皇帝。契丹・柔然への親征や長城築造、行政改革で国力を高める一方、晩年は酒乱と暴虐を深めた高洋の生涯と治世を史書から詳しく解説する。

高殷・高演・高湛|皇帝を廃立する太皇太后へ

559年、高洋が死去すると、その子の高殷が即位した。
婁昭君にとって高殷は孫にあたり、この時、太皇太后となった。

若い高殷を支えたのが、高洋から後事を託された尚書令楊愔・燕子献・宋欽道らだった。
しかし皇帝の叔父には、常山王高演と長広王高湛という強大な高氏諸王がいた。

楊愔らは皇帝を中心とする政治体制を固めようとし、高演・高湛ら諸王の権力を抑えようとする。
一方の高氏諸王から見れば、自分たちが政権中枢から排除される危険が高まっていた。

560年、この対立が政変へ発展した。

楊愔らの排除に婁昭君自身が加わる

高演らは楊愔・燕子献・宋欽道らを捕らえて殺害した。

この政変で婁昭君は傍観者ではなかった。
『北斉書』の婁昭君伝は、太皇太后だった婁昭君が高演および諸大将と密かに策を定め、
楊愔らを誅殺したと明記している。

『北斉書』の高演本紀を見ると、
政変直後には高殷、婁昭君、高殷の母・李皇后らがそろって姿を見せている。
高演が楊愔らの罪を訴えると、婁昭君は李皇后に対し、高演に皇位を奪う異心はなく、
皇帝を圧迫する者を除いただけだという趣旨で誓っている。

ところが、楊愔らを排除して高演が軍事・政治の実権を握ると、状況はさらに動いた。
婁昭君は高殷を廃する命令を下し、高演に「大業」を継がせた。
高殷は済南王へ降格され、高演が孝昭帝として即位する。婁昭君は太皇太后から再び皇太后となった。

婁昭君は皇位継承に「無関係ではなかった」のではない。
高殷を支える輔政勢力の排除に加わり、最後には自ら孫を廃して実子を皇帝に立てた当事者だった。

↓↓文宣帝高洋の死後に起きた政変を経て即位した高演についての個別記事は、こちら

【北斉】高演(孝昭帝)|政変を制し中興を目指した短命皇帝
孝昭帝・高演(こうえん)は北斉第三代皇帝。兄・高洋の死後、楊愔らを排除して甥の高殷を廃し即位した。冤罪の是正や減税、倹約、人材登用で政治を立て直す一方、高殷殺害という影も残す。庫莫奚親征、落馬事故による急死、皇太子高百年の悲劇まで、その治世と生涯を解説する。

高殷の廃位は認めても、殺害までは認めなかった

ただし、婁昭君が高殷を皇帝から降ろしたことと、高殷の命まで奪おうとしたことは同じではない。

高演は即位後、高洋末期に乱れた政治の立て直しを進めた。
倹約を行い、人材を登用し、政務にも熱心だったため、
北斉皇帝の中では比較的安定した統治を行った人物とされる。

その一方、自分が廃位した高殷の存在を恐れ続けた。

高演は高殷と互いに危害を加えないことを約束していた。
しかし高演が晋陽にいる間、高湛が鄴を守っていた時に、
鄴城には「天子の気」があるという占いが伝えられる。
高演は高殷が再び皇帝として担ぎ出されることを恐れるようになった。

561年、高演は密かに高殷へ毒を送った。
しかし高殷が飲まなかったため、最後には絞め殺させた。

高演はその後、この殺害をかなり後悔したという。

見舞いに来た婁昭君が孫の死を悟る

やがて高演は体調を崩し、さらに兎に驚いた馬から落ちて肋骨を折る重傷を負った。

病床にある高演のもとへ婁昭君が見舞いに訪れた際、
婁昭君は、済南王となった高殷がどこにいるのか尋ねた。
一度ではなく三度尋ねたが、高演は何も答えなかった。

息子が答えないことで、婁昭君は高殷がすでに殺されたことを悟った。
すると激怒し、高殷を殺したのか、
自分の言うことを聞かなかったのだから死んでも当然だという趣旨の言葉を高演へ浴びせた。

高演は死の間際、病床で母に頭を下げ、許しを求めている。

この一件は、婁昭君と高殷の関係を考えるうえで重要である。
婁昭君は高殷を皇帝のまま守ろうとしたわけではない。
高殷を支えていた楊愔らの排除に加わり、自ら高殷を廃して実子の高演へ皇位を渡している。
その意味では、高殷政権を倒した側の人物である。

しかし、皇位を失った孫の命まで奪うことは認めなかった。

高氏一門の主導権を高演へ移すことと、敗れた高殷を殺すことの間には、
婁昭君なりの明確な一線があった。
高演はその一線を越えたため、母の怒りを受けることになった。

高演は自分の息子にも同じ運命が及ぶことを恐れる

高殷を殺した高演は、自分の死が近づくと今度は自分の妻子の将来を恐れるようになった。

高演には皇太子の高百年がいた。
しかし自分自身が兄・高洋の子である高殷を廃して皇帝となり、最後には殺害している。
幼い高百年を皇帝にすれば、今度は弟の高湛との間で同じ争いが起こる可能性があった。

561年、高演は高百年ではなく、弟の高湛へ皇位を渡すことを決めた。

高演は高湛に、自分の妻子をよい場所に置き、
「前人の真似をするな」という趣旨の手書きを残している。
自分が高殷にしたことを、自分の息子にはしないでほしいという願いだった。

高演の死後、婁昭君も詔を下して高湛を立て、高湛は武成帝として即位した。

しかし高演の恐れは後に現実となる。
高百年は皇帝にならなかったにもかかわらず、高湛から将来の脅威と見なされ、564年に殺害された。

高殷を廃して高演を立てたことで終わったはずの皇位争いは、次の世代にも引き継がれたのである。

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【北斉】高湛(武成帝)|北斉を傾けた美貌の皇帝と退廃の時代
高湛(こうたん)は北斉第四代皇帝・武成帝。兄・高演と楊愔らを排除する政変に加わり、高殷の廃位を経て即位した。高百年殺害、胡皇后と和士開を中心とする宮廷政治、太上皇となった後も握り続けた実権、北周との攻防まで、北斉衰退へつながる治世と生涯を詳しく解説する。

晩年と死|武明皇后として高歓と合葬される

高湛が即位した翌年の562年、婁昭君は病に倒れた。

この時、『北斉書』には奇妙な逸話が記されている。
病床にある婁昭君の衣服が突然ひとりでに持ち上がったため、
巫女の言葉に従って姓を「婁氏」から「石氏」へ改めたという。

これは正史に収録された怪異譚であり、実際に超自然的な現象が起こったことを示すものではない。
ただ、南北朝時代の史書に見られる予兆や巫術に関する記録の一つとして残されている。

562年4月辛丑、婁昭君は北宮で死去した。享年62。
翌5月甲申、夫の高歓が眠る義平陵へ合葬された。諡号は武明皇后。

若い頃に自ら夫に選んだ高歓はすでに神武帝として追尊されており、
その正妻だった婁昭君も北斉皇室の祖母的存在として高歓と同じ陵墓に葬られた。

彼女の死は、高氏一門にとって単に皇帝の母を失ったというだけではない。
高歓の時代から高氏政権を知り、
高澄・高洋・高殷・高演・高湛と続く権力継承を経験した一族最長老が姿を消したことを意味した。

六男二女をめぐる夢|龍・月・鼠が示した子供たちの運命

『北斉書』には、婁昭君が六男二女を妊娠した際に見たという一連の夢がまとめて記録されている。

高澄を妊娠した時には、断たれた龍を夢に見た。
高澄は高歓の後継者となりながら、皇帝になる直前に暗殺されている。

高洋を妊娠した時には、頭から尾まで天地につながり、
口を開いて目を動かす巨大な龍を夢に見たという。
高洋は実際に北斉を建国して初代皇帝となった。

高演の時には地を這う龍、
高湛の時には海で水浴びする龍だった。

北魏孝武帝と東魏孝静帝の皇后となった二人の娘については、いずれも月が懐へ入る夢だった。
一方、襄城王高淯と博陵王高済を妊娠した時には、鼠が衣服の下へ入る夢だったとされる。

後に皇帝または皇帝に追尊された四人には「龍」、
皇后となった二人の娘には「月」、
皇帝にならなかった二王には「鼠」が対応する形になっている。

当然ながら、これを実際の予知夢として扱うことはできない。
子供たちの後の運命を知った時代に形成・整理された瑞兆譚である可能性を考える必要がある。

それでも、六男二女すべてについてこれほど体系的な出生伝承が残されていること自体、
婁昭君が後世に「高氏皇室を生んだ母」として特別な位置を与えられていたことを示している。

「九龍母死不作孝」|母の死後も喪に服さなかった高湛

婁昭君の死をめぐっては、もう一つ奇妙な逸話が残されている。

彼女が亡くなる以前、「九龍の母が死んでも孝を行わない」という意味の童謡が流行したという。

婁昭君が死去すると、皇帝高湛は喪服へ着替えず、緋色の袍を着たままだった。
さらに間もなく三台へ登って酒宴を開き、音楽まで奏でさせた。
白い喪服を差し出されると怒って投げ捨て、
側近の和士開が音楽を止めるよう求めると、今度は和士開を鞭打ったという。

『北斉書』は、高湛が高歓の男子の中で序列上九番目だったことから、
「九龍」は高湛を指していたとして童謡と結びつけている。

もちろん、童謡が未来を予言したと考える必要はない。
中国の正史にしばしば収録される予兆譚の一つとして扱うべきである。

しかし、母の死に際して高湛が喪に服さず宴を開いたという記録そのものは、
婁昭君と高湛の関係を考えるうえでも無視できない。

婁昭君が高湛の即位後に「何度も諫言した」という話は
少なくとも『北斉書』の婁昭君伝には見えない。

確実に確認できるのは、高演の死後に婁昭君が詔を下して高湛を即位させたこと、
そしてその高湛が母の死に際してこのような振る舞いをしたことである。

婁昭君の実像|高氏皇室を支え、皇位継承にも介入した国母

婁昭君は『北斉書』で、聡明で決断力があり、倹約を守り、
側室や庶子にも寛容な女性として描かれている。
しかし、その生涯は「賢妻」や「国母」という言葉だけでは収まらない。

高歓がまだ無名に近い頃から私財を提供し、その後は「密謀秘策」に加わる相談相手となり、
高氏が皇室となってからは皇太后・太皇太后として王朝内部に大きな権威を持った。
特に晩年の婁昭君は、高氏一門を見守るだけの長老ではなく、
皇位継承を左右する政治的な当事者だった。

孫の高殷を廃して高演を立てる一方、高殷の殺害には激怒していることから、
皇帝の交代と皇族そのものの殺害は別の問題として考えていたことがうかがえる。
親族を無条件に昇進させず、高歓の庶子も分け隔てなく扱った姿勢とも合わせれば、
婁昭君が重視したのは特定の息子だけではなく、高氏一門全体の維持だったと考えられる。

しかし、自ら皇位継承に介入したことで、高氏内部の争いから離れることもできなくなった。
高殷を廃した高演は後にその高殷を殺し、
自身の死に際しては息子の高百年が同じ運命をたどることを恐れた。

婁昭君は高氏を北斉皇室へ押し上げ、その皇室を支える最大の存在となったが、
一族内部で繰り返される皇位争いまで抑えることはできなかったのである。

まとめ

婁昭君の生涯で見るべきなのは、
「貧しい高歓の将来を見抜いた賢妻」という有名な逸話だけではない。

彼女が高歓を夫に選んだ時、高氏は皇室ではなく、
高歓自身もまだ城上で役務についていた人物だった。
そこから婁昭君は自分の財産を高歓へ渡し、英傑との交際を支え、その「密謀秘策」にまで加わった。

高歓が北魏末の権力者になると、婁昭君が直面する問題も家庭の外へ広がった。
侯景に二万騎を預ける危険を指摘し、柔然との同盟のためなら自分の正妻としての立場を譲った。

そして高氏が皇室になると、今度は婁昭君自身が皇位継承の中心へ入っていく。

孫の高殷を廃して息子の高演を立てるほどの権威を持ちながら、
高演が高殷を殺したことには激怒した。
高演が死ぬと高湛を立てたが、その高湛は母の死後に喪服すら着ず、酒宴を開いたと記録されている。

高氏一門をまとめようとした婁昭君の生涯は、
最後には自分の息子と孫たちが皇位をめぐって互いを恐れ、殺し合うところまで進んだ。

夫を支える妻から始まり、皇室の母となり、最後には皇帝を廃立する側へ回る。
それでも、一族そのものを安定させることはできなかった。

婁昭君は北斉皇室の背後にいた女性ではない。
高氏が北魏末の一武人の家から東魏の支配者となり、北斉皇室へ変わり、
その内部に皇位継承をめぐる亀裂が生まれるまで、その中心に居続けた人物だったのである。

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史書・参考文献

・李百薬『北斉書』巻6「孝昭帝紀」
・李百薬『北斉書』巻9「後宮・神武明皇后婁氏」
・李百薬『北斉書』巻15「婁昭伝」
・李延寿『北史』巻7「斉本紀中」
・李延寿『北史』巻14「后妃下・斉武明皇后婁氏」
・李延寿『北史』巻54「列伝第四十二・婁昭」
・司馬光『資治通鑑』陳紀
・川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』講談社

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