斛律光|北斉最強の名将と称された落雕都督の生涯

北斉の将軍・斛律光 033.武将

斛律光(こくりつこう、515年~572年)は、
中国南北朝時代の北斉を代表する名将である。字は明月。

東魏から北斉にかけて四十年以上にわたり軍事の第一線で活躍し、
北周との戦争では幾度も大軍を撃退した。
特に洛陽をめぐる攻防や邙山の戦いでの活躍は有名であり、
その武名は敵国北周にも深く恐れられていた。

若き日に大鵰(おおわし)を射落としたことから「落雕都督」と呼ばれ、
勇将として名声を高めた一方、晩年には右丞相・左丞相・太傅などの高位を歴任し、
軍事だけでなく政権中枢を支える重臣ともなった。

しかし、その名声と権勢はやがて周囲の嫉視を招き、
572年に讒言によって謀反の疑いをかけられ処刑される。
北周の武帝宇文邕がその死を聞いて喜んだという逸話は、
斛律光の存在がいかに敵国にとって脅威であったかを物語っている。

本記事では、北斉最強の名将とも称される斛律光の生涯を、史実と史料に基づいて詳しく解説する。

生い立ちと斛律氏

斛律光は515年、朔州(現在の山西省北部)に本拠を置く斛律氏に生まれた。

斛律氏は敕勒系の有力部族であった。
敕勒は一般にテュルク系(トルコ系)の北方の遊牧民系集団として知られ、
北魏末から東魏・北斉にかけて有力な軍事勢力の一つとなっていた。

父の斛律金は高歓配下の名将として知られる人物である。
高歓が河北で勢力を拡大していた頃から従軍し、東魏成立後も重臣として活躍した。
北斉成立後には咸陽王に封じられ、北斉建国を支えた功臣の一人に数えられている。

斛律光も若くして軍中に入り、後に北斉を代表する名将として名を残すことになる。

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初陣と落雕都督

宇文泰軍との戦いで初陣

17歳のとき、斛律光は父の斛律金に従って西征に参加した。

この戦いで西魏の宇文泰配下の長史・莫者暉を矢で射て捕らえる戦功を挙げる。
若くして敵軍の有力者を捕らえた功績は高く評価され、高歓は斛律光を賞賛して都督に抜擢した。

これが史書に見える斛律光最初の戦功であり、
後に北斉を代表する名将となる彼の軍歴はここから始まった。

大鵰を射落とした落雕都督

高澄に従って洹橋で狩猟を行った際、斛律光は空高く飛ぶ大鵰を一矢で射落とした
当時、鵰は高空を飛ぶ大型猛禽として知られており、これを射落としたことは人々を驚かせた。

この様子を見た邢子高は「此是射鵰手也(これは鵰を射落とす名手だ)」と称賛したという。
この逸話によって斛律光は「落雕都督」と呼ばれるようになり、
その名は広く知られることとなった。

以後、「落雕都督」は斛律光を象徴する異名となり、
後世の史書や文学作品でもたびたび用いられている。

東魏後期の活躍

初陣で戦功を挙げた斛律光は、その後も高氏政権のもとで軍務に従事した。

高歓の長男である高澄が世子となると、
斛律光は親信都督として召し出され、その側近に加えられている。

親信都督は側近武官の一つであり、高澄の近くで軍事・警備にあたる立場であった。

この頃の東魏では、西魏との対立が続いていた。
高歓の死後は高澄が実権を握り、東魏政権を主導していたが、
国境地帯では依然として緊張状態が続いていた。
斛律光もそうした時代の中で軍歴を重ね、征虜将軍や衛将軍などの官職を歴任している。

547年には永楽県子に封じられ、後に爵位は伯へ進んだ。
若くして爵位を与えられたことは、すでに高氏政権内で一定の地位を築いていたことを示している。

549年、高澄蘭京らによって暗殺された。
しかし高氏政権は崩壊することなく、高澄の弟である高洋が実権を継承する。
斛律光も引き続き高氏一門に仕え、翌550年に高洋が東魏から禅譲を受けて北斉を建国すると、
新王朝の有力武将として活動していくことになる。

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文宣帝時代の戦功

550年に北斉が建国されると、斛律光は開府儀同三司を加えられ、西安県子の別封を受けた。

当時の北斉は、西方で北周と対峙していた。
黄河流域では城塞や軍事拠点をめぐる争奪戦が続いており、
両国の有力将軍たちは国境地帯でたびたび激突していた。
斛律光もまた、その最前線で軍功を重ねていくことになる。

552年、文宣帝高洋に従って庫莫奚討伐に参加し、戦功によって晋州刺史に任じられた。
晋州は北斉西部の重要拠点であり、
この頃にはすでに方面軍を任される将軍として重用されていたことがうかがえる。

556年には歩騎五千を率いて北周領へ進軍し、天柱・新安・牛頭の三戍を攻略した。
さらに北周の王敬儁らを破って凱旋し、西方国境における北斉の優位維持に貢献している。

558年には絳川・白馬・澮交・翼城の四戍を奪取した。
これらはいずれも北周の防衛線を構成する軍事拠点であり、斛律光は継続して北周側へ圧力を加えた。その功績によって朔州刺史に任じられている。

559年には特進・開府儀同三司となり、同年二月には騎兵一万を率いて北周へ出兵した。
この遠征では開府の曹迴公を討ち取り、
さらに柏谷城主の薛禹生が逃走すると文侯鎮を占領して戍と柵を設置している。

この頃の斛律光は、敵軍を撃破するだけでなく、
占領地に防衛拠点を築いて支配を固める戦い方を見せるようになっていた。
後年の国境経営にも通じる手法であり、
単なる勇将ではなく実務的な指揮官としての一面もうかがえる。

こうした戦功の積み重ねによって、斛律光は北斉軍を代表する将軍の一人へと成長していく。
後に北周との戦争でその名を轟かせることになるが、
その基盤は文宣帝時代の国境戦争で築かれたのであった。

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孝昭帝・武成帝時代の重臣

北斉軍の中核へ

559年に文宣帝高洋が死去すると、北斉では皇位継承をめぐる動きが続いた。
しかし、そのような政局の変化の中でも斛律光の地位は揺らがなかった。
560年には鉅鹿郡公に封じられ、さらに皇太子妃の父となることで皇室との結びつきも強めていく。

561年には尚書右僕射となり、562年には太子太保に任じられた。
これ以降の斛律光は単なる前線指揮官ではなく、北斉政権中枢を担う重臣としての性格を強めていく。もっとも、本人の本領はあくまで軍事にあり、
朝廷に留まるよりも戦場で活躍する機会の方がはるかに多かった。

563年には尚書令となり、さらに司空へ昇進した。
当時の北斉では軍功を背景に高位へ昇る将軍は少なくなかったが、
斛律光ほど長期にわたり軍事と政治の両面で重用された人物は多くない。

長城築造と国境防衛

564年、斛律光は歩騎二万を率いて西方国境へ向かった。

この遠征で彼は軹関の西に勲掌城を築き、
さらに約二百里に及ぶ長城を築造したうえで十三の戍を設置している。

この事業は単なる防衛施設建設ではなかった。

当時の北斉北周は黄河流域や河東地方をめぐって激しく争っており、国境線は常に流動的だった。
斛律光は敵軍を撃退するだけではなく、
築城と守備拠点の整備によって実効支配地域を固定化しようとしたのである。

後年の戦歴を見ても、斛律光はしばしば築城を行っている。
派手な騎兵戦や武勇ばかりが注目されるが、実際には極めて現実的な軍事戦略家でもあった。

北周軍を退ける

同じ564年、北周の達奚成興らが平陽方面へ侵攻した。
これに対し斛律光は歩騎三万を率いて迎撃に向かった。

北周軍は斛律光の出陣を知ると正面決戦を避けて撤退したという。
この時点ですでに、斛律光の名声は北周軍にも広く知られていた。
敵将の中には、斛律光の率いる軍との戦いを避けようとする者さえいた
のである。

斛律光は撤退する敵軍を追撃し、そのまま北周領へ侵入して多数の捕虜を獲得して帰還した。
守勢に回るだけでなく、敵の撤退を好機として反撃に転じる戦い方は、
後の邙山の戦いでも見ることができる。

邙山の戦い

北周軍による洛陽侵攻

564年、北周は大規模な対北斉攻勢を開始した。
北周武帝宇文邕は宇文憲・尉遅迥・王雄ら有力将軍を動員し、
十万とも称される大軍で洛陽攻略を目指したのである。

洛陽は中原支配の要地であり、北斉にとっても西方防衛の中核を担う重要都市であった。
もし洛陽を失えば、北周は黄河流域への進出拠点を得ることになり、
北斉の防衛体制は大きな打撃を受ける。
北周にとっても北斉にとっても、この戦役は単なる国境紛争ではなく、
両国の勢力均衡を左右する重要な戦い
であった。

北周軍が洛陽へ迫ると、北斉は斛律光に救援を命じた。
斛律光は騎兵五万を率いて出陣し、洛陽北方の邙山で北周軍と対峙する。

邙山は洛陽の北に位置する丘陵地帯で、古くから洛陽防衛の要衝として知られていた。
両軍はここで激しく衝突し、戦局は北斉の命運を左右する大戦へと発展する。

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王雄射殺と北斉軍の勝利

戦いの最中、斛律光は自ら弓を執った。
若い頃に大鵰を射落として「落雕都督」と呼ばれた射術の冴えは、
この頃になっても衰えていなかった。

やがて斛律光の放った矢は北周の名将・王雄に命中した。
王雄は北周軍を代表する将軍の一人であり、その戦死は戦場に大きな衝撃を与えた。
主将級の将軍を失った北周軍は動揺し、戦局は次第に北斉側へ傾いていく。

斛律光はその機を逃さず攻勢に転じた。
北周軍は撤退を余儀なくされ、洛陽攻略は失敗に終わる。
こうして北斉は西方最大の拠点を守り抜くことに成功した。

この勝利によって北周の攻勢はいったん挫折し、北斉はなお西方で優位を維持した。
斛律光自身も、この戦いによって北斉を代表する名将としての地位をさらに確固たるものとしている。

この勝利によって北周の攻勢はいったん挫折し、北斉は西方で優位を維持した。
邙山の戦いは斛律光の生涯における代表的な戦功の一つであり、
北周との長い対立の中でも特に重要な勝利として位置付けられている。

皇族との婚姻と権勢

斛律光は軍事面での功績だけでなく、皇室との婚姻関係によっても地位を高めていった。

560年、楽陵王高百年が皇太子となると、斛律光の長女が太子妃となった
高百年は後に廃されることになるが、斛律氏と高氏皇族との結び付きは続いた。

さらに斛律光の次女も皇族へ嫁ぎ、565年には後主高緯皇后となっている
これによって斛律光は皇后の父となり、北斉最高位の重臣の一人となった。

この頃の斛律光は尚書令・司徒・太尉・大将軍・太保・太傅などの高位を歴任している。
軍事を担う名将であると同時に、政権中枢に列する重臣でもあった。

もっとも、彼自身は権勢を誇示する人物ではなかった
『北斉書』によれば、斛律光は寡黙で厳格な性格であり、軍紀の維持を重視したという。
また私的な交際や派閥形成にも積極的ではなく、その威厳と実直さによって軍を統率していた。

一方で、その圧倒的な名声と地位は朝廷内で警戒される要因にもなった。
北周との戦争で連戦連勝を重ね、皇室とも姻戚関係を結んだ斛律光は、
後主高緯の時代になると北斉国内でも屈指の実力者となっていくのである。

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宜陽・玉壁方面の戦い

鹿盧交道の勝利

569年末、北周は再び洛陽方面への圧力を強めた。
北周軍は洛陽を直接攻撃するだけでなく、
北斉軍の補給線を遮断することで戦局を有利に進めようとしていた。

これに対し、570年正月、斛律光は歩騎三万を率いて出陣する。
両軍は鹿盧交道で激突し、斛律光は王傑・梁士彦・梁景興らを破った。
北周軍は補給線遮断という目的を果たせず、大きな損害を受けて撤退する。

これにより洛陽方面の危機はひとまず解消され、北斉は西方戦線で主導権を維持することに成功した。

宇文憲との百日対陣

鹿盧交道の勝利の後、斛律光はさらに宜陽方面へ進軍した。
そこでは北周の斉国公宇文憲が軍を率いて待ち構えており、
両軍は百日以上にわたって対陣したという。

この遠征では大規模な決戦こそ行われなかったが、
斛律光はその間に統関城と豊化城の二城を築いている。

北周との戦争は野戦だけで勝敗が決まるものではなく、
国境地帯の城塞や補給路の確保も重要であった。
統関・豊化の築城は、北斉側の防衛線を強化するとともに、
宜陽方面での支配を安定させる意味を持っていた。

やがて斛律光が軍を返して安鄴へ向かうと、宇文憲らは追撃を開始した。
しかし斛律光は反撃に転じ、梁洛都・梁景興・梁士彦らを破る。
梁景興は戦死し、北周軍は後退を余儀なくされた。

百日対陣は華々しい大会戦ではなかったが、
北斉北周が国境地帯の支配をめぐって争った重要な戦役の一つであった。

玉壁方面への進出

570年冬、斛律光はさらに歩騎五万を率いて玉壁方面へ進出した。

玉壁は東魏・西魏時代から幾度も争奪戦の舞台となった要衝である。
かつて西魏の韋孝寛が東魏軍の猛攻を防ぎ切ったことで知られ、
北周にとっても西方防衛の重要拠点であった。

斛律光はここで華谷城と龍門城を築き、北周側への圧力を強める。
宇文憲も対抗して軍を配置したが、大規模な会戦は行われなかった。

さらに斛律光は軍を進めて定陽を包囲し、南汾城を築いて前線拠点を整備した。
北斉軍は野戦で勝利を重ねるだけでなく、築城によって支配地域を固めながら前進していたのである。

570年前後の斛律光は、北周との長い国境戦争を指揮する中心的な将軍となっていた。
鹿盧交道の勝利、宜陽での百日対陣、玉壁方面での築城は
いずれも北斉が西方国境で優位を維持していたことを示す戦役であり、
斛律光の名声もこの時期にさらに高まっていった。

晩年の戦功

十三鎮の築城

571年、斛律光は平隴・衛壁・統戎など十三か所に及ぶ鎮戍を築いた。
これは単なる防御施設の建設ではなく、
北斉西方国境の防衛線を強化するための大規模な事業であった。

北周側もこれを黙認せず、韋孝寛や普屯威らが軍を率いて平隴方面へ進出し、
築城計画を妨害しようとする。
しかし斛律光は汾水北岸でこれを迎撃し、北周軍を破った。

こうして十三鎮の建設は進められ、北斉は西方国境の防衛体制をさらに強化することに成功した。

姚襄城・白亭攻略

その後、斛律光は歩騎五万を率いて平陽道から進軍し、北周の姚襄城と白亭を攻略した。
両城は北周側の重要拠点であり、その陥落は北周の国境防衛体制に打撃を与えた。
この遠征では城主や大都督ら九人を捕らえ、数千人の捕虜を獲得している。

571年当時の斛律光は、国境地帯で攻勢を続けていた。
十三鎮の築城によって防衛線を整備する一方で、
自ら大軍を率いて北周領へ進出し、敵の拠点を攻略していたのである。

こうした戦功によって、斛律光は長楽郡公の別封を受けた。

宜陽救援

同じ571年、北周の紇干広略が軍を率いて宜陽を包囲した。

宜陽は洛陽方面防衛の重要拠点であり、ここを失えば北周軍の進出を許す危険があった。
斛律光は歩騎五万を率いて救援に向かう。城下で北周軍と戦い、これを撃破して宜陽を守り抜いた。

この年、斛律光は相次ぐ遠征で功績を挙げた将兵に
十分な恩賞が与えられていないとして上表している。

高緯はこれを認め、571年11月には斛律光を左丞相に任じ、さらに清河郡公の別封を与えた。
軍事面だけでなく政治面でも北斉最高位の重臣となったのである。

韋孝寛の反間計

「百升飛上天、明月照長安」

572年頃、北周の韋孝寛は北斉国内に謡言を流したとされる。

その一つが、『百升飛上天、明月照長安』というものであった。

斛律光の字は「明月」であり、この言葉は斛律光を暗示するものとして受け取ることができた。
また長安は北周の都であるため、「明月照長安」という句は様々な解釈を可能にする内容であった。

当時の中国では讖緯説や予言が広く信じられており、
このような謡言は単なる噂として片付けられないことも少なくなかった。
韋孝寛はこうした時代の風潮を利用し、北斉朝廷に疑念を生じさせようとしたのである。

「高山不推自崩、槲樹不扶自立」

韋孝寛はさらに別の謡言も流した。

『高山不推自崩 槲樹不扶自立』 というものである。

当時、この言葉は高氏皇室と斛律氏を暗示していると解釈された。
「高山」は高氏、「槲樹」は斛律氏を指すと受け取ることができ、
高氏が自ら崩れ、斛律氏が自立するという意味にも読めた。

実際にそのような意図で作られたかはともかく、
この種の謡言は聞く者によって様々な解釈が可能であった。
皇后の父であり、軍事面でも大きな影響力を持つ斛律光にとっては、
決して無視できない内容だったのである。

祖珽・穆提婆の讒言

当時の北斉では、祖珽や穆提婆が後主高緯の側近として大きな影響力を持っていた。

一方の斛律光は、祖珽の振る舞いを批判し、穆提婆が望んだ婚姻関係も拒んでいたため、
両者との関係は良好ではなかった。

こうした状況の中で、韋孝寛の流した謡言は朝廷内で利用されることになる。
祖珽や穆提婆は、斛律光が皇后の父であり、軍権を掌握する有力重臣であることを挙げ、
後主高緯に対して疑念を抱かせた。

後主高緯は側近たちの言葉を信じ、次第に斛律光への警戒を強めていく。
長年にわたり北斉を支えてきた名将は、朝廷内の政治対立の渦中へ巻き込まれていくことになった。

冤罪による処刑

斛律光の処刑

572年7月、後主高緯は斛律光の逮捕を命じた。

斛律光はこの時、左丞相として北斉政権の中枢にあり、北周との戦争でも第一線で軍を率いていた。
しかし祖珽や穆提婆の讒言、そして韋孝寛が流した謡言によって謀反の疑いをかけられ、
処刑される
ことになる。

『北斉書』や『北史』を見る限り、
斛律光が実際に反乱を計画していたことを示す記録は見当たらない。
そのため後世では、斛律光誅殺は北斉後期を代表する冤罪事件の一つとして扱われている。

斛律光は北斉建国以前から高氏政権に仕え続けた重臣であり、
北周との戦争では数十年にわたって前線で活躍した。
その死は朝廷と軍の双方に大きな衝撃を与えた。

北斉衰退への影響

斛律光の処刑は、一人の将軍を失っただけではなかった。

当時の北斉では、段韶がすでに死去しており、蘭陵王高長恭もまもなく世を去ることになる。
高歓の時代から国家を支えてきた有力将軍たちは次第に姿を消しつつあった。

その中でも斛律光は北周との戦争を支える中心的な存在であり、
その喪失は北斉軍に大きな打撃を与えた。

577年、北斉北周によって滅ぼされる。
滅亡の原因を斛律光誅殺だけに求めることはできないが、
後世の史書がこの事件を北斉衰退の重要な転機として扱っていることは確かである。

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「此人若在、朕豈能至鄴」

斛律光が処刑されると、北周武帝宇文邕はこれを聞いて大赦を行ったという。
さらに577年、北周北斉を滅ぼして都の鄴へ入った際、
武帝宇文邕は次のように語ったと伝えられる。

『此人若在、朕豈能至鄴』~この人が生きていたなら、私は鄴へ入ることなどできなかっただろう

『北史』などに見える有名な逸話であり、後世しばしば引用されてきた。
実際にこの言葉がそのまま発せられたかは分からない。
しかし、北周が斛律光を重要な敵将として認識していたこと、
そして後世の史家が斛律光の存在を高く評価していたことはうかがえる。

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段韶・蘭陵王との比較

後世の北斉史では、斛律光は段韶や蘭陵王高長恭と並ぶ名将として語られることが多い。
しかし三人の性格や役割には違いがあった。

蘭陵王高長恭は皇族出身の将軍であり、
洛陽救援戦での活躍などによって後世に英雄として語り継がれた。
一方の段韶は軍事だけでなく政治にも深く関与し、
高歓の時代から北斉後期まで政権を支え続けた重臣として知られている。

これに対して斛律光は、北周との長い戦争を最前線で指揮した将軍として知られる。
国境防衛、築城、騎兵運用、野戦指揮のいずれにも優れ、
北周との戦争では数十年にわたり第一線で戦い続けている。


また、北周武帝宇文邕の「此人若在、朕豈能至鄴」という逸話は、
後世における斛律光評価を象徴するものとしてしばしば引用されている。

斛律光の評価

斛律光は『北斉書』や『北史』において、北斉を代表する名将の一人として高く評価されている。
列伝では軍事的才能だけでなく忠誠心も強調されており、
長年にわたって国家を支えた重臣として描かれている。

若い頃には「落雕都督」の異名で知られ、その後も北周との戦争で数多くの戦功を挙げた。
国境防衛、築城、騎兵運用、野戦指揮のいずれにも優れ、
北周との戦争では数十年にわたって第一線で活動している。

また、斛律光は寡黙で厳格な人物としても伝えられている。
軍紀を重んじ、軍の統制や築城工事においても規律を徹底したという。
その性格は軍の指揮には有効であった一方、
祖珽や穆提婆のような権臣たちとの対立を招く一因にもなった。

斛律光の死後、北周武帝宇文邕が『此人若在、朕豈能至鄴』と語ったとする逸話はよく知られている。
この言葉の真偽を確かめることは難しいが、
後世の史家たちが斛律光を高く評価していたことをうかがわせる逸話としてしばしば引用されてきた。

後世の北斉史では、斛律光は段韶や蘭陵王高長恭と並び称されることが多い。
その生涯は、北斉北周が争った時代を代表する武将の一人として記憶されている。

まとめ

斛律光は東魏から北斉にかけて活躍した武将であり、
北周との長い戦争を支えた北斉屈指の名将であった。
戦場での勝利だけでなく、築城や防衛線整備によって西方国境を支え、
軍事・政治の両面で重きをなした。

しかし572年、韋孝寛の反間計と祖珽・穆提婆らの讒言によって処刑される。
その死は北斉に大きな打撃を与え、
後世には王朝衰退の重要な転機の一つとして語られることになった。

史書・参考文献

  • 『北斉書』巻17「斛律光伝」
  • 『北史』巻54「斛律光伝」
  • 『周書』
  • 『北斉書』帝紀
  • 『資治通鑑』巻167~171
  • 川本芳昭『魏晋南北朝』
  • 氣賀澤保規『隋唐帝国形成史論』
  • 布目潮渢・栗原朋信編『中国の歴史』シリーズ
  • 宮崎市定『中国文明論集』

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