爾朱栄|河陰の変と北魏崩壊を導いた軍閥の実像

爾朱栄(北魏・権臣) 032.権臣

北魏末期に急速に勢力を伸ばし、皇帝の廃立にまで関与した軍閥が爾朱栄(じしゅえい)である。
北秀容を本拠とする契胡の有力首長の家に生まれ、
六鎮の乱をはじめとする各地の反乱を鎮圧する過程で強大な軍事力を築き、
やがて北魏朝廷そのものを左右する存在となった。

爾朱栄の名を最も悪名高いものにしたのが、武泰元年(528年)の河陰の変である。
孝明帝の死後、爾朱栄は元子攸を擁立して孝荘帝とした一方、
霊太后と幼主を黄河に沈め、洛陽の王公・官僚を河陰へ集めて大量に殺害した。
『魏書』では死者を千三百余人、『資治通鑑』では二千余人と記しており、
この事件によって北魏の宗室と官僚層は大きな打撃を受けた。

しかし、爾朱栄は単に暴力によって政権を奪っただけの人物ではない。
わずかな精鋭騎兵で大軍を率いる葛栄を破り、
南朝梁の支援を受けて洛陽を占領した元顥を撃退し、
甥の爾朱天光らを派遣して関中の万俟醜奴や蕭宝夤を滅ぼすなど、
北魏末の内乱を軍事的に収束させた中心人物でもあった。

その一方で晋陽から朝廷の人事を支配し、自ら即位することまで考えたため、
擁立した孝荘帝から次第に恐れられるようになり、
永安三年(530年)、宮中で皇帝自らの手によって殺害された。

北秀容の契胡酋長の家に生まれる

爾朱栄、字は天宝。北秀容の人で、一般には太和十七年(493年)頃の生まれとされる。

『魏書』『北史』によれば、朱氏はもともと爾朱川に住んでいたことからその名を氏とし、
代々部落を率いる酋長の家柄だった。
高祖父の爾朱羽健は北魏建国期の道武帝に従い、
契胡の武士千七百人を率いて晋陽平定や中山攻略に参加している。
功績によって北秀容川の広大な土地を世襲領として与えられ、
爾朱氏は北魏王朝と結びついた有力部族へ成長した。

祖父の爾朱代勤も肆州刺史・梁郡公にまで昇り、北魏の太武帝の敬哀皇后と姻戚関係を持っていた。
狩猟中、部民が虎を射ようとして誤って代勤の腿を射抜いたことがあったが、
代勤は「過失なのだから、どうして罪を加えられよう」として処罰しなかったという逸話が残り、
その対応に部民たちは感服したとされる。

父の爾朱新興も北秀容の酋長を継ぎ、牛・羊・駱駝・馬を大量に所有する富豪だった。
『魏書』には、新興が馬の群れの中で頭に二本の角を持つ白蛇を見つけ、
もし神霊なら家畜を繁殖させてほしいと祈ったところ、
その後急激に家畜が増えたという伝承まで記されている。

家畜は種類や毛色ごとに谷を埋めるほど群れをなし、
北魏が軍事行動を起こすたびに新興は自家の馬や軍需物資を提供したため、
孝文帝からも重んじられた。
洛陽遷都後も、冬には朝廷へ出仕し、
夏になると北秀容へ戻って部落を率いることを特別に許されていた。

爾朱栄はこうした財力と軍事力を備えた家の後継者として育った。
『魏書』は若い頃の爾朱栄を「潔白にして美容貌」と記し、容貌が整っていたとする一方、
幼少時から判断が速く、成長すると狩猟を好んだ
という。
狩猟では単に獲物を追うのではなく、参加者を軍陣のように配置し、厳しい号令を守らせており、
この頃から狩猟を軍事訓練に近い形で行っていた。

父の新興と高山にある祁連池を訪れた際、どこからともなく笛や太鼓の音が聞こえたことがあった。
新興は「昔から、この音を聞いた者は公輔の位に至ると伝えられている。
私はもう年老いているから、お前のことだろう」と息子に語ったという。

史書に収められた瑞兆譚の一つだが、
後世から見れば爾朱栄が北魏最高の権力者にまで昇った経歴と結び付けられた逸話である。

六鎮の乱を背景に私兵を拡大する

父が老齢を理由に爵位を譲ることを願い出ると、爾朱栄は家督を継ぎ、直寝・游撃将軍となった。
ちょうど正光年間(520~525年)には北魏北辺で六鎮の乱が始まり、
各地で反乱が相次いでいたため、

爾朱栄は自家の家畜を売却・分配して兵を募集し、衣服や馬を与えて独自の軍団を組織した。

当初は北魏朝廷の将軍として柔然の阿那瓌を追撃し、
その後も北秀容周辺で起こった反乱の鎮圧にあたった。

乞扶莫于が郡を襲って太守を殺すとこれを討ち、
南秀容で万俟乞真が反乱を起こして太僕卿の陸延を殺害した際にも鎮圧に参加したほか、
素和婆崘、劉阿如、斛律洛陽ら各地の反乱勢力を次々に破った。
これらの戦功によって安平県侯から博陵郡公へ進み、安北将軍や北道都督などの軍職を重ねていった。

勢力が拡大すると、爾朱栄は朝廷の統制にも従わなくなった。
軍を率いて肆州へ到着した際、刺史の尉慶賓が爾朱栄を恐れて城門を閉ざすと、
爾朱栄は怒って城を攻め落とし、尉慶賓を捕らえて北秀容へ連行したうえ、
自分の一族である爾朱羽生を勝手に刺史へ据えた。
『魏書』は、この頃から爾朱栄の軍威が急速に高まり、
朝廷もその行為を罪に問うことができなくなったと記している。

鮮于修礼・杜洛周・葛栄らが河北で勢力を広げると、
爾朱栄は并州・肆州・汾州・恒州など六州の軍事を統括する大都督へ進み、
北魏北部で最大級の軍事勢力を持つようになった。


とくに葛栄が杜洛周を併合すると、その軍勢が鄴へ南下することを警戒し、
精鋭騎兵三千を相州へ派遣するよう朝廷へ願い出たが、
霊太后政権は爾朱栄の勢力拡大そのものを警戒して許可しなかった。
爾朱栄は独自に滏口や井陘などの要衝を固め、葛栄の西進に備えた。

高歓を見出して軍議に加える

この時期、のちに東魏を成立させ、北斉の基礎を築く高歓も爾朱栄のもとへ身を寄せていた。
『資治通鑑』によれば、高歓はもともと杜洛周の軍に加わり、
その後葛栄のもとを経て爾朱栄に帰順したが、
当初の爾朱栄は痩せ衰えた高歓を見ても特別な人物とは考えていなかった。

ある時、爾朱栄は高歓に気性の荒い馬の鬣を切らせた。
高歓は馬を縛ることもせずに作業を終えたにもかかわらず、馬は蹴ることも噛むこともなかった。
そこで高歓が「悪人を御するのも、これと同じです」と語ると、
爾朱栄は興味を持ち、左右の者を退けて時局について意見を求めた。

高歓は、
爾朱栄が所有する馬が十二の谷を埋めるほど存在するのに、それを何に使うつもりなのかと問い、
孝明帝が若く、霊太后とその側近が朝政を握る現状では、
爾朱栄が兵を起こして鄭儼・徐紇らを排除すれば覇業を成し遂げられると説いた。

爾朱栄はこの意見を喜び、正午から深夜まで高歓と語り合い、
それ以後は軍議にも参加させるようになった。

爾朱栄は并州刺史の元天穆とも親しく、年長の元天穆を兄のように敬っていた。
元天穆や賀抜岳らとも、洛陽へ兵を進めて朝廷の側近を排除し、
各地の反乱を平定する構想について密かに協議している。

この時点ですでに、爾朱栄の関心は北秀容周辺の防衛にとどまらず、
北魏中央の政治そのものへ向かっていた。

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高歓|北魏を掌握し東魏・北斉へと繋がる基礎を築いた実力者
高歓(こうかん)は、北魏末期の動乱の中で台頭し、東魏の実権を掌握した軍事指導者。六鎮出身の叩き上げとして爾朱氏を打倒し、宇文泰と対峙しながら政権を維持。最終的に北斉の基盤を築いたその生涯と実像を解説する。

孝明帝の死を受けて洛陽へ進軍する

孝明帝と霊太后の関係が悪化すると、孝明帝自身も鄭儼や徐紇ら霊太后側近の排除を望み、
密かに爾朱栄へ兵を率いて洛陽へ向かうよう命じた。
爾朱栄は高歓を先鋒として進軍を始めたが、
孝明帝は途中で再び中止を命じたため、軍は上党から引き返した。

武泰元年(528年)、孝明帝が十九歳で急死すると、
爾朱栄は鄭儼・徐紇らが関与した毒殺だと疑った。


霊太后は当初、孝明帝の娘を男子と偽って即位させ、
すぐにそれを撤回して幼児の元釗を皇帝としたため、
爾朱栄は「まだ言葉も話せない幼児を天下の君主として、どうして治安を保てるのか」
と元天穆に語り、兵を率いて洛陽へ向かうことを決めた。

爾朱栄は檄文の中で、孝明帝の急死について調査し、徐紇・鄭儼らを処罰したうえで、
北魏宗室の中から徳望ある人物を選んで皇帝とするべきだと主張した。
一方では甥の爾朱天光、奚毅、王相らを密かに洛陽へ送り、皇帝候補の選定を進め、
最終的に彭城王元勰の子である長楽王元子攸を擁立することで合意した。

史書には、この時の爾朱栄がなお候補者の選択に迷い、
孝文帝の子孫六人の銅像を鋳造して、
完成した人物を皇帝にしようとしたという奇妙な逸話が残っている。
何度試しても元子攸の像だけが完成したため、爾朱栄はこれを天意と受け取り、
元子攸を迎えることを決めたという。

元子攸は兄の元劭、弟の元子正とともに密かに黄河を渡って爾朱栄軍へ入り、
建義元年(528年)四月、孝荘帝として即位した。

孝荘帝は爾朱栄を侍中・都督中外諸軍事・大将軍・尚書令などに任じ、太原王に封じた。
これにより、爾朱栄は北魏皇帝を擁立した最大の功臣として、
軍事・政治の双方で圧倒的な立場を得た。

霊太后と幼主を黄河へ沈める

孝明帝の死後、霊太后は幼い元釗を皇帝に立てたが、
爾朱栄はこれを認めず、長楽王元子攸を擁立して孝荘帝として即位させた。
こうして北魏では、霊太后が立てた元釗と、爾朱栄が擁立した孝荘帝が並び立つ状態となった。

爾朱栄が孝荘帝を奉じて洛陽へ迫ると、霊太后側の態勢は急速に崩れた。
鄭儼や徐紇ら側近は逃亡し、霊太后は孝明帝の後宮にいた女性たちを出家させ、
自らも髪を落としたが、爾朱栄軍の進撃を止めることはできなかった。

やがて霊太后と元釗は捕らえられ、河陰へ送られた。
霊太后は爾朱栄を前にして、自らの行動についてさまざまに釈明したというが、
爾朱栄は聞き入れず、その場を離れた。

その後、爾朱栄は霊太后と元釗を黄河へ沈めて殺害した。
元釗は霊太后によって擁立されてから間もない幼主であり、
この処刑によって霊太后政権は完全に消滅し、
爾朱栄が擁立した孝荘帝の政権が洛陽へ入ることになった。

河陰の変で王公・官僚を大量に殺害する

霊太后を排除した後、武衛将軍の費穆は爾朱栄に対し、
爾朱軍は一万人にも満たず、戦闘によって洛陽を征服したわけでもないため、
朝廷の王公や官僚たちは内心では爾朱栄を軽視しており、
このまま北へ帰れば反撃を受ける恐れがあると進言した。
爾朱栄はこの意見を受け入れ、洛陽の有力者を一挙に排除することを考えた。

爾朱栄は腹心の慕容紹宗にも相談したが、
慕容紹宗は、霊太后や側近の専横を除くことを掲げて兵を起こした以上、
忠臣と奸臣を区別せず大量に殺害すれば天下の支持を失うとして反対した。
それでも爾朱栄は聞き入れず、孝荘帝が天を祭るという名目で百官を河陰の行宮付近へ集めさせた。

王公・官僚が集まると、爾朱栄は騎兵に周囲を包囲させ、
天下が乱れ、孝明帝が急死したのは朝臣たちが貪欲で皇帝を補佐しなかったためだ
と非難して殺害を命じた。
『魏書』は死者を千三百余人、『資治通鑑』は高陽王元雍以下二千余人としており、
孝荘帝の兄元劭と弟元子正も殺された。北魏宗室と中央官僚の多くが、この一日で失われた。

後から到着した百人余りの官僚も包囲され、爾朱栄は「禅譲の文章を書ける者は助ける」と告げた。
多くが応じない中、趙元則が名乗り出ると、爾朱栄は禅譲文を作らせ、
兵士たちには「元氏は滅び、爾朱氏が興る」と叫ばせたという。

河陰の変は朝臣排除だけでなく、
この段階で爾朱栄自身が北魏皇帝に代わる可能性を現実に検討していたことを示す事件でもあった。

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自ら皇帝になることを考える

大量殺害の直後、爾朱栄は孝荘帝を河橋へ移し、自ら帝位につくことを考え始めた。
『資治通鑑』では高歓が爾朱栄の即位を勧め、多くの側近も賛成した一方、
賀抜岳は、奸臣を除くことを掲げて兵を起こしたばかりなのに大功も成さないまま帝位を狙えば、
かえって災いを招くとして反対したと記している。

爾朱栄は決断を占うため、自分を模した金像を鋳造させたが、四度試しても完成しなかった。
占術を得意とした劉霊助にも相談し、自分が駄目なら元天穆を皇帝にしてはどうかと尋ねたものの、
劉霊助は元天穆も不吉であり、長楽王、すなわち孝荘帝に天命があると答えた。

こうした結果を受けて爾朱栄は即位を断念し、自分の行動を悔いた。
夜明け前に孝荘帝を迎えに行き、馬前に叩頭して死罪を願ったとされ、
孝荘帝は再び皇帝として洛陽へ入った。

河陰の変によって洛陽では爾朱栄が晋陽へ遷都する、
あるいは洛陽を略奪するとの噂が広がり、官僚や住民の多くが逃亡した。

爾朱栄は混乱を鎮めるため、河陰で殺された者に高い官位を追贈し、
子孫がいない場合には後継者を立てて爵位を与えるよう奏請するとともに、
孝荘帝に使者を市中へ送らせて住民を慰撫した。

これによって逃亡していた官僚たちも徐々に洛陽へ戻ったが、
大量殺害そのものが取り消されたわけではなかった。

七千騎で葛栄の大軍を破る

建義元年(528年)五月、爾朱栄は洛陽を離れて晋陽へ戻った。
この頃、河北では葛栄が急速に勢力を拡大し、
その軍勢は史書で「百万」と号したと記されるほどの規模となり、鄴へ迫っていた。

爾朱栄は七千の精鋭騎兵を率いて葛栄討伐に向かい、
兵士一人につき替え馬を用意して昼夜兼行で滏口から河北へ進出した。
圧倒的な兵力を持つ葛栄は勝利を疑わず、
爾朱栄軍を生け捕りにするため、兵士たちに長い縄を用意させていたという。

これに対して爾朱栄は、少数であることを悟られないよう兵を山谷に潜ませ、
数百騎ずつ複数の部隊に分けて各所で砂塵を上げ、太鼓を鳴らさせた。
さらに戦闘が始まると、騎兵には刀ではなく短い棒を持たせ、
倒した敵の首を取るために立ち止まることを禁じ、攻撃と追撃を続けることを優先させた。

爾朱栄自身も兵を率いて葛栄軍の陣中へ突入し、その背後へ回って前後から攻撃した。
数十里にわたって布陣していた葛栄軍はこの攻撃によって崩れ、葛栄本人も捕らえられた。

問題となったのは、その後に残された膨大な数の降伏兵だった。
爾朱栄は彼らを一か所に集めたまま管理すれば再び反乱を起こす危険があると考えたが、
大軍を率いてきた自軍のように見せるため、すぐには各地へ分散させなかった。

まず降伏兵に対して、親族や知人とともに好きな場所へ行くことを許し、
爾朱栄軍に従う必要もないと告げたため、人々は安心して四方へ散っていった。

こうして降伏兵同士が百里ほど離れるまで分散したところで、爾朱栄は各地に軍を派遣し、
あらためて彼らを適切な州郡へ移住させた。
また、降伏者の中から指導力のある者を選び出して官軍へ登用したため、
葛栄の巨大な軍事集団は再結集することなく解体された。

『魏書』は、この一連の処置について、
当時の人々が爾朱栄の判断と処理の巧みさに感服したと記している。

双兎を射抜き、葛栄捕縛を占う

葛栄討伐の際には、爾朱栄の軍事能力だけでなく、
当時の人々が戦勝を瑞兆と結び付けていたことを示す逸話も残されている。

軍が襄垣に到着した時、爾朱栄は兵士たちを集めて大規模な狩猟を行った。
すると二羽の兎が馬前へ飛び出したため、爾朱栄は弓を構え、
「これを射抜けば葛栄を捕らえられる。外せば捕らえられない」と誓い、二羽とも射落とした。

兵士たちはこれを吉兆として喜び、葛栄を破った後、
その場所には「双兎碑」と呼ばれる碑まで建てられた。

決戦前夜には、道武帝を名乗る人物が夢に現れ、
葛栄から千牛刀を取り上げて爾朱栄へ渡す夢を見たともいう。
爾朱栄は目を覚ますと勝利を確信したとされ、
こうした逸話も葛栄討伐後の爾朱栄の権威を高める物語として史書に残された。

葛栄を捕らえた功績によって爾朱栄は大丞相となり、
さらに長楽・南趙・博陵・浮陽・遼西・上谷・漁陽の七郡から各一万戸、
従来分と合わせて十万戸という破格の封邑を与えられ、太師にも進んだ。
北魏において皇族以外の一武将が受ける待遇としては異例の規模だった。

元顥と陳慶之に洛陽を奪われる

河陰の変が起こると、北海王元顥は南朝梁へ逃れ、梁武帝蕭衍に援助を求めた。
蕭衍は元顥を魏王に立て、将軍の陳慶之に兵を与えて北魏へ送り込んだ。
元顥は北上を始めると自ら北魏皇帝を称し、洛陽の孝荘帝に対抗する政権を立てた。

永安二年(529年)、元顥と陳慶之が北上していた頃、
北魏軍の主力を率いる元天穆は山東で邢杲の反乱を討っていた。
元顥軍はこの隙を突いて梁国などを攻略し、陳慶之も滎陽、虎牢を相次いで突破して洛陽へ迫った。
迎撃する兵力を欠いた孝荘帝は洛陽を放棄して黄河を渡り、北岸へ逃れたため、
元顥はほとんど抵抗を受けず洛陽へ入った。

洛陽陥落の知らせを受けた爾朱栄は晋陽から南下し、黄河北岸で孝荘帝と合流した。
邢杲を平定した元天穆らも戻り、爾朱栄は黄河を渡って洛陽を奪還しようとしたが、
元顥側は南岸の河橋を固め、陳慶之も北中城を守っていたため、
何度攻めても渡河することができなかった。

戦いが長引くと、爾朱栄は一度北へ退いて兵を整え直すことを考えた。
これに楊侃や高道穆らが反対し、
ここで退けば元顥に勢いを与え、孝荘帝を支持する人々も離れてしまうと説いたため、
爾朱栄は攻撃を続けることにした。

やがて馬渚の住民から小船を提供できるとの申し出があり、
爾朱栄は夜陰に乗じて爾朱兆や賀抜勝らの精鋭を黄河の南岸へ渡らせた。
予想していなかった地点から北魏軍が現れたことで元顥軍は動揺し、
さらに爾朱栄の本隊も河橋を突破すると、その軍勢は崩壊した。

元顥は洛陽を捨てて南へ逃れ、孝荘帝は再び洛陽へ戻った。
陳慶之も残兵を率いて南朝梁への帰還を図ったが、途中で増水した河川に遭い、軍の大半を失った。

爾朱栄は元顥政権を倒して孝荘帝を洛陽へ復帰させた功績により、
新たに設けられた「天柱大将軍」の称号を授けられ、さらに十万戸を加増された。


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甥の爾朱天光らに関中を平定させる

元顥を破った後も、爾朱栄は各地に一族や配下の将軍を送り込んだ。

葛栄の残党である韓楼が幽州・平州に残ると侯淵を派遣して討伐し、
関中では万俟醜奴と蕭宝夤が依然として大きな勢力を保っていたため、
甥の爾朱天光を雍州刺史として派遣し、賀抜岳・侯莫陳悦らを率いさせた。

爾朱天光は当初、自軍が少ないことを理由に進軍をためらった。
これを知った爾朱栄は激怒し、騎兵参軍の劉貴を急派して天光を杖で打たせたため、
恐れた天光らは進軍を開始した。

その後は万俟醜奴・蕭宝夤を相次いで捕らえ、
王慶雲・万俟道洛も破り、関中の大規模反乱をほぼ平定した。

爾朱栄自身がすべての戦場を転戦したわけではないが、
この時期には爾朱天光、爾朱兆、元天穆、賀抜岳、侯莫陳悦、侯淵、高歓ら多数の将軍を配下に置き、
北魏各地の軍事行動を統括していた。

後に西魏・東魏・北斉北周の建国へつながる有力武将の多くが、
一時期爾朱栄の軍事組織の中にいたことになる。

狩猟を軍事訓練として続ける

大規模な反乱がほぼ平定された後も、爾朱栄は狩猟をやめなかった。
寒暑を問わず大規模な囲い猟を行い、参加者には軍陣と同じ規律を要求したため、
険しい地形にぶつかっても隊列から外れることを許さず、
虎や豹を包囲から逃がした者は死罪になることさえあった。
配下の兵士たちはこの狩猟をひどく苦痛に感じていたという。

元天穆が、天下もほぼ平定されたのだから政治を整えて民を休ませるべきだと諫めると、
爾朱栄は、自分が孝荘帝を擁立したことは臣下として当然のことであり、
葛栄らを捕らえたことも逃亡した奴僕を捕まえた程度のことで、
まだ功績と呼ぶほどではないと答えた。

そのうえで、貪欲な朝臣を狩猟へ連れ出して虎と格闘させ、南方の異民族を北方へ移住させ、
さらに翌年には精鋭騎兵を江淮へ送り、梁武帝が降伏しなければ数千騎で捕らえてくる、
といった構想まで語っている。

こうした発言が実際の遠征計画としてどこまで具体化していたのかは不明だが、
爾朱栄が北魏国内の反乱鎮圧だけで満足せず、
南朝梁を含む広範な軍事行動を構想していたことはうかがえる。

残虐な狩猟と奇行

『北史』『資治通鑑』には、爾朱栄の軍事能力と並んで、
感情の起伏が激しく残酷な性格だったことを示す逸話も多く残されている。

狩猟中に猛獣を見て逃げた兵士がいると、「生きたいのか」と問い、その場で斬ったことがあった。
また谷に追い詰めた猛獣を捕らえる際には、
部下たちに厚い衣服だけを着せ、武器を持たせず素手で格闘させたため、何人もの死者が出たという。
爾朱栄自身はそれを楽しんでいたと『北史』は記している。

寺の沙弥二人が一頭の馬に乗っているのを見かけた際には、
互いにぶつかり合わせ、疲れ切って動けなくなると、
周囲の者に二人の頭を何度も打ち合わせるよう命じ、死ぬまで続けさせたという話もある。

弓・槍・刀を常に身近に置き、腹を立てればその場で人を射たり斬ったりしたため、
側近たちはいつ殺されるか分からない状態に置かれていた。

一方で朝廷に入ると、孝荘帝や王公たちと騎射を楽しみ、
皇帝が矢を命中させれば爾朱栄自ら立ち上がって踊り、将相や王妃たちまで一緒に踊らせた。

酒が回ると胡歌を歌い、帰る際には側近と手をつないで足を踏み鳴らしながら
「回波楽」を歌ったとも記されており、
北秀容の部族社会で育った軍事首長としての生活習慣を、
洛陽の宮廷に入っても変えなかった様子が伝わる。

晋陽から北魏朝廷を支配する

爾朱栄は洛陽に常駐せず、晋陽を本拠として北魏の軍事を掌握していた。
洛陽には腹心の元天穆を置き、録尚書事・京畿大都督などの要職を任せたほか、
一族や側近を各地の重要官職に送り込み、朝廷の人事にも強い影響力を及ぼした。

その力を示すのが、定州曲陽県令の人事をめぐる事件である。
爾朱栄は自分の推薦する人物を県令にするよう求めたが、
吏部尚書の李神儁は資格を満たしていないとして退け、別の人物を任命した。
すると爾朱栄は朝廷の決定を無視し、自分が推薦した人物を曲陽へ向かわせ、
すでに任命されていた県令から職を奪わせた。

こうした状況のもとでは、爾朱栄の使者も朝廷で大きな力を持った。
使者自身の官位が低くても高官たちは逆らうことを恐れ、
宮門で奏上の取り次ぎが少し遅れただけで、使者が怒りをあらわにすることさえあったという。

しかし、孝荘帝が爾朱栄の要求をすべて受け入れていたわけではない。
爾朱栄が北方出身者数人を河南諸州の刺史に任命するよう求めた際には、孝荘帝がこれを拒んだ。

元天穆は孝荘帝に対し、爾朱栄が天下の官僚をすべて入れ替えたいと求めても拒めないはずなのに、
数人の刺史さえ認めないのかと迫った。
これに対して孝荘帝は、爾朱栄が臣下でないのなら自分を皇帝の座から降ろすこともできるだろうが、
臣下である以上、天下の官職を思いのままにすることはできないと答えた。

この言葉を伝え聞いた爾朱栄は、
「天子は誰のおかげで即位できたと思っているのか。それなのに今では私の言うことを聞かない」
と怒ったという。

孝荘帝を擁立したことを自らの権力の根拠とする爾朱栄に対し、
孝荘帝は皇帝と臣下の関係を崩すまいとして抵抗するようになっていた。

孝荘帝との関係が決裂する

孝荘帝にとって爾朱栄は、自らを皇帝にした最大の功臣であると同時に、
兄弟や多数の宗室・官僚を河陰で殺した人物でもあった。

しかも爾朱栄の娘は孝明帝の後宮に入っていたが、
孝荘帝即位後、爾朱栄はその娘をあらためて皇后にするよう求め、
孝荘帝は最終的にこれを受け入れた。
皇帝は政治だけでなく後宮からも爾朱氏の圧力を受けることになった。

一方の爾朱栄も、孝荘帝が成長して独自に政務を処理し始めることを警戒するようになった。
官僚人事をめぐって皇帝に拒否されると不満を露わにし、
洛陽から晋陽への遷都を考えているとの噂も繰り返し流れた。
配下から九錫を求めるべきだという話が出た際には、その人物を追放したと自ら奏上したが、
『北史』は爾朱栄自身が特別な待遇を望んでおり、朝廷の反応を探る意図があったとする。

孝荘帝はこうした状況に耐えられず、
城陽王元徽、李彧、楊侃ら近臣と爾朱栄暗殺を検討するようになった。
地方の反乱が続いている間は爾朱栄の軍事力を必要としていたが、
葛栄、元顥、万俟醜奴、蕭宝夤らが相次いで滅び、
国内の主要な敵がほぼいなくなると、皇帝にとって最大の脅威は爾朱栄自身となった。

『北史』には、各地の平定を聞いた孝荘帝がかえって喜ばず、
「いま天下にはもう賊がいない」と憂えた様子まで記されている。

暗殺計画を警告されても洛陽へ向かう

永安三年(530年)九月、
爾朱栄は皇后の出産を見舞うことなどを理由として洛陽へ向かうことを決めた。

従弟の爾朱世隆は危険を察して来京を止める手紙を送り、妻の北郷郡長公主も行かないよう勧めたが、
爾朱栄は聞き入れなかった。

洛陽へ到着すると、孝荘帝が自分を殺そうとしているという密告まで受けた。
ところが爾朱栄はその内容をそのまま孝荘帝に話し、
皇帝から「私にも王が私を殺そうとしているという噂が届いているが、そんなことを信じるだろうか」と返されると、かえって疑いを解いた。
その後は入宮する際にも数十人程度しか連れず、武器も持たせなかった。

『北史』には、
爾朱栄の周囲ではこの頃すでに皇帝を軽視する発言が公然と交わされていたことも記されている。

部下から九錫を得るのは当然だ、并州城には紫気が現れている、今年こそ禅譲文を書くべきだ、
といった発言があり、そうした話は孝荘帝の耳にも届いていた。

爾朱栄本人が直ちに即位する具体的計画を進めていたと断定することはできないが、
河陰の変の際に一度は自ら皇帝になることを考えており、
孝荘帝が将来を恐れた理由は十分に存在した。

孝荘帝に宮中で殺される

九月二十五日、孝荘帝は明光殿に兵を伏せ、
爾朱栄と元天穆、爾朱栄の長男爾朱菩提らを宮中へ呼び入れた。
『魏書』によれば、席に着いたところで光禄少卿魯安や典御李侃晞らが刀を抜いて現れたため、
爾朱栄は身の危険を悟って皇帝の御座へ向かって突進した。

孝荘帝はあらかじめ膝の下に刀を隠しており、自ら爾朱栄を斬った。
続いて伏兵が襲いかかり、爾朱栄は元天穆、十四歳だった長男爾朱菩提らとともに殺害された。
享年三十八。

『魏書』『北史』はいずれも、
爾朱栄が死んだことを知ると宮中の内外から喜びの声が上がり、その声が洛陽に満ちたと記している。

河陰の変からわずか二年余りで、北魏皇帝を擁立し、
河北・関中・洛陽を軍事的に支配した爾朱栄は、
自ら擁立した皇帝の手によって命を落とした。

爾朱栄の死後、爾朱氏が洛陽を制圧する

爾朱栄が死んでも、その軍事組織は消滅しなかった。
一族の爾朱兆、爾朱世隆、爾朱度律、爾朱仲遠、爾朱天光らは各地に大軍を持っており、
孝荘帝による爾朱栄殺害を知ると朝廷に反旗を翻した。

爾朱兆は晋陽から南下して洛陽を攻略し、孝荘帝を捕らえて晋陽へ連行した。
高歓は爾朱兆に対し、皇帝を殺せば天下に悪名を残すとして止めようとしたが、
爾朱兆は聞き入れず、のちに孝荘帝を絞殺した。

爾朱氏は長広王元曄を皇帝に立て、
さらに元曄を廃して広陵王元恭、すなわち節閔帝を擁立し、
爾朱氏一族による軍事政権を維持した。

節閔帝の時代には爾朱栄に対する名誉回復も行われ、
相国・晋王を追贈され、九錫を与えられ、「武」と諡された。

さらに孝文帝の廟庭へ配享することも決められたが、
司直の劉季明は、爾朱栄は孝荘帝に仕えながら臣節を全うしなかったため、
どの皇帝にも配享すべきではないと反対したという。
爾朱世隆は怒ったものの、劉季明は処罰を恐れず主張を変えなかった。

高歓が爾朱氏を滅ぼす

爾朱栄の死後、一族は広大な地域を分割して支配したが、
爾朱栄ほど強力に諸将を統率できる人物はいなかった。


爾朱天光が関中、爾朱兆が并州・汾州、爾朱仲遠が徐州・兗州方面、
爾朱世隆が洛陽を押さえたものの、
互いの利害が対立し、各地で苛酷な支配を行ったため反発も拡大した。

そこから台頭したのが、かつて爾朱栄に才能を見出された高歓だった。
高歓は爾朱氏のもとに集められていた六鎮出身者を掌握して信都で挙兵し、
爾朱氏と対立するようになった。


永熙元年(532年)の韓陵の戦いでは、
爾朱兆・爾朱天光・爾朱度律・爾朱仲遠らの連合軍を破り、爾朱氏の主力を壊滅させた。
爾朱天光や爾朱度律、洛陽にいた爾朱世隆らも相次いで捕らえられ、あるいは殺害され、
翌年には爾朱兆も敗れて自殺した。

爾朱氏の軍事政権が崩壊した後、高歓が北魏東部の実権を握り、
西方では賀抜岳を経て宇文泰が勢力を形成した。
やがて北魏は東魏と西魏へ分裂し、その後の北斉北周へつながっていく。


爾朱栄自身は北魏を二つに分裂させた人物ではないが、北魏皇帝の権威を軍事力によって従属させ、
中央官僚層を河陰の変で大量に失わせたことは、北魏末期の政治構造を大きく変える一因となった。

↓↓西魏・北周へと繋がる基礎を築いた高歓についての個別記事は、こちら

宇文泰|西魏を支配し隋唐の基礎を築いた軍事政治家
宇文泰(うぶんたい)の生涯を『周書』『北史』『資治通鑑』をもとに解説。西魏の実権掌握、孝武帝との対立、府兵制・六官制・均田制、八柱国と関隴集団まで、隋唐国家の基礎を築いた実像を詳しく紹介。

爾朱栄の人物像

『魏書』が描く爾朱栄は、軍事面ではきわめて高い能力を持つ。

北秀容の部族兵を基盤として各地の反乱を鎮圧し、
葛栄との戦いでは圧倒的な兵力差を騎兵の機動力と欺瞞によって覆した。
降伏した数十万の葛栄軍をその場で拘束せず、まず解散させてから分散配置した処置にも、
反乱軍の心理と集団行動を理解した判断が見える。

また、爾朱栄の軍団からは高歓、賀抜岳、宇文泰、侯莫陳悦、慕容紹宗ら、
その後の東西魏・北斉北周で重要な役割を果たす武将が多数現れた。


爾朱栄が彼ら全員を育成したという意味ではないが、
北魏末の軍事人材が晋陽を中心とする爾朱栄の勢力圏へ集まっていたことは、
その後の北朝史を考えるうえで重要である。

一方、政治面では軍事的成功によって獲得した権力を抑制できなかった。
河陰では霊太后や幼主だけでなく、自らを支持する可能性のあった宗室・官僚まで大量に殺害し、
その直後には北魏皇帝に代わって自ら即位することまで考えた。
その後は孝荘帝を皇帝として残しながら、晋陽から人事や政策へ介入し続けたため、
皇帝との共存は次第に困難になっていった。

『魏書』の史臣も、
爾朱栄が葛栄・元顥・邢杲・韓楼・万俟醜奴・蕭宝夤らを平定した功績そのものは高く評価している。
その一方で、皇位への野心を抱き、霊太后・幼主を殺し、
河陰で多数の官僚を死なせたことが最終的に破滅を招いたと評しており、
軍事的功績と政治的暴力を明確に分けて論じている。

まとめ

爾朱栄は、北秀容の契胡酋長の家に生まれ、
六鎮の乱を契機として急速に軍事力を拡大した北魏末最大の軍閥だった。
各地の反乱を鎮圧する中で朝廷も無視できない存在となり、
孝明帝の死後には軍を率いて洛陽へ進み、元子攸を孝荘帝として擁立した。

その直後に起こした河陰の変では、
霊太后と幼主を黄河へ沈め、北魏宗室や中央官僚を大量に殺害した。
一時は自ら皇帝になることまで考えたものの断念し、
以後は孝荘帝を残したまま晋陽から朝廷を支配した。

軍事面では、七千騎で葛栄の大軍を破り、元顥と陳慶之によって奪われた洛陽を奪還し、
一族や配下を用いて河北・関中の大規模反乱をほぼ平定した。

しかし軍事的成功によって権力が集中するほど孝荘帝との対立も深まり、
永安三年(530年)、警告を受けながら洛陽へ入り、明光殿で孝荘帝自らの手によって殺害された。

死後には爾朱氏一族が洛陽を制圧して孝荘帝を殺し、一時は北魏朝廷を完全に支配したが、
やがて高歓に敗れて勢力を失った。
爾朱栄が築いた軍事組織から高歓宇文泰につながる勢力が生まれたことで、
北魏末の内乱は東魏・西魏、さらに北斉北周へ続く新たな政治秩序へ移っていくことになる。

史書・参考文献

『魏書』巻七十四「爾朱栄伝」
『北史』巻四十八「爾朱栄伝」
司馬光『資治通鑑』巻一五二・一五三・一五四

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