尉遅迥|隋建国に抗した北周の名将と反乱の全貌

尉遅迥(北周・武将) 033.武将

尉遅迥(うっちけい)は、西魏から北周にかけて活躍した武将・政治家であり、
北周末期に楊堅の政権掌握に対して大規模な反乱を起こした人物である。

北周の実質的な創業者である宇文泰の甥にあたり、
西魏文帝の娘を妻とするなど、宇文氏政権と極めて深い関係を持っていた。

若い頃から軍事と行政の双方で才能を示し、
とりわけ553年の蜀攻略では総司令官として成都を降し、西魏の領土拡大に大きく貢献した。

北周では柱国大将軍・蜀公にまで昇り、旧北斉領の中心である相州を任されるほどの重臣となったが、
580年に宣帝が急死すると状況は一変する。

幼い静帝を擁して実権を握った楊堅が尉遅迥を相州から召還しようとすると、
尉遅迥はこれを宇文氏から帝位を奪う動きと判断し、鄴を拠点として挙兵した。

数十万規模の勢力を集め、各地の反楊堅勢力や突厥・南朝陳とも連携しようとした尉遅迥だったが、
韋孝寛・高熲らの討伐軍に敗れ、挙兵からわずか68日で自害した。

ただし尉遅迥は、単純に「隋に反乱を起こした武将」と捉えるだけでは実像をつかめない。
西魏による蜀平定を成功させた名将であり、新領土の統治でも実績を残した政治家であると同時に、
北周王室との血縁と長年の恩義を背景として、
王朝交替の直前まで宇文氏に忠誠を尽くした人物でもあった。

宇文泰の甥として生まれた尉遅迥

鮮卑系の尉遅氏と宇文氏との血縁

尉遅迥、字は薄居羅。
代郡の人とされ、その祖先は鮮卑系の尉遅部に属し、部族名をそのまま姓としたという。

父の尉遅俟兜は、北周の実質的な創業者である宇文泰の姉・昌楽大長公主を妻とした。
したがって尉遅迥は宇文泰の甥にあたり、弟には尉遅綱がいる

父の俟兜は死の直前、尉遅迥と尉遅綱を呼び寄せ、
二人にはともに高貴な身分へ昇る人相があるものの、
自分がそれを見ることができないのが残念だという趣旨の言葉を残したと『周書』は伝えている。

尉遅迥自身についても、若い頃から聡明で容姿が美しく、
成長すると大志を抱き、人に施しを行って士を愛した
人物だったと記される。
こうした性格は、後に武将として大きな人望を得る背景にもなったと考えられる。

西魏での出世と金明公主との結婚

尉遅迥は大丞相府の帳内都督となって宇文泰に仕え、
西魏文帝の娘である金明公主を妻に迎え、駙馬都尉となった。
母方では宇文泰の甥、婚姻関係では西魏皇帝の女婿という、
政権中枢に極めて近い立場にあったことになる。

軍人としても早くから実績を重ね、宇文泰に従って弘農の奪回や沙苑の戦いに参加して功績を挙げた。
その後は尚書左僕射、領軍将軍などを歴任し、さらに大将軍へ昇進した。

『周書』は尉遅迥について、
機敏で実務能力があり、文武双方の任務を担って当時の人々の期待に応えたため、
宇文泰から深く信任されたと記している。

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蜀攻略で名将としての地位を確立

武陵王蕭紀の東下を好機と判断

尉遅迥の軍歴の中でも最大の功績となったのが、553年の蜀攻略である。

南朝梁では侯景の乱によって国内が混乱し、
江陵にいた梁元帝蕭繹と、蜀を支配していた弟の武陵王蕭紀が対立していた。
蕭紀は成都で皇帝を称したのち、大軍を率いて東へ進み、梁元帝を攻撃しようとした。

梁元帝から援助と蜀への攻撃を求められた宇文泰は、蜀を奪取する絶好の機会と判断した。
しかし諸将の意見は一致せず、その中で積極的に攻略を主張したのが尉遅迥だった。

尉遅迥は、蕭紀が精鋭を率いて東下したため蜀の守備は手薄になっており、
西魏軍が進攻すれば大きな抵抗を受けずに攻略できると判断した。

さらに宇文泰から具体的な作戦を問われると、
蜀は長く中原から隔絶され、険しい地形を頼みにして西魏軍の急襲を予想していないため、
精鋭の歩兵と騎兵を率いて迅速に進軍し、不意を突いて中心部へ攻め込むべきだと進言した。

一万二千の兵を率いて蜀へ進攻

宇文泰は蜀攻略を尉遅迥に一任し、元珍・乙弗亜ら六軍を率いさせた。
『周書』によれば、その兵力は甲士一万二千、軍馬一万匹に達した。

尉遅迥は散関から出発し、固道・白馬を経て晋寿へ向かい、剣閣に迫った。
武陵王蕭紀配下の安州刺史楽広がまず降伏し、潼州を守っていた楊乾運も西魏へ降った。

尉遅迥はさらに成都へ進み、益州刺史蕭撝を包囲する。
蕭紀は譙淹を援軍として派遣したが、尉遅迥は元珍・乙弗亜らの軽騎兵を送ってこれを破った。

蕭撝も数十回にわたって戦ったものの勝つことができず、
最終的に蕭紀の子である宜都王蕭円粛らとともに降伏した。

これによって成都は西魏の支配下に入り、蜀攻略は成功した。

新領土を安定させた統治能力

尉遅迥が評価されたのは、戦争に勝ったことだけではない。

降伏した蕭撝らを礼遇し、現地の官吏や住民にはそれまでの仕事へ戻ることを認めた一方、
接収した財物などは将兵への恩賞に充てた。
軍令は厳格で、兵士による私的な略奪を許さなかったという。

その後、尉遅迥は大都督・益潼等十八州諸軍事・益州刺史となり、
剣閣以南では朝廷に代わって官吏の任免や賞罰を行う大きな権限を与えられた。

尉遅迥は賞罰を明確にし、恩威を使い分けながら新たに獲得した地域を安定させ、
まだ服属していなかった勢力にも対応した。
『周書』は漢人と異民族の双方が尉遅迥を慕って帰順したと記している。

後に尉遅迥が中央へ戻った際には、蜀の人々がその統治を慕い、碑を建てて功績を称えたという。
軍事征服だけでなく占領後の統治まで成功させており、
この時期の尉遅迥は武将と地方統治者の双方で高い能力を示していた。

北周を代表する重臣へ

母・昌楽大長公主への孝行

『周書』は軍事・政治面だけでなく、尉遅迥が非常に孝行な人物だったことも詳しく記している。

地方に赴任している時でも、季節ごとの珍しい食べ物を得ると、
まず母の昌楽大長公主に贈ってから自分が口にしたという。

母が高齢となって病気がちになると、
尉遅迥は都にいる際には退朝後に必ず母を訪ね、その体調を気遣った。

宇文泰も尉遅迥の母への思いを知っていたため、
蜀にいた尉遅迥を中央へ呼び戻して母を安心させたとされる。

柱国大将軍・蜀公への昇進

557年に西魏から北周へ王朝が交替し、孝閔帝が即位すると、尉遅迥は柱国大将軍へ昇進した。

さらに蜀平定の功績が、前漢霍去病が匈奴を破って「冠軍侯」とされた故事になぞらえられ、
寧蜀公に封じられた。その後は蜀公へ進み、食邑一万戸を与えられた。

こうして尉遅迥は、宇文氏との血縁だけではなく、
自身の軍功と行政能力によって北周最高層の軍事貴族へ上り詰めた。

宣帝の即位後には「大前疑」となり、
さらに相州総管として旧北斉領の中心地である鄴周辺を任される。

北斉が577年に北周によって滅ぼされてからまだ年月が浅く、
北斉領の統治は王朝の安定に直結する重要な任務だった。

尉遅迥はそこで大きな軍事力と政治的影響力を持つことになった。

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楊堅の政権掌握と尉遅迥の挙兵

宣帝の急死で変わった北周政局

580年、北周宣帝が急死すると、幼い静帝のもとで楊堅が輔政の立場に立ち、
急速に政治・軍事の実権を掌握した。

楊堅は宣帝・宇文贇皇后であった楊麗華の父であり、静帝の外戚にあたる。
しかし宇文氏と血縁関係を持ち、西魏以来北周に仕えてきた尉遅迥にとって、
楊堅が幼帝を擁して権力を集中させる状況は看過できるものではなかった。

楊堅側も、長年にわたる軍歴と高い名望を持ち、相州で大軍を掌握する尉遅迥を危険視した。

そこで尉遅迥の子である魏安公尉遅惇に詔書を持たせ、
宣帝の葬儀への参列を名目として尉遅迥を中央へ召還しようとした。
さらに韋孝寛を新たな相州総管に任命し、尉遅迥と交代させようとする。

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召還を拒否して鄴で決起

尉遅迥は、楊堅が最終的に北周皇室から帝位を奪おうとしていると判断し、召還に応じなかった。
息子の尉遅惇も自分のもとに留め、韋孝寛への相州総管交代を拒否した。

楊堅はさらに使者の破六韓裒を派遣して説得させる一方、
相州総管府長史の晋昶らには密書を送り、尉遅迥に備えるよう命じた。

これを知った尉遅迥は晋昶と破六韓裒を殺害し、ついに公然と楊堅へ反旗を翻した。

尉遅迥は文武の官僚や民衆を集め、城の北楼に登って自らの挙兵の理由を説明した。
そこで楊堅が幼い皇帝を利用して天下へ命令を下し、権力を自らのものとしていると批判し、
自分は宇文氏と甥・叔父の関係にあり、国家と運命をともにしてきた以上、
北周を守らなければならないという立場を示した。

そして自ら大総管を称し、独自に官職を任命する体制を整えた。

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趙王宇文招の子を奉じる

尉遅迥は単に自ら皇帝になろうとしたわけではなかった。

当時、北周皇族の趙王宇文招は都へ入っていたが、その幼い子が領国に残されていた。
尉遅迥はこの子を奉じ、北周皇室を守るという名分を掲げて号令した。

この点は尉遅迥の反乱の性格を理解するうえで重要である。
形式上、580年の時点では北周はまだ滅亡しておらず、も成立していない。

したがって尉遅迥が直接「王朝」に反乱したわけではなく、
北周の臣下である楊堅が皇室から実権を奪い、やがて帝位を奪おうとしていると判断して、
それを阻止するために挙兵したのである。

数十万に拡大した尉遅迥の反乱

旧北斉領を中心に広がった勢力

相州総管だった尉遅迥の影響力は広く、その挙兵には相州だけでなく、
衛州・黎州・毛州・洺州・貝州・趙州・冀州・瀛州・滄州などが従った。

さらに青州総管だった甥の尉遅勤も呼応し、
その支配下にある青州・膠州・光州・莒州などが加わった。

そのほか滎州刺史宇文冑、申州刺史李恵、東楚州刺史費也利進、東潼州刺史曹孝達らも、
それぞれの州を拠点として尉遅迥に呼応した。

『周書』は尉遅迥側の総兵力を「数十万」と記しており、
反乱は旧北斉領を中心とする広大な地域へ拡大した。

同時期には益州総管の王謙や䢵州総管の司馬消難も楊堅に対して挙兵している。

各勢力が完全に統一された指揮系統のもとで動いていたわけではないが、
楊堅は東方・西南・南方で相次ぐ抵抗に直面することになった。

突厥・南朝陳との連携

尉遅迥は北方では高宝寧と結び、その経路を通じて突厥との連携を図った。
南方では南朝陳にも接近し、
援助を得るため江淮地方を割譲することまで約束したと『周書』は記している。

つまり尉遅迥は鄴周辺だけで楊堅軍と戦おうとしたのではなく、
北方の突厥、南方の陳、さらに各地の反楊堅勢力を結びつけ、楊堅政権を包囲する構想を持っていた。

ただし、これらの勢力を一つの戦略のもとに統合するまでには至らず、
各地の反乱は楊堅によって個別に鎮圧されていくことになる。

韋孝寛・高熲との決戦

尉遅惇の十万と武徳の戦い

楊堅は尉遅迥の反乱を鎮圧するため兵を集め、歴戦の名将韋孝寛を元帥として討伐軍を派遣した。
これに対して尉遅迥の子・尉遅惇は十万の兵を率いて武徳へ入り、沁水の東に布陣した。

韋孝寛軍とは川を挟んで対峙し、戦況は一時膠着する。
そこで楊堅高熲を急派し、討伐軍の戦闘を督励させた。

尉遅惇は約二十里にわたって兵を配置し、いったん軍を後退させ、
韋孝寛軍が川を半ばまで渡ったところを攻撃しようとした。
しかし韋孝寛は尉遅惇軍が後退した機会を逃さず、
一斉に鼓を鳴らして進撃したため、尉遅惇軍は大敗した。

この敗北によって鄴への道が開かれ、韋孝寛軍はそのまま尉遅迥の本拠地へ迫った。

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十三万の兵と黄龍兵

鄴城南での最終決戦に際し、尉遅迥は尉遅惇・尉遅祐らとともに残存兵力十三万を集めて布陣した。

さらに尉遅迥自身は一万人の精鋭を率いた。
この部隊は緑色の頭巾と錦の上着を身につけ、「黄龍兵」と呼ばれていた。

青州からは尉遅勤が五万の兵を率いて救援に向かい、そのうち三千騎が先行して到着した。

尉遅迥はすでに高齢だったが、長年軍旅に身を置いた経験を持ち、自ら甲冑を着て戦場に立った。
麾下には関中出身の精兵もおり、激しく戦ったため、当初は韋孝寛軍を後退させるほどだった。

鄴城南の決戦と敗北

戦場には戦闘を見物するため、鄴の男女が多数集まっていた。
高熲と李詢は軍勢を立て直すと、この見物人の集団へ先に攻撃を加えた。

群衆が混乱すると、その混乱が尉遅迥軍にも波及し、討伐軍はその機会に一気に攻勢へ転じた。
尉遅迥軍は崩壊し、尉遅迥は鄴城内へ退却した。
さらに北城へ逃れて抗戦したものの、韋孝寛軍に包囲され、李詢や賀楼子幹らが城内へ突入する。

追い詰められた尉遅迥は楼閣に上り、自ら弓を取って敵兵数人を射殺した後、自害した。
尉遅勤や尉遅惇らも東へ逃れたが捕らえられ、残存勢力もその後一か月余りで鎮圧された。
尉遅迥が挙兵してから敗北するまで、わずか68日だった。

なぜ尉遅迥は敗れたのか

広大な勢力を一つにまとめられなかった

尉遅迥の反乱は数十万規模に膨れ上がり、王謙や司馬消難など各地でも楊堅に対する反乱が発生した。北方の突厥や南朝陳との連携も試みており、規模だけを見れば楊堅にとって極めて大きな脅威だった。

しかし尉遅迥・王謙・司馬消難らの勢力が完全な統一指揮下に置かれたわけではなく、
楊堅側は韋孝寛・高熲・梁睿・王誼らを各方面へ送り、反対勢力を個別に処理することができた。

尉遅迥自身も武徳で息子の尉遅惇が敗れた後、討伐軍が鄴へ進撃するのを止められず、
本拠地周辺での決戦を余儀なくされた。

晩年の尉遅迥と内部統制

『周書』は尉遅迥の敗北後、晩年の問題についても記している。
尉遅迥は老年になると判断力が衰え、後妻の王氏に惑わされ、息子たちの仲も悪かったという。

長史には開府・小御正の崔達拏を起用し、そのほかにも旧北斉系の人物を多く任用していた。
崔達拏は文人ではあったものの軍事・政治上の計略に乏しく、
尉遅迥の行動にも多くの問題があったが、それを正すことができなかったとされる。

ただし、旧北斉系人材を登用したこと自体を敗因と断定することには注意が必要である。
尉遅迥が統治した相州・鄴は旧北斉の中心地域であり、
現地人材の登用そのものには統治上の合理性もあった。

問題は、数十万規模にまで膨張した反乱軍を統一して運用する
政治・軍事機構を短期間で構築できなかったこと、
そして楊堅側に韋孝寛や高熲など優れた指揮官が揃っていたことにあった。

尉遅迥は「忠臣」か「反逆者」か

尉遅迥は形式上、北周朝廷の命令に従わず軍を起こした人物であり、楊堅側から見れば反乱者だった。

しかし尉遅迥自身が掲げていた論理は異なる。
彼は宇文泰の甥として宇文氏と血縁で結ばれ、西魏・北周に長年仕えて高位に昇った人物だった。

楊堅が幼い静帝を擁して権力を掌握した際には、それを北周を守るための正当な輔政ではなく、
帝位簒奪へ向かう動きと判断した。
実際、尉遅迥の敗北から翌581年、楊堅は静帝から禅譲を受けて隋を建国し、北周は滅亡した。

この結果から見れば、尉遅迥が警戒した王朝交替そのものは現実となった。

一方で、尉遅迥が南朝陳から援助を得るため江淮地方の割譲を約束したことなどを考えれば、
その行動を単純な忠義だけで説明することもできない。
宇文氏への忠誠、自身の巨大な政治・軍事基盤の維持、
楊堅への対抗という複数の要素が重なった挙兵と見る必要がある。

『周書』の史臣評も、尉遅迥が宇文氏と血縁で結ばれ、
国家から重恩を受けた立場であったことを重視し、王朝が移ろうとする中で兵を挙げたその心情を、
前漢末に王莽へ反旗を翻した翟義や、末に司馬昭へ反乱した諸葛誕に重ねている。

唐代に「北周の忠臣」として改葬

尉遅迥の評価は、その死によって終わらなかった。

の武徳年間、尉遅迥の従孫で庫部員外郎となっていた尉遅耆福が、
尉遅迥を改葬することを願い出た。
朝廷で審議した結果、尉遅迥は北周王室に忠義を尽くした人物であると認められ、改葬が許可された。

尉遅迥を滅ぼした楊堅が滅亡した後、
王朝のもとでその挙兵が「北周に対する忠義」として公的に認められたことになる。

これは尉遅迥の歴史的位置を考えるうえで重要である。
580年の戦いは勝者である楊堅側から見れば反乱だったが、
王朝交替から距離を置いた後世には、滅びゆく旧王朝への忠節として評価する見方も成立した。

尉遅迥の歴史的意義

尉遅迥の生涯は、単に北周末の反乱だけでは語ることができない。

西魏では宇文泰に従って弘農・沙苑などの戦いで功績を挙げ、
553年には蜀攻略を立案して自ら軍を率い、成都を降伏させた。
征服後には益州をはじめとする広大な地域を統治し、
現地住民から碑を建てられるほどの実績を残している。

北周成立後には柱国大将軍・蜀公となり、最終的には旧北斉の中心地域を任されるまでになった。
軍事・行政の双方を経験した北周屈指の重臣だったといえる。

その尉遅迥が最後に直面したのが、宇文氏の北周から楊氏のへ移る王朝交替だった。
580年の挙兵は、成立後に起こった反乱ではない。
楊堅北周の輔政者として実権を掌握しながら、
まだ北周という国家そのものは存続していた段階で起きている。

尉遅迥が敗れ、王謙や司馬消難らの抵抗も排除されたことで、
楊堅に軍事的に対抗できる北周の有力者は急速に姿を消した。
その翌581年、楊堅は静帝から禅譲を受けて隋を建国する。

したがって尉遅迥の反乱は、「成立した隋への反乱」というより、
北周からへの王朝交替を阻止しようとした最大規模の軍事的抵抗として位置づける方が実態に近い。

まとめ

尉遅迥は、西魏・北周を代表する軍人の一人であり、
その生涯の前半と後半では大きく異なる姿を見せた。

若い頃には宇文泰のもとで軍功を重ね、
蜀攻略では自ら作戦を立案して一万二千の兵を率い、成都を攻略した。
さらに征服地では軍紀を維持し、現地の官吏や住民を安定させ、
軍事だけでなく統治者としても実績を残した。

北周では柱国大将軍・蜀公へ昇り、旧北斉領を任される最高位の重臣となったが、
580年の宣帝・宇文贇の急死と楊堅の台頭によって、その立場は一変した。

楊堅が宇文氏から帝位を奪おうとしていると判断した尉遅迥は、召還を拒否して鄴で挙兵する。
数十万の兵を集め、各地の反楊堅勢力、突厥、南朝陳との連携まで試みたものの、
韋孝寛・高熲らに敗れ、68日で反乱は終わった。

翌581年には尉遅迥が危惧した通り楊堅北周から帝位を受けてを建国したため、
その挙兵は後世、単なる反乱とは異なる意味を持つようになる。
代には北周への忠義を認められて改葬を許されており、
旧王朝に最後まで忠誠を尽くした人物としての評価も定着した。

尉遅迥は建国に敗れた「反乱者」である以前に、
西魏の領土を蜀へ拡大し、北周の軍事と地方統治を支え、
最後には王朝交替そのものに武力で抵抗した北朝末期の重要人物だったのである。

史書・参考文献

・『周書』巻21 列伝第13「尉遅迥伝」
・『北史』巻62 列伝第50「尉遅迥伝」
・『隋書』帝紀第1「高祖紀上」
・『資治通鑑』巻165 梁紀21
・『資治通鑑』巻174 陳紀8

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