【北斉】高洋(文宣帝)|天才と狂気の二面性を持つ北斉初代皇帝

高洋(北斉・皇帝) 031.皇帝

北斉の初代皇帝・高洋(こうよう、529~559)は、
父・高歓と兄・高澄が築いた東魏の高氏政権を継承し、
550年に孝静帝から禅譲を受けて北斉を建国した人物である。

高洋ほど、治世の前半と後半で評価が大きく異なる皇帝も珍しい。

即位当初は政務に精励し、法を厳格に運用して官僚を統制するとともに、
自ら軍を率いて契丹・柔然・山胡などを相次いで破った。
行政区画の整理、貨幣の改鋳、長城の築造も進め、
北斉は建国から短期間で北朝屈指の軍事国家へ成長した。

ところが治世後半になると酒に溺れ、臣下や皇族を殺害し、
宮廷では常軌を逸した暴力や奇行を繰り返すようになる。
それでも政務や軍事に対する判断力を完全に失ったわけではなく、有能な官僚たちも働き続けたため、
「名君」と「暴君」という二つの顔が同じ治世の中に併存する異様な状態が生まれた。

高洋とは、単純に「途中から狂った皇帝」と片づけられる人物ではない。
北斉を成立させ、その国力を急速に高めた建国皇帝であると同時に、
自ら築いた政治秩序を暴力によって傷つけた皇帝でもあった。

出自と幼少期|愚鈍に見えて実は鋭敏だった高歓の次男

高歓と婁昭君の次男として誕生

高洋は529年、東魏の実権者となる高歓と婁昭君の次男として生まれた。
兄はのちに父の権力を継承する高澄、弟には高演(孝昭帝)や高湛(武成帝)らがいる。

高歓は北魏末の動乱から台頭し、534年には孝静帝を擁立して東魏を成立させた。
皇帝は元氏であったものの、実際の軍事・政治権力は高歓が握っており、
高洋は幼少期から事実上の支配者一族の一員として育った。

↓↓父・高歓、母・婁昭君についての個別記事は、こちら

【東魏】高歓|北魏を掌握し東魏・北斉へと繋がる基礎を築いた実力者
高歓(こうかん)は、北魏末期の動乱の中で台頭し、東魏の実権を掌握した軍事指導者。六鎮の乱を生き抜き、爾朱栄の配下から六鎮兵を掌握して独立、韓陵の戦いで爾朱氏を打倒した。孝武帝との決裂と東魏成立、宇文泰との沙苑・邙山・玉壁での激戦、侯景の離反を見抜いた最期まで、北斉の基盤を築いたその生涯と実像を解説する。
【北斉】婁昭君|高歓を支え北斉皇室の母となった武明皇后の生涯
婁昭君(ろうしょうくん)とは、北斉の基礎を築いた神武帝・高歓の妻で、文宣帝高洋・孝昭帝高演・武成帝高湛らの母。無名時代の高歓を自ら夫に選び、その密謀に加わって台頭を支えた。柔然との政略結婚、侯景への進言、高殷の廃位などにも関与した北斉の「国母」の生涯と政治的影響を史実から解説する。

兄から軽視された「愚鈍な弟」

『北斉書』は若い高洋について、容貌は目立たず、遊びを好まず、沈着で度量があったと記している。一方で、外見からは才知があるようには見えなかったため、兄の高澄からもしばしば軽視された。

しかし史書は同時に、高洋を「内には明敏」と評している。
表面には感情や能力を出さないが、内面では状況を正確に把握していたという人物像である。

父の高歓も高洋の性質を見抜いていたらしく、子供たちの判断力を試したという逸話が残されている。

「快刀乱麻」|乱れたものは斬ればよい

高歓が息子たちに絡まった麻糸を渡して解かせたところ、
他の兄弟が一本ずつ解こうとする中、高洋だけは刀を抜いて麻糸を断ち切った。

理由を尋ねられると、高洋は「乱れたものは斬らなければならない」と答えたという。
後世の「快刀乱麻」の故事として知られる逸話である。

さらに高歓が息子たちに兵を与え、
彭楽に騎兵を率いさせて突然襲撃させた試験では、他の兄弟が動揺する中、
高洋は兵をまとめて迎撃し、彭楽本人を捕らえて父の前へ連れてきたとされる。

いずれも高洋の少年期を飾る逸話であるため、そのまま事実として受け取る必要はない。
しかし『北斉書』が高洋を、愚鈍に見えながら実際には判断が速く、
危機に際して躊躇しない人物として描いている
ことは重要である。

この性質は、兄の死後に突然政権を引き継いだ際にも発揮された。

高澄暗殺と高洋の台頭|突然転がり込んだ東魏の最高権力

547年に高歓が死去すると、長男の高澄が東魏の実権を継承した。

高澄は父以上に孝静帝を圧迫しながら高氏への権力集中を進め、
やがて自ら皇帝となる準備を進めていた。
しかし549年、邸宅の東柏堂で厨房奴隷の蘭京らによって突然殺害される。

高澄の死は、高氏政権そのものを揺るがしかねない事件だった。
ところが高洋は動揺を見せなかった。
直ちに兵を動かして蘭京らを討ち、高澄の死による混乱を抑えると、軍事権と政治権を掌握した。

兄の死によって権力の空白が生じれば、高氏に反発する東魏皇室や諸勢力が動く可能性があった。
高洋が短期間で高澄の後継者として認められたことは、
高歓以来の軍事勢力を掌握する能力がすでに備わっていたことを示している。

こうして高洋は、父・高歓の軍事的基盤と兄・高澄の政治的基盤の双方を受け継ぎ、
20歳前後で東魏の実質的な最高権力者となった。

↓↓兄・高澄と、高澄を暗殺した蘭京についての個別記事は、こちら

【東魏】高澄|東魏を支配した若き実力者・孝静帝との対立と侯景離反、北斉建国直前の暗殺
高澄(こうちょう)は高歓の長男として若くから東魏の政治に参加し、人事改革や綱紀粛正を進めた実力者である。父の死後に政権を継承すると、侯景の離反を慕容紹宗らによって退け、孝静帝の高氏排除計画を封じて権力を掌握。さらに西魏の王思政が守る潁川を攻略し、北斉建国を目前にしながら29歳で蘭京に暗殺されるまでの生涯を詳しく解説する。
蘭京|高澄暗殺と東柏堂事件を史実から解説
蘭京(らんけい)とは、南朝梁の名将・蘭欽の子でありながら東魏の捕虜となり、高澄のもとで使役された人物。父による身請けや帰還の願いを拒まれ、杖罰を受けた末に暗殺を計画し、549年に鄴の東柏堂で北斉建国を目前にした高澄を殺害した。高洋も同時に狙った計画、東柏堂事件の経緯、高洋による鎮圧と北斉建国への影響まで史実から解説する。

東魏から北斉へ|高洋による王朝交代

550年、孝静帝から禅譲を受ける

高洋が高澄の権力を継承した時点で、東魏の孝静帝・元善見には実権がほとんど残されていなかった。

550年、高洋は丞相・都督中外諸軍事などの地位を経て、孝静帝から禅譲を受けて皇帝に即位した。
国号を「斉」とし、元号を天保とする。これが北斉の成立である。

形式上は皇帝から皇帝への平和的な禅譲だったが、
実態は高歓・高澄・高洋の三代にわたって進められてきた高氏による東魏掌握の最終段階だった。

高洋は突然王朝を奪ったのではない。
高歓が軍事権を握り、高澄が皇帝権力をさらに弱体化させ、その完成を高洋が担ったのである。

孝静帝と元氏皇族の粛清

高洋は退位した孝静帝を中山王としたが、その安全を長く保障することはなかった。
孝静帝は552年に殺害され、その子らも命を奪われた。

さらに高洋の治世後半には、北魏・東魏皇族である元氏に対する大規模な粛清が進む。

天保10年(559)には元世・元景式ら二十五家が誅殺され、元韶ら十九家が拘禁された。
一方、元氏を仮冒していた者には元の姓へ戻ることを認めており、
粛清の対象を旧皇族としての元氏宗室に絞ろうとした側面も見える。

旧王朝の皇族は、新王朝に対する反乱の旗印となり得る存在だった。
高洋の元氏粛清には政治的な理由が存在したが、
その規模と手段は次第に建国時の政敵排除を超え、晩年の暴虐と結びついていった。

文宣帝前半の政治|北斉を急速に安定させた統治能力

高洋の後世の印象は暴君としての姿があまりにも強い。
しかし『北斉書』が即位初期の高洋を高く評価していることは無視できない。

史書によれば、高洋は政務を好み、複雑な案件を処理しても一日中疲れることがなく、
即位後は政治に心を配った。
法を厳格に適用し、親族や建国功臣であっても違反があれば容赦しなかったため、
朝廷内外の綱紀が引き締まったという。

楊愔・崔暹らを用いた官僚政治

高洋はすべてを一人で処理したわけではなく、楊愔・崔暹ら実務能力の高い官僚を重用した。

北斉は、高歓以来の鮮卑系・六鎮系武人を軍事的な基盤としながら、
行政では漢人官僚や士族の能力を必要としていた。
高洋もこの構造を継承し、皇帝が最終決定権を握りながら官僚機構を利用して国家を運営した。

一方で高洋は、自らの鮮卑的な軍事文化を強く意識していた。
漢人官僚を排除したわけではないものの、漢文化と北族系軍事文化の緊張は宮廷内部に存在し続けた。

その象徴となるのが、漢人官僚の杜弼である。
杜弼は高歓時代から仕えた有能な官僚だったが、高洋の治世には疑念を持たれ、最終的に殺害された。

高洋の政治は、漢人官僚を必要としながら、
皇帝への批判や民族的対立につながる言動には極端に敏感という矛盾を抱えていた。

裁判への直接関与

高洋は裁判にも関心を持ち、自ら訴訟を裁決した。

天保6年(555)には昭陽殿で訴訟を直接審理し、
天保7年(556)にも高演らに尚書省の案件を検討させたうえで、自ら最終判断を下している。

後年の無差別な殺人と同一視すべきではなく、少なくとも治世前半には、
皇帝自身が行政・司法を掌握して国家秩序を立て直そうとする姿勢が明確に存在していた。

常平五銖の鋳造

天保4年(553)、高洋は新貨幣「常平五銖」を鋳造した。

南北朝時代は王朝の分裂と戦乱によって貨幣制度が混乱しており、
安定した貨幣を流通させることは国家経済の統制に直結した。

常平五銖は北斉を代表する貨幣となり、
建国直後の高洋政権が軍事だけでなく経済秩序の整備にも取り組んでいたことを示している。

行政区画の大規模整理

天保7年(556)には州・郡・県の大規模な整理を実施した。

北魏末以来、戦乱や地方勢力の都合によって州郡が乱立し、
人口が少ないにもかかわらず州や郡を名乗る地域が多数存在していた。
高洋は三州・百五十三郡・五百八十九県などを統廃合し、行政組織の簡素化を図った。

これは北斉の建国後に旧東魏の行政機構をそのまま放置したのではなく、
国家として再編成しようとした政策として重要である。

自ら戦場に立った皇帝|北斉軍事力の最盛期

高洋の能力が最も明確に現れたのは軍事だった。

父・高歓が築いた軍事組織を継承しただけでなく、
高洋自身が何度も親征し、前線で兵を指揮している。

『北斉書』は、戦場では自ら矢石を受ける位置まで進み、敵が多いことを恐れなかったと記す。
これは後世の美化を含む可能性を考慮すべきだが、
高洋が宮廷に留まるだけの皇帝ではなかったことは、具体的な遠征記録からも確認できる。

契丹遠征|十万余人を捕虜とする大勝

天保4年(553)、契丹が北斉領へ侵入すると、高洋は自ら北方へ向かった。

高洋は複数の部隊を別方向から進軍させ、自身も山を越えて先頭に立ち、契丹を急襲した。
『北斉書』によれば十万余人を捕虜とし、数十万頭の家畜を獲得したという。

帰還途中には少数の直属騎兵で柔然の大軍に包囲されたが、
冷静に陣形を指示して包囲を突破したとも記録されている。

誇張を考慮しても、この時期の高洋が北方諸勢力に対して積極的な攻勢を展開し、
北斉軍の機動力を最大限に利用していたことは確かである。

山胡・柔然への相次ぐ親征

天保5年(554)には山胡を攻撃し、斛律金や高演らと連携して石楼を攻略した。

同年には柔然の庵羅辰が離反すると再び親征し、さらに翌天保6年(555)にも柔然を追撃している。
高洋は五千騎ほどの軽騎兵を率いて長距離を追撃し、柔然軍を破った。

北方ではこの頃、柔然に代わって突厥が急速に勢力を伸ばしていた。
高洋は柔然を保護・利用しながら突厥との勢力関係を調整しており、
単純な征服戦争だけではなく、草原勢力同士の対立を利用する外交も行っていた。

庫莫奚・契丹・突厥・粛慎などから朝貢使節が相次いで訪れたことも、
この時期の北斉が北東アジアで大きな軍事的影響力を持っていたことを示している。

長城築造|北方防衛線を整備

北斉は高洋の治世に大規模な長城建設を進めた。

天保6年(555)には約180万人を動員し、
幽州北方から恒州方面まで九百余里に及ぶ長城を築いたと『北斉書』は記している。
その後も長城は延長され、東西三千余里に及ぶ防衛線が形成され、要地には州・鎮・戍が置かれた。

さらに天保8年(557)には長城内部に四百余里の重城を築いている。
これは柔然・突厥・契丹など北方勢力への防御を目的とする大規模な軍事インフラだった。

一方、膨大な人数を動員した築城は民衆に重い労役を課すものであり、
高洋の軍事的成果と民衆負担の双方を見る必要がある。

西魏・北周との対峙

西方では宇文泰の西魏、のちの北周と対峙した。

高洋は洛陽周辺に複数の城を築き、西魏・北周軍を牽制している。
宇文泰が死去した際には西征を企図したとも記録されており、
西魏側が高洋の侵攻を警戒していたことが『北斉書』に記されている。

高洋の在位中、北斉と西魏・北周の間で王朝の存亡を決するほどの全面戦争には至らなかった。
結果として西部国境を維持しながら、北方・南方へ軍事力を振り向けることができた。

南朝梁の内乱への介入

高洋の軍事政策は北方だけではない。

侯景の乱後、南朝梁が分裂状態に陥ると、北斉は長江流域への介入を強めた。

西魏によって梁の元帝が殺害されると、高洋は蕭淵明を梁皇帝として擁立し、軍を南下させた。
北斉軍は淮南から長江方面へ勢力を伸ばし、一時は建康の石頭城にも兵を進めた。

しかし陳霸先との戦いでは苦戦し、天保7年(556)の鍾山付近の戦闘では蕭軌らが敗死した。

したがって南方政策は北方遠征ほど一方的な成功ではなかったものの、北斉が梁の皇位継承に介入し、
長江北岸まで影響力を拡大したことは、高洋期の国力を示す重要な出来事である。

名君から暴君へ|治世後半に始まった崩壊

『北斉書』は、
高洋が「六、七年後」に功績を誇るようになり、酒に耽って淫虐を行うようになったと記している。
つまり即位直後から常に暴君だったわけではない。

軍事的成功を重ね、周辺勢力を抑え、国内の統治も安定すると、高洋の行動は急速に変化した。
酒を飲んで昼夜を問わず歌い踊り、裸になったり、化粧を施したり、
髪を振り乱して胡服を着たりした。
市場や功臣の邸宅へ突然現れ、駱駝・牛・驢馬などに鞍もつけず乗って歩き回ることもあった。

問題は奇行そのものではなく、それが暴力と結びついたことである。

酔った高洋は親族・功臣・側近の区別なく暴行を加え、気に障ることがあれば殺害するようになった。『北斉書』自身が、高洋の殺害について焼殺・水への投棄・身体切断などを列挙し、
「数え切れない」と評している。

それでも高洋は記憶力と判断力を失ったわけではなかった。
官僚の仕事や過去の出来事をよく覚えていたため、
臣下は皇帝が酔っているからといって職務を怠ることもできなかった。

北斉宮廷では、暴君による恐怖と、依然として機能する皇帝権力が同時に存在していたのである。

史書に残された高洋の暴虐

「殺すための囚人」を用意させる

高洋の殺人衝動が激しくなると、
側近たちは被害を抑えるための異常な対応を取らざるを得なくなった。

楊愔らは鄴の死刑囚を選んで宮中に置き、
高洋が人を殺したくなると、その囚人を差し出すようにした。
彼らは「供御囚」と呼ばれ、3か月間殺されなかった場合には死刑を免じる決まりだったという。

これは高洋の暴力を止められないため、
無関係な臣下や民衆へ被害が及ばないよう対象を限定しようとした措置だった。

皇帝の衝動を制度の側が抑制するのではなく、
「殺される人間」をあらかじめ用意して対応するところまで宮廷秩序が壊れていたことになる。

鋸・槊・刀による突発的な殺害

高洋は晋陽で都督の尉子耀を槊で突き殺し、三台では都督の穆嵩を鋸で殺した。

暴顕の邸宅を訪れた際には、
何の罪もない都督・韓悊を突然呼び出して斬らせたと『北斉書』は記している。

政治的な反逆者を処刑したのではない。
皇帝の一時的な感情によって側近の生命が失われる状態になっていた。

高所から囚人を落とす「放生」

高洋の残虐行為として知られるのが、
囚人に葦の筵などを翼のようにつけ、高所から飛び降りさせる行為である。

これを「放生」と称し、転落する様子を楽しんだと伝えられている。

さらに「生き残れば殺さない」と約束しながら、生き延びた者を別の方法で死なせるなど、
言葉の形式だけを守りながら実質的に殺害する逸話も残されている。

母・婁昭君への暴言と自罰

高洋の酒乱は、母の婁昭君に対してさえ抑えが利かなかった。

あるとき酒に酔った高洋は、母に向かって「この老婆を胡人に嫁がせてやる」と口走った。
さらに別の機会には、酔ったまま婁昭君の座っていた牀を持ち上げようとして彼女を転落させ、
負傷させてしまった。

酔いが醒めて事態を知った高洋は激しく後悔した。
自ら杖を用意して母に打つよう求めたが、婁昭君が応じなかったため、
今度は自分で鞭打たせたという。
さらに火をつけて自ら焼け死のうとするほど謝罪し、婁昭君が止めてようやく収まった。

母に対する暴言や傷害と、その直後の極端な自罰は、高洋の酒乱が単なる奇行ではなく、
身近な家族との関係まで破壊するほど深刻になっていたことを示す逸話として
『北斉書』や『資治通鑑』に残されている。

皇族女性への凌辱

天保6年(555)頃、高洋の酒乱と暴虐は、
高氏一族や北魏皇族の女性たちにも向けられるようになった。

兄・高澄の正妻だった文襄敬皇后元氏は、東魏の孝静帝の姉で、
北斉成立後も「文襄皇后」として遇されていた。
ところが高洋は「兄は昔、私の妻を犯した。今こそ報復しなければならない」と言い、
高澄への報復を理由に元氏を犯したと『北斉書』は記している。

高洋の行為は元氏一人にとどまらなかった。
高氏一族の女性について、親疎を問わず側近たちに性的な凌辱を加えさせ、
それを自らの前で行わせたという。

さらに北魏皇族の安徳公主に対しては、
葛で作った縄にまたがらせて人々に引かせたうえ、胡人に命じて激しく辱めさせた。
高洋自身も臣下の前で裸体をさらすなど、
皇帝としての威儀や宮廷の秩序を自ら踏みにじる行動を繰り返している。

これらは単なる「奇行」として処理できるものではない。
兄への私怨を理由としてその妻を犯し、皇族女性たちを公然と凌辱させるまでに、
高洋の暴力は殺人だけでなく性的な支配にも及んでいたのである。

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【北魏】安徳公主|北魏皇族が見た王朝崩壊と北斉宮廷の狂気
安徳公主(あんとくこうしゅ)は、孝文帝の孫で清河王元懌の娘にあたる北魏の公主。孝武帝の愛人となり、北魏分裂後も東魏に残って北斉成立まで生きた。父・元懌の政変による死、孝武帝との関係、542年の造像記、甥・孝静帝の廃位、文宣帝・高洋から受けた凄惨な凌辱まで、元氏皇族の没落と重なる生涯を史料からたどる。

薛嬪と高岳をめぐる粛清

高洋は寵愛していた薛嬪と、叔父にあたる清河王・高岳との関係を疑うようになった。

高岳は北斉建国を支えた有力皇族だったが、最終的に死を命じられる。
薛嬪も殺害され、史書にはその遺体を損壊し、
骨から琵琶を作らせたという凄惨な逸話が残されている。

この事件は、高洋の猜疑心が政治的な有力者だけでなく、
自ら寵愛した女性にまで向けられたことを示している。

弟・高浚と高渙を殺害

高洋の暴虐は、実の弟である永安王・高浚と上党王・高渙にも向けられた。

高浚は高洋の酒乱と残虐な行為をたびたび諫めていた。
あるとき高洋が酔って母の婁昭君に乱暴しようとした際には、
高浚が激しく諫めたため、高洋はこれを恨んだという。
さらに高洋が民衆を苦しめているとして諫言を重ねたことから兄弟関係は決定的に悪化し、
高浚は拘禁された。

一方の高渙も、地方に出されたのち高洋から反乱を疑われた。
高洋が使者を送って召還しようとすると、
高渙は身の危険を感じて抵抗し、長広で兵を集める事態となった。
しかし高洋側の軍勢に敗れて捕らえられ、高浚とともに晋陽の地下牢へ閉じ込められた。

天保9年(558)、高洋は二人が拘禁されている穴を訪れた。
高浚が「臣は罪を犯したが、陛下とは同じ母から生まれた兄弟です。どうかお赦しください」
と訴えると、高洋はいったん涙を流して助けようとしたという。
ところが高渙が「猛獣を穴から出してはならない」と口にしたため、高洋は態度を一変させた。

高洋は穴の中へ槊を投げ入れ、高浚と高渙を突かせた。
二人が傷を負うと、さらに薪を積んで火を放ち、焼き殺した。
遺体は焼かれたのち土中に埋められたと『北斉書』は記している。

高浚は兄の暴政を諫め、高渙は皇帝への警戒から武力抵抗に至ったという違いがあり、
二人を単純に同じ理由で処刑された皇族として扱うことはできない。

しかし高洋が最終的に実の弟二人を地下牢で焼き殺したことは、
皇帝と高氏宗室の関係がすでに恐怖と猜疑によって崩れ始めていたことを示している。

皇太子・高殷との対立|「漢人的」な息子を嫌った父

高洋の嫡長子・高殷は、母を李祖娥とし、北斉建国と同じ天保元年(550)に6歳で皇太子となった。
のちの北斉第二代皇帝である。

『北斉書』は高殷を「性敏慧」とし、幼い頃から聡明だったと記している。
国子博士の李宝鼎、のちに邢峙から学問を授けられ、経書に通じ、時政にも目を通した。

天保7年(556)に高洋が文学・礼学に通じた朝臣を集めて経義を論じさせた際には、
高殷自身も質問を書き、列席者から感嘆されたという。
天保9年(558)には、高洋が晋陽にいる間に皇太子として国政を預かり、
儒者を集めて『孝経』を講じている。

しかし、こうした高殷の資質を高洋は必ずしも好まなかった。

高洋はたびたび「太子は漢家の性質を得ていて、私には似ていない」と語り、
高殷を廃して太原王を皇太子に立てようとしたと『北斉書』は明記している。

単に父子の性格が合わなかったというだけではなく、
経学を修め、温厚で漢人的な教養を身につけた高殷のあり方そのものを、
高洋が自分とは異質なものとして見ていたことがわかる。

父子の違いを象徴するのが、金鳳台で起きた事件である。

高洋は高殷を呼び出し、囚人を自ら斬首するよう命じた。
しかし高殷は哀れに思ってためらい、何度試みても首を斬ることができなかった。
激怒した高洋は自ら馬鞭で高殷を三度殴った。
『北斉書』によれば、高殷はこの出来事以後、動悸や吃音が生じ、
ときには精神状態が乱れることもあったという。

それでも高洋は高殷を廃嫡せず、皇太子の地位にとどめた。

天保10年(559)、高洋が死去すると高殷が皇位を継承する。
さらに『北斉書』には、高洋が生前、弟の高演に対して
「奪うなら奪ってもよいが、くれぐれも殺すな」という趣旨の言葉を残したことが記されている。

高洋が高殷の廃位を容認していたとまで断定できる言葉ではあるが、
少なくとも弟に対して息子を殺さないよう求めていたことは史料に残されている。

しかし高洋の死後、高殷を補佐した楊愔らと、叔父の高演・高湛ら皇族との対立が表面化する。
560年には高演が政変を起こして楊愔らを殺害し、高殷を済南王へ降格させて自ら皇帝となった。

高洋が高演に残した言葉も、高殷の命を守ることはできなかった。
翌561年、高殷は晋陽で殺害された。
『北斉書』は、高殷の死後に高演が病に倒れると、高洋の祟りを見たとも記している。

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【北斉】高演(孝昭帝)|政変を制し中興を目指した短命皇帝
孝昭帝・高演(こうえん)は北斉第三代皇帝。兄・高洋の死後、楊愔らを排除して甥の高殷を廃し即位した。冤罪の是正や減税、倹約、人材登用で政治を立て直す一方、高殷殺害という影も残す。庫莫奚親征、落馬事故による急死、皇太子高百年の悲劇まで、その治世と生涯を解説する。
【北斉】高湛(武成帝)|北斉を傾けた美貌の皇帝と退廃の時代
高湛(こうたん)は北斉第四代皇帝・武成帝。兄・高演と楊愔らを排除する政変に加わり、高殷の廃位を経て即位した。高百年殺害、胡皇后と和士開を中心とする宮廷政治、太上皇となった後も握り続けた実権、北周との攻防まで、北斉衰退へつながる治世と生涯を詳しく解説する。

晩年の大造営|軍事国家を蝕んだ浪費と労役

高洋の後期政治で見逃せないのが、大規模な造営である。

天保9年(558)には三十万人余りの労働者・職人を動員して鄴の三台を大規模に改築し、
銅雀台を金鳳台、金虎台を聖応台、冰井台を崇光台と改称した。
宮殿や遊園も大規模に建設された。

長城建設にも膨大な人数が動員されており、
軍事施設・宮殿・寺院などの建設が相次いだことで民衆の労役負担は増大した。

さらに晩年には恩賞にも節度がなくなり、
『北斉書』は国庫の蓄積が空になるほどだったと記している。

したがって高洋の後半期は、単に皇帝個人の奇行が増えただけではない。
大量動員、大規模造営、無制限な恩賞、皇族・官僚の粛清が重なり、
建国初期に整えた国家財政と政治秩序そのものへ負担を与えるようになっていた。

高洋の最期|酒によって身体を壊し30歳で崩御

天保10年(559)になると、高洋の身体は明らかに衰弱していた。

『北斉書』は晩年について、食事を取れなくなり、酒だけを何度も飲むようになったと記し、
長年の飲酒が死につながったとしている。

同年10月、高洋は晋陽宮の徳陽堂で急死した。
数え年31歳、満年齢では30歳前後だった。

死因について現代医学的な病名を特定できる史料はなく、
急性アルコール中毒や脳卒中などと断定することはできない。
ただし史書が長期間の大量飲酒と食事不能を死の直前の状態として記録しているため、
酒による著しい身体衰弱が死と密接に関係していたとみるのが妥当である。

高洋は死に際して葬儀を簡素にするよう遺詔を残した。
建国からわずか9年余りで、北斉の初代皇帝は世を去った。

高洋とは何者だったのか|「天才」と「暴君」が矛盾しない皇帝

高洋を理解しにくくしているのは、
優秀な前半生と暴虐な後半生があまりにもかけ離れて見えることである。

しかし史料を見ると、二つの人格が完全に入れ替わったと考える必要はない。

若い頃から高洋には、複雑な問題を一気に処理し、障害となるものを強制的に排除する傾向があった。
「乱れたものは斬る」という快刀乱麻の逸話は後世の人物像形成を含むとしても、
兄の暗殺後に即座に政権を掌握した行動、旧東魏皇族の排除、厳格な法執行、
北方への連続親征には、同じ果断さが見える。

即位初期には、その性質が国家統治へ向けられていた。

官僚を統制し、行政区画を整理し、貨幣を整備し、軍隊を率いて周辺勢力を撃破し、長城を築く。
高洋の強烈な決断力は、成立直後の北斉を短期間で安定させる力となった。

ところが絶対的な権力を確立し、軍事的成功を重ねるにつれて、
その強制力を抑えるものがなくなった。

同じ果断さが粛清へ向かい、同じ恐怖による統制が無差別な暴力へ変わり、
飲酒によって自制が失われると、
皇帝個人の衝動が国家権力によってそのまま実行されるようになった。

それでも高洋の死まで北斉そのものが崩壊しなかったのは、
高歓・高澄以来の軍事基盤が強固であり、楊愔ら有能な官僚が行政を支えていたからである。

高洋は「有能だった皇帝が途中から無能になった」のではない。

最後まで強い記憶力と決断力を持ち、戦場では勇猛で、国家の重大事項を処理する能力を残しながら、
その能力と同時に暴力性も制御できなくなった皇帝だった。

まとめ

高洋の死後、皇位を継いだ高殷はわずか一年ほどで叔父の高演らによって廃位され、
やがて殺害された。以後の北斉では皇族同士の政変と粛清が繰り返される。

その意味で、高洋が残したものは単純な「繁栄」でも「衰退」でもない。

高歓と高澄が築いた政権を正式な王朝へ転換し、北方諸勢力を圧倒して長城を整備し、
行政制度を再編したことで、北斉が北周や南朝と争える国家となる基礎を確立したのは高洋だった。

同時に、皇帝の意思が法や血縁を超えて人命を左右する恐怖政治を常態化させ、
元氏だけでなく自らの兄弟や功臣まで殺害したことで、
北斉皇室内部に深刻な不信と暴力を残したのも高洋だった。

建国者として国家を強くした能力と、その国家の秩序を自ら傷つけた暴虐は、
どちらか一方だけが高洋の実像なのではない。

その両方を持っていたことこそが、北斉文宣帝・高洋という皇帝の最大の特徴である。

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史書・参考文献

・『北斉書』巻四「帝紀第四 文宣帝」
・『北斉書』巻九「文宣李后・文襄元后」
・『北史』巻七「斉本紀上」
・『資治通鑑』巻一六三~一六七
・『魏書』
・『南史』
・『周書』
・『隋書』
・『通典』

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